第十六話 あなたとは踊りません ―シトリン―
合同ダンス練習の日、中央校舎の舞踏室前には、男女それぞれの組み合わせが貼り出されていた。
女子部四年一組の欄から、自分の名前を探す。
『シトリン・アザフォード――オーパス・フレッグ』
ジャスパーの名前ではなかったのでほっとする。
次にオーパスの名前を確かめる。男子部四年一組。
地方の男爵家出身で、成績によって一組へ入った生徒だと聞いている。ジャスパーたちがラピス殿下へつきまとっていることを、男子側で何度も止めようとしていた人だとも。
「お家からの連絡、きちんと届いていたのね」
隣から名簿を見たアメージュが言った。
「ええ」
「よかった」
「アメージュは?」
「二組の方。名前は知っているけど、話したことはないわ」
アメージュの相手は、家格も成績も特に問題のない子爵家の次男だった。背丈も大きく違わないので、教師が練習相手として選んだのだろう。
ラピス殿下とベリル様は、二人で組むことになっている。
王女殿下の練習相手を男子生徒から選べば、それだけで余計な噂が立つ。正式な護衛であり、自分も学院の課程を履修しているベリル様なら、教師側も安心できるらしい。
「マーチモンド令息のお名前は?」
ベリル様が男子側の名簿へ目を向けた。
少し下へ移動すると、ジャスパーの名前があった。相手は女子部二組の生徒である。
彼女とは授業が違うので、ほとんど話したことがない。家格も婚約の有無も知らなかった。
自分が組まずに済んだからといって、別の女子生徒がジャスパーと踊ることを喜ぶ気にはなれない。
ただ、教師が見ている練習中なら、護衛の話を始めることもないだろう。
「シトリン」
アメージュが私の袖へ触れた。
「嫌なら、まだ先生へ言えるわよ」
「私の相手はオーパス様よ」
「そうではなくて。ジャスパー様と同じ部屋にいること」
舞踏室の扉は、まだ開いていない。
男子生徒は東側、女子生徒は西側の廊下で待つよう決められているため、今ここにジャスパーはいなかった。
それでも扉が開けば、同じ部屋へ入る。
視界に入ることまで避けたいのか、自分へ尋ねた。
「大丈夫」
会いたくはない。
けれど、ジャスパーがいるからという理由で、私が合同授業へ出られなくなるのは嫌だった。
「話しかけられた場合は、皆さんのいるところで答えます」
「わたくしもそばにおります」
ラピス殿下が言った。
「ですが、殿下が間へ入る必要はございません」
ベリル様は舞踏室の扉と、男子側の廊下を順に確かめている。
「まず、シトリン様御本人のお考えを伝えていただきます。マーチモンド令息が聞かない場合は、教師を呼びます」
「お願いします」
廊下の先から教師が来た。
舞踏室の鍵が開けられ、女子生徒から先に中へ入る。
磨かれた床には、窓から差し込む午後の光が長く伸びていた。壁際に椅子が並び、奥の小さな壇にはピアノがある。
女子生徒は名簿の組み合わせに従って立ち、男子生徒が入ってくるのを待った。
私は、オーパスの名前が置かれた位置へ向かう。
男子部の扉が開いた。
濃い色の制服を着た男子生徒が一列に入り、それぞれ自分の相手を探して散っていく。
ジャスパーもいた。
こちらを見たことには気づいたが、顔を向けず、オーパスを待つ。
少し遅れて、細身の男子生徒が目の前まで来た。
「アザフォード嬢」
「オーパス様。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
オーパスは礼をしたあと、周囲を確かめた。
「僕でよかったんですか?」
「先生がお決めになったのでしょう?」
「そうですけど。マーチモンドと組む予定だったのでは」
「実家から学院へ、組み合わせを変えていただくようお願いしました」
「そうだったんですね」
それ以上は尋ねず、オーパスは教師の説明へ顔を向けた。
今日の練習は、合同祭の夕方に行う上級生のダンスへ向けたものである。
最初は基本の足運びと礼。
次に、決められた相手と組み、音楽に合わせて舞踏室を一周する。
最後は相手を替え、初めて組む者とも動けるかを確かめる。
「まずは、距離を取りなさい」
教師の声で、向かい合っていた生徒が一歩ずつ下がる。
「男性側から礼。女性側が返したあと、手を取ります」
オーパスが右手を胸元へ置き、頭を下げた。
私もスカートの両端へ指を添え、膝を曲げる。
顔を上げると、オーパスの手が差し出されていた。
その手へ、自分の手を重ねる。
「手が冷たくて、すみません」
「私も同じです」
オーパスは強く握らず、指が離れない程度に支えた。
もう片方の手が、私の背へ添えられる。
寄宿舎の談話室で、アメージュやベリル様と練習したときと同じだった。
近い位置に人がいる。手を取られ、背へ触れられている。
それでも嫌ではない。
「動きます」
オーパスが小さな声で知らせる。
「はい」
ピアノの音はまだない。
教師の数える声に合わせ、一歩ずつ進む。
オーパスは上手な方ではなかったが、私が動く前に引いたり、急に向きを変えたりしない。回転する場所では少し早めに手へ力を加え、次にどちらへ進むかを教えてくれた。
「お上手ですね」
「普通です。アザフォード嬢の方が、合わせてくださっているので」
「昨日、練習したんです」
「女子部で?」
「寄宿舎の談話室で。ベリル様に教えていただきました」
オーパスが、少し離れた場所でラピス殿下と組んでいるベリル様を見る。
「あの方は、ダンスもできるんですね」
「私たちよりお上手でした」
「マーチモンドたちは、どうしてあの人で足りないと思ったんだろう」
口から出たあとで、オーパスは慌てたように私を見た。
「すみません」
「いいえ。私も分かりません」
教師の手が上がり、全員が止まる。
次はピアノに合わせた練習だった。壇上へ座った教師が、ゆっくりした曲を弾き始める。
「一、二、三」
オーパスの声に合わせて足を出す。
談話室より広く、ほかの組も同じ方向へ動いているので、前だけでなく周囲も見なくてはならない。
最初の角を曲がったところで、別の組が少し詰まった。
オーパスは進まず、その場で一度拍子を取る。前が空いてから、次の歩へ移った。
無理に押し進めるより、その方が踊りやすかった。
一周を終え、最初の位置へ戻る。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
手を離して礼をする。
数組がまだ戻っていないため、教師は少し休憩を取るよう告げた。
アメージュが、すぐこちらへ来た。
「どうだった?」
「足は踏まれなかったわ」
「そこ?」
「アメージュと踊ったときより、うまくできたと思う」
「相手が違うからでしょう」
昨日、私が言った言葉をそのまま返された。
ラピス殿下とベリル様も近づいてくる。
「オーパス様は、きちんと距離を取ってくださいましたね」
ラピス殿下が言った。
「殿下、見ておられたのですか?」
「近くを通りましたから。ベリルとも、無理に進まず止まれる方はよいと話していたところです」
「人の流れを見ることがおできになるのでしょう」
ベリル様は舞踏室全体へ目を向けた。
「先日の一斉集会でも、周囲の状況をよく見ておられました」
そのオーパスは、壁際で水を飲んでいる。
そばに男子生徒が一人いるだけで、ジャスパーたちとは離れていた。
「シトリン!」
名前を呼ばれ、反対側を見る。ジャスパーがこちらへ歩いてきていた。
組んでいた女子生徒は、自分の友人たちのところへ戻っている。教師はまだ壇上で次の曲の楽譜を選び、男子部の担当教師は扉の近くにいた。
話すなら、今だと考えたのかもしれない。
ジャスパーは、私たち四人の前で足を止めた。
「少し、話をしたい」
「ここでなら」
「できれば、二人で話したい」
「お断りします」
ジャスパーの眉が動いた。
「シトリン。私たちは婚約について話さなくてはならない」
「そのことでしたら、ここで話せます」
ラピス殿下とアメージュは動かない。
ベリル様は私のすぐ隣ではなく、一歩後ろへ立っている。
まず私に話させると、昨日言っていたとおりだった。
「父上から、アザフォード侯爵家の申し入れについて聞いた」
「はい。私が両親へお願いしました」
「君が一時の感情で決めたとは思いたくない」
最初から、同じ話だった。
私は自分で決めた。
けれどジャスパーは、私が本当にそう思っているとは《《受け取らない》》。
「一時の感情ではありません」
「今回の件で、君が私へ失望していることは分かっている。だが私は、学院からの命令にも署名した。今後は勝手に殿下へ付き添わない」
「学院から命じられたからでしょう?」
「理由が何であっても、君が望んだ結果にはなる」
違う。
私が望んでいるのは、学院に止められたから近づかなくなることではない。
ラピス殿下が嫌だと言ったとき、その言葉を聞く人であってほしかった。
「私は、婚約を続けるつもりはありません」
「長年の婚約を、一度の行き違いで終わらせるのか?」
「一度ではありません。ラピス殿下は何度もお断りになりました。私も、あなたへやめてほしいと話しました」
「だから、今後は控えると言っている」
「今も、私が婚約を解消したいと言っているのに、行き違いにしています」
ジャスパーの口が閉じた。
周囲では、休憩を終える生徒が少しずつ元の場所へ戻り始めている。
私たちの近くにいた女子生徒は、急いで離れず、その場で次の指示を待っていた。聞くつもりがなくても、会話は届いているだろう。
「シトリン。君は今、私の何が嫌なんだ?」
「私が嫌だと言っても、あなたが別の理由をつけるところです」
「私は、君の気持ちを否定していない」
「では、婚約を解消したいという言葉を、そのまま受け取ってください」
「それは、落ち着いて話し合ってからでも遅くない」
また、私が落ち着いていないことになった。
声を荒らげてもいないし、泣いてもいないというのに。
週末に実家へ戻り、私は父と母と姉へ話した。家族から何度も意思を確かめられ、それでも解消したいと答えた。
それらを知らないまま、ジャスパーは私を一時の感情で動いていることにする。
「話し合いません」
「なぜ?」
「あなたの話を聞きたくないからです」
ジャスパーの目が、少し大きくなった。
以前の私なら、こんな言い方はしなかった。
彼が話し始めれば最後まで聞き、分からないところを尋ねた。自分とは違う考えでも、まず意味を知ろうとした。
それをジャスパーは、いつでも最後には理解する婚約者だと思っていたのだろう。
「あなたに会いたくありません。手を取られるのも、近くへ立たれるのも嫌です」
「君は、私を恐れているのか?」
「嫌なのです」
「それほど、私が殿下へ付き添ったことが――」
「これ以上、私の気持ちをあなたの言葉で言い直さないでください!」
ジャスパーが一歩、こちらへ近づいた。同じ分だけ後ろへ下がる。
背後でベリル様の靴が動いたが、まだ私の前へは出てこない。
「近づかないで!」
今度はジャスパーも足を止めた。
「シトリン」
「私は、あなたとは踊りません。今日だけではありません。合同祭でも、その後もです」
「婚約は、まだ正式に解消されていない」
「私の家から申し入れをしました。あなたのお父様も、拒まないとおっしゃったのでしょう?」
ジャスパーの返事が遅れた。父親から、そこまで聞いているらしい。
「なら、もう婚約者として接する必要はありません」
男子部の教師がこちらへ来た。
「マーチモンド! 休憩は終わりだ。自分の位置へ戻りなさい」
「先生。今、シトリンと大切な話を――」
「アザフォード嬢は、話を終えたと言っている」
教師はジャスパーと私の間へ立つのではなく、男子側の位置を手で示した。
「戻りなさい」
ジャスパーは、ラピス殿下とベリル様を一度見た。
次に私へ目を戻す。
「時間を置いて、もう一度――」
「必要ありません」
返事をすると、教師がジャスパーを連れていった。
舞踏室の中央では、組み替えた相手を確認する声が飛び交っている。次は同じ組の中で相手を替え、もう一度踊るらしい。
「シトリン」
アメージュが私の手へ触れた。
「大丈夫?」
「ええ」
話している間は気づかなかったが、喉が渇いていた。壁際の卓から水を一杯取り、半分ほど飲む。
ジャスパーは男子側の列へ戻っている。教師がそばにおり、こちらへ来る様子はない。
「お疲れさまでした」
ベリル様が言った。
「私の言葉は、きちんと伝わったでしょうか」
「言葉は、十分に明確でした」
「……問題は、受け取る方よね」
ラピス殿下が男子側を見た。
「ですが、今度は教師も聞いていました。シトリン様が何とおっしゃったか、後から別の話にはできません」
ピアノの前で教師が手を上げる。休憩の終了を知らせる合図だった。
私は空になったグラスを卓へ戻した。
「行ってくるわ」
「次は誰?」
アメージュに尋ねられ、組み替えの名簿を見る。
もう一度、オーパスの名前があった。
今日は基本の動きを覚えるため、最初の相手と二度組む生徒もいるらしい。
オーパスは先ほどの位置で待っていた。
「アザフォード嬢」
「お待たせしました」
「大丈夫ですか?」
「はい。続きをお願いいたします」
オーパスが手を差し出す。
私はその手を取り、曲の始まりを待った。




