第十一話 鉱山の水はどこへ行く? ―シトリン―
週明けの朝、学院へ着くと、実家から先に手紙が届いていた。
父の字で、マーチモンド伯爵家へ婚約解消の申し入れを行ったこと、学院へも今後ジャスパーと私を婚約者同士として扱わないよう連絡したことが書かれている。
伯爵家からの返事は、まだない。昨日の朝に使者を出したばかりなのだから当然だろう。
それでも私は、手紙を二度読み返した。
――先方との話は家に任せなさい。学院でマーチモンド令息と話す場合は、必ず人のいる場所を選ぶこと。
最後の一行へ、母の字で書き足されている。
――嫌なら、話さなくてもよいのですよ。
母は、私がジャスパー本人へ婚約解消の意思を伝えると言ったことを気にしているらしい。
手紙を折り畳み、鞄へしまう。
「シトリン。お家から?」
隣の席で本を出していたアメージュが、封筒を見て尋ねた。
「ええ。昨日、両親へ話したの」
「ジャスパー様のこと?」
「そうよ」
教室には、まだ半分ほどしか生徒が来ていない。
ラピス殿下とベリル様は窓際の席におり、今日の授業で使う地図を広げている。私たちの話が聞こえたのか、ラピス殿下がこちらを見た。
私は椅子を少し窓側へ向けた。
「婚約を解消することにしました」
アメージュが手にしていた本を机へ落とした。
厚い表紙が鳴り、前の席にいた生徒が振り返る。アメージュは急いで本を押さえ、声を小さくした。
「決めたの?」
「ええ。家から、もう申し入れをしています」
ラピス殿下が地図を畳み、私の机まで歩いてきた。ベリル様も少し遅れて立ち上がる。
「シトリン様」
「殿下が気になさることではありません」
先に言うと、ラピス殿下は口を開いたまま止まった。
「まだ、何も申し上げておりませんけれど」
「申し訳ないとおっしゃるのかと思いました」
「……そのつもりでした」
やはり、そうだったらしい。
「ラピス殿下がお話しくださらなくても、いずれ別のところで同じことが起きたと思います」
アメージュが落とした本を拾い、机の端へ寄せる。
「でも、シトリン。先週は、まだ決めていないって言っていたでしょう?」
「ジャスパーが、ラピス殿下へ『危険の有無は、殿下のお気持ちだけで決まるものではない』と言ったのを聞いたから」
「ああ、あれね……」
殿下は嫌そうにため息をつく。
「私が嫌だと言っても、同じように受け取られると思ったの。結婚して、同じ家で暮らすことを考えたら、もう無理だと思ったわ」
それでもさすがに、近づかれるのも嫌だと、両親へ伝えたことまでは言わなかった。
アメージュなら驚いても受け止めてくれるだろう。ラピス殿下も笑うような方ではない。
それでも、朝の教室で話すことではなかった。
「御家族は、何と?」
ベリル様が尋ねる。
「私が望むなら、解消へ動くと。学院にも連絡してくれました」
「では、次のダンス練習でも、マーチモンド令息と組む必要はございませんね」
「はい」
その言葉だけで、肩に入っていた力が少し抜けた。
ジャスパーの手を取らなくてよい。腰へ手を添えられ、顔を近づけて踊らなくてよい。
練習の日が来るまでに自分で教師へ話さなくてはならないと思っていたが、父から学院へ連絡が届いているなら、組み合わせも先に変えてもらえるだろう。
「よかった」
アメージュが言った。
「婚約がなくなることが?」
「嫌な相手と踊らなくて済むことがよ」
「まだ、正式に解消されたわけではないわ」
「でも、シトリンはもう決めたんでしょう?」
「ええ」
「なら、いいじゃない」
アメージュは机へ落とした本に傷がないか確かめ、鞄へ入れ直した。
廊下から朝の鐘が聞こえ、教師が教室へ入ってくる。
ラピス殿下とベリル様は自分の席へ戻った。
「ところで、シトリン様」
椅子へ座る前に、ラピス殿下が振り返る。
「本日の授業後、例の鉱物研究室が展示の準備に参ります。ご覧になります?」
「もう準備が始まるのですか?」
「合同祭まで、あまり日がありませんから」
私は先週、掲示板から書き写した教室番号を思い出した。
「行きます」
教師が教科書を開く前に答える。アメージュも、すぐ横から顔を出した。
「わたしも行く」
「あなた、鉱山に興味があった?」
「シトリンが何をそんなに聞きたいのかには興味があるわ」
授業開始を知らせる二度目の鐘が鳴り、私たちは急いで前を向いた。
*
大学の鉱物研究室へ貸し出されたのは、中央校舎一階にある大実習室だった。
普段は自然科学の授業に使われており、四人掛けの大きな机が何列も並んでいる。壁際には水道と流し台があり、薬品や器具を収める戸棚もあった。
教室の前方では、大学から来た人々が木箱を開け、展示物を机へ並べている。
鉱石の標本、山の断面を表した模型、細い軌道の上を走る小さな運搬車。
壁へ立てかけられた大きな地図には、ロルカ王国の山地と河川が描かれていた。
「まだ触らないでくださーい!」
ラピス殿下が教室へ入ったところで、奥から声が飛んできた。
「何に?」
「足元の水です」
言われて床を見る。
机の下から、細い水がこちらへ流れていた。
ベリル様はすでに気づいていたらしく、ラピス殿下の進む方向を変えている。アメージュがスカートの裾を持ち上げ、濡れていないところへ足を置いた。
「コロンダム。学院へ来て早々、床を水浸しになさったの?」
「水を扱う模型ですから、多少は漏れます」
「多少?」
「今、止めます」
机の向こうから出てきた青年は、手に布を持っていた。
大学側の人々と同じ濃い色の作業着を着ており、袖口には木屑がついている。ラピス殿下へ一礼してから、机の下へ屈み、外れかけていた管を押し込んだ。
水の流れが止まる。
「こちらは、コロンダム・ルドック」
ラピス殿下が私たちを振り返った。
「以前お話ししたとおり、わたくしの婚約者の友人で、ロルカから大学へ留学しております」
コロンダム様が机の下から立ち上がった。濡れた布を流し台へ置き、改めて私たちへ礼をする。
「お見苦しいところを失礼いたしました」
「展示に水を使うのですか?」
挨拶より先に尋ねかけ、慌てて口を閉じた。
「申し訳ございません。シトリン・アザフォードと申します」
「アザフォード侯爵令嬢ですね。コロンダム・ルドックです」
コロンダム様はアメージュとも挨拶を交わしたあと、ベリル様へ目を向けた。
「アマンド護衛官は、お久しぶりです」
「ルドック様も、お変わりなく」
「あなたがいらっしゃるなら、殿下のことは心配ありませんね」
「はい。お任せください」
二人の話は、それで終わった。
心配だから手を貸すとも、学院にいる間は自分もそばへつくとも言わない。
ベリル様がいる。だから任せる。それだけで済む話だった。
「それで、何を御覧になります?」
コロンダム様が机の上の模型を示した。
「まだ組み立ての途中ですが、坑道から水を出す仕組みなら動かせます」
「それが先ほどの水ですか?」
「ええ。出す前に漏れましたが」
アメージュが口元を押さえた。
ラピス殿下は慣れているらしく、机のそばに用意された椅子へ座る。ベリル様はその斜め後ろへ立った。
私とアメージュは模型の正面へ回った。
山の断面には、地面から斜め下へ伸びる坑道が作られている。底には水を入れる小さな槽があり、その上に、いくつもの小さな容器をつないだ鎖が通されていた。
「この取っ手を回してみてください」
コロンダム様に言われ、模型の横へついた取っ手を握る。
少し力を入れると、鎖が動いた。
下の槽へ沈んだ小さな容器が水をくみ、順に上へ運んでいく。頂上まで上がった水は木製の樋へ流れ、模型の外側に置かれた別の容器へ落ちた。
「これで、坑道へ入った水を外へ出すんですね」
「最も単純にすると、そうなります。実際の鉱山では、人力だけでこの数を動かすのは難しいので、水車や蒸気機関も使います」
取っ手を回し続ける。
小さな容器は一度にわずかな水しか運ばない。それでも止めずに回せば、下の槽の水は少しずつ減っていく。
「深く掘るほど、水は増えるのですか?」
「必ず増えるとは限りません」
コロンダム様は、山の模型の横へ置かれた別の板を持ち上げた。
土や岩の層が、色を変えて重なっている。
「場所によります。硬い岩だけなら、深く掘っても水がほとんど出ないことがある。反対に、浅いところでも割れ目や水を通しやすい地層へ当たれば、一晩で坑道が使えなくなるほど入ってきます」
「前の日まで何もなかったのに?」
「そういうこともあります。古い坑道とつながって、向こうに溜まっていた水が一度に流れ込む場合もあります」
アメージュが模型の底を覗き込んだ。
「中に人がいたら、どうするんです?」
「水を見つけてから考えたのでは遅いので、掘る前に地形や過去の記録を調べます。作業中も、岩の湿り方や水音を確かめます」
「水音?」
「壁の向こうに溜まっていれば、道具で岩を打ったときの音が変わることがあります。もっとも、聞き分けられるのは長く現場にいる者です。私が図面だけ見て分かったつもりで入れば、見落とすでしょう」
コロンダム様は、模型の脇から細長い棒を取り出した。
「そのため、先に細い穴を掘ることもあります。穴から水が出れば、その先へ大きな空間があるかもしれないと分かる」
「では、この模型のように、最初から大きな坑道を掘るわけではないのですね」
「ええ。模型では中を見せるため、ずいぶん都合よく切ってあります」
棒の先が、山の断面に作られた細い穴を示す。私はもう一度、取っ手を回した。
槽の水が減り、鎖についた容器が空のまま上がってくる。樋から水が落ちなくなったところで、手を止めた。
「出した水は、どこへ流すのですか?」
「この容器へ」
「模型ではなくて、鉱山では……」
コロンダム様の手が止まった。少し離れた机で木箱を開けていた大学の学生も、こちらを見た。
「川へ流すのですか?」
「川へ流す場合もあります。ただし、坑道の入口近くへそのまま捨てれば、また地面へ染み込んで戻ってきます」
「では、遠くまで樋を作るのですか?」
「地形に合わせて水路を引きます。低い土地へ溜めることもある。鉱山の水には土や細かな鉱物が混ざるので、いったん池へ入れ、沈ませてから流す場所もあります」
コロンダム様は壁の地図へ歩き、山地の一つを指した。
「ここでは、谷の向こう側へ水を出しています。こちらへ流すと、集落で使う水へ混ざるためです」
「谷の向こうまで?」
「距離はありますが、鉱山を使い続けるなら必要です。水を出す仕組みだけ作っても、行き先がなければ意味がありません」
掲示板には、採掘地における水と運搬の研究、と書かれていた。
水をくみ上げる方法だけではない。
その水をどこへ流すか、掘り出した石をどう運ぶか、鉱山で働く人がどの道を通り、どこで暮らすのか。
一つを尋ねると、その周りには別の話がいくつもあった。
「この黒い線は、道ですか?」
地図へ近づき、山地から町へ伸びる線を指す。
「鉱石を運ぶ軌道です」
「先ほどの小さな車を使う?」
「坑道の中では、あちらの模型に近いものを使います。外へ出した後は、大きな車へ積み替える。ですが雨が続けば道がぬかるみ、重い鉱石を載せた車は進めません」
「では、水を出せても、運べなくなるんですね」
「そうです」
コロンダム様は、先ほどまで床の水を拭いていた布を取り、今度は地図の前の机へ広げた。
その上へ、細い軌道と車輪の模型を置く。
「ですから、鉱山だけを見ていても駄目なのです。どれほど良質な鉱石があっても、山から出せなければ使えない。運ぶための道を作るなら、誰が土地を持っているのか、冬に雪が積もるのか、川を渡る橋が必要かという話にもなります」
「鉱山の研究なのに、橋まで?」
「必要なら」
「町のことも?」
「鉱山ができれば人が集まります。住む場所も、食料も要る。急に大勢が来れば、以前から暮らしていた人々と水や薪を取り合うこともあります」
また話が広がった。
石の話をしていたはずなのに、水になり、道になり、橋になり、町になる。
それでも、どこから話が変わったのかは分かる。
採った石を運ばなくてはならないし、運ぶ人は近くで暮らす。暮らすなら水と食料が要る。
どれも前の話からつながっていた。
「コロンダム」
ラピス殿下が椅子に座ったまま呼んだ。
「何でしょう、殿下」
「もう、かなり長いわ」
窓の外を見る。
実習室へ入ったときにはまだ校庭へ日が当たっていたのに、今は中央校舎の影が半分以上伸びていた。
アメージュは途中から別の机へ移り、鉱石の標本箱を眺めている。ベリル様は姿勢を変えていないものの、一度、壁の時計を確認した。
「申し訳ございません」
コロンダム様が地図から手を離した。
「展示前に、説明しすぎました」
「いいえ。私が何度も尋ねたからです」
「ですが、まだ運搬車の話を始めたところです」
まだ続きがあるらしい。
「合同祭では、こちらも動かすのですか?」
机の上に置かれた軌道の模型を指す。
「ええ。今は車輪の幅が合っていませんので、調整してからですが」
「では、合同祭の日に見てもよろしいですか?」
「もちろんです」
コロンダム様は模型の横にある説明札を取り、展示時間を確かめた。
「午前は教授が説明します。私は午後からおりますので、そのころでしたら、今日の続きをお話しできます」
「お願いいたします」
私たちは大学の人々へ挨拶し、実習室を出た。
廊下へ出るなり、アメージュが大きく息を吐く。
「本当に長かった」
「ラピス殿下がおっしゃったでしょう」
「聞いていたけど、あれほどとは思わなかったの。でも、シトリンもよく次々に聞くわね」
「だって、水を外へ出すと書いてあるのに、出した先が書かれていなかったから」
「普通は、出したところで納得しない?」
「近くへ流したら、また戻ってしまうでしょう」
アメージュは少し考え、うなずいた。
「たしかに」
階段へ向かいながら、もう一度、実習室の扉を見る。
ジャスパーの話も長かった。
――祖父がどのように判断したか。
――軍人を目指す者はどうあるべきか。
――自分なら何をするか。
話を聞き終えた後、私の頭に残るのは、いつもジャスパーと、その祖父のことだった。
今は、模型の中を上がっていった小さな容器と、谷の向こうまで延びる水路が残っている。
女子部の教室へ戻ると、机の上へ手帳を開いた。
合同祭の展示時間の横へ、一行書き足す。
――雪が積もる土地では、鉱石をどう運ぶのか。
書き終えたところで、次の鐘が鳴った。




