第十話 近づかれるのも嫌です ―シトリン―
週末に寄宿舎から実家へ戻ると、父の書斎には、すでに中央学院からの封書が届いていた。
厚い生成りの封筒には学院の紋章が押され、父の机の中央に置かれている。開封された紙は三枚あり、その横には私が数日前に送った手紙も並んでいた。
あの手紙には、ラピス殿下からジャスパーについて苦情を受けたことと、本人へ話をするつもりだとしか書いていない。
まさかその後、ジャスパーたちが大講堂から女子部へ戻る経路へ勝手に配置され、教師に連れていかれるとは、私も思っていなかった。
「まず、座りなさい」
父が長椅子を示した。
書斎には父と母、それから姉がいる。
姉は父とともに領地から届いた書類を見ていたらしく、机の端には帳面と手紙の束が積まれていた。私が帰宅したと聞き、そのまま残ってくれたようだ。
母の前には茶器がある。
学院からの封書が届いてから、三人で待っていたのだろう。お茶は新しいものと取り替えられたばかりらしく、私のために用意されたカップからはまだ湯気が立っていた。
「学院からの報告は読んだ」
父が一枚目の紙へ手を置く。
「だが、これは教師から見た出来事だ。お前からも聞かせてほしい」
「はい」
母の隣へ座り、手袋を外す。指先が少し冷えていたので、カップを両手で包んだ。
「どこからお話しすればよろしいでしょう」
「王女殿下がお前のところへいらした日からでいい」
父の返事に、私はラピス殿下との最初の話を思い出した。
――あなたの婚約者、何とかなりません?
あのときは、困ったことになったと思った。
学院でジャスパーとラピス殿下の噂が広がっていることは知っていた。けれど私が感じていたのは、婚約者を取られる不安より、またジャスパーが何か始めたらしいという面倒さだった。
それが今は、別のものに変わっている。
「ラピス殿下は、ジャスパーが食堂の女子側まで来ることや、女子部まで送ろうとすることを迷惑に思っておられました。ベリル様がいらっしゃるので、護衛も必要ないと何度もお断りになったそうです」
「マーチモンド令息は、王女殿下から頼まれたわけではなかったのね?」
母が確かめる。
「はい。ジャスパーからは、殿下が異国で心細く過ごしておられ、自分を頼りになさっていると聞いていました。でも、殿下は一度もそのようなことをおっしゃっていませんでした」
「では、あの子が勝手に考えたのか」
「そうです、お父様」
父の指が、学院から届いた二枚目の紙へ移った。
そこには、一斉集会後の出来事が詳しく書かれているのだろう。
「お前はマーチモンド令息と話したのだな?」
「昨日の放課後、中央談話室で話しました。ラピス殿下が迷惑しておられることも、今後は食堂の女子側へ行かず、付き添おうとしないでほしいことも伝えました」
「それで、相手は何と?」
姉が尋ねた。
「危険がない間は、目立つ行動を控えるそうです」
「行かないとは言わなかったの?」
「はい。危険が起きる可能性まで無視して、今後一切近づかないとは約束できない、と」
姉は手にしていた鉛筆を帳面の上へ置いた。
「……何の危険なの?」
「分かりません」
「王女殿下が何者かに狙われているの?」
「そのような話はありません」
「ロルカ王国から、護衛を増やしてほしいと依頼があった?」
「ありません」
「では、いったい何を守っているのかしら」
さすがにそれには答えられず、私はカップへ口をつける。
茶は熱かった。少しだけ飲み、受け皿へ戻す。
「ジャスパーは、危険へ気づいた者が先に動くべきだと考えています。殿下御自身やベリル様が何もおっしゃらなくても、口にできない事情があるのかもしれない、と」
「それでは、何を言われても同じではないの」
母は呆れたように眉を寄せた。
「頼んでいないと言えば、頼めない事情がある。必要ないと言えば、必要だと認められない事情がある。そういうことでしょう?」
「はい」
言葉にすれば、本当にそのとおりだった。
ラピス殿下がどのように答えても、ジャスパーの考えは変わらない。
私も同じだった。
私が迷惑していると伝えれば、噂に心を乱していることになる。ラピス殿下の言葉をそのまま話しても、感情によって悪く受け取っているのではないかと疑われた。
私が落ち着いているからこそ信頼している、とも言われた。
けれど、それは《《私の話を信じる》》という意味ではない。
《《最後には自分の考えを受け入れるだろうと、信じている》》だけだった。
「それで、一斉集会の後はどうなったの?」
姉が学院からの報告書を引き寄せた。
「この紙には、四人が退出経路へ無許可で配置されたと書かれているわ」
「ジャスパーが、目立たない方法を考えたのです」
「目立たない方法?」
「前日、ラピス殿下から、四人で女子側へ来ることで周囲の注目を集めていると言われました。それで、一人ずつ違う場所へ立ったようです」
姉は配置図を写したらしい別紙を開いた。
女子側の出口、回廊の角、中央通路、女子部へ戻る途中。四つの場所に印がある。
「増えてはいないけれど、広がっているわね」
「アメージュも同じことを言いました」
「誰か一人くらい、これはまずいと言わなかったの?」
「ペリド様は途中で疑問を持っておられたようです。オーパスという同級生は、朝から何度も止めたそうです」
「それでも実行したのね」
「はい」
大講堂での出来事を続けて話す。
ラピス殿下は、ジャスパーへ男子部の列へ戻るよう命じた。
――必要ない。
――頼んでいない。
――正式な護衛と学院の警備が対応する。
何度も、はっきり伝えている。
「そのとき、ジャスパーは殿下へこう言いました」
カップの取っ手へ指をかけたが、持ち上げる気にはならなかった。
「『危険の有無は、殿下のお気持ちだけで決まるものではない』と」
父が報告書から顔を上げた。母の手も、茶を注ごうとしたところで止まっている。
「王女殿下御本人へ、そう言ったのか?」
「はい」
「大勢の生徒の前で?」
「はい」
父は椅子の背へ体を預けた。
何か言う前に一度、窓の外を見る。庭では植木を整えていた庭師が、切り落とした枝を籠へ集めているところだった。
「本人の意思を無視して近づき、拒絶されれば、その意思は判断に関係ないと言う。それのどこが護衛なのだ」
「学院の教師とベリル様からも、あなたは護衛ではない、と言われました」
「当然だわ」
母がようやく茶器を戻した。
「それで、シトリン。あなたは大丈夫だったの?」
「私は、何もされておりません」
「そういうことではなくて」
母の指が、私の手の甲へ触れた。
「怖くなかったの?」
――怖い?
少し考えてから、首を横へ振った。
ジャスパーが怒鳴ったり、私へ手を上げたりする姿を想像したわけではない。
彼は普段どおりだった。声を荒らげず、私を理解のある婚約者だと信じ、最後まで自分の正しさを説明していた。
だから、もっと嫌だった。
「気持ちが悪いのです」
その言葉が、するりと出た。
母の指が動きを止めた。父と姉も、私を見る。
自分で口にするまで、その言葉を選ぶつもりはなかった。もっと別の、侯爵令嬢らしい言い方があるはずだった。
――価値観が合わない。
――信頼関係を保てない。
――将来をともにすることは難しい。
どれも間違ってはいないけれど、私の中にあるものとは少し違う。
「何が、気持ち悪いの?」
母が静かに尋ねた。
「私が何を言っても、ジャスパーの中で違う意味に変えられてしまうことです。ラピス殿下が嫌だとおっしゃっても、遠慮しているだけだと考える。私が迷惑だと伝えても、噂で心を乱していることになる」
私は膝の上へ手を戻した。
「殿下のお気持ちだけで危険の有無は決まらない、と言ったでしょう。もし私が、何かを嫌だと言ったときも、きっと同じです。私が嫌だと感じているかどうかは関係なく、ジャスパーが必要だと考えれば続けるのだと思います」
「そうね」
「今までは、ジャスパーの話が長くても、最後まで聞いていました。婚約者なのだから、そうするものだと思っていました。でも今は、また説明されるのかと思うだけで、会いたくありません」
次の合同のダンス練習では、婚約者同士で組むことになる。
以前なら当然の予定だった。
ジャスパーが私の前へ来て手を差し出し、私はその手を取る。彼の手が私の腰へ添えられ、音楽に合わせて同じ場所を回る。
そこまで考えたところで、背中が椅子の背へ触れた。
近い。
今の私には、近すぎる。
「……ダンスもしたくありません」
父の眉が動いた。
「合同祭のか?」
「その前の練習もです。手を取られるのも、近くへ立たれるのも嫌です」
母の指が、私の手を包む。
「このまま結婚したら、いずれ、あの方に近づかれることさえ嫌になるでしょう。いいえ…… もう、なり始めています」
口にすると、先ほどまで言葉にならなかったものが、はっきりした。
ジャスパーに会いたくない。説明も聞きたくない。婚約者として手を取られることも、妻として同じ家へ入ることも考えたくない。
「お父様、お母様」
顔を上げ、真っ直ぐ二人を見る。
「ジャスパーとの婚約を、解消したいです」
父はすぐには答えず、机の上に置かれた私の手紙と、学院からの報告書を順に見る。
「今日の出来事に腹を立て、その場の勢いで言っているわけではないのだな?」
「はい」
「学院がマーチモンド令息を処分しなければ、考え直すか?」
「いいえ」
「本人が、王女殿下へ近づかないと約束すれば?」
少し考えた。
昨日なら、その約束を聞けば、もう少し様子を見る気になったかもしれない。
けれど今日は、ラピス殿下が大勢の前で何度も拒絶したあとである。
「今になって約束しても、私が嫌だと言ったからではありません。学院から命じられ、処分を受けるかもしれないからです」
「そうだな」
「それに、次に別の人を守らなくてはならないと思えば、また同じことをするでしょう。ジャスパーは、今回の方法が悪かったとは思っても、自分が相手の話を聞かなかったとは思っていません」
父は母を見た。
「お前はどう思う?」
「結婚する娘が、相手に近づかれることさえ嫌だと言っているのよ」
母は私の手を握ったまま答えた。
「考え直させる理由がありません」
「お姉様は?」
姉は配置図を報告書の上へ戻した。
「シトリンが嫌だと言ったとき、それを嫌だという意味で受け取らない人でしょう。夫婦になれば、学院の教師も王女殿下の護衛官も間へ入ってくれないわ」
鉛筆を取り、報告書の余白へ日付を書き込む。
「婚約を解消する理由としては、それで十分よ。今回の処分が重いか軽いかは、別の話だわ」
父が机の上の呼び鈴へ手を伸ばした。
「では、アザフォード家からマーチモンド伯爵家へ婚約解消を申し入れる。学院にも、今後シトリンとマーチモンド令息を婚約者として組ませないよう伝えよう」
「私からジャスパーへ話さなくてもよいのですか?」
「家同士で結んだ婚約だ。まずは私から伯爵へ話す」
「でも、本人にも――」
「話したいのなら止めない。ただし二人きりでは会うな」
父の言葉へ、母がすぐに続ける。
「アメージュ様か教師にそばにいていただきなさい。手紙でもいいのよ」
私は一度うなずいた。
「学院で、本人へ伝えます。もう婚約を続けるつもりはないと」
「相手の返事を聞いてから決める必要はないわ」
姉が帳面を閉じた。
「報告よ。話し合いではないのだから」
廊下で足音が止まり、父の呼び鈴に応じた家令が扉を開けた。
「便箋と、新しい封筒を。それから、明日の朝一番にマーチモンド伯爵家へ使いを出す」
「かしこまりました」
家令が下がったあと、母は冷めた茶を新しいものへ替えるため、ポットを持ち上げた。
父は学院からの報告書を机の右へ寄せる。
家令が運んできた便箋を一枚取り、最初の行へマーチモンド伯爵の名を書いた。




