第1話 指パッチンと、壊れた笑顔
――催眠術なんて、結局は嘘だ。
そう思いながらも、俺は今日も動画を見ていた。
「目を見て、リラックスさせて、暗示を――って、できるわけあるかよ」
スマホを机に放り投げる。何十回、何百回と試してきた。友達にも、クラスメイトにも。だが結果は全敗。笑われて終わり。
それでも諦めなかった理由は――正直に言えば、くだらない。
「もし本当にできたら……」
頭に浮かぶのは、都合のいい妄想ばかりだった。
好きな子を思い通りにできるかもしれない。秘密を聞き出せるかもしれない。ちょっとした、いやかなり最低な願望。
「……はぁ」
自分でも分かっている。クズだな、って。
でも、もしできたら――って思ってしまうんだ。
そんなある日の帰り道だった。
「おーい、遅いぞ」
後ろから声がかかる。振り向くと、幼なじみの美咲がいた。
「別に。動画見てただけ」
「また? 飽きないね」
呆れたように笑う。その笑顔は、昔から変わらない――はずだった。
「ちょっと試させてくれよ」
「はいはい、どうぞどうぞ」
いつもの軽いノリ。どうせまた失敗する。それが分かっているから、美咲も気軽に受けている。
俺は深呼吸して、美咲の目を見る。
……なんとなく、その日は妙に静かだった。
風の音も、人の気配も、全部遠くにあるみたいに。
「……リラックスして」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。
そして――
パチン。
指を鳴らした。
「――――」
その瞬間、美咲の瞳から力が抜けた。
「え……?」
固まる。今のは、何だ?
「美咲……?」
「……なに?」
返事はある。でも、どこかぼんやりしている。
心臓が一気に跳ねた。
(え、待て……これ、まさか……)
試しに言ってみる。
「その場で、一回回ってみて」
「……うん」
美咲は、素直にその場でくるりと回った。
――成功してる。
頭が真っ白になった。
(マジかよ……本当に……?)
理由なんて分からない。今までと何が違う? ただ目を見て、指を鳴らしただけだ。
でも、今はどうでもいい。
成功した。その事実だけで、胸がいっぱいになる。
(じゃあ、もっと……)
浮かびかけた願望。
そのまま口にしようとして――
「……セーター、脱いでみて」
言ってしまった。
「……うん」
美咲は、ためらいもなくセーターの裾に手をかける。
――その瞬間だった。
ちらりと見えた腕に、違和感が走る。
「……は?」
無数の線。
細くて、赤くて、消えかけて、それでも確かに残っている傷。
一本じゃない。何本も。何度も。
「……ちょっと待て、やめろ!」
思わず叫ぶと、美咲の動きが止まった。
呼吸が荒くなる。
「……それ、どうしたんだよ」
声が震えていた。
「……」
一瞬の沈黙のあと、美咲はぽつりと答える。
「お父さんとお母さんが、いつも喧嘩してて」
「……」
「イライラしてると、私に当たるの。別に、理由なんてなくて」
淡々とした声だった。
「最初は我慢してたけど、だんだん……何もしたくなくなって」
「……」
「痛い方が、楽だから」
言葉が出なかった。
さっきまで頭にあった願望が、全部消えていく。
残ったのは、吐き気みたいな後悔だけ。
(俺は、何をしようとしてたんだ)
目の前にいるのは、“都合のいい存在”なんかじゃない。
ちゃんと苦しんでる、人間だ。
「……ごめん」
無意識に言っていた。
「……?」
美咲は不思議そうに首をかしげる。
俺は、ゆっくりと息を吸う。
もう一度、目を見る。
今度は、さっきとは全然違う気持ちで。
「大丈夫だ。今は、安心していい」
パチン。
指を鳴らす。
「……」
美咲の表情が、少しだけ緩んだ。
「……つらいこと、少しだけ軽くなる」
「……うん」
小さく頷く。
それだけだった。
傷が消えるわけでもない。問題が解決するわけでもない。
でも――
さっきより、ほんの少しだけ。
呼吸が楽そうに見えた。
(これで、いいのか……?)
分からない。
でも、さっきみたいな使い方は、もうできない。
「……なあ、美咲」
「……なに?」
「俺、この力――」
言葉を探す。
「ちゃんと使うから」
自分でも曖昧な宣言だった。
それでも、美咲は小さく笑った。
「……うん」
その笑顔は、少しだけ壊れていて。
それでも――
さっきより、ちゃんと“人の笑顔”に見えた。
その日、俺は初めて思った。
この力は、遊びじゃない。
そして――
間違えたら、取り返しがつかない。
それでも。
それでも俺は、この力を使う。
――誰かを、壊さないために。




