後編
高3の冬のこと。最上級生が引退し、妹たち中2が主導権を握って最初のバスケットボールの大会に、両親に請われカメラ一式を携えて、初めて応援にいった。順調に勝ち上がり、今日勝てば県内ベスト8なのだという。入口でトーナメント表を見て、その数字が決して楽に得られるものではないことを初めて知った。前回の試合でシード校を1つ破っている。今回の対戦相手は妹から聞いて名前くらいは知っている強豪校だ。心なしそわそわしながら、バレないように遠い席に腰掛けた。
試合が始まってみて知る、家では絶対に見ることができない、みそらの表情。それなのに、チームメイトを励ますその姿があまりに彼女らしくて笑ってしまう。最初のクォーターを終えてようやく、両親がカメラを持たせた理由がわかった。こんな顔を、勇姿を、本当は間近で見たかったに違いない。
そこからは、ずっとファインダー越しに妹の姿を追い続けた。遠い席では限界を覚え、休憩時間の間にこっそり最前列に移動した。がんばれ、がんばれ。シャッターを切るたびに、険しい顔が増えていく。それでも仲間に向ける笑顔はどこまでも偽りがない。偽りないことが余計に、胸を締めつけた。
最後のホイッスルが、妹たちの冬が終わったことを告げた。カメラから顔を引き剥がし、天井を仰いで息をつく。善戦した。よく食らいついた。よく、笑った。それでも、届かなかった。そっと席を立った、その時。
「お疲れ!」「頑張ったねー!」「ベスト16、よく獲った!」
その声は、先ほどまで戦っていた部員たちの間から生まれた。1つは、みそらの声だった。振り返った先の彼女たちに、目からボロボロと鱗が落ちていく。
そうか、彼女にとって、これは終わりではない。
それから数ヶ月後、再び写真のコンクールで賞をもらった。
《これからが、私たちの時代》
そう名付けた写真の中で、妹たちの、悔しさと達成感とがごちゃまぜになった泣き笑いの横顔が並んでいる。額の隣で、銀色のリボンが胸を張って揺れていた。
授賞式から帰ってくると、自室の机に山盛りのクッキーが乗っていた。てっぺんの4つにチョコソースで書かれた文字に、思わず噴き出した。付箋を引っ張り出して5文字書き、皿の手前に置いて一つシャッターを切る。すぐに印刷して、妹の部屋に持って行った。
「はい」
「何?」
怪訝そうに受け取ったみそらは、それを見るなりやっぱり噴き出した。
「しょーもない写真」
「うっさい」
「味の感想は?」
「まだ食べてません~」
「ほんっとねえちゃん、そういうとこあるよね」
【ごめんね】
【私もごめん】
ただそれだけの、馬鹿みたいなクッキーの写真。何故かしばらく、妹の机の端で揺れていた。
あれからもう何年も経つ。模索する日々だけれど、スランプには陥っていない。あの時のしこりは、もうどちらの胸にも残っていない。
けれど、事実として、私は妹に叩かれ、気づかされ、導かれた。なら、そう、妹の幸せを願う姉として、多少のお願い事を聞くくらい、どうってことないのだ。……頻度にも、よるけれど。
【もしもしねえちゃん? 今度いつ休み?】
その日も、帰宅を見計らったかのように電話が鳴った。またかと呆れつつ、LINEでないことに珍しさを覚える。
【明後日】
【じゃ、13時にうちで。よろしく】
はいはい、と適当に相づちを打つと、これまた珍しく妹は一言付け加えた。
【今回は、ひと味違うよ】
【……どういうこと?】
思わず問い返すと、ふふん、と自慢げな鼻息が返ってくる。
【会ってからのお楽しみ。絶対ねえちゃんのカメラに叶うと思うんだよね】
ずいぶんともったい付ける。首を傾げながら過ごした2日後、妹は弾む心を隠す気もなく私を彼氏に引き合わせた。
「ねえちゃん、和絃君。和絃君、あさひねえちゃん」
「はじめまして」
「はじめまして、みそらがお世話になっています」
「はい、お姉さんのご苦労お察しします」
「ちょっとぉ!?」
軽く挨拶をしながら、なるほど、と心中で頷いた。この返しはこれまでの彼氏にはなかった。いつもどおりソファに腰掛け、お茶と妹お手製のクッキーを摘まみながら他愛ない話に花を咲かせている。その後ろ姿をそっとファインダーで捉えてしばし、違和感に首を捻る。
この2人を、後ろ姿でこっそり撮ってしまって良いのだろうか。
それは、あまりにもったいないのでは?
レンズを換えソファの背より少し低い位置に座り、絞りと明るさを調整する。
「2人とも、こっち向いてくれる?」
『え?』
どこか似通った、抜けたような顔をシャッター音で切り取る。
「ちょっと! 今絶対変な顔してた!」
「俺も……」
「やり直しを要求する!」
「……まじで?」
渋る彼氏を駄々にも近い形で説得する妹に笑いながら、もう1度カメラを構えた。こそこそとした打ち合わせが済んで背中を向け直した2人に、改めて声を掛ける。
「はーい、いきますよー。3、2、1」
その写真が、後に結婚式のムービーの最後を飾る写真として使われることになる。
その日の夜、現像した写真を見せると、みそらは「やっぱりねぇ」と嬉しそうに呟いた。
「和絃君は絶対、ねえちゃんのカメラに適うと思ったんだよ」
「その根拠は?」
久々に帰ってきた自室の整理をしながら、勝手にベッドを占拠した妹に問う。天井に両手を伸ばして、大学卒業を目前に控えた彼女はどこか遠くを見つめるような瞳をした。
「ん~とねぇ、例えば、こーしたいなとか、あーしたいなとか、好きだなーとか会いたいなーとか、そういう想いがここにあるじゃん? いつもだと、メールとかLINEでポンって送っちゃうのよ。それで伝わった気になるわけ」
事実、多くの恋人たちが取る典型的な手段である。それを彼女は、違うんだよ、とはねのけた。
「そーじゃないの。直接渡したくなるの。それも剥き身でポイッと渡すんじゃなくて、こう、丁寧に丁寧にラッピングしたいわけよ」
春には桜色、夏には海色、秋には紅葉色、冬には白銀のリボンを。雨が降ったら虹色にしたって良い。
「でね、それを両腕にギュッと抱えて、雨でも雪でも走って渡しに行きたいの。渡してね、受け取ってくれてね、笑ってくれるとねぇ。心がぶわってなるよ。もう、季節とか関係なく、心ん中一面に、花が咲くんだよ」
多分こういうのをさ、「幸せ」って言うんだよね。
両手を自分の胸に重ね、キラキラと輝く瞳で囁いた妹を前に、いつの間にか整理の手は止まっていた。愛用のカメラを横目に、深呼吸を1つ。
「和絃君がカメラに適ったわけじゃないんだよ、みそら」
「んん?」
怪訝そうな顔に、せいぜい真面目な顔をして言ってやった。
「和絃君と一緒で楽しくて嬉しくて幸せでしかたがないみそらが、私のカメラに適ったんだよ」
ぽっかんと開いた口が、その顔があまりに間抜けで、我ながら気恥ずかしさが喉の奥からこみ上げてきた。
「風呂! 父さん帰ってくる前にさっさと入ってきてよ!」
「あ、ちょ、いた、ねえちゃ、わか、わかったから! いたい!」
ぺいっと外に放り出す直前、妹の顔がなんともだらしなく緩んでいたのは、癪だから見なかったことにした。
あの日と同じカメラに同じレンズを付け換えて、近付いてくる花嫁を待ち構える。ふ、とレンズの向こう、花嫁の視線が動く。レンズの向こうでパチリと目が合って、息を呑むよりも早くシャッターを切った。ほころぶ花の一瞬一瞬を、咲ききるまで逃さずに写しきる。辿り着いた赤い道の終わりで厳かに1礼し、扉の先、廊下を曲がっていくまで見送って、ようやくカメラを顔から剥がし、息をついた。こんなに集中したのは、あの試合の日以来かもしれない。膝と肩を回して凝りをほぐし、寄ってきたみそらの友達に手を振る。幹事である彼女たちと、ムービー作成のための写真選びをする手はずになっていた。家族に声をかけて、式場スタッフの待つ別室に移動する。
「お姉様流石です、みそら様がすっっっごく綺麗です」
「ほんと! わぁぁぁこれ良い。めっちゃ良い」
「やだ、この私顔がひどい」
「いやいやいや、あんたなんて誰も見てないって」
きゃいきゃいと騒ぐ声に混ざって、懐かしいなぁ、という1言が場に染みた。指されたのは、あの日に並んでいたメンバーとみそらが一緒に写っている1枚。違うのは、みんなが少しずつ大人になったこと、悔しさからくる涙がないことだろうか。
「あの時も、お姉さんが写真撮ってくれたんですよねぇ」
「そうそう、みそら、超自慢げに皆に配ってさぁ」
「あー! そうそう! これが賞を撮った写真なんだーって!」
初めて知った。
「これ、良ければ焼き回ししてもらえませんか? お金払うんで!」
「え、お金なんて良いよ。できたらみそらに渡すから、会った時にもらって」
きゃいきゃいと騒ぎながら写真選びをする中で、ふと並んだ写真に違和感を覚えた。最後、扉の近く、目が合った瞬間の連写、妹の口が何か動いている。
「あ……い……」
「じゃぁ、これでお願いします!」
朗らかな声に意識を引き戻され、慌ててマウスを動かして決定ボタンを押した。
ムービーの完成を待つ間、家族に声をかけてくると1言言い置いて控え室に戻った。誰もいないことを良いことに持ち歩いているパソコンを引っ張り出し、起動ももどかしくSDカードを差し込む。先ほどの画像を並べてみる。
全部で8枚。やっぱり、何か言っている。
口元を拡大して、行き戻りしながら解読を試みた。
「あ……い……あ……お……?」
無意識に出ていた音で、違うと気づく。写った妹、目線の先は私だ。
「あ、り、」
8枚を読み切って、次の写真が画面に表れた瞬間、膝が落ちた。片手で口元を押さえ、机の陰で嗚咽をこらえる。
『ありがと、ねえちゃん』
それは心底嬉しげな笑顔とともに、寄せられた言葉。
「み、そら」
この写真を見るたびに、間違いなく、この先ずっと、今日のこの気持ちを忘れない。
みそら。この世にただ1人の、私の妹。
どうか。どうか。この世の誰よりも、幸せに。