風かどわかし
わっひゃー、つぶつぶ〜ちょーっとそこで止まっていてくれない。
てーい、ぴと。う〜んこの背の高さがジャストフィット、ベリグーね。
愛してるわ〜つぶつぶ。風よけとしてね。
――て、どわああ。いきなり逃げんなっての!
そりゃあたしの口が滑りすぎてスケート場になっているのは否定しないけど、だからって寒さに強いわけじゃ……ぶえっくしょい!
こ、こうなると……えっしょい! あたしは急に……ぶっふう! 止まれな……ぶおっへ!
うう〜、ここでなんだかんだ戻ってくるあたり、つぶつぶも人がいいというか、流されやすいというか……ふう、落ち着いたわ。
悪いけど、もうちょい風よけさせてもらっていい? この風が止むまでね。
ふう、どうにかおさまったわ。ありがと。
あたしね、前々から、風に当てられると、くしゃみが止まんなくなりやすいの。
風邪とは違うのよね。あたしにとってはひとつのトラウマもの。
たぶん、レアケースな不思議体験なのよね
――な〜に? 詳しいこと聞いてみたいの?
あんま面白いことじゃないけど、まあつぶつぶならうまいことかみ砕いてくれるかもだから、いいかな?
はじめての出会いは、幼稚園児のときだった。
自慢じゃないけど、あたしは園児の中でめちゃくちゃ足が速い方だったわ。
運動会で、自分が確実に活躍できる手札がある。この安心感というか、優越感といったらありがたいもの。
何よりあたし自身、走ることが大好きだった。だって強く風を感じることができるから。
勢いよく走ることで、自分の肌をなでていってくれる風があたしは好き。
エアコン、扇風機、うちわなどから浴びる風は、なにか違う。
気持ちよさはあっても、心地よさは得られない……てヤツ? 自然の風を浴びると安らぐというか、心も体もしゃっきりする自覚があたしにはあった。
だからあたしは必要がなくても、暇さえあればパタパタあたりを走っていたわね。ひとえに風を感じていたかったから。
気持ちいいことは何度だってやりたいし、あたし自身の顔だってほころぶから、家族だっていい気分になれる。どんどん走ることを許してくれる。
小学校にあがってからも、その傾向は変わらず。あたしはこれからも気兼ねない走りを味わい尽くせるものだと、信じていたわ。
転機が来たのは、小学校三年生のとき。
その日の体育の短距離走も、あたしにとっては願ったり叶ったりの舞台。引き続き、あたしは女子の中では、頭一つ抜けた足の速さを保っていたから、こけたりしなければ一位は揺るがない。
勝ちが見えた勝負は面白くないというのは、あくまで観客的視野の意見だと思っている。
やるからには勝つ。やろうと思いさえすれば勝てる。
プレイヤーとして、これほど心躍るときはないんじゃない? 強みを生かして何が悪い。
四人組一列で走るコースの三番目。100メートル走の出だし20メートルで、あたしは早くも一緒の3人より前へ出て、ぐんぐん加速する。
やはり一番前はいい。どこにもはばむものがなく、風がぶつかってきてくれるから。
なおもスピードを緩めず、あたしは遠慮なく迫ってくるゴールラインを一瞥しただけで、より前を、より遠くを見やって走り続けていたわ。
そのゴールした直前。
開いた口の、のど奥に何かが飛び込んでぶつかる気配。つい、えずきかけるあたしと、胃の奥からの水音。
とっさに口に手を当てるや、くしゃみがひとつ、盛大に躍り出た。
手のひらに違和感。けれどそれは、ツバとかタンなどとは違う、もっとはっきりしたふくらみを持った何かだった。
外した手のひらには、かすかに血が混じったよだれが広がっていたけれど、あたしは一瞬だけ見えたそれをとらえている「。
明太子。
当時のあたしのボキャブラリーに浮かんだのは、その一語だった。
一貫のお寿司に似た姿、大きさのそれは、間違いなくあたしの手のひらへ寝転び、そして消えた。
手のひらをあらためても、周囲を見やってもそれらしき影はない。
首をかしげながらゆるゆる歩くあたしの身体を、自然と吹き付ける風が、しきりとなでてきていたわ。
その日の学校の残りの時間、特に水を飲みすぎた記憶もないのに、あたしの身体は水音をしばしば立てていたのよね。
当時、あたしは自分の体重をやや気にしていたわ。家の体重計に乗るたび一喜一憂していたから、あの日以来、少しずつ数字が減っていることには大喜びしてた。
幼稚園の頃から、走って風を感じることが好きなのは変わっていない。今に至るまでも、少し遠くへ行く用があれば走っていく。
その積み重ねがようやく出てきたかと思ったけれど、ほどなく訪れた学校の身体計測が、楽観を打ち消してくれた。
ぼちぼち育ち盛りを迎える女子たちの中、あたしの成長が取り残されている。いや、わずかだけど身長が縮んでいる結果となったのよ。
実はあの走りの後も、あたしは強く風を身体に受ける時、不意にくしゃみが出てしまう時があった。
そこでふとした拍子に、いきなり現れては消える、あの明太子のような影を見かけていたの。
実物を見せられなきゃ、たいていの人が見間違いと思って、まともに取り合ってくれない。
でも、あたしの成長のストップは確かなこと。ママが小柄な人ということもあり、あたしの背が止まってしまうのも「遺伝かも」のフレーズが、ある程度説得力を持っていた。
そんなはずはない、とあたしはなんとか明太子を周囲へ見せてやろうとする。
この時から、くしゃみが出てきそうになるのを、あたしはできる限りこらえていった。
声を出すところまではいっても、外へ吐き出すのは全力で食い止める。そうして身体から脱出しそこなったものをとらえ、衆目にさらしてやろうと考えたの。
多少、汚い音を立てようが我慢して、くしゃみが止まった端からハンカチを突っ込んで、口の中にまで出かかっていただろう、明太子を回収しようとしたわ。
けれど、できない。いくらハンカチを突っ込んでも、くっついてくるのは唾液のみで、明太子のめの字もなかった。
好機を逃すまいと、人前でもはばかりなく繰り返したから、周りの人たちも少しずつ怪訝そうな表情で、こちらを見るようになってくる。
――あれさえ見せつけられれば、この状況だって一変できるのに……!
そう信じるあたしは、なおも挑む。そして玉砕する。評価は地へ落ちていく。それを取り戻そうとなおあがく……。
信用値のデフレスパイラル。一発逆転を信じてやまないあたしは、くしゃみへひたすら挑んでいった。
ここまでも完全におさえられたものばかりじゃない。つい、おさえを突破して飛び出してしまった明太子は、再びあっという間に姿を消してしまう。
それが現実であることを裏付けるかのごとく、減り続けるあたしの体重……。
このままじゃ、あたしがいなくなってしまう。
不安にかられたあたしは、ようやく家族のこの一連のできごとを打ち明けたわ。
パパとママは首をかしげていたけれど、おばあちゃんは心当たりがあったらしく、翌日のご詠歌の集まりのときに話を聞いてみるとのことだった。
翌日。集まりから戻ってきたおばあちゃんは、その対策をあたしへ教えてくれる。
もし次に、風になでられて明太子を吐き出すようなことがあったとき。指を口に含んでたっぷりつばへ濡らしたあと、空へ突き立てて、空気にさらしてみろとのこと。
あたしも知っている。風向きを知るときに行う手のひとつだ。
風が吹いてくる方向へ向けると、いっとう指が冷たく感じられるので、それによって判断をしていく。
心配される状況の通りなら、その指にもたらされる冷たさに従って進んだ先にある「包み」を見つけ、壊してみるといい……とね。
果たして、その時はきた。
学校からの帰り道。またいきなり吹いてきた風と、それにともなうくしゃみと明太子があたしを襲った。
またも姿を消してしまうそれを、今回ばかりは見やらない。あたしはすぐ右手の人差し指をしゃぶったあと、そっと空をめがけて突きあげる。
いま、かすかに吹く風とは90度右へ曲がった方向。川をはさんで向こう側の方角は、なぜか風もないのに、凍てつきそうな寒さを指へ届けてきた。
おばあちゃんのいった通りになったと、あたしは凍えそうな指を立てながら、その先へ向かう。
寒さのあまり、じんじんと指が痛み始めるけれど我慢した。
指を暖めたり、しゃぶり直したりすると効果が薄れ、満足に追跡できなくなってしまうかも……と注意もされていたから。
通学路を外れ、奥歯をかみしめながら歩くあたしの指は、やがてミカン畑の一角へ導いてくれたわ。
葉のみを茂らせる木々の足元。
そこにはたっぷり土をまぶされた、ゴザが一枚、丸まって置かれていたわ。
指をそうっと近づかせると、痛みは飛び上がりたくなるほどの激しさへ、一気に跳ね上がる。おそらく、おばあちゃんが話していたものは、これだ。
私がつま先で転がすと、土をこぼしながら、丸まったゴザは緩やかな斜面となっていた地面に従って、スルスルと身体を広げていく。
その上に並べられていたのは、間違いない。あたしの口から、何度も飛び出した明太子らしきもの。それが縦横へきれいに列をなしている光景が、あたしの眼下へ広がったの。
それがゴザごと、いっぺんに姿を消したのもあっという間だった。
指の感じる痛さ、冷たさもとたんに引っ込み、飛ぶように家へ帰ったあたしは体重計へ直行。あれ以来、何キロも落ちていた自らの体重の回復を見て取ったわ。
おばあちゃんも詳しいことは分からないけれど、若い子にときおり起こるらしくて、風に乗って何者かが身体の中のものを集めていくんだって。
へたなところを取られると、一発で命を落とすこともあるみたい。あたしはたまたま運がよかったのね。
でも、それからもたびたび、風が吹くたびにくしゃみがやたら出ることがあって。少しでも防ぎになればと、風をよけたくなっちゃうのよね。
その主、いまだにあたしから取っていくのをあきらめてないんじゃないかと思うのよ。




