a!a!a!
おー、こーちゃんも新しいパソコンを買ったんかい?
前のノーパソ、だいぶ長い間使っていたもんなあ。キーの表記とか、ほぼ消えかけてたのを覚えているよ。
必要な機能が限られていると、買い替えにはなかなか踏み出さないよね。何より高い買い物だし、数年に一度だけの出費とはいえ、ほいっと出しづらい額ではある。
それでも、いざ突然の故障ともなれば捻出するのもやぶさかじゃないだろう。
デジタル生活において、こいつが使えないばかりに、とってしまう後れは大きいもんだ。一日どころか数時間の途絶が、のちのちまで響く大きな断絶となるやもしれない。
発信に関しても同じだ。ときに、自分の知るその人とは思えない言葉、発言を画面越しに拝む機会があるかもしれない。
本人の手によるものか。第三者のいたずらか、はたまたミスなのか……重ねた信用、受け取る側の寛容さなども相まって、大小の食い違いから不幸が生まれる恐れをはらむ。
僕自身も、年季の入ったパソコンを使っていて、少しひやりとした経験があるんだよ。
その時のこと、聞いてみないかい?
あれは、秋を迎えたにもかかわらず、夏を思わせる暑い晩のことだった。
翌日に休みを控えた日の晩ほど、楽しい時間はない。一週間の疲れをここぞとばかりに癒そうと、僕はご飯を食べてから、もう何時間もネットサーフィンを楽しんでいた。
何年も使っている、ほぼ型落ちノートパソコンを枕もとに置き、いつ寝落ちしてもいいように布団へ寝転んだまま画面とにらめっこしていた。
はたで見た人に心配されることはあったが、こいつが僕の長年の生活で染みついた、タイピングスタイルだ。24時間戦えちゃうぜ。
しかし、姿勢は問題なかったとて生理現象は別問題だ。
空腹、渇水、排泄、睡眠はもちろん、発汗だって機械を相手取るときは注意が必要。
ヘタに水が入り込んだ日には、回路へ電器が染み渡り、不可逆のダメージを与える可能性がある。それはまた、パソコンとの長い別れ、操作不能期間の招きに直結するんだ。
これは身を切られるほどの苦しみ。どうあっても避けねばならない。
首にかけておいた手拭いでもって、一滴たりともキーボードはじめ、パソコンのどこにも水気を垂らすまいと気を張ったよ。
水気に対しては、ね。
日付が変わって、間もなくあたりだったか。
また頬を垂れる汗の気配に、手拭いをさっと動かすや、その生地よりかすかに跳ねたものがある。
垢だ。身体の誇る新陳代謝機能、その最たる証のひとつ。
細かな破片にやつしたその身は、重力に導かれるまま、キーボードのAキーの持つかすかなすき間の中へ、チップインしてみせたのさ。
その瞬間は、まだ身体がのぞいていた。
これまで何度かあったこと。手近に置いたシャープペンシル、その先っちょをそうっと差し入れて、すくい上げようとしたよ。
けれど、思うようにいかない。
身には触れられ、どうにか外へかき出すのだけど、いざ先端を離すやころころと転がって、またも同じところへ身を隠す。
三度目などは、パソコンから完全に話してカーペットの上までどかしてやったのに、ひとりでに風に吹かれたか、はたまた磁石でも仕込んでいたのか。
垢は飛び跳ねるような軌道でもって、またきれいにすき間へ突っ込んでいったんだ。
一度目より二度目。二度目より三度目と、垢は深く潜り込んでいく。
もうティッシュに包んで始末しようと決意した、その三度目の救助はかんばしいものじゃなかった。
パソコンを横からのぞきこまねば、ほとんど見えない隠れ具合。細心の注意をはらっての掘り出し作業は、かえって奥深くに奴を押していくような格好に。
とうとう、僕の手持ちの道具では届かないキーの底に、垢は沈んでしまったんだ。
舌打ちを禁じ得ない。
Aキーといったら、母音のひとつ。日本語変換するうえで、まず避けては通れない音の代表格だ。
文字を打つなら、その頻繁なピストン運動が、あの垢を餅つきの餅のごとき目に合わせるだろうことは明白。
用心するなら、専門家の手を借りるほうがいいのだろうが……水と違って、ささいな破片をそこまで重く見るべきだろうか?
一週間の貴重な癒し。その時間の大半を手放すのにふさわしい対価が、その先に待っていると望みを持てるのか?
答えは否だ。
いまこの時ほど、捨てがたいものはない。無視だ、却下だ、黙殺だ。
構わず、僕はパソコンと戯れる。テンションも上がっているのか、懸念していた眠気はない。このままパソコンも寝かせず、ワンナイトカーニバルとしゃれこみたかったが。
垢が忘れず、でしゃばってきた。
コメントをするとき、レスポンスを書きこむとき、ややもすれば余計な「a」が姿を見せる。
最初は押し込んだおりに、多くついてくるだけだった。それが僕のタイピングに料理をされたか、じきに自動で押されていくようになっていく。
指を離していても、思い出したように付け足されていく「a」の文字。うっとおしく思いながらも、僕はなおもこいつに付き合い続けていた。
中途半端な重さ、大きさを保っているからこうなる。Aキーを押しまくって粉砕すれば、ちょっかい出す力も失せるだろう、ともくろんでね。
あては外れた。
奴は妨害する力を失うどころか、ますます過激なアピールでもって画面を支配下へ
おさめんとしてくる。
a……aa……a……aa……aaaa……aa……。
こちらが一切触れずとも、テンポを踏んでは画面に「a」が増えていく。
こうも喧嘩を売られては、引く気になれないオタク根性。されど身体も勝手に回り、トイレに行けよと叫び出す。
水をさほど飲まずにいたが、こいつには耐えられない。
「帰ってきたら覚悟しとけよ」と立ち上がり、閉めきって久しい、外開きのドアを開いたのだけど。
なにげなく一歩を踏み出して、期待した床のないことに、思わず足ごと身体ががくんと落ちかけた。
この六畳間から玄関ドアまでの数メートルあまりが、底の見えない深い穴と化していたんだ。
玄関ドアのまわりも穴と同じ黒色の闇に染まり、そこに何があるのか。なぜドアはこうも浮かんでいられるのかと、どんどん疑問を沸き立たせてくる。
とっさに、ドアノブをつかんでいて助かった。踏み出した右足は、すでにひざ下近くまで穴にぶらさがってしまっている。
力を込めて引き上げ、いったんドア閉め。間を置いてから、もう一度開くも状況変わらず。
部屋の中は間違いなく、先ほどまでと変わらぬたたずまい。今度は恐る恐る窓へ寄り、外をのぞいてみた。
普段なら見える、近所の店の明かりと電光掲示板の流れる文字。少ないとはいえ、皆無ではないはずの車のライトや、通行人たちの影。
そのことごとくが、玄関までに横たわるものと同じ。黒一色に塗りつぶされてしまっていたんだ。
混乱しかける頭。ともり続ける電灯の明かり。黙りこくったままの室内。
その中にあって、ただひとつ。勝手に動いて、淡々と「a」の字を紡いでいく、パソコンの姿があったんだ。
睡眠不足も手伝った、ネジ外れかけ人間の直感てやつかな。僕はこのパソコンの状態こそが原因と思ったんだ。
ひたすらキーを連打するのみならず、シャープペンシルの先も酷使。なかば怨恨さえあふれさせて、夢中でキーの底を掘りまくったよ。
上からの連打。下からの掘り出し。
キーはほとんど抜ける寸前まで折檻を受け続け、ようやく「a」の打ち込みは止まる。
窓を見やった。光があった。
ドアを開けた。家具らがあった。
僕はよく知る空間へ戻ってきたんだよ。
あの垢が、キーにちょっかいかけていたのは、確実だろう。
そのテンポ、その打ち込み……何が原因かは分からないけれど、それらが絶妙に絡んだ結果、僕は部屋ごとあそこへ取り込まれてしまったんじゃないかな。




