第六話「有名になってしまいました」
エリーゼ・フォン・グラウベルは、招待状を三回読み直した。
差出人は王宮。内容は夜会の招待。問題は日付だ。
次の王宮夜会は春の終わりと決まっている。それまであと三ヶ月あるはずだった。なのにこの招待状は、十日後の日付を示している。そして右上には、きちんと印字されていた。エリーゼ・フォン・グラウベル、と。
エリーゼはその文字を一度だけ指でなぞり、招待状を封筒に戻した。マルタが「お顔が赤いですよ」と言ったので、「寒いから」と答えた。マルタは何も言わなかった。良い侍女だ。
翌朝、ランベルト・ハイン子爵が説明に来た。
「殿下が開きたいと仰いまして」
「夜会は年に四回と決まっているはずですが」
「まあ、その……イレギュラーな開催ということで」とランベルトは目を逸らした。
「諸事情がありまして」
「諸事情」
「諸事情です」
エリーゼはランベルトを三秒観察した。目が泳いでいる。口元が引きつっている。これは何か言いたいことを隠している顔だ。三年間の観察で培った眼力が告げている。同時に、隠しきれていないことも本人はわかっているらしく、視線がエリーゼの額のあたりをふわふわと漂っている。観察者と目を合わせることへの本能的な回避だろう。
エリーゼはノートを取り出し、ペンを走らせた。
——緊急観察報告。ランベルト・ハイン子爵、明らかに何かを隠している。目線・口元・姿勢、三点すべてに兆候あり。隠し事の熟練度は低い。要注意。
「……わかりました。参加します」
「助かります!」とランベルトが露骨にほっとした顔をした。
これもノートに書いた。
——追記。「助かります」という反応は想定外だった。何かから「助かった」のか。観察継続が必要である。
十日後の夜会、エリーゼは少し緊張していた。
緊張というより正確には「警戒」だ。先日の舞踏会で何が起きたか、よく覚えている。ノートが没収された。数百人の前で読み上げられた。名前を呼ばれた。高座に上がった。自分が壁際で誰かに気づいてほしかったと、数百人の前で言ってしまった。
あの夜のことは、記録したくても記録できなかった部分がある。エリーゼ・フォン・グラウベルは三年間何でもノートに書いてきたが、自分自身のことは書き慣れていない。書き方がよくわからない。それだけだ。
今夜は静かに観察したい。それだけだった。
会場の扉をくぐった瞬間、三人に囲まれた。
「エリーゼ様! 先日の観察記録、読みました。今夜も書くのですか?」
「グラウベル嬢、今夜の安定株は誰ですか。教えてください」
「エリーゼ様、私のことも観察していただけますか?」
三十秒だった。入場してから三十秒で三人に名前を呼ばれた。先日まで何年間も、誰にも呼ばれなかった名前が。
エリーゼはノートを取り出してペンを走らせた。
——緊急観察報告。観察者が観察対象になっている。これは根本的な危機である。観察とは一方通行であるべきだ。見る側と見られる側は分離していなければならない。現在その原則が崩壊しつつある。対応策、未定。
「エリーゼ嬢」
聞き慣れた声がした。三人の令嬢が一斉に道を開ける。振り返ると、ルードヴィッヒ殿下が立っていた。濃い金の髪に灰色の目。口元にいつもの薄い笑みを浮かべている。その三歩後ろで、ランベルトが「お嬢さん方、殿下がお通りです」と人波を整理していた。十日前と同じ顔をしているが、目が微妙に泳いでいる。まだ何か隠している顔だ。
「早速書いているな」
「緊急事態なので」とエリーゼは言った。「観察者が観察されています。これは観察者として根本的な危機です」
「それは確かに由々しい問題だ」と殿下は言った。笑いをこらえているのが声でわかる。
「笑いごとではありません」
「——まあ、今夜は俺が盾になってやる」
「盾、ですか」
「俺の隣にいれば、さすがに令嬢方も遠慮する。その代わり」
「代わり?」
「第四巻の第一観察対象は俺にしろ」
エリーゼは三秒考えた。殿下は観察しがいがある。先日の舞踏会だけで、笑いをこらえる癖・口の左端が上がること・意外と気が長いことを記録できた。今夜はさらに詳しく書ける。それに盾は正直ありがたい。このままでは今夜のノートが観察記録ではなく、自分が観察された記録になってしまう。
「……やぶさかではありません」
「そうか」と殿下は言った。今度は笑いをこらえず、声を上げて笑った。
エリーゼはそれをノートにしっかり書き留めた。
——第四巻、第一観察対象・R殿下。本日の初笑い:入場から四分後。安定している。補足:そもそもこの夜会、殿下が急遽開いた理由がまだ不明である。ランベルト子爵の「助かります」発言・本日の目が泳ぐ挙動と合わせて、引き続き観察が必要だ。




