第三話「高座に呼ばれました」
会場を横切るのに、体感で三時間ほどかかった気がしたが、実際はおそらく一分もなかっただろう。左右から視線が刺さる。ひそひそ声が聞こえる。「あの地味な子が書いたの?」「グラウベルの令嬢でしょ、名前は……」「エリーゼ、だって」。三年間まったく覚えてもらえなかった名前が、今夜だけで何十回呼ばれているかわからない。
皮肉なものだ、とエリーゼは思った。
高座への階段は五段だった。一段上るごとに視線の圧が増す。五段目を踏んだとき、会場全体が視界に入った。数百の目がこちらを向いている。普通の令嬢なら気絶するか泣き崩れるかの状況だが、エリーゼはどちらもしなかった。
三年間、壁際から人間を観察し続けた女は、妙なことに落ち着いていた。むしろ、これはこれで観察に値する状況だと思っていた。あれだけの人間が一点を注視する光景というのは、なかなか見られるものではない。
正面に、ルードヴィッヒ殿下が立っていた。
——観察開始。
反射的にそう思ってから、エリーゼは自分の職業病を少し呪った。濃い金の髪に灰色の目。整った顔立ちで、肩の力が抜けている。高座の上に立ちながら、会場を支配しているにもかかわらず、それを意識していない風に見える。生まれつき人の視線を受け慣れた者の佇まいだ。思ったより威圧感がない。笑うと目が細くなる型だろう。
——安定株になりそうだな、と思ってから、エリーゼは今の自分の立場を思い出した。
「著者本人か」とルードヴィッヒ殿下が言った。
「……はい」
「面白い本だ」
「……ありがとうございます」
「三年分あるのか」
「はい。第一巻から第三巻まで」
「全部読みたい」
「ご勘弁ください」
会場がくすりと笑った。ルードヴィッヒ殿下は口の端をわずかに上げた。予想通り、目が細くなった。
「なぜ書いていた」
「趣味です。人間が面白いので」
「貴族社会が滑稽だと思っているわけだ」
エリーゼは少し考えた。
正直に言うべきか。いや、今さら何を取り繕っても手遅れだ。三巻分読まれてしまった時点で、エリーゼ・フォン・グラウベルという人間の内側はほぼ筒抜けである。ならばせめて、最後まで自分の言葉で終わりたい。
「滑稽というより——みなさん、ものすごく一生懸命なんです。好きな相手に振り向いてほしくて、自分を大きく見せたくて、誰かに認められたくて。それが時々、少し滑稽な形で出てくる。でも根っこは、全員まったく同じだと思います」
しん、と会場が静まった。
ヴェルナー侯爵夫人がまだ赤い顔をしていた。ドレフュス子爵令息が目を伏せていた。マイヤー男爵令嬢が唇をきゅっと結んでいた。さっきまで笑っていた人々が、それぞれ少しだけ違う顔をしている。
エリーゼは小さく続けた。
「……私も含めて。壁際で毎年サンドイッチを食べながら、誰かに気づいてほしかった部分が、なくもないので。だから、みなさんのことを——」
そこで言葉が止まった。
続きは出てこなかった。三年分の観察記録の中に、まさか自分自身の話が混ざり込むとは思っていなかった。エリーゼは小さく咳払いをして、視線を殿下に戻した。
ルードヴィッヒ殿下が、今度は声を上げて笑った。
「正直だな」
「せっかく全部読まれてしまいましたので」
「第四巻を書いたら、まず俺に見せろ」
エリーゼは少し首を傾けた。
「……殿下もノートに書きますか」
「書かれる前に読む側に回りたい」
会場が、今夜一番の笑い声で揺れた。
エリーゼは高座の上で、そっと胸元を押さえた。ノートがない。当然だ。持っていかれたのだから。
——今夜の記録は、明日書こう。
書くことは、山ほどある。




