第二話「読まれています」
ランベルトが走り去った方向を、エリーゼはしばらく眺めていた。
何が起きたのか、頭の整理が追いつかない。
観察記録が、持っていかれた。第二王子殿下の側近に。「殿下が笑える読み物を探していた」という言葉とともに。
——待て。
エリーゼは額に手を当てた。笑える読み物。確かにあのノートは笑える。三年分の貴族観察が詰まっているのだから当然だ。ヴェルナー侯爵夫人の安定した子犬ぶり。ドレフュス子爵令息の化石のような口説き文句。マイヤー男爵令嬢の実らない三年越しの恋。どれも事実であり、どれも本人たちに見せるつもりは微塵もなかった。
あれは自分だけのものだ。
書いた本人しか読まない前提で書いた記録だ。忖度なし、遠慮なし、若干の愛着ありの、完全なる私的記録だ。
それが今、王族の手にある。
エリーゼは踵を返し、ランベルトが消えた方向へ歩き出した。取り返せるかもしれない。いや、取り返さなければ。足を速める。人混みをかき分ける。どこだ、あの無神経な子爵は——
そのとき、会場の空気が変わった。
ざわめきが、一点に収束していく。高座の方だ。
「——えー、本日は余興として、ある令嬢の記録を紹介しようと思う」
第二王子殿下の声が、会場に朗らかに響いた。
エリーゼの足が止まった。
「タイトルは『王宮貴族観察記録・第三巻』。なかなか堂々としたものだ。書き出しを読む。——『第三回・王宮大舞踏会。本日の観察記録、開始』」
くすくすと笑いが広がった。
エリーゼは自分の顔から血の気が引くのをはっきりと感じた。
「まず序文。——『観察を始めて三年が経過した。この社交界において人間観察ほど知的な娯楽はないと確信している。貴族とは、狭い箱庭に閉じ込められた生き物だ。外からは優雅に見えて、内側では必死である。その必死さが滑稽であり、愛らしい。記録する価値がある』」
「なかなか辛辣だな」と殿下が笑い混じりに言った。
「しかし否定できん」
会場がどっと沸いた。エリーゼは頭を抱えたかったが、それをやると場所が特定される気がしてやめた。
「では本題に入ろう。本日の注目観察対象、その一から順に読み上げる」
——その一から、読む気か。
「——『その一。クラインフェルト侯爵令息。今夜で四回連続、同じ令嬢に同じタイミングでワインを届けている。本人は気遣いのつもりと思われるが、令嬢側はすでに「またワインが来た」と仲間内で合言葉にしている。無自覚の律儀さとでも呼ぶべきか』」
クラインフェルト侯爵令息が固まった。隣の令嬢が盛大に目を逸らした。
「続けよう。——『その二。バルテルス公爵夫人とシュトラウス侯爵夫人方による領地自慢の応酬。今夜で通算十七回目の観察となる。毎回同じ構図、同じ決裂、同じ握手で終わる。様式美と呼んで差し支えない。三年間ぶれない安定感に敬意を覚える』」
公爵夫人と侯爵夫人が同時に「様式美とは何事!」と叫んだ。会場が笑いに包まれた。
「——『その三。本日初観察。ゼーリヒ男爵令息、二十二歳。開始三十分で給仕のワインを六杯消費。緊張型と分類する。次回以降の動向を追いたい』」
ゼーリヒ男爵令息が七杯目のワインを持ったまま青ざめた。
「——『その四。ヴェルナー侯爵夫人。令嬢方に対してはことさら高圧的なくせに、侯爵本人には子犬のように従順であることが確認された。夫人御自身は気づいていない様子。三年連続で同じ傾向につき、観察的安定株と認定する』」
会場がどっと沸いた。ヴェルナー侯爵夫人の顔が、見事なほど真っ赤に染まった。
「……っ! 誰がこんなものを!」
「続けよう。——『その五。ドレフュス子爵令息。毎回まったく同じ詩でダンスに誘うため、令嬢方の間ではすでに「またあの詩か」という合言葉が生まれている。本人はまだ気づいていない。令嬢方の隠れた笑いの種として三年間安定して機能しており、こちらも安定株と認定する』」
今度はくすくすと忍び笑いが広がった。令嬢方が口元を押さえて肩を震わせている。ドレフュス子爵令息は置物のように固まっていた。
「——『その六。マイヤー男爵令嬢。第一王子殿下に熱い視線を送り続けて三年が経過するが、殿下はいまだ気づいていない。熱量と無関心のこれほど見事な非対称は、観察者として思わず応援したくなる。がんばれ』」
「がんばれ、か」と殿下が声を上げて笑った。「書いた者はなかなか正直だな」
マイヤー男爵令嬢は半泣きで「応援しないでください!」と叫んだ。
エリーゼは会場の端で、気づけば一歩、また一歩と壁に背を押しつけていた。
逃げよう。今すぐ。できれば床を突き破って地下まで。
そのとき殿下の傍らで、ランベルトが何事か耳打ちした。殿下の視線が会場をゆっくり流れ——なぜか、壁際のエリーゼのところで止まった。
「グラウベル伯爵令嬢。エリーゼ・フォン・グラウベル嬢、いるか」
会場中の視線が、一斉にエリーゼへと注がれた。三年間、誰にも名前を呼ばれなかった女が、今夜初めてこの場の全員に認識された瞬間だった。
エリーゼは小さくため息をついた。観念した。




