第二十六話「観察者をやめてみました」
冬の終わりの夜会、エリーゼは初めてノートを持たずに会場に入った。
婚約の打診から二週間が経っていた。その間、エリーゼは毎日机に向かってノートを開いた。何も書けない日もあれば、書いては消す日もあった。父との会話を思い出した。お茶会での令嬢方の言葉を思い出した。シュタインフェルト令嬢の「ご本人だけがわかっていない」という言葉が、何度も頭の中で反響した。
夜会の前日の夜、エリーゼはノートを閉じた。明日はこれを持っていかない、と決めた。決めるまでに二時間かかった。三年間欠かさず持ってきた重みを置いていくのは、思った以上に難しかった。
胸元にいつもの重みがない。手元に書くものがない。誰かが何かをしても、記録できない。
壁際に立って、エリーゼは会場を見た。
——観察できない。
その代わり、いつもより景色がよく見えた。
ヴェルナー侯爵夫人が侯爵に何かを言っている。声量がいつもと違う。マイヤー令嬢が第一王子の前で頬を染めている。ドレフュス子爵令息が新しい詩を試している。令嬢たちが小さく笑っている。
全部が動いている。全部が、生きている。
観察するときは、これを切り取って記録していた。
今は——切り取らずに、見ていた。
「ノートを忘れたのか」
ルードヴィッヒが隣に立っていた。
「忘れたのではなく、置いてきました」
「珍しいな」
「観察者をやめてみました」
殿下は何も言わなかった。エリーゼの隣に立ったまま、同じ景色を見ていた。
会場の音がしばらく続いた。エリーゼは何度か言葉を出しかけて、止めた。何を言うべきかではなく、どこから言うべきかが定まらなかった。
「気づいたことがあります」とエリーゼは言った。
「何だ」
また少し止まった。
「観察は、逃げ場でもありました」
会場の音が遠くなった。
「壁際に立って記録していれば、自分は何もしなくていい。誰にも関わらなくていい。観察者は中立だから、どこにも所属しなくていい。それが楽でした」
殿下は黙って聞いていた。
「でも今夜、ノートを持たないで来てみたら——景色が違いました。記録しないと見えないと思っていたのに、記録しない方がよく見えるものもありました」
「それは」と殿下が言った。「観察者をやめたのか」
「いえ」とエリーゼは言った。「観察者でいながら、関わる側にもなれるかもしれない、と思いました」
エリーゼは初めて、夜会で殿下の方を真正面から見た。
「殿下」
「なんだ」
「お返事を、明日お伝えしてもよろしいですか」
殿下が、少しだけ目を見開いた。
いつもなら、その表情を観察対象として記録していた。口の左端が上がっているか、笑いをこらえているか、目が細くなっているか。今夜は記録しなかった。代わりに、その表情を真正面から受け止めた。
「……明日でも、来週でも、待っている」
「明日です」
エリーゼはそう言って、もう一度会場を見渡した。今夜の景色は、ノートには書かないことにした。書かなくても、覚えていられる気がした。




