第二十四話「観察できなくなりました」
その夜、エリーゼは机に向かってルードヴィッヒのことを書こうとした。
書けなかった。
ペンが進まない。何を書いても薄っぺらく感じる。「親切」「優しい」「面白い」——どれも当てはまるが、どれも足りない。
観察者として、これは初めての経験だった。
ヴェルナー侯爵夫人なら五十項目書ける。ドレフュス令息なら詩について三十行書ける。マイヤー令嬢の表情の変化も詳細に記録できる。ランベルトに至っては第二巻だけで十二ページある。
なのに殿下のことを書こうとすると、ペンが止まる。
エリーゼは数時間それを考えた。
最初は語彙の問題かと思った。観察記録に向いた言葉が足りないのかもしれない。試しに辞書を引いてみたが、どの言葉も殿下の項目には収まらなかった。
次に観察の不足を疑った。殿下と過ごす時間は十分にあったはずだ。共著のために週二度執務室で並んで座り、街にも降りた。データなら集まっている。それでも書けない。
最後に行き着いたのは、自分でも認めたくない仮説だった。
——観察対象として書こうとすると、書けない。観察対象ではないからだ。
その仮説をノートに書こうとして、また止まった。書いてしまうと、認めることになる気がした。三年間自分が築いてきた立ち位置を、自分の手で崩すことになる気がした。観察者は見る側にいる。見られる側に立つことを選んでこなかった。それを変えると認めることになる。
——殿下は、観察対象ではない。
ペンを置いて、エリーゼはしばらく窓の外を見た。
月が出ていた。三年前、自分にとって殿下は数百人いる貴族の一人だった。視線が合うこともなかった。二年前、観察対象の一人になった。ノートに名前が出てくる程度だった。一年前、第一観察対象になった。観察記録上の特別枠を作るほど、書くことが増えた。
今は——どこにも収まらなかった。
観察者にとって、どの項目にも入らない対象は初めてだった。それは観察者の敗北のようでもあり、観察者を超えた何かのようでもあった。




