第二十二話「打診されました」
市場から戻って一週間後、ルードヴィッヒが珍しく改まった顔で執務室にいた。
「エリーゼ」と名前で呼ばれた。
市場で歩いた日、いつの間にか「エリーゼ嬢」が「エリーゼ」になっていた。最初は気づかなかった。気づいたのは屋敷に戻ってから、その日の出来事を頭の中で振り返っているときだった。指摘するか迷って、指摘しなかった。指摘するのが正解なのかわからなかったからだ。それから一週間、殿下は一度も「エリーゼ嬢」に戻していない。
「はい」
「正式に話したいことがある」
エリーゼはペンを置いた。殿下の声に、いつもと違う重さがあった。
「婚約を考えてほしい」
部屋が静かになった。
窓の外で雪が降っていた。市場に降りた日からさらに冷え込み、王都はすっかり冬の装いに変わっている。エリーゼは雪を見たが、それを記録するペンに手は伸びなかった。
言葉が出てこなかった。
返事は何通りもあった。受けるか、断るか、考える時間をもらうか。しかしどれも、自分の口から出す前に止まった。観察者として三年間、何百件もの会話を記録してきた。婚約の打診も何度も見てきた。受ける側がどう答えるか、その台詞のパターンも知っている。なのに自分が当事者になった瞬間、どのパターンにも自分は当てはまらなかった。
「……即答はできません」
ようやくそれだけ言った。
「わかっている」
「考える時間をいただけますか」
「いくらでも」と殿下は言った。「ただし、答えは君が出すものだ。誰の意見でもなく」
「私の意見、ですか」
「俺は君と一緒にいたい。これは俺の答えだ。次は君の番だ」
エリーゼは少し下を向いた。「次は君の番だ」という言葉が、頭の中で何度か反響した。観察者は誰の番でもなかった。見る側に番が回ってくることはない。それが観察者という立場だった。
ようやく顔を上げて、ノートを見た。今この瞬間を記録するべきか、しないべきか、判断がつかなかった。
観察者として、これまでも数百件の婚約の場面を見てきた。誰かが誰かに頭を下げる場面、断られて泣く場面、受け入れて喜ぶ場面。全部記録した。
でも自分が当事者になる場面は、今までの記録のどこを引いても、参考にならなかった。
「……お返事は、後日お伝えします」
「待っている」と殿下は言った。
屋敷に戻ったエリーゼは、ノートを開いた。
ペンを持った。
書けなかった。
——本日の観察。記録不能。
たった一行だけ書いて、ノートを閉じた。




