第二十一話「街に降りました」
その翌週、殿下から思いもしない提案があった。
「街に降りないか」
「街、ですか」
「観察対象を増やしたい。貴族だけでなく、街の様子も入れた方が記録として広がる」
「お忍びということですか」
「平民の格好で行く」
「ランベルト子爵はご存知ですか」
「事後承認だ」と殿下はあっさり言った。「先に言うと止められる」
「止められる理由がある時点で、私もご一緒していいのか少し不安なのですが」
「行くと決まれば、後で怒られるのは俺だけだ」
「殿下が怒られる前提の外出に伯爵令嬢を巻き込むのは、観察者として記録すべき非常識だと思いますが」
「記録すればいい」
エリーゼは三秒考えた。観察対象としては確かに価値がある。普段の殿下が見せない側面が見られるかもしれない。
「……記録します」
数日後、エリーゼは地味な町娘の格好で王都の市場にいた。隣には商人の息子のような格好をしたルードヴィッヒがいる。普段の威厳が見事に消えている。
エリーゼ自身も、伯爵令嬢として生まれて二十年近く、街の市場を歩くのは初めてだった。馬車の窓から眺めたことはある。屋敷の使用人が買ってきた果物を食べたこともある。しかし自分の足で石畳を踏み、人混みの中を歩くのは、これが初めてだった。
「殿下、その格好、似合いますね」
「君もだ」
「私はもともと地味なので」
「地味とは思わない」と殿下は言った。「君はただ、目立たないようにしているだけだ」
エリーゼは少し止まった。
目立たないようにしているだけ。三年間、壁際にいた。サンドイッチを食べていた。観察者として目立たない方が都合が良いと思っていた。それが殿下には、選んでそうしているように見えていたらしい。事実そうなのだが、それを言葉にされたのは初めてだった。
観察として記録するなら「殿下、本日の発言:地味と目立たないの違いを区別している」と書くところだ。でもなぜか、それを書く気になれなかった。書いてしまうと、自分の三年間が「選んでそうしていた」と認めることになる気がした。
「……新鮮ですね」とエリーゼは話を変えた。「市場をこんなに近くで見るのは初めてです」
二人は屋台を見て回った。果物売りが声を張り上げている。子供が走り回っている。母親が値段交渉をしている。
「観察対象が多すぎますね」とエリーゼは言った。「貴族の夜会の十倍は情報量があります」
「ペンが追いつかないか」
「追いついていません」
殿下が小さく笑った。屋台で焼き菓子を二つ買って、片方をエリーゼに渡した。
「食べながら歩こう」
「観察しながらですか」
「観察以外のこともしていい」と殿下は言った。
エリーゼは焼き菓子を一口かじった。温かくて、思った以上に甘かった。
その夜、ノートを開いて何かを書こうとして、また手が止まった。
市場の声、子供の笑い声、焼き菓子の温度、隣を歩く殿下の歩幅。書くことはたくさんあった。しかしどれも、これまでの観察記録の項目には収まらなかった。観察対象として記録するには、近すぎるのだ。
今日の景色は、いつもの観察記録とは違う場所にあるような気がした。




