第十五話「添削することになりました」
共著の作業は、エリーゼが殿下の記録を添削するところから始まった。
王宮の小さな執務室に並んで座り、同じノートを覗き込む。距離が近い気がする。添削なので仕方ない、と思ったが、三秒後にまだ気になっていた。エリーゼはノートを開いた。
——本日の状況。添削のため並んで着席。距離:近い。対応策:慣れる。
「ヴェルナー侯爵夫人の項目、もう少し書いてみてください」
「怖い、以外に何を書けばいい」
「なぜ怖いと思ったのかを書いてください」
「……声が大きいから、か」と殿下は言いかけて、少し止まった。「いや、違うな」
「違いますか」
「声が大きいだけなら怖くない。あの夫人の前に立つと——値踏みされている気がする。それが怖いんだ」
エリーゼは少し止まった。値踏みされている気がする。三年間、ヴェルナー侯爵夫人を観察してきた。高圧的な態度、猫のような従順さ。全部記録してある。しかし「値踏みされている気がする」とは一度も書いたことがなかった。
ただ、思い当たることはあった。夫人の声量は令嬢方への時とヴェルナー侯爵への時で明らかに違う。値踏みしている相手とそうでない相手への声の使い分けだとすれば——殿下の観察と自分の記録が、初めて繋がった気がした。
「令嬢方への声量とヴェルナー侯爵への声量を比べたことはありますか」
「ない」
「次の夜会で比べてみてください。夫人が値踏みしている相手としていない相手で、声がまったく違います。殿下が値踏みされていると感じたなら、ヴェルナー侯爵への声を聞けば、その差がはっきりわかると思います」
殿下がノートに書き込んだ。エリーゼはその横でしばらく待った。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「殿下はなぜ観察記録を書こうと思ったのですか」
殿下は少し考えてから答えた。
「君のノートを読んだとき、不思議だと思った。同じ場所に同じ人間がいるのに、俺が見ているものと全然違うものが書いてある。君は夫人が令嬢方に高圧的だと書いた。俺が見ていたのは、夫人が高圧的になるときの顔だ。誰かに認められたいときの顔に似ている。それを書きたかったが、言葉にする方法がわからなかった」
「君はそれを知っている、と思った」と殿下は続けた。
エリーゼはしばらく黙った。
三年間、自分は何を見ていたのか。行動を見ていた。事実を記録していた。それが観察だと思っていた。殿下の言葉を聞いて、初めて自分の記録に抜けているものがあったと気がついた。
「……私も第四巻で書けなかったことがありました」とエリーゼは言った。
「何が書けなかった」
「殿下のことです」エリーゼはノートを見たまま続けた。「出現回数や笑った回数は書けました。でも——なぜ気になるのかが、うまく書けませんでした。それは行動ではなく、感情の話だったからかもしれません」
応接室が静かになった。
「観察していてわかったことがあります」とエリーゼは続けた。「殿下は人の感情を見ています。私は人の行動を見ています。だから同じものを見ても、記録が全然違う」
「それは」と殿下が言った。「どちらが正しいんだ」
「両方あった方が、記録として豊かになると思います」
殿下がゆっくり頷いた。
「——だから共著ですか」とエリーゼは言った。
「そうだ」と殿下は答えた。
それ以上の説明はなかった。でもエリーゼには、十分だった。
エリーゼは執務室を出てから、ノートを開いた。
——添削第一回。
結論:殿下は感情を観察している。私は行動を観察している。
補足:三年間の記録に、抜けているものがあったかもしれない。
さらに補足:殿下のことがなぜ気になるのかが書けなかった、と打ち明けた。殿下は何も言わなかった。それなのに、十分だと思った。
——行動は書ける。感情は、まだ書けない。これから覚えていく必要がある。記録しておく。




