第十一話「記録できないことがありました」
木の葉が色づき始めた頃、殿下に呼ばれた。
応接室ではなく、王宮の小さな庭だった。夕暮れどき、石造りのベンチに二人で座った。殿下の手元に、第一巻から第三巻が揃っている。
「読み終わった」と殿下が言った。
「いかがでしたか」
「興味深かった。三年分の貴族社会が詰まっている」殿下はしばらく黙ってから続けた。「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「この三冊、一度も君自身のことが書いていない」
エリーゼは少し止まった。
「……観察者が観察対象になるのはおかしいので」
「本当にそれだけか」
風が吹いた。庭の木が静かに揺れた。エリーゼは手元のノートを見た。開く気にはなれなかった。
「殿下は」とエリーゼは言った。「ご自分のことを記録したことはありますか」
「ない」
「では想像してみてください。自分に起きたことを、毎日書き留めるとして——何も起きていない日が続いたら、どう書きますか」
殿下は少し考えた。
「難しいな」
「そうです」とエリーゼは言った。「壁際にいると、書くことがなくなるんです。自分に起きることが何もないから。誰かが誰かに話しかける。誰かが誰かと笑う。それを記録することはできる。でも自分のことは——何も起きていないから、書けない」
殿下は黙って聞いていた。
「三年間、それが普通だと思っていました。観察者はそういうものだと。壁際から見ている方が、全部よく見える。だから——」
「だから?」
エリーゼは少し黙った。夕暮れの光が庭石を橙色に染めている。
「……少し、うらやましかったのかもしれません。記録される側が」
言ってしまってから、エリーゼは視線を手元に落とした。膝の上のノートの表紙を、指でなぞった。こんなことをノートに書いたことは一度もなかった。書けなかったのではなく、直視したくなかったのだと今更気がついた。書けない、と思っていた方が楽だったのだ。
「エリーゼ」と殿下が言った。
「はい」
「来年の第四巻には、君自身のことを書け」
「……書くことがあれば」
「作ればいい」と殿下は言った。「俺が」
エリーゼはしばらく殿下を見た。夕暮れの光の中で、灰色の目がまっすぐこちらを向いている。口の左端が上がっていない。笑いをこらえていない。いつもと違う顔だ。
ノートを開く気になれなかった。
初めて、記録より目の前のことを優先したかった。そしてそのことを、記録したいとは思わなかった。




