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「お前に使った十年を返せ」と言われたので、お返しした結果がこちらです  作者: 月雅
第1章

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9/20

第9話「帰る場所」

辺境に向かう馬車の中で、ミレーユは自分の心臓がうるさいことに気づいた。


街道の景色が、王都の石造りから木造の農村に変わり、やがて森と丘陵になっていく。


十日前にも通った道だった。


王都へ向かう時は、枢密院のことで頭がいっぱいだった。


今は違う。


馬車が辺境に近づくたびに、胸の奥が騒ぐ。


戻って来てくださいますか。


あの夜の声が、また蘇る。


馬車の揺れに合わせて、何度も。


ミレーユは窓の外に目を向けた。


初夏の風が、森の梢を揺らしている。


王都での用事は全て済んだ。


補償は認められ、名誉は回復された。


父は「そうか」とだけ言って、娘を送り出した。


もう、王都に自分を縛るものはない。


では、なぜ辺境に戻るのか。


孤児院の経営はまだ途上だ。子どもたちが待っている。それは事実。


けれど、本当にそれだけだろうか。


ミレーユは自分の手を見た。


膝の上で、指が落ち着きなく動いている。


十年間、こんなことはなかった。


どこに向かう時も、何をする時も、手は静かだった。


やるべきことをやる。それだけだった。


今は、やるべきことの先に、会いたい人がいる。


その認識が胸を叩いた瞬間、ミレーユは窓の外に顔を向けたまま、唇を引き結んだ。


ベルフォンテーヌの街が見えてきた。


低い城壁。気さくな門番。


馬車が辺境公爵領に入る。


孤児院の前を通り過ぎた時、子どもたちの声が聞こえた。


馬車が辺境公爵邸の門の前で止まった。


護衛騎士が扉を開ける。


ミレーユが馬車を降りた。


門の前に、セドリックが立っていた。


簡素な上着に、いつもの穏やかな佇まい。


風が栗色の髪を揺らしている。


ミレーユの心臓が、大きく鳴った。


セドリックが一歩、前に出かけた。


そして、止まった。


足が、途中で止まっていた。


ミレーユは自分から歩み寄った。


護衛騎士の前を通り過ぎ、門をくぐり、セドリックの前に立った。


深く、一礼した。


「ただいま戻りました、殿下」


声は穏やかだった。


自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。


セドリックの唇が開いた。


「──おかえりなさい」


声が震えていた。


小さく、けれどはっきりと。


ミレーユは顔を上げた。


セドリックの目が、潤んでいた。


泣いてはいない。けれど、ぎりぎりの目だった。


ミレーユの胸が、締まった。


この人は、待っていてくれたのだ。


門の前で、ずっと。


孤児院に向かうと、子どもたちが走って出てきた。


「おかあさん!」


「おかあさんおかえり!」


小さな手が、次々とミレーユに伸びる。


腕に、腰に、スカートに。


ミレーユは子どもたちの頭を撫でながら、答えた。


「ただいま」


その声が、十年間で一番穏やかだったことに、自分で気づいた。


王都の書斎で徹夜していた夜も、夜会で微笑みを保っていた時も、婚約破棄を告げられた広間でも、こんな声は出なかった。


ここが、自分の場所なのだ。


孤児院のためでも、セドリックのためでもなく。


自分がここにいたいから。


初めて、そう思えた。


翌朝。


辺境公爵邸の書斎で、ミレーユは一通の書簡を受け取った。


差出人は、王太子府。


封蝋にルヴェリア王家の紋章が押されている。


ミレーユは封を切った。


エドワールの筆跡だった。


力任せで、読みにくい字。十年間、何度も見た筆跡。


「ミレーユ。戻って来い。お前の能力が必要だ」


それだけだった。


宛名に敬称はなく、依頼の体裁すら整っていない。


命令だった。一方的な、いつもの口調。


ミレーユは書簡を机の上に置いた。


胸の奥で、古い習慣が囁いた。


応じるべきだ。要請があったのだから。


十年間、その声に従ってきた。


エドワールが求めれば、応じた。それが婚約者の務めだと思っていた。


ミレーユは息を吸い、吐いた。


もう終わったことだ。


ペンを取った。


便箋を一枚、引き出す。


迷いはなかった。


「殿下


殿下のお望み通り、十年分はお返しいたしました。 わたくしが殿下に差し上げるものは、もうございません。


ミレーユ・ブランシャール」


短い返信だった。


封をして、机の端に置いた。


手に、震えはなかった。


十年間の最後の糸が、静かに切れた。


ミレーユは椅子から立ち上がり、窓の外を見た。


孤児院の方角から、子どもたちの声が聞こえる。


もう振り返らない。


返信を出した後、孤児院の庭に出た。


子どもたちが駆け寄ってくる。


「おかあさん、あのね、菜園のかぶがこんなに大きくなったの!」


「まあ、本当。立派に育ちましたね」


ミレーユが微笑むと、子どもたちが嬉しそうに笑った。


少し離れた場所で、セドリックが庭を見ていた。


ミレーユが来たことに気づいて、穏やかに微笑んだ。


ミレーユはその笑顔を見た。


胸の奥が、温かかった。


ここにいる。


この場所で、この人たちと。


それが、自分の選んだ答えだった。


その夜。


ミレーユは辺境公爵邸の書斎で、一人だった。


帳簿を閉じ、ペンを置いた。


窓の外に、辺境の夜空が広がっている。


星が見えた。王都に戻っている間、見られなかった空。


ミレーユは頬杖をついた。


セドリックの横顔が浮かんだ。


門の前で待っていた姿。震えた声。潤んだ目。


庭で子どもたちを見ていた穏やかな笑顔。


指先が、無意識に唇に触れた。


ミレーユはその手の動きに気づいて、止めた。


「……これは」


呟きが、静かな書斎に落ちた。


胸の奥にある名前のない感覚。


ずっと、名前をつけずにいた。


業務上の信頼だと思った。依頼主への敬意だと処理した。


けれど、信頼や敬意では説明のつかないものが、ここにある。


馬車の中で心臓が騒いだこと。門の前で一歩目を自分から踏み出したこと。震えた声を聞いた時に胸が締まったこと。


ミレーユは目を閉じた。


名前をつけかけて、やめた。


まだ、もう少しだけ。


この感覚を、このまま抱えていたかった。


翌朝。


朝食の席で、セドリックがミレーユに声をかけた。


「ブランシャール嬢。少し、二人で話したいことがあります」


穏やかな声だった。いつもと変わらない。


けれど、目が少しだけ真剣だった。


ミレーユの心臓が、大きく鳴った。


「……はい、殿下」


声は平坦に保った。


保てたと、思った。


王都。王太子府。


エドワールの机の上に、ミレーユからの返信が届いた。


封を切る。


短い文面を読み、エドワールの手が止まった。


わたくしが殿下に差し上げるものは、もうございません。


エドワールは書簡を握りしめた。


紙が皺になり、インクが掌に移った。


その時、執務室の扉が叩かれた。


リゼットが入ってきた。


いつもの明るい表情ではなかった。


「殿下、わたし、少し実家に帰ります」


エドワールの手が、止まった。


「なぜだ」


声が硬かった。


リゼットは微笑もうとした。うまくいかなかった。


「少し、考えたいことがあるのです」


「何を考えるんだ。ここにいればいい」


リゼットは答えなかった。


ただ深く頭を下げて、部屋を出ていった。


エドワールは握りつぶした書簡を見下ろした。


ミレーユの筆跡。丁寧で、簡潔で、一字の乱れもない字。


十年間、自分の名前の下に隠れていた字だった。


執務室に、誰もいなくなった。

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― 新着の感想 ―
前話で「婚約者としての義務」 今回は「お前の能力が必要だ」 この人は兄弟がいなくて、必ず王になれるのかな?パワハラはともかく、国が大変かも、、、
おっ。泥舟から飛び降りた!女の子は度胸、ですね!
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