第8話「王都の審判」
ミレーユは旅支度を整え、孤児院の門を振り返った。
子どもたちが並んでいた。
最年少の男の子が、目を赤くしている。
「おかあさん、いっちゃうの?」
ミレーユは膝を折り、男の子の目の高さに合わせた。
「少しの間だけ。王都でやることがあるの」
「ぜったい帰ってくる?」
「ええ。約束します」
男の子がミレーユの首にしがみついた。
小さな腕の力。温かい体温。
ミレーユはその背中をそっと撫でて、静かに離した。
最年長の少女が、一歩前に出た。
「お気をつけて、ミレーユさま」
しっかりした声だった。けれど、唇が少し震えていた。
ミレーユは頷いた。
「留守の間、よろしくお願いしますね」
少女が背筋を伸ばして頷き返した。
前夜のことだった。
辺境公爵邸の玄関先に、セドリックが立っていた。
ミレーユが旅支度の最終確認を終えて廊下に出ると、玄関の灯りの下にその姿があった。
夜の風が、栗色の髪を揺らしている。
セドリックはミレーユに気づくと、軽く頭を下げた。
「明朝は早いと聞きましたので。お見送りだけでも、と」
穏やかな声だった。いつもと変わらない。
けれど、その目がミレーユを見つめる時間が、いつもより長かった。
「殿下、お身体に障ります。夜風は冷えますので」
「大丈夫です。今日は調子がいいので」
以前も聞いた言葉だった。
あの時は耳を赤くしていた。今は、赤くない。
代わりに、声がわずかに低かった。
沈黙が落ちた。
虫の音が、暗い庭に響いている。
セドリックが口を開いた。
「王都のことが済んだら……戻って来てくださいますか」
声が小さかった。
最後の方は、ほとんど聞こえないほどに。
ミレーユは聞こえていた。
一語も漏らさず、聞こえていた。
けれど。
「え?」
と、聞き返していた。
なぜ聞き返したのか、自分でもわからなかった。
セドリックが首を振った。
「いえ、なんでもありません。どうかお気をつけて」
そう言って、小さく微笑んだ。
ミレーユは「ありがとうございます、殿下」と頭を下げた。
声は平坦に保った。
玄関を離れ、部屋に戻り、扉を閉めた。
背中を扉に預けた。
心臓が鳴っていた。
戻って来てくださいますか。
その声が、頭の中で繰り返されていた。
聞こえていたのに、聞き返した。
もう一度聞きたかったのだと、気づくのが怖かった。
馬車が王都に着いたのは、十日後の朝だった。
護衛騎士二人が付き従い、ブランシャール公爵邸の門をくぐる。
玄関広間に、父が立っていた。
ギヨームの顔には疲労があったが、目は鋭かった。
「戻ったか」
「はい、お父様」
ミレーユは一礼した。
ギヨームは娘の顔をしばらく見つめた。
辺境に発つ前とは、何かが違っていた。
目の奥の光が、少し柔らかくなっている。
「枢密院の審議は明日だ。資料は私が揃えてある。お前は事実を述べればいい」
「承知しました」
「……あの辺境公爵は、信用できるのか」
ミレーユの足が止まった。
父の問いは、政治的な意味だけではなかった。
「信頼できる方です」
声は静かだった。
ギヨームは何も言わず、頷いた。
枢密院の議場。
重厚な円卓。高い天井。窓から差す光が、石の床を照らしている。
ミレーユは議場の中央に立っていた。
円卓の席には枢密顧問官たちが並んでいる。
その一角に、エドワールがいた。
婚約破棄以来、初めて同じ部屋にいた。
エドワールの顔色は悪かった。
目の下に隈があり、頬がこけている。
ミレーユと目が合った瞬間、エドワールの肩が強張った。
ミレーユは視線を逸らさなかった。逸らす必要もなかった。
怒りはない。未練もない。
ただ、事実を述べに来た。それだけだった。
老齢の枢密顧問官が口を開いた。
「ブランシャール嬢。本日は補償請求の審議に関連し、婚約期間中の業務実態について確認させていただきます」
ミレーユは深く一礼した。
「よろしくお願いいたします」
顧問官が書類に目を落とした。
「まず、王太子名義で送付された外交書簡の起草について」
ミレーユは懐から、書簡の控えの束を取り出した。
十年分の業務目録。自分の手元に残した、唯一の記録。
それを円卓の上に置いた。
「こちらが控えの一部です。過去十年間に起草した外交書簡の下書き、社交人脈の管理台帳の写し、物資供給契約の仲介記録。全て揃えてございます」
議場が静まった。
束の厚さに、顧問官たちの目が動いた。
ミレーユは淡々と説明した。
声は事務的だった。感情を乗せなかった。
外交書簡は何通あり、どの国に、どのような内容で送られていたか。社交の人脈はどのように維持され、誰と誰の関係をどう仲介していたか。物資供給の契約は何件で、どの商会が関わり、どのような条件で結ばれていたか。
全てが、数字と事実で語られた。
「わたくしは殿下のお望み通り、十年分をお返ししただけです」
その一言を、最後に添えた。
エドワールが椅子の肘掛けを握りしめていた。
指が白くなるほど、強く。
「それは──婚約者としての義務だろう」
声が裏返っていた。
議場の空気が変わった。
顧問官たちの視線が、エドワールに向いた。
同情ではなかった。
ミレーユは答えなかった。答える必要がなかった。
円卓の上の書類の束が、全てを語っていた。
枢密顧問官が書類を閉じた。
「本院は、ブランシャール家への補償を全面的に認める裁定を下します」
一拍の間。
「加えて、ブランシャール令嬢の実務能力について、本院として異例の付帯決議を行います。過去十年間の業務が王太子府の運営に不可欠であったことを、公式に認定いたします」
議場にどよめきが起きた。
異例だった。補償の認定だけでなく、能力の公式評価。
ミレーユは静かに一礼した。
顔に何の変化も見せなかった。
エドワールは椅子から立ち上がれなかった。
周囲の顧問官たちが席を立ち、互いに言葉を交わしている。
その誰一人として、エドワールに声をかけなかった。
リゼットが傍聴席にいた。
目に涙が光っていた。
「殿下、あの方が作っていた書簡を、わたしは一通も書けません。社交のお手伝いもかえってご迷惑をおかけしました」
声が震えていた。
エドワールはリゼットを見た。
その目に、いつもの怒りはなかった。
代わりにあったのは、空洞だった。
俺は、何を捨てたんだ。
その言葉が、喉の奥で止まった。声にはならなかった。
ミレーユは議場を出た。
廊下を歩きながら、エドワールの顔は思い出さなかった。
代わりに浮かんだのは、辺境の夜空だった。
門の前に立つ、栗色の髪の人の姿だった。
戻って来てくださいますか。
あの声が、また胸の中で響いた。
ブランシャール公爵邸の書斎。
ミレーユは父の前に座っていた。
「王都での手続きは全て済みました。辺境に戻ります」
ギヨームはペンを置いた。
娘を見つめた。
「……そうか」
長い沈黙があった。
「お父様。わたくしは大丈夫です」
「わかっている」
ギヨームの声は低く、短かった。
けれど、その目が少しだけ細くなった。
娘の顔に浮かんでいる穏やかさを、見ていた。
枢密院の審議結果は、その日のうちに社交界に広まった。
ミレーユの実務能力の公式認定。
補償の全面的な承認。
社交界の評価が、急速に反転した。
ある伯爵夫人が、茶会の席で声を潜めた。
「ブランシャール令嬢に、改めてご挨拶をと思ったのだけれど」
隣の侯爵夫人が首を振った。
「あの方はもう辺境だそうよ。社交界にお戻りになるおつもりはないらしいわ」
「まあ……」
「今さら詫びを入れようにも、届く先がないのよ」
二人は茶を飲み、黙った。
かつてミレーユを「落ち度があった令嬢」と囁いた者たちが、今度は自分たちの態度の落ち度に気づき始めていた。
けれど、詫びる相手は、もうここにはいなかった。
王太子府の執務室。
エドワールは一人、机に向かっていた。
外交行事の出席予定者リストが、目の前にある。
ほぼ白紙だった。
側近が恐る恐る報告した。
「殿下、来月の外交行事の出席確認ですが……現時点で回答のあった貴族は三名のみです」
エドワールは答えなかった。
側近が退室した後、エドワールはリゼットの方を見た。
「お前はどこにも行かないな」
リゼットは口を開きかけた。
言葉が出なかった。
沈黙が、一拍。二拍。
「……はい」
リゼットの声は小さかった。
その一瞬の間を、エドワールは見逃さなかった。
不安が、目の奥に走った。
リゼットは微笑もうとした。けれど、うまくいかなかった。
窓の外で、王都の鐘が鳴った。
その音が、二人の間に落ちた。




