表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お前に使った十年を返せ」と言われたので、お返しした結果がこちらです  作者: 月雅
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/20

第8話「王都の審判」

ミレーユは旅支度を整え、孤児院の門を振り返った。


子どもたちが並んでいた。


最年少の男の子が、目を赤くしている。


「おかあさん、いっちゃうの?」


ミレーユは膝を折り、男の子の目の高さに合わせた。


「少しの間だけ。王都でやることがあるの」


「ぜったい帰ってくる?」


「ええ。約束します」


男の子がミレーユの首にしがみついた。


小さな腕の力。温かい体温。


ミレーユはその背中をそっと撫でて、静かに離した。


最年長の少女が、一歩前に出た。


「お気をつけて、ミレーユさま」


しっかりした声だった。けれど、唇が少し震えていた。


ミレーユは頷いた。


「留守の間、よろしくお願いしますね」


少女が背筋を伸ばして頷き返した。


前夜のことだった。


辺境公爵邸の玄関先に、セドリックが立っていた。


ミレーユが旅支度の最終確認を終えて廊下に出ると、玄関の灯りの下にその姿があった。


夜の風が、栗色の髪を揺らしている。


セドリックはミレーユに気づくと、軽く頭を下げた。


「明朝は早いと聞きましたので。お見送りだけでも、と」


穏やかな声だった。いつもと変わらない。


けれど、その目がミレーユを見つめる時間が、いつもより長かった。


「殿下、お身体に障ります。夜風は冷えますので」


「大丈夫です。今日は調子がいいので」


以前も聞いた言葉だった。


あの時は耳を赤くしていた。今は、赤くない。


代わりに、声がわずかに低かった。


沈黙が落ちた。


虫の音が、暗い庭に響いている。


セドリックが口を開いた。


「王都のことが済んだら……戻って来てくださいますか」


声が小さかった。


最後の方は、ほとんど聞こえないほどに。


ミレーユは聞こえていた。


一語も漏らさず、聞こえていた。


けれど。


「え?」


と、聞き返していた。


なぜ聞き返したのか、自分でもわからなかった。


セドリックが首を振った。


「いえ、なんでもありません。どうかお気をつけて」


そう言って、小さく微笑んだ。


ミレーユは「ありがとうございます、殿下」と頭を下げた。


声は平坦に保った。


玄関を離れ、部屋に戻り、扉を閉めた。


背中を扉に預けた。


心臓が鳴っていた。


戻って来てくださいますか。


その声が、頭の中で繰り返されていた。


聞こえていたのに、聞き返した。


もう一度聞きたかったのだと、気づくのが怖かった。


馬車が王都に着いたのは、十日後の朝だった。


護衛騎士二人が付き従い、ブランシャール公爵邸の門をくぐる。


玄関広間に、父が立っていた。


ギヨームの顔には疲労があったが、目は鋭かった。


「戻ったか」


「はい、お父様」


ミレーユは一礼した。


ギヨームは娘の顔をしばらく見つめた。


辺境に発つ前とは、何かが違っていた。


目の奥の光が、少し柔らかくなっている。


「枢密院の審議は明日だ。資料は私が揃えてある。お前は事実を述べればいい」


「承知しました」


「……あの辺境公爵は、信用できるのか」


ミレーユの足が止まった。


父の問いは、政治的な意味だけではなかった。


「信頼できる方です」


声は静かだった。


ギヨームは何も言わず、頷いた。


枢密院の議場。


重厚な円卓。高い天井。窓から差す光が、石の床を照らしている。


ミレーユは議場の中央に立っていた。


円卓の席には枢密顧問官たちが並んでいる。


その一角に、エドワールがいた。


婚約破棄以来、初めて同じ部屋にいた。


エドワールの顔色は悪かった。


目の下に隈があり、頬がこけている。


ミレーユと目が合った瞬間、エドワールの肩が強張った。


ミレーユは視線を逸らさなかった。逸らす必要もなかった。


怒りはない。未練もない。


ただ、事実を述べに来た。それだけだった。


老齢の枢密顧問官が口を開いた。


「ブランシャール嬢。本日は補償請求の審議に関連し、婚約期間中の業務実態について確認させていただきます」


ミレーユは深く一礼した。


「よろしくお願いいたします」


顧問官が書類に目を落とした。


「まず、王太子名義で送付された外交書簡の起草について」


ミレーユは懐から、書簡の控えの束を取り出した。


十年分の業務目録。自分の手元に残した、唯一の記録。


それを円卓の上に置いた。


「こちらが控えの一部です。過去十年間に起草した外交書簡の下書き、社交人脈の管理台帳の写し、物資供給契約の仲介記録。全て揃えてございます」


議場が静まった。


束の厚さに、顧問官たちの目が動いた。


ミレーユは淡々と説明した。


声は事務的だった。感情を乗せなかった。


外交書簡は何通あり、どの国に、どのような内容で送られていたか。社交の人脈はどのように維持され、誰と誰の関係をどう仲介していたか。物資供給の契約は何件で、どの商会が関わり、どのような条件で結ばれていたか。


全てが、数字と事実で語られた。


「わたくしは殿下のお望み通り、十年分をお返ししただけです」


その一言を、最後に添えた。


エドワールが椅子の肘掛けを握りしめていた。


指が白くなるほど、強く。


「それは──婚約者としての義務だろう」


声が裏返っていた。


議場の空気が変わった。


顧問官たちの視線が、エドワールに向いた。


同情ではなかった。


ミレーユは答えなかった。答える必要がなかった。


円卓の上の書類の束が、全てを語っていた。


枢密顧問官が書類を閉じた。


「本院は、ブランシャール家への補償を全面的に認める裁定を下します」


一拍の間。


「加えて、ブランシャール令嬢の実務能力について、本院として異例の付帯決議を行います。過去十年間の業務が王太子府の運営に不可欠であったことを、公式に認定いたします」


議場にどよめきが起きた。


異例だった。補償の認定だけでなく、能力の公式評価。


ミレーユは静かに一礼した。


顔に何の変化も見せなかった。


エドワールは椅子から立ち上がれなかった。


周囲の顧問官たちが席を立ち、互いに言葉を交わしている。


その誰一人として、エドワールに声をかけなかった。


リゼットが傍聴席にいた。


目に涙が光っていた。


「殿下、あの方が作っていた書簡を、わたしは一通も書けません。社交のお手伝いもかえってご迷惑をおかけしました」


声が震えていた。


エドワールはリゼットを見た。


その目に、いつもの怒りはなかった。


代わりにあったのは、空洞だった。


俺は、何を捨てたんだ。


その言葉が、喉の奥で止まった。声にはならなかった。


ミレーユは議場を出た。


廊下を歩きながら、エドワールの顔は思い出さなかった。


代わりに浮かんだのは、辺境の夜空だった。


門の前に立つ、栗色の髪の人の姿だった。


戻って来てくださいますか。


あの声が、また胸の中で響いた。


ブランシャール公爵邸の書斎。


ミレーユは父の前に座っていた。


「王都での手続きは全て済みました。辺境に戻ります」


ギヨームはペンを置いた。


娘を見つめた。


「……そうか」


長い沈黙があった。


「お父様。わたくしは大丈夫です」


「わかっている」


ギヨームの声は低く、短かった。


けれど、その目が少しだけ細くなった。


娘の顔に浮かんでいる穏やかさを、見ていた。


枢密院の審議結果は、その日のうちに社交界に広まった。


ミレーユの実務能力の公式認定。


補償の全面的な承認。


社交界の評価が、急速に反転した。


ある伯爵夫人が、茶会の席で声を潜めた。


「ブランシャール令嬢に、改めてご挨拶をと思ったのだけれど」


隣の侯爵夫人が首を振った。


「あの方はもう辺境だそうよ。社交界にお戻りになるおつもりはないらしいわ」


「まあ……」


「今さら詫びを入れようにも、届く先がないのよ」


二人は茶を飲み、黙った。


かつてミレーユを「落ち度があった令嬢」と囁いた者たちが、今度は自分たちの態度の落ち度に気づき始めていた。


けれど、詫びる相手は、もうここにはいなかった。


王太子府の執務室。


エドワールは一人、机に向かっていた。


外交行事の出席予定者リストが、目の前にある。


ほぼ白紙だった。


側近が恐る恐る報告した。


「殿下、来月の外交行事の出席確認ですが……現時点で回答のあった貴族は三名のみです」


エドワールは答えなかった。


側近が退室した後、エドワールはリゼットの方を見た。


「お前はどこにも行かないな」


リゼットは口を開きかけた。


言葉が出なかった。


沈黙が、一拍。二拍。


「……はい」


リゼットの声は小さかった。


その一瞬の間を、エドワールは見逃さなかった。


不安が、目の奥に走った。


リゼットは微笑もうとした。けれど、うまくいかなかった。


窓の外で、王都の鐘が鳴った。


その音が、二人の間に落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「わたくしに泥舟に一緒に乗れとおっしゃるの?」って感じでしょうかねー? 一蓮托生。頑張ってー。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ