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「お前に使った十年を返せ」と言われたので、お返しした結果がこちらです  作者: 月雅
第1章

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第7話「お母さんの重さ」

「ミレーユさま、おかあさんって呼んでいい?」


朝食の片づけをしていた手が、止まった。


声の主は、最年少の男の子だった。


五歳の、小さな手でミレーユのエプロンの裾を掴んでいる。


まっすぐな目で、ミレーユを見上げていた。


台所が静かになった。


食器を洗っていた世話役の女性の手も止まっている。


他の子どもたちが、こちらを見ていた。


ミレーユの胸の奥で、何かが大きく揺れた。


呼吸がうまくできなかった。


目の奥が、熱くなった。


お母さん。


五歳の時に失った言葉だった。


母の手が冷たくなっていくのを握りながら、泣かなかった夜。


あの日から、誰にもその名前で呼ばれたことはなかった。


「……どうして?」


声がかすれた。


男の子は首を傾げた。


「だって、ごはん作ってくれるし、いっしょにいてくれるし。おかあさんみたいだから」


隣にいた女の子が、小さく頷いた。


「わたしも呼びたい」


「おれも」


子どもたちの声が、一つずつ重なった。


ミレーユの視界が滲んだ。


泣きそうになっている。


十年間、一度もなかったことだった。


誰かに必要とされても、感謝されることはなかった。


名前で呼ばれることすら、少なかった。


婚約者としての義務。当然のこと。そう処理されてきた十年間。


ここでは違う。


名前で呼ばれ、役割で求められ、そしてこの名前で──。


ミレーユは唇を引き結んだ。


微笑みの形を保とうとした。


けれど、頬の筋肉がいうことを聞かなかった。


目の縁に、熱いものが溜まっていく。


落ちてはいけない。


泣かない。泣いても仕方がない。


五歳のあの夜から、ずっとそうしてきた。


ミレーユは膝を折り、男の子の目の高さに合わせた。


「……ええ。いいですよ」


声が震えた。


隠しきれなかった。


男の子が笑った。


「やった! おかあさん!」


子どもたちが駆け寄ってきた。


小さな手が、ミレーユの腕に、肩に、背中に触れる。


温かかった。


ミレーユは子どもたちの頭を撫でながら、唇を噛んだ。


涙は、まだ落ちていない。


けれど、堪えている顔になっていることは、自分でもわかっていた。


台所の入口に、足音がした。


セドリックが立っていた。


いつからいたのだろう。


彼の目が、ミレーユの顔に向けられていた。


涙を堪えるミレーユの表情を、見つめていた。


セドリックは何も言わなかった。


ただ、上着の内ポケットからハンカチを取り出し、無言でミレーユの前に差し出した。


白い、簡素なハンカチだった。


ミレーユはそれを見つめた。


それから、受け取った。


指先が、セドリックの手に触れた。


温かかった。


ミレーユは手を引かなかった。


これまでは引いていた。


馬車の中で背中に手を伸ばしかけて止めた時も、茶碗を受け取る時に指が触れた時も、自分の中にある距離を保とうとしていた。


今は、引かなかった。


自分でも理由がわからなかった。


ただ、この手の温度を離したくないと、どこかで思った。


セドリックの心臓が跳ねた。


指先から伝わる微かな脈拍の変化を、ミレーユは気づいていない。


「……ありがとうございます、殿下」


ミレーユはハンカチで目元を押さえた。


涙は、こぼれなかった。


けれど、そのぎりぎりの顔を見て、セドリックの胸の中で何かが決壊した。


この人を守りたい。


傍にいてほしい。


その感情に、セドリックは初めて名前をつけた。


顔には出さなかった。


ただ、少しだけ拳を握った。


午後。孤児院の庭。


ミレーユとセドリックは、庭の隅のベンチに並んで座っていた。


子どもたちが庭を走り回っている。


ミレーユが計画書の次の段階について話し、セドリックが頷きながら聞く。


寄付金の枠組みについて、辺境の商家にどう打診するか。子どもたちが将来を考える時のために、何を準備できるか。


二人で話す時間が、日を追うごとに長くなっていた。


孤児院の経営のことから始まり、辺境の気候のこと、子どもたちの成長のこと。


話題が尽きることがなかった。


「殿下。孤児院が本当に安定するまでには、まだ時間がかかります」


「はい。わかっています」


セドリックは穏やかに答えた。


その目がミレーユを見ていた。


「ブランシャール嬢。孤児院が本当に助かっています」


感謝の言葉だった。


業務への、正当な感謝。


けれどセドリックが本当に言いたかった言葉は、その奥にあった。


ここにいてほしい。


言えなかった。


代わりに、視線を庭に戻した。


ミレーユはセドリックの横顔を見た。


風が栗色の髪を揺らしている。


血の気の薄い肌。穏やかな目元。


この人の隣にいる時間が心地よいことに、ミレーユは気づいていた。


けれど、その感覚に名前をつけることは、まだしなかった。


胸の奥に、名前のない何かがあることだけを、認めていた。


夕方。辺境公爵邸の書斎。


ミレーユの机の上に、父からの手紙が届いていた。


封を切る。


ギヨームの筆跡は、いつも通り簡潔だった。


本文は補償交渉の経過報告。枢密院での審議が進んでいること。外交書簡の件が引き続き議題に上がっていること。


そして、最後に一行だけ。


「いつ戻るのか」


ミレーユは便箋を膝の上に置いた。


父の一行が、胸に重かった。


心配しているのだ。


娘を辺境に送り出してから、手紙を欠かさず寄こせと言った父。


公爵令嬢が辺境の孤児院に留まり続けることの意味を、父は考えているだろう。


政治的な意味。社会的な意味。そして、王族との距離という意味。


ミレーユは窓の外を見た。


夕暮れの辺境。空が赤く染まっている。


子どもたちの声が、遠くから聞こえる。


ここにいたい、と思った。


けれど、ここにいていいのかという問いには、まだ答えが出なかった。


辺境公爵邸に、もう一通の手紙が届いた。


セドリック宛。差出人は、王都の信頼できる知人だった。


手紙の内容は短かった。


枢密院の審議結果が出た、と。


ブランシャール家への補償は、王太子府の予算から拠出するよう裁定が下された。


国庫からではなく、王太子府の予算から。


それが意味するところを、セドリックは理解していた。


エドワールの政治的な立場が、さらに狭まった。


セドリックは手紙を折り畳み、机の引き出しにしまった。


弟のことを案じる気持ちが、ないわけではなかった。


だが、自分が介入すべき立場にはない。


それは、継承権を手放した日に決めたことだった。


セドリックは窓の外を見た。


暗くなり始めた庭を、ランプの灯りがぼんやりと照らしている。


ギヨームの手紙のことを、ミレーユから聞いていた。


「いつ戻るのか」と。


ミレーユがここにいてくれる時間には、限りがあるのかもしれない。


セドリックは、自分の手を見た。


朝、ハンカチを渡した時に触れた指先の感触が、まだ残っていた。


翌朝。


ミレーユの机に、ギヨームからの二通目の手紙が届いた。


前の手紙から、数日しか経っていない。


封を切ると、文面はさらに短かった。


「枢密院の審議結果が出た。一度王都に戻れ」


ミレーユは便箋を握ったまま、窓の外を見た。


孤児院の方角。


子どもたちの声が、朝の空気に溶けている。


戻らなければならない。


辺境を、離れなければならない。


王都。枢密院の廊下。


エドワールが審議の間から出てきた時、廊下に数人の貴族がいた。


かつてエドワールの茶会に欠かさず顔を出していた者たちだった。


エドワールが歩を進める。


貴族の一人が、目を逸らした。


軽く会釈はした。だが、足を止めなかった。


以前なら、駆け寄って言葉をかけていた者だった。


エドワールは立ち止まらなかった。


歩き続けた。


廊下の先に、誰も待っていなかった。

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― 新着の感想 ―
お母さんと呼ばせてもいいか。いや、それはダメでしょう。お母さんじゃないんだから。後々になって、もっと悲惨な傷になる。 フォスターケアで家族まがいの立場に立っても、絶対それは間違えちゃいけない言葉ですよ…
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