第6話「手紙と星空」
リゼット・ノワールがミレーユに手紙を書いたのは、これが初めてだった。
辺境公爵邸の朝。
ミレーユの部屋に届けられた書簡は、見覚えのない封蝋だった。
ノワール公爵家の紋章。
ミレーユは封を切り、便箋を広げた。
筆跡は丸みがあり、所々でインクが溜まっている。書き慣れていない人の字だった。
「ミレーユさまへ
突然のお手紙をお許しください。 このようなことをお伝えする資格が、わたしにあるのかもわかりません。
殿下が最近、お辛そうです。 枢密院のことがあってから、お顔を拝見するのが怖いほどです。
わたしは社交のお手伝いをしようとして、かえってご迷惑をおかけしてしまいました。 爵位の表記を間違えて、外交上の問題にまでなってしまったのです。
わたしに何ができるのか、分からないのです。
ミレーユさまが十年間なさっていたことを、わたしは何一つできません。
本当に、申し訳ございません。
リゼット・ノワール」
ミレーユは便箋を膝の上に置いた。
悪意のない手紙だった。
計算もない。駆け引きもない。
ただ困っている人間が、藁をも掴む気持ちで書いた手紙だった。
ミレーユは窓の外に目を向けた。
辺境の空は高く、雲が薄く流れている。
胸の奥で、何かが僅かに揺れた。
怒りではない。未練でもない。
十年間、何を見ていたのだろう。
エドワールは、自分が何に支えられていたのか、最後まで気づかなかった。
気づこうとしなかった。
その虚しさが、また一段、深いところに沈んでいった。
リゼットが悪いのではない。
それは、社交の書簡を読んだ時からわかっていた。
あの夜会の壇上で、困惑した顔でエドワールの袖を掴んでいた令嬢。連れて来られただけの人。
ミレーユはペンを取った。
便箋を一枚引き出し、書き始める。
迷いはなかった。
「リゼット嬢へ
お手紙、拝読いたしました。
殿下をお支えしたいとお考えであれば、まず殿下の業務内容を把握なさってください。 外交書簡はどの国に、どのような頻度で送られているか。 物資供給の契約は何件あり、どの商会が関わっているか。 社交の人脈は誰と誰がどのような関係にあるか。
ご自身にできることと、できないことを分けることが、最初の一歩です。
ミレーユ・ブランシャール」
短い手紙だった。
感情的な言葉は一つもない。
慰めも、叱責も書かなかった。
冷たいと思われるかもしれない。
けれど、これがミレーユにできる最大限の誠意だった。
十年間の経験から言えることは、一つだけ。
状況を嘆く前に、状況を把握すること。
それ以上のことは、もうミレーユの役割ではない。
封をして、机の端に置いた。
明朝、使用人に託せばいい。
ミレーユは椅子から立ち上がり、書斎を出た。
孤児院の台所は、夕方の光に包まれていた。
ミレーユは袖をまくり、鍋の前に立った。
今日の夕食は、農家から届いたばかりのかぶと、じゃがいものスープ。
子どもたちが台所を覗き込んでいる。
「おねえさん、今日はなに?」
「かぶのスープですよ。もう少し待ってね」
最年少の男の子が、ミレーユの足元にちょこんと座った。
鍋から立ち上る湯気を、目を丸くして見ている。
ミレーユはスープを器によそい、子どもたちに一つずつ渡していった。
「はい、熱いから気をつけて」
「ありがとう、おねえさん!」
子どもたちが食卓に並ぶ。
にぎやかな声が、石造りの壁に跳ね返る。
ミレーユが最後の器を置いた時、入口に人影があった。
セドリックが、扉の枠に肩を預けて立っていた。
子どもたちの食事を配るミレーユの姿を、どれくらい見ていたのだろう。
ミレーユは振り返って、小さく頭を下げた。
「殿下もどうぞ。スープが余っています」
セドリックは一瞬迷い、それから子どもたちの隣の椅子に座った。
小さな木の椅子は、大人には窮屈だった。
膝が食卓の縁にぶつかる。
子どもの一人が、セドリックとミレーユを交互に見て、首を傾げた。
「ねえ、セドリックさまとミレーユさまは夫婦なの?」
セドリックが咳き込んだ。
激しく、ではない。だが明らかに動揺が喉に引っかかった音だった。
「ち、違うよ。ミレーユさまはお仕事で来てくださっているんだ」
ミレーユは「いいえ」と即答した。
声は平坦だった。
いつもの、揺れのない声。
けれど、胸の奥が一瞬跳ねた。
小さく、しかし確かに。
何の反応だろう。
ミレーユはスープの鍋に目を戻した。
気のせいだ。子どもの無邪気な言葉に驚いただけ。
それ以上のことではない。
そう自分に言い聞かせたのに、指先がお玉の柄を握る力が、少しだけ強くなっていた。
セドリックは耳の赤みが引かないまま、スープに口をつけた。
「……美味しいです」
「ありがとうございます」
ミレーユは自分も椅子に座り、スープを飲んだ。
子どもたちの笑い声に囲まれた食卓。
温かいスープの湯気。
窓の外が、夕焼けから紺色に変わっていく。
食事の後、子どもたちを寝かしつけてから、ミレーユは孤児院の玄関を出た。
辺境の夜空が、頭の上に広がっていた。
足が止まった。
星が、多かった。
王都の夜空とは違う。
街灯もシャンデリアの灯りもない。ただ空があり、星がある。
十年間、見上げる暇もなかった空だった。
夜会の準備、書簡の起草、契約の交渉、人脈の管理。
夜はいつも、机の上にあった。
ミレーユは息を吸い込んだ。
冷たくて、澄んだ空気だった。
「……ああ、こんなに星があったのか」
声に出していた。
誰に言うでもなく、ただ空を見上げて、呟いていた。
自由になったのだと、思った。
それが初めて、穏やかな感情として胸に落ちた。
怒りの裏側でもなく、虚しさの反動でもなく。
ただ、ここにいて、空を見上げていい。
その事実が、静かに温かかった。
翌朝。
孤児院の食堂で朝食の片づけをしていると、最年長の少女が近づいてきた。
十四歳の、しっかりした目をした子だった。
年下の子どもたちの面倒をよく見ている。
少女はミレーユの前に立ち、エプロンの端を握りながら口を開いた。
「ミレーユさま。ここにずっといてくれるの?」
ミレーユの手が止まった。
数日前、最年少の男の子に「また来る?」と訊かれた。
あの時は、「また来ます」と答えた。
けれど「ずっと」は、違う問いだった。
自分はここにどれだけいるのか。
依頼が終われば、帰るのか。
公爵令嬢が辺境の孤児院に留まり続けることの意味を、ミレーユは考えていなかったわけではない。
少女の目が、まっすぐにミレーユを見ている。
不安と、期待と、覚悟が入り混じった目だった。
この子は、人がいなくなることに慣れている。
だからこそ、訊いている。
ミレーユは口を開きかけて、閉じた。
答えが、まだ出なかった。
王都。王太子府。
エドワールが側近を怒鳴る声が、廊下にまで響いていた。
「物資の遅延が三件だと? なぜ解決できん!」
側近が額に汗を浮かべたまま、報告書を読み上げる。
「ブランシャール家が信用保証を撤回した契約が順次解除されており、代替の供給元がまだ──」
「ブランシャールの名前を出すな」
エドワールが机を叩いた。
側近は口を閉じ、深く頭を下げた。
エドワールは椅子に沈み込み、額に手を当てた。
外交書簡。物資供給。社交の人脈。
全てが、同じ方向に崩れている。
その原因の名前を、口にすることすらできなかった。
認めれば、十年間の自分が崩れる。
窓の外で、王都の鐘が鳴っていた。
その音が、今は遠かった。




