第5話「崩れる王冠」
「殿下、この報告書の意味を──ご理解いただけておりますか」
枢密院の議場。 重厚な円卓を囲む椅子に、王国の重鎮たちが座っている。
エドワールの正面で、老齢の枢密顧問官が書類を掲げていた。 その声は丁重だったが、目は笑っていなかった。
「先月、隣国ヴァルシュタイン公国の外交官から、二度にわたり書簡の真意を問う照会がございました。王太子府からの書簡に複数の文意の齟齬があり、先方は困惑されております」
エドワールは椅子の肘掛けを掴んだ。
「それは書記官の不手際だ。俺に責任はない」
「書記官にお尋ねしたところ、当該書簡の起草経緯を把握している者がおりませんでした」
議場に沈黙が落ちた。
枢密顧問官は一拍置き、別の書類に目を落とした。
「加えて、王太子領への物資供給に遅延が発生しております。穀物と木材の供給契約が複数解除されており、その原因は──ブランシャール家が仲介していた契約の撤回です」
エドワールの眉が跳ねた。
「さらに、社交面でも問題が報告されています。先般の茶会において、他国大使夫人への書簡で先方の爵位表記に誤りがあり、外交上の失礼として抗議を受けております」
エドワールの隣に座る側近が、小さく身を縮めた。
その書簡を作成したのはリゼットだった。 エドワールに代わって社交の段取りを手伝おうとした、善意からの行動だった。 だが、爵位の正しい表記を知らなかった。
「些事だ」
エドワールが吐き捨てた。
「外交書簡の文意、物資供給の遅延、社交上の失礼──これらが同時期に発生していることを、枢密院は看過できません」
枢密顧問官の声が低くなった。
「殿下。ブランシャール公爵家から、婚約破棄に伴う補償請求が正式に提出されております。その審議の過程で、一つの事実が明らかになりました」
書類の束が、円卓の上を滑るように回された。
「王太子の名義で送付されていた外交書簡の控えを照合したところ、筆跡がエドワール殿下のものではない書簡が、過去数年にわたり多数確認されました」
エドワールの顔から血の気が引いた。
「筆跡を分析した結果、ブランシャール公爵令嬢の手によるものと推定されます。王太子の外交書簡を公爵令嬢が起草していたという事実は、本院としても重く受け止めざるを得ません」
議場がざわついた。 顧問官たちが互いに目を見交わす。
エドワールが立ち上がった。 椅子が床を擦る音が、議場に響いた。
「あの女が勝手にやっていただけだ。俺は頼んだ覚えはない」
声が大きかった。 枢密院の議場で声を荒げるのは、王太子として異例のことだった。
老齢の枢密顧問官は表情を変えなかった。
「頼んだか否かにかかわらず、殿下の名義で送られた書簡です。その品質管理は殿下のご責任の範囲と存じます」
エドワールの拳が震えた。
「本件については引き続き審議を行いますが、殿下の統治体制の見直しを、枢密院として正式に勧告いたします」
統治能力への疑念。 それが初めて、公式の場で言葉になった。
辺境。ベルフォンテーヌの午後。
ミレーユは辺境公爵邸の書斎で、枢密院からの書簡を読んでいた。
父ギヨームが同封した私信もあった。 審議が進んでいること、外交書簡の代筆が公式に議題に上がったこと。 簡潔な報告の後に、一行だけ。
「心配するな。法に則って進めている」
ミレーユは書簡を折り畳み、机の上に置いた。
胸の中に、何かが微かに揺れた。 怒りではない。 未練でもない。
十年間、何を見ていたのだろう。 その虚しさだけが、静かに底に沈んでいた。
窓の外では、孤児院の子どもたちの声が遠く聞こえている。
「お疲れのようですね」
声に振り返ると、セドリックが書斎の入口に立っていた。 片手に茶器を持っている。
「お邪魔でなければ」
ミレーユは首を横に振った。
「いいえ。ありがとうございます、殿下」
セドリックが机の傍に寄り、茶碗をミレーユの前に置いた。
ミレーユが茶碗を受け取った。 指先が、セドリックの手に触れた。
温かかった。
ミレーユの指が、一瞬止まった。
「殿下の手、温かいのですね」
言ってから、自分の言葉に驚いた。 何を言っているのだろう。
セドリックの耳が、わずかに赤くなった。
「今日は調子がいいので」
声が少しだけ上ずっていた。
ミレーユは茶碗を両手で包んだ。 湯気が顔に触れる。 温かい。
セドリックの手の温度が、指先に残っていた。
それがなぜか、枢密院の書簡が落とした虚しさを、ほんの少しだけ薄めていた。
ミレーユは茶を一口飲み、「美味しいです」と小さく言った。
セドリックは黙って頷き、窓際に腰を下ろした。
二人の間に、沈黙があった。 居心地の悪くない、穏やかな沈黙だった。
王都。王太子府の執務室。
枢密院の会議を終えたエドワールは、執務室に戻るなり机の上の書類を払い落とした。
紙が床に散らばる。 インク壺が倒れ、黒い染みが広がった。
「殿下……?」
リゼットが、執務室の隅で立ちすくんでいた。
エドワールは振り返らなかった。 窓に手をつき、荒い呼吸を繰り返している。
リゼットの目に、怯えが浮かんだ。
社交の書簡で爵位の表記を間違えたこと。 それが枢密院の場で読み上げられたこと。 自分のせいで、エドワールの立場がさらに悪くなったこと。
謝らなければ、と思った。
「殿下、あの、わたし──」
「黙れ」
リゼットの言葉が、途中で断ち切られた。
エドワールの声は低く、冷たかった。 リゼットに向けられたものではなかったかもしれない。 だが、リゼットの足は一歩退いた。
エドワールは窓の外を睨んでいた。
外交書簡。物資供給。社交の人脈。 全てが同時に崩れている。 それがなぜなのか。 誰が組んでいたのか。
頭の片隅で、答えがちらついていた。 だがそれを認めることは、自分の十年間を否定することだった。
認められない。 認めたら、自分が何者でもなくなる。
「……出ていろ」
リゼットは唇を噛み、深く頭を下げて部屋を出た。
廊下で一人になった時、リゼットの目に涙が滲んだ。
自分はここで何をしているのだろう。 殿下の役に立ちたかった。 ただ、それだけだったのに。
社交の手伝いをして、失敗した。 謝ろうとして、怒鳴られた。
リゼットの脳裏に、ミレーユの姿が浮かんだ。
あの人は、十年間これをやっていたのだ。 外交書簡を書き、社交を整え、物資の契約を管理していた。 それを、誰にも感謝されずに。
リゼットは涙を袖で拭い、廊下の窓から外を見た。
殿下への最初の不安が、胸の中に芽を出していた。




