第4話「陽だまりの庭」
ミレーユは孤児院の裏庭で、子どもたちと一緒に菜園の土を耕していた。
春の陽射しが背中に当たって温かい。 袖をまくり、膝をついて土に手を入れる。 爪の間に泥が詰まったが、気にならなかった。
「おねえさん、ここにも種まくの?」
最年少の男の子が、小さな鍬を両手で持って隣に立っている。
「ええ。ここにはかぶを植えましょうね」
子どもたちは嬉しそうに土をいじっている。 菜園の整備は、ミレーユの計画書の一部だった。 孤児院の敷地内で最低限の野菜を育て、食糧費の負担を減らす。
だが今日の本題は、菜園ではない。
午後。辺境公爵邸の応接間。
ミレーユはセドリックに向き合って座っていた。 テーブルの上には、計画書と地図が広げられている。
「殿下。近隣農家との食糧供給契約の交渉を始めたいのですが、一つお願いがございます」
セドリックが軽く頷いた。
「交渉の席に、殿下にもご同席いただけませんか」
セドリックの手が、膝の上で止まった。
「私が、ですか」
「はい。辺境公爵のお名前があれば、話が早い場合がございます。農家の方々にとって、公爵が直接足を運ぶことは信頼の証になります」
ミレーユは事務的に続けた。
「もちろん、殿下のお名前を公式記録に残す形は避けます。あくまで私的な場として設定しますので、辺境公爵が政治的影響力を行使しているとは見なされない形に」
セドリックは黙っていた。
ミレーユには、彼が何を懸念しているかわかっていた。 継承権を放棄した王族が辺境で影響力を持つことへの警戒。 それが王都に伝われば、厄介なことになりかねない。
だからこそ、公式記録に残らない形を設計した。
セドリックが顔を上げた。
「……ブランシャール嬢は、そこまで考えてくださっていたのですか」
「依頼をお受けした以上は、殿下のお立場への影響も含めて考えるのが当然です」
セドリックは小さく息を吐いた。 迷いの残る目だったが、口元にはかすかな笑みがあった。
「わかりました。お供します」
交渉の場は、孤児院から半刻ほど離れた農家の納屋だった。
相手は三軒の農家の主。 いずれも辺境で代々土地を耕してきた実直な人々だった。
ミレーユが交渉の口火を切った。
「現在、孤児院では月に一度、町の仲介商を通じて食糧を購入しています。仲介を通すことで、実際の作物の価格に上乗せが発生しています」
農家の主たちが顔を見合わせた。
「孤児院と直接契約を結んでいただければ、仲介の費用を省く分、皆さまには今の卸値より高い価格でお買い取りできます。孤児院は仲介費用を削減でき、皆さまは手取りが増える。双方にとって利のある形です」
ミレーユの説明は簡潔で、数字が明確だった。 具体的な購入量、価格、支払いの時期。 全てが紙に整理されて並んでいる。
農家の一人が腕を組んだ。
「話はわかる。だが、支払いの保証はどうなる。孤児院は金がないと聞いている」
ミレーユが答える前に、セドリックが静かに口を開いた。
「支払いの保証は、私が致します」
農家たちの目が、セドリックに向いた。
セドリックは椅子に座ったまま、穏やかな声で続けた。
「辺境公爵として、この契約の履行を保証します。万が一支払いが滞った場合は、私の屋敷が負担します」
農家の主たちの表情が変わった。 公爵が自ら保証を口にしたのだ。
辺境では、貴族の権威より実務と信用が重んじられる。 だがそれは、貴族の言葉が軽いという意味ではない。 公爵が自ら保証を出すということは、それだけの覚悟があるということだ。
一番年長の農家の主が、膝を叩いた。
「公爵さまがそうおっしゃるなら、断る理由はねえ」
残り二人も頷いた。
ミレーユは契約の詳細を手際よくまとめ、各農家の主と握手を交わした。
交渉が終わり、農家を後にする馬車の中。
セドリックが小さく咳き込んだ。
長時間の外出が身体に障ったのだろう。 顔色が、朝よりも白い。
ミレーユの手が、無意識に動いた。
セドリックの背中に向かって伸びかけた指先が、途中で止まる。
空を掴んだ。
ミレーユは自分の手を見た。 一瞬、眉が寄った。
何をしようとしたのか。 自分でもわからなかった。
手を膝の上に戻し、代わりに声をかけた。
「殿下、お身体は大丈夫ですか。屋敷に戻りましたら、どうかお休みになってください」
セドリックは咳を収め、首を振った。
「大丈夫です。少し冷えただけですから」
その声は穏やかだったが、息がわずかに浅かった。
ミレーユは窓の外に目を向けた。
自分の右手を、左手で押さえていた。
数日後。
孤児院の台所に、新鮮な野菜が届いた。
かぶ、にんじん、じゃがいも、たまねぎ。 契約が成立してから最初の納品だった。
世話役の女性が目を丸くした。
「まあ、こんなに立派な野菜を……」
子どもたちが台所に駆け込んでくる。
「すごい! にんじんだ!」 「おっきいじゃがいも!」
ミレーユは子どもたちと一緒に野菜を洗い、昼食の支度を手伝った。 温かいスープの湯気が、台所に広がる。
子どもたちが笑っている。 世話役の女性も笑っている。
その光景を、セドリックは台所の入口から見ていた。
子どもたちが新鮮な食材を喜ぶ声。 それを見つめるミレーユの横顔。
セドリックは静かに目を伏せた。
この場所を守ってきた。 一人で、私費を削って、何年も。 それでも足りなくて、どうにもならなくて。
今、この人がいる。 たった数日で、子どもたちの食卓が変わった。
ミレーユが振り返った。 セドリックの姿に気づき、小さく頭を下げた。
「殿下もどうぞ。スープができましたので」
セドリックは入口に立ったまま、少し迷った。 それから、子どもたちの隣の椅子に座った。
木の椅子は小さくて、膝が窮屈だった。 子どもの一人が笑った。
「セドリックさま、はみだしてる」
「本当だね。少し大きすぎたようだ」
セドリックが苦笑すると、子どもたちがさらに笑った。
ミレーユがスープの皿をセドリックの前に置いた。
「ありがとうございます」
セドリックの声が、わずかに震えていた。
ミレーユの手が止まった。
スープの礼にしては、声に温度がありすぎた。 それが食事の感謝ではなく、もっと大きな何かへの感謝だと、ミレーユは気づいていた。
十年間、エドワールからは一度もなかった言葉だった。
「どういたしまして」
ミレーユはそう答えた。 いつもの声のつもりだった。
けれど、その言葉の温度に少し戸惑っている自分がいることには、まだ気づかない振りをしていた。
食事を終え、子どもたちが庭に出ていった後。
ミレーユが食器を片づけていると、世話役の女性が駆け込んできた。
「ミレーユさま、王都からお手紙です。公式の封蝋が押されております」
銀の盆に載せられた書簡。 枢密院の紋章が、赤い封蝋に刻まれていた。
ミレーユは手を拭き、書簡を受け取った。
差出人は枢密院事務局。 封を切り、文面に目を通す。
婚約破棄に関する補償交渉の正式通知だった。 父ギヨームが枢密院に提起した請求が受理され、審議に入った旨の連絡。
ミレーユは書簡を折り畳み、胸元にしまった。
父が動いている。 法と手続きで、粛々と。
ミレーユは窓の外に目を向けた。
庭で遊ぶ子どもたちの声が聞こえる。 春の陽射しが、孤児院の石壁を温めていた。
王都の夕刻。
ある侯爵夫人の邸宅で、小規模な茶会が開かれていた。
だが、出席者の顔ぶれは寂しかった。
本来ならば十数名が集まるはずの席に、半分ほどしかいない。 空の椅子が目立つ。
主催者は、この茶会の段取りをエドワールの新しい寵愛者──リゼット・ノワールに任されたのだという。
侯爵夫人が、隣の伯爵夫人に小声で漏らした。
「招待状を見たかしら。宛名の敬称が間違っていたのよ。それも三通」
伯爵夫人が眉を上げた。
「まあ。ブランシャール令嬢の時は、そんなことは一度も……」
「ノワール家の次女が差配なさっているそうよ。お気持ちはわかるけれど、社交の作法はお気持ちだけでは」
侯爵夫人はカップを口元に運びながら、窓の外を見た。
「ブランシャール令嬢の時とは、雲泥の差ね」
空の椅子が、沈黙で答えていた。




