第3話「返却の波紋」
殿下が「返せ」とおっしゃったのだ。ならば、きちんと返さなくては──とは言ったものの。
ミレーユは辺境公爵邸の応接間で、セドリックの言葉を待っていた。
「先にお伝えしたいこと」。 その続きが、まだ語られていない。
セドリックは椅子に座り直し、膝の上で指を組んだ。
「孤児院の窮状は、お伝えした以上に深刻です」
声は穏やかだったが、目の奥に影があった。
「年内に資金が尽きる見通しです。私の私費で維持してきましたが、辺境領の税収には限りがあります。子どもは現在十四名。最年少が五歳、最年長が十四歳」
ミレーユは黙って聞いていた。
「食糧の供給が不安定で、冬場は一日二食になることもあります。建物の修繕も追いついていません」
セドリックの声が少しだけ低くなった。
「あの子たちの居場所を、なくしたくないのです」
ミレーユは頷いた。
「現地を見せていただけますか」
孤児院は、辺境公爵邸から馬車で半刻ほどの場所にあった。
石造りの二階建て。 壁には蔦が這い、屋根の一部は板で応急的に塞がれている。
中に入ると、子どもたちの声が聞こえた。 広間に集まっていた子どもたちが、セドリックの姿を見て駆け寄ってくる。
「セドリックさま!」 「今日はお客さま?」
セドリックは膝を折り、子どもたちの目の高さに合わせた。
「今日はとても頼りになる方が来てくれたんだ。ミレーユさまだよ」
子どもたちの視線がミレーユに集まる。 ミレーユは微笑んで軽く頭を下げた。
「ミレーユと申します。よろしくお願いしますね」
最年少の子──五歳くらいの男の子が、おずおずとミレーユのスカートの裾を引いた。
小さな手の力。 ミレーユの足が止まった。
「きれいなおねえさん」
ミレーユはその子の前にしゃがんだ。 目線を合わせて、「ありがとう」と言った。
立ち上がった時、セドリックがこちらを見ていた。 何かを言いかけたようだったが、視線がすぐに逸れた。
孤児院の世話役の女性から帳簿を借り、ミレーユは応接間の隅に腰を据えた。
収支の記録。 食糧の入荷と消費。 修繕の履歴。 寄付金の明細。
帳簿を繰るたびに、状況の輪郭が見えてくる。
収入源はセドリックの私費と、わずかな寄付。 支出は食糧費と人件費で大半が消える。 修繕費は後回しにされ続け、負債のように積み上がっている。
問題の構造は明確だった。
収入が少ないのではない。 支出の配分が非効率なのだ。
食糧の調達先が一箇所に集中している。 価格交渉の余地がある。 近隣の農家と直接契約すれば、仲介の費用を削れる。
前世の記憶が、指先を動かした。
紛争地の孤児支援施設。 限られた予算で、どうやって子どもたちを食べさせるか。 何度もやった。何度も組み直した。
ミレーユはペンを取り、白紙の紙を広げた。
夜が更けていた。
孤児院の子どもたちはとうに寝静まっている。 ミレーユは世話役の女性に借りた小部屋で、ランプの灯りを頼りに書き続けていた。
計画書の骨子。
食糧供給の再構築。近隣農家との直接契約による費用削減と安定供給。 修繕の優先順位付け。屋根と水回りを最優先とし、他は段階的に実施。 寄付金獲得の仕組み作り。辺境の商家との関係構築、定期的な支援の枠組み。 子どもたちの将来に向けた職業訓練の素案。
全てを一枚の紙に収まるように整理した。 読む人が、一目で全体像を把握できるように。
ペンを置いた時、窓の外が白み始めていた。
また一晩、眠らなかった。 けれど、十年間の徹夜とは重さが違った。
あの頃は、書いたものを誰かに見てもらえるとは思っていなかった。 エドワールの名前の下に消えていく仕事だった。
今は違う。
この計画書は、自分の名前で出す。 自分の判断で、自分の責任で。
翌朝。
辺境公爵邸の応接間に、ミレーユは計画書を持って向かった。
セドリックは既に席についていた。 窓際ではなく、今度は椅子に座っている。 昨日のミレーユの言葉を覚えていたのだろう。
「おはようございます、殿下」
「おはようございます。お疲れではありませんか。遅くまで灯りが見えていたと聞きました」
ミレーユは「大丈夫です」と答えて、計画書を差し出した。
セドリックが受け取り、目を通す。
最初のうちは、黙って読んでいた。 頁をめくる手が、途中で止まった。
「……これを、一晩で?」
声がかすれていた。
セドリックが顔を上げた。 その目に驚きがあった。 飾らない、隠しようのない驚き。
ミレーユの胸の中で、何かが少しだけ温かくなった。
十年間、一度もなかった反応だった。 自分の仕事を見て、驚いてくれる人。 その精度に、正当に驚いてくれる人。
「食糧供給の再構築から着手するのが最善かと存じます。近隣農家との直接契約が成立すれば、三か月で食事事情を改善できる見込みです」
ミレーユは淡々と説明した。 声は事務的に保った。
セドリックは計画書を膝の上に置き、深く息を吸った。
「ブランシャール嬢。あなたにお願いして、本当によかった」
静かな声だった。 大げさな賞賛ではない。 ただ事実を確かめたように、そう言った。
ミレーユは「恐れ入ります」と答えた。 微笑みは、いつもの形を保っていた。
けれど。
ここに来てよかった、と。 その感覚が、初めて芽生えた。
孤児院の庭で、子どもたちが遊んでいた。
ミレーユが玄関から出ると、最年少の男の子が真っ先に駆けてきた。
「おねえさん! また来た!」
「ええ、また来ましたよ」
男の子がミレーユの手を握った。 小さくて、温かい手だった。
「また来る?」
ミレーユの口が開きかけて、止まった。
また来る。 その言葉に、なぜか答えが出なかった。
自分はここにどれだけいるのか。 依頼が終われば、帰るのか。 帰る場所は、王都の屋敷なのか。
男の子が、不安そうに見上げている。
ミレーユはその手を握り返した。
「……ええ。また来ます」
男の子が笑った。 ミレーユも、少しだけ笑った。
その夜、辺境公爵邸に戻ったミレーユの部屋に、書簡が届いていた。
セドリックからだった。 計画書に対する質問事項が、丁寧な筆跡で記されている。
食糧供給契約の優先交渉先について。 修繕費用の概算の根拠について。 寄付金の枠組みにおける商家への打診方法について。
どれも的確な質問だった。 計画書を表面だけでなく、構造まで読み込まなければ出てこない問いばかり。
ミレーユは書簡を読み終えた後、もう一度最初に戻った。
筆跡が丁寧だった。
急いで書いた形跡がない。 一字一字、言葉を選んで書いている。 質問の順番も、計画書の構成に沿って整理されている。
ミレーユの指先が、無意識に文字の上をなぞった。
エドワールの筆跡を思い出した。 力任せで、読みにくく、書類の端に走り書きされた署名。 それを十年間、代わりに清書し続けた。
この人は、自分で書いている。 自分の言葉を、自分の手で。
指先が便箋の上を滑る。 ミレーユはその手の動きに気づいて、指を止めた。
返信を書こう。 ミレーユはペンを取った。
王都。王太子府の執務室。
エドワールの前に、一通の書簡が置かれていた。
他国の外交官からの問い合わせだった。
「先日いただいた書簡について、文意が判然といたしません。いくつかの表現に齟齬がございますので、改めて真意をお聞かせ願いたく存じます」
丁重だが、明確な抗議だった。
エドワールは書簡を掴み、側近を呼んだ。
「何だこれは。先日の書簡とはどの書簡だ」
側近が額に汗を浮かべた。
「殿下、先月お送りした外交書簡のことかと思われますが──」
「だからその書簡の内容を訊いている」
「……申し訳ございません。当該書簡の経緯を、私どもでは把握しておりません」
エドワールの手が、机を叩いた。
書簡の山が揺れる。 側近が一歩退いた。
エドワールは知らなかった。
その書簡がどのような文面で、誰が起草し、どの外交官にどういう意図で送られたものだったのか。
全てを組んでいた人間は、もういない。
「調べろ。今すぐにだ」
エドワールの声が執務室に響いた。
側近は深く頭を下げ、部屋を出た。 だが、調べる先がどこにあるのか、側近自身もわかっていなかった。




