表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お前に使った十年を返せ」と言われたので、お返しした結果がこちらです  作者: 月雅
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/20

第2話「影の依頼主」

朝の書斎に、春の光が白く差している。


机の上に、封蝋のない手紙が一通。


ミレーユはそれを手に取り、窓際に寄った。


昨夜のうちに確認した手紙だった。 辺境公爵領の紋章が透かしに入った、差出人不明の依頼状。 辺境の孤児院の経営を立て直してほしい、と。


紙質を指先で確かめる。 繊維が粗く、しかし厚い。王都では見かけない紙だった。 インクは赤みを帯びた鉄インク。辺境の製法。


この紋章を使える人物は、一人しかいない。


ルヴェリア辺境公爵。 王太子エドワールの双子の兄にあたる王族。 幼い頃に継承権を外され、辺境に移ったと聞いている。 王宮では「影の公爵」と呼ばれ、社交の場にはほとんど姿を見せない。


ミレーユは手紙を机に戻した。


再び王家に関わることになる。 その事実が、胸の底に小さな重りを落とした。


だが。


書簡は全て発送した。 返却の段取りは済んでいる。 王都に留まる理由は、もうない。


ミレーユは窓の外に目を向けた。 屋敷の庭に朝露が光っている。


十年間、この窓から見えるのはいつも、王太子府へ向かう道だった。 今日は、どこへでも行ける。


書斎の扉を叩く音がした。


使用人が銀の盆に書簡を載せて入ってくる。


「お嬢様、こちらが本日届いた返信でございます」


三通。 ミレーユが昨日発送した通知状への、最初の反応だった。


一通目を開く。


伯爵夫人からの書簡。 ミレーユが長年、社交の段取りを仲介していた相手だった。


「今後の社交の連絡窓口はどなたになるのでしょうか。王太子殿下のお付きの方にお伺いすればよろしいのですか」


困惑の文面だった。 ミレーユが間に立っていたことを、この夫人は当然のことと思っていたのだろう。 それが突然なくなった。


二通目、三通目も似たような内容だった。


ミレーユは書簡を重ねて机に置いた。 返信はしない。 もう、自分の仕事ではない。


父の執務室の扉の前で、ミレーユは一度呼吸を整えた。


扉を叩き、許しを得て入る。


ギヨームは執務机に向かっていた。 枢密院への提出書類が、分厚い束になって積まれている。 補償請求の準備が、もう始まっていた。


「お父様。お話があります」


ギヨームがペンを置いた。


「辺境に参ります」


沈黙が落ちた。


ギヨームの目が、娘の手元にある手紙に移った。 封蝋のない、差出人不明の便箋。


「……辺境公爵からか」


ミレーユは驚かなかった。 父ならば、紋章の透かしを一目で読むだろう。


「孤児院の経営立て直しの依頼です」


「王族だぞ」


その一言に、ギヨームの声が低くなった。


王家に関わることへの警戒。 娘を再び王族の近くに置くことへの不安。 その両方が、短い言葉に詰まっていた。


ミレーユは父の目を見た。


「お父様。王都にいても、わたくしにできることはもうありません。補償交渉はお父様がしてくださいます。社交界に戻る気もございません」


ギヨームは娘を見つめた。


あの夜会の翌朝と同じ、静かな目。 揺れてはいない。 決めた後の目だった。


妻が逝った後も、この子はこうだった。 決めたら揺るがない。それが頼もしくもあり、恐ろしくもある。


ギヨームは椅子の背に体を預けた。 長い沈黙の後、口を開いた。


「護衛を二人つける」


ミレーユの肩から、わずかに力が抜けた。


「必ず手紙を寄こせ」


「はい、お父様」


ミレーユは深く頭を下げた。 顔を上げたとき、ギヨームは既にペンを手に取っていた。


だがその目は、しばらく書類ではなく、娘の背中を追っていた。


馬車での旅は十日を要した。


王都の石造りの街並みが、次第に木造の農村に変わり、やがて森と丘陵の風景になった。


辺境都市ベルフォンテーヌ。 ルヴェリア辺境公爵領の中心地。


王都に比べれば小さな街だった。 城壁は低く、門番は護衛騎士の身分証を確認すると、気さくに道を教えてくれた。 貴族の権威より実務が重んじられる土地だと、その対応だけでわかった。


馬車が辺境公爵の屋敷に着いたのは、午後の早い時間だった。


屋敷は王都の公爵邸に比べると質素だった。 だが手入れは行き届いている。 庭の花壇には季節の花が咲き、玄関の石段は掃き清められていた。


使用人に案内され、応接間に通される。


部屋は明るかった。 窓が大きく、辺境の空が広く見える。 調度品は最低限だが、本棚だけが壁一面を埋めていた。


ミレーユが椅子を勧められ、腰を下ろそうとした時。


扉が静かに開いた。


入ってきたのは、一人の青年だった。


エドワールと同じ年齢のはずだった。 だが、印象は全く異なる。


髪は明るい栗色で、肩にかかるほどの長さ。 顔立ちは整っているが、肌に血の気が薄い。 体躯は細く、軍服や礼装ではなく、簡素な上着を着ていた。


セドリック・ルヴェリア。 ルヴェリア辺境公爵。


彼はミレーユを見て、軽く頭を下げた。


「お越しいただきありがとうございます、ブランシャール嬢。長旅でお疲れのところ、申し訳ありません」


声は静かだった。 王族が公爵令嬢に対してこの丁寧さで話すのは、異例のことだった。


セドリックは椅子を勧めたが、自分は座らなかった。 窓際に立ち、本棚に軽く手を添えている。


ミレーユは一礼して椅子に腰を下ろした。


「お手紙を頂戴しました。孤児院の経営立て直しの件ですね」


「はい。匿名で送る形になってしまい、失礼しました。事情があり、王都の目に留まりにくい方法を取りたかったのです」


穏やかな口調だった。 言葉を選んで話す人だと、すぐにわかった。


セドリックは一度言葉を切り、ミレーユの目を見た。


「単刀直入に申し上げます。あなたが十年間、弟にしていたことを──外交書簡の筆跡と、物資供給の仲介署名から推察しました」


ミレーユの呼吸が止まった。


胸の奥で、何かが大きく跳ねた。


十年間。 誰にも気づかれなかった仕事。 エドワールにも、社交界の誰にも。


「辺境公爵として、弟の名義で送られる外交書簡を受領する立場にあります。数年前から、筆跡がエドワールのものではないことに気づいていました」


セドリックの声は淡々としていた。 だが、その目にはミレーユへの敬意があった。


「加えて、辺境領の物資供給契約書に、ブランシャール家の仲介署名が繰り返し記載されていました。王太子領の契約にまで公爵令嬢が関与しているのは、通常ではありえません」


ミレーユは背筋を伸ばしたまま、動かなかった。 指先だけが、膝の上でかすかに震えていた。


「あの仕事量を、誰にも気づかれずにこなしていた人を、初めて見ました」


その言葉が、胸の中に落ちた。


温かくはなかった。 温かいという言葉では足りなかった。


十年間、当たり前のこととして扱われてきた。 感謝されたことは、一度もなかった。 それを、断片から読み取った人がいる。


ミレーユは唇をわずかに引き結んだ。 微笑みの形を保つのに、いつもより力が要った。


「……恐れ入ります、殿下」


声は平静だった。 そう努めた。


セドリックがわずかに首を傾げた。 何かを言いかけたようだった。


だがその時、ミレーユの目がセドリックの足元に移った。


窓際に立ったまま、彼は右足に重心を偏らせていた。 左の手が、さりげなく本棚の縁を掴んでいる。 支えがなければ、長く立っていられないのだ。


「お座りになってください、殿下」


ミレーユは自然に声をかけていた。


「長くお立ちになるのは、お身体に障りませんか」


セドリックの目が、一瞬大きく開いた。


初対面の相手に、自分の体調を気遣われたことがない。 その驚きが、隠しきれずに顔に出ていた。


ミレーユは視線を戻し、事務的な口調で言い添えた。


「依頼主の健康状態は、業務の前提条件ですので」


セドリックはしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐いて微笑んだ。 椅子に腰を下ろしながら、「……ありがとうございます」と言った。


その声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。


ミレーユは気づかなかった。 自分の視線が、相手の顔色を確かめるように動いていたことに。


セドリックが姿勢を整え、口を開いた。


「一つだけ、先にお伝えしたいことがあります」


その言葉で、場の空気が変わった。


王都の午後。


ある侯爵夫人の邸宅の応接間で、二人の貴婦人が茶を飲んでいた。


伯爵夫人が声を潜めた。


「ブランシャール令嬢から通知状が届きましたの。社交の仲介を取りやめるという内容で」


侯爵夫人がカップを置いた。


「あなたのところにも?」


「ええ。あの方が今まで段取りを組んでくださっていたのですわ。王太子殿下の茶会の席順も、夜会の招待状の手配も」


侯爵夫人の眉が寄った。


「……あの人脈の維持は、ブランシャール令嬢が?」


「殿下はご存じなのかしら」


二人は顔を見合わせた。


窓の外で、王都の鐘が午後を告げている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
> ルヴェリア辺境公爵。 王太子エドワールの双子の兄にあたる王族。 幼い頃に継承権を外され、辺境に移ったと聞いている。 だとすると、臣籍降下になるので、殿下という公称は使わないと思います。 せめ…
第一話の終わりの方で【翌朝、ミレーユの書斎の机に、一通の手紙が置かれていた。】とありますが、【昨夜のうちに確認した手紙だった。】は、おかしくないですか?
読みにくい。 場面転換するなら行間空けて欲しい。 場所明記しても意味ない。 ただひたすら読みにくい。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ