第2話「影の依頼主」
朝の書斎に、春の光が白く差している。
机の上に、封蝋のない手紙が一通。
ミレーユはそれを手に取り、窓際に寄った。
昨夜のうちに確認した手紙だった。 辺境公爵領の紋章が透かしに入った、差出人不明の依頼状。 辺境の孤児院の経営を立て直してほしい、と。
紙質を指先で確かめる。 繊維が粗く、しかし厚い。王都では見かけない紙だった。 インクは赤みを帯びた鉄インク。辺境の製法。
この紋章を使える人物は、一人しかいない。
ルヴェリア辺境公爵。 王太子エドワールの双子の兄にあたる王族。 幼い頃に継承権を外され、辺境に移ったと聞いている。 王宮では「影の公爵」と呼ばれ、社交の場にはほとんど姿を見せない。
ミレーユは手紙を机に戻した。
再び王家に関わることになる。 その事実が、胸の底に小さな重りを落とした。
だが。
書簡は全て発送した。 返却の段取りは済んでいる。 王都に留まる理由は、もうない。
ミレーユは窓の外に目を向けた。 屋敷の庭に朝露が光っている。
十年間、この窓から見えるのはいつも、王太子府へ向かう道だった。 今日は、どこへでも行ける。
書斎の扉を叩く音がした。
使用人が銀の盆に書簡を載せて入ってくる。
「お嬢様、こちらが本日届いた返信でございます」
三通。 ミレーユが昨日発送した通知状への、最初の反応だった。
一通目を開く。
伯爵夫人からの書簡。 ミレーユが長年、社交の段取りを仲介していた相手だった。
「今後の社交の連絡窓口はどなたになるのでしょうか。王太子殿下のお付きの方にお伺いすればよろしいのですか」
困惑の文面だった。 ミレーユが間に立っていたことを、この夫人は当然のことと思っていたのだろう。 それが突然なくなった。
二通目、三通目も似たような内容だった。
ミレーユは書簡を重ねて机に置いた。 返信はしない。 もう、自分の仕事ではない。
父の執務室の扉の前で、ミレーユは一度呼吸を整えた。
扉を叩き、許しを得て入る。
ギヨームは執務机に向かっていた。 枢密院への提出書類が、分厚い束になって積まれている。 補償請求の準備が、もう始まっていた。
「お父様。お話があります」
ギヨームがペンを置いた。
「辺境に参ります」
沈黙が落ちた。
ギヨームの目が、娘の手元にある手紙に移った。 封蝋のない、差出人不明の便箋。
「……辺境公爵からか」
ミレーユは驚かなかった。 父ならば、紋章の透かしを一目で読むだろう。
「孤児院の経営立て直しの依頼です」
「王族だぞ」
その一言に、ギヨームの声が低くなった。
王家に関わることへの警戒。 娘を再び王族の近くに置くことへの不安。 その両方が、短い言葉に詰まっていた。
ミレーユは父の目を見た。
「お父様。王都にいても、わたくしにできることはもうありません。補償交渉はお父様がしてくださいます。社交界に戻る気もございません」
ギヨームは娘を見つめた。
あの夜会の翌朝と同じ、静かな目。 揺れてはいない。 決めた後の目だった。
妻が逝った後も、この子はこうだった。 決めたら揺るがない。それが頼もしくもあり、恐ろしくもある。
ギヨームは椅子の背に体を預けた。 長い沈黙の後、口を開いた。
「護衛を二人つける」
ミレーユの肩から、わずかに力が抜けた。
「必ず手紙を寄こせ」
「はい、お父様」
ミレーユは深く頭を下げた。 顔を上げたとき、ギヨームは既にペンを手に取っていた。
だがその目は、しばらく書類ではなく、娘の背中を追っていた。
馬車での旅は十日を要した。
王都の石造りの街並みが、次第に木造の農村に変わり、やがて森と丘陵の風景になった。
辺境都市ベルフォンテーヌ。 ルヴェリア辺境公爵領の中心地。
王都に比べれば小さな街だった。 城壁は低く、門番は護衛騎士の身分証を確認すると、気さくに道を教えてくれた。 貴族の権威より実務が重んじられる土地だと、その対応だけでわかった。
馬車が辺境公爵の屋敷に着いたのは、午後の早い時間だった。
屋敷は王都の公爵邸に比べると質素だった。 だが手入れは行き届いている。 庭の花壇には季節の花が咲き、玄関の石段は掃き清められていた。
使用人に案内され、応接間に通される。
部屋は明るかった。 窓が大きく、辺境の空が広く見える。 調度品は最低限だが、本棚だけが壁一面を埋めていた。
ミレーユが椅子を勧められ、腰を下ろそうとした時。
扉が静かに開いた。
入ってきたのは、一人の青年だった。
エドワールと同じ年齢のはずだった。 だが、印象は全く異なる。
髪は明るい栗色で、肩にかかるほどの長さ。 顔立ちは整っているが、肌に血の気が薄い。 体躯は細く、軍服や礼装ではなく、簡素な上着を着ていた。
セドリック・ルヴェリア。 ルヴェリア辺境公爵。
彼はミレーユを見て、軽く頭を下げた。
「お越しいただきありがとうございます、ブランシャール嬢。長旅でお疲れのところ、申し訳ありません」
声は静かだった。 王族が公爵令嬢に対してこの丁寧さで話すのは、異例のことだった。
セドリックは椅子を勧めたが、自分は座らなかった。 窓際に立ち、本棚に軽く手を添えている。
ミレーユは一礼して椅子に腰を下ろした。
「お手紙を頂戴しました。孤児院の経営立て直しの件ですね」
「はい。匿名で送る形になってしまい、失礼しました。事情があり、王都の目に留まりにくい方法を取りたかったのです」
穏やかな口調だった。 言葉を選んで話す人だと、すぐにわかった。
セドリックは一度言葉を切り、ミレーユの目を見た。
「単刀直入に申し上げます。あなたが十年間、弟にしていたことを──外交書簡の筆跡と、物資供給の仲介署名から推察しました」
ミレーユの呼吸が止まった。
胸の奥で、何かが大きく跳ねた。
十年間。 誰にも気づかれなかった仕事。 エドワールにも、社交界の誰にも。
「辺境公爵として、弟の名義で送られる外交書簡を受領する立場にあります。数年前から、筆跡がエドワールのものではないことに気づいていました」
セドリックの声は淡々としていた。 だが、その目にはミレーユへの敬意があった。
「加えて、辺境領の物資供給契約書に、ブランシャール家の仲介署名が繰り返し記載されていました。王太子領の契約にまで公爵令嬢が関与しているのは、通常ではありえません」
ミレーユは背筋を伸ばしたまま、動かなかった。 指先だけが、膝の上でかすかに震えていた。
「あの仕事量を、誰にも気づかれずにこなしていた人を、初めて見ました」
その言葉が、胸の中に落ちた。
温かくはなかった。 温かいという言葉では足りなかった。
十年間、当たり前のこととして扱われてきた。 感謝されたことは、一度もなかった。 それを、断片から読み取った人がいる。
ミレーユは唇をわずかに引き結んだ。 微笑みの形を保つのに、いつもより力が要った。
「……恐れ入ります、殿下」
声は平静だった。 そう努めた。
セドリックがわずかに首を傾げた。 何かを言いかけたようだった。
だがその時、ミレーユの目がセドリックの足元に移った。
窓際に立ったまま、彼は右足に重心を偏らせていた。 左の手が、さりげなく本棚の縁を掴んでいる。 支えがなければ、長く立っていられないのだ。
「お座りになってください、殿下」
ミレーユは自然に声をかけていた。
「長くお立ちになるのは、お身体に障りませんか」
セドリックの目が、一瞬大きく開いた。
初対面の相手に、自分の体調を気遣われたことがない。 その驚きが、隠しきれずに顔に出ていた。
ミレーユは視線を戻し、事務的な口調で言い添えた。
「依頼主の健康状態は、業務の前提条件ですので」
セドリックはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いて微笑んだ。 椅子に腰を下ろしながら、「……ありがとうございます」と言った。
その声は、先ほどより少しだけ柔らかかった。
ミレーユは気づかなかった。 自分の視線が、相手の顔色を確かめるように動いていたことに。
セドリックが姿勢を整え、口を開いた。
「一つだけ、先にお伝えしたいことがあります」
その言葉で、場の空気が変わった。
王都の午後。
ある侯爵夫人の邸宅の応接間で、二人の貴婦人が茶を飲んでいた。
伯爵夫人が声を潜めた。
「ブランシャール令嬢から通知状が届きましたの。社交の仲介を取りやめるという内容で」
侯爵夫人がカップを置いた。
「あなたのところにも?」
「ええ。あの方が今まで段取りを組んでくださっていたのですわ。王太子殿下の茶会の席順も、夜会の招待状の手配も」
侯爵夫人の眉が寄った。
「……あの人脈の維持は、ブランシャール令嬢が?」
「殿下はご存じなのかしら」
二人は顔を見合わせた。
窓の外で、王都の鐘が午後を告げている。




