第10話「十年の答え」
辺境の朝。孤児院の庭から、子どもたちの笑い声が聞こえる。
ミレーユは孤児院の小部屋の窓辺に立って、その声を聞いていた。
朝の光が、辺境の丘を柔らかく照らしている。
今日は空が高い。雲が少なく、風が穏やかだった。
公爵邸での朝食の後、セドリックが言った言葉が、まだ胸の中にあった。
少し、二人で話したいことがあります。
孤児院に着いてからも、その声が離れなかった。
ミレーユは窓辺を離れ、部屋を出た。
孤児院の庭。
子どもたちが走り回る声が、遠くに聞こえている。
庭の奥に、一本の大きな木があった。
その木の下のベンチに、セドリックが座っていた。
ミレーユが近づくと、セドリックが顔を上げた。
「来てくださったんですね」
「はい、殿下」
ミレーユはベンチの傍に立った。
セドリックが隣を手で示した。ミレーユは腰を下ろした。
二人の間に、拳一つ分の距離があった。
木の葉が風に揺れている。木漏れ日が、二人の膝の上に落ちていた。
セドリックはしばらく黙っていた。
膝の上で指を組み、ほどき、また組んでいる。
ミレーユは待った。
この人が言葉を選ぶのに時間がかかることを、もう知っていた。
セドリックが口を開いた。
「ブランシャール嬢。私は、身体が強くありません」
静かな声だった。
「人前が苦手で、大きな場では役に立てません。継承権も手放しました。王族でありながら、できることの少ない人間です」
ミレーユは黙って聞いていた。
セドリックの横顔を見ていた。
風が栗色の髪を揺らしている。
「それでも」
セドリックの声が、わずかに震えた。
「あなたにここにいてほしい。孤児院のためではなく、私のために」
ミレーユの呼吸が止まった。
心臓が大きく跳ねた。
指先が冷えた。
それなのに、胸の奥が熱かった。
矛盾した感覚が、全身を駆け抜けた。
セドリックがミレーユの方を向いた。
目が真っ直ぐだった。
怖がっている目だった。けれど、逸らさなかった。
ミレーユの中で、何かが軋んだ。
十年間、封じてきた蓋が、押し上げられている。
また同じになるのではないか。
誰かのために尽くして、当たり前にされて、最後に捨てられるのではないか。
五歳のあの夜が蘇った。
母の手が冷たくなっていくのを握りながら、泣かなかった夜。
あの日から、泣かないと決めた。
感情を閉じれば、傷つかないと知った。
幸福を受け入れれば、失った時の痛みが大きくなる。
だから、受け入れなかった。
十年間、一度も。
けれど。
目の前のこの人は、自分の弱さを全て並べた上で、「私のために」と言った。
能力を求めたのではない。
義務を求めたのではない。
ミレーユという人間を、求めた。
ミレーユは口を開いた。
声が震えた。
「わたくしは、もう誰かのために自分を消すことはしません」
セドリックが頷いた。
「知っています」
その声は穏やかだった。
「だから、あなた自身でいてください。私の隣で」
ミレーユの視界が滲んだ。
涙が、目の縁を越えた。
頬を、伝った。
声が出た。
堪えきれなかった。
五歳で母を亡くしてから、十七年。
一度も、声を上げて泣いたことがなかった。
泣いても仕方がない。泣いても母は戻らない。
だから泣かない。やるべきことをやる。
その習慣が、最後の壁になっていた。
壁が、崩れた。
ミレーユは両手で顔を覆った。
肩が震えていた。
声が漏れていた。
小さく、けれど確かに。
セドリックがミレーユの手を取った。
両手で、そっと包むように。
温かかった。
あの日、茶碗を渡す時に触れた温度。ハンカチを受け取る時に触れた温度。
同じ温度だった。
けれど今は、離さなかった。
ミレーユも、離さなかった。
庭の向こうから、子どもたちの足音が聞こえてきた。
「おかあさん!」
「セドリックさま!」
小さな足音が、ばらばらと近づいてくる。
子どもたちが二人を囲んだ。
最年少の男の子が、ミレーユの膝に手を置いた。
「おかあさん、泣いてるの?」
ミレーユは涙を拭って、笑った。
崩れた笑顔だった。完璧ではなかった。
けれど、十年間で一番温かい顔だった。
「大丈夫。嬉しくて泣いているの」
男の子が首を傾げた。
「うれしいと泣くの?」
「うん。泣くの」
子どもたちがミレーユの周りに集まった。小さな手が、背中を撫でたり、腕を握ったりしている。
セドリックはミレーユの手を握ったまま、子どもたちに囲まれていた。
膝が窮屈な小さなベンチで、隣に座る人の手を握って、子どもたちの声の中にいた。
ミレーユが目元を拭い、深く息を吸った。
そしてセドリックを見た。
「殿下」
「はい」
「──セドリック、と呼んでいただけませんか」
ミレーユの頬が、赤くなった。
涙の跡が残る顔が、さらに熱くなっていく。
「……セドリック、さま」
声が小さかった。
セドリックの目が見開かれた。
それから、耳まで赤くなった。
「"さま"はまだ取れませんか」
微かに笑っていた。声も少し震えていた。
ミレーユは俯いて、答えた。
「もう少しだけ、お時間をください」
二人で笑った。
子どもたちが不思議そうに見上げている。
庭に風が吹いた。
木漏れ日が揺れた。
穏やかな、辺境の朝だった。
夕方。
辺境公爵邸のミレーユの部屋に、手紙が届いた。
父からだった。
封を切ると、便箋には一行だけ。
「お前が笑っているなら、それでいい」
ミレーユは便箋を胸に当てた。
目を閉じた。
父の筆跡。簡潔で、不器用で、けれど温かい。
「ありがとうございます、お父様」
誰もいない部屋で、そう呟いた。
王都。王太子府の執務室。
エドワールは一人、机に向かっていた。
机の上に、書類の束が積まれている。
枢密院から届いた命令書。「業務の引き継ぎ体制を早急に構築せよ」。
リゼットは実家に帰ったまま、戻っていない。
取り巻きの貴族は、一人もいない。
エドワールは書類の束の中から、一枚の紙を手に取った。
ミレーユが十年間作成していた業務記録の写し。
枢密院の審議の際に控えとして残されたものが、王太子府に送られてきていた。
丁寧な筆跡だった。
一字の乱れもない、簡潔で正確な記録。
エドワールはその文字を見つめた。
十年間、この字が自分を支えていた。
外交書簡も、社交の段取りも、物資の契約も。
全てが、この筆跡で組まれていた。
それを、知らなかった。
知ろうとしなかった。
エドワールの指が、紙の上で止まった。
「……返せ、と言ったのは俺か」
声は低く、掠れていた。
返事はなかった。
エドワールは記録の紙を机に戻し、椅子の背にもたれた。
天井を仰いだ。
高い天井に、夕日の光が細く差している。
あの夜会の広間と同じ高さの天井だった。
あの時は、百を超える貴族がいた。取り巻きが笑い、リゼットが傍にいた。
今、この天井の下にいるのは、自分一人だった。
エドワールは目を閉じた。
夕日の光が、ゆっくりと壁を移動していく。
やがて、執務室から光が消えた。
(完)
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