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「お前に使った十年を返せ」と言われたので、お返しした結果がこちらです  作者: 月雅
第2章

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第1話「届かない荷」

穏やかな朝だった。こんな朝が続くことを、わたくしはまだ信じきれずにいる。


窓を開けると、辺境の夏の空気が頬に触れた。 湿度が低く、朝はまだ涼しい。けれど陽が昇りきれば、じりじりと肌を焼く暑さになる。


孤児院の庭から、子どもたちの声が聞こえていた。


「おかあさん、かぶがこんなに大きくなったよ!」


最年少の男の子が、菜園のかぶを両手で抱えて走ってくる。


ミレーユは窓辺で微笑んだ。


あの夜会から、もう数か月が過ぎた。 辺境に来てから季節が一つ、巡ろうとしている。


菜園の野菜が育ち、農家との契約も安定し、子どもたちの食事は日に三度しっかりと出せるようになった。


ここにいたい、と思った日から、この場所は少しずつ変わっていった。


朝食の後、ミレーユは辺境公爵邸の書斎に向かった。


孤児院の修繕計画の次段階に取りかかる必要があった。 屋根と水回りの本格修繕。応急処置の板はもう限界に近い。雨の度に子どもたちが桶を並べる光景を、これ以上続けるわけにはいかない。


書斎に入ると、セドリックが先に机に向かっていた。


辺境領の交易記録を広げ、帳簿と照らし合わせている。


「おはようございます、セドリックさま」


「おはようございます、ブランシャール嬢。今日も早いですね」


穏やかな声だった。


けれど、ミレーユの目はセドリックの額に薄く浮いた汗を見逃さなかった。


夏の暑さが、この人には堪える。


血の気の薄い肌に、汗が光っている。呼吸がわずかに浅い。


「窓を開けましょうか」


「いえ、大丈夫です。少し暑いだけですから」


セドリックは微笑んだが、帳簿を持つ手の甲に、青い血管が浮いていた。


ミレーユはそれ以上言わず、隣の椅子に座った。


修繕に必要な資材の一覧を確認する。 木材。建材。釘。防水用の樹脂。


発注書の下書きはすでに完成していた。 辺境で調達できるものは限られるため、王太子領を経由する幹線街道を通じて取り寄せる必要がある。


ミレーユはセドリックが以前作成した辺境領の交易記録に手を伸ばした。


どの街道を通って、どの商会から、何をどれだけ仕入れてきたか。その流れを把握しておきたかった。


頁をめくる指先が、文字の上をなぞった。


丁寧な筆跡だった。 一字一字、言葉を選んで書かれた記録。


初めてこの人の字を見た時は、その丁寧さに驚いた。 今は違う。見慣れた字だった。


この字を書く人の横で、資料を広げている。 それが日常になっている。


指先が、無意識にセドリックの字の輪郭をなぞっていた。


ミレーユはその手の動きに気づいて、指を止めた。


「発注書は昨日のうちに仕上げてあります。王太子領経由の木材商会に送る分です」


ミレーユは声を事務的に戻した。


セドリックが頷いた。


「ありがとうございます。返答は通常であれば十日ほどでしょうか」


「ええ。早馬であれば五日ですが、商会の事務処理を含めると十日が目安かと」


発注書を封じ、使用人に託した。


それが、五日前のことだった。



返答が来ない。


十日が過ぎ、十二日が過ぎた。


ミレーユは書斎の机に、商会からの受領確認すら届いていないことを確かめた。


通常ではありえないことだった。 受領確認は書簡が届いた時点で発送されるもので、事務処理の都合で遅れるものではない。


書簡が届いていないか、届いたが対応できない状態にあるか。


ミレーユは発注先の商会に、別便で確認の書簡を送った。


三日後、返答が届いた。


商会の主の筆跡で、簡潔に記されていた。


「申し訳ございませんが、現在、王太子領経由の街道で物流が停止しております。荷を動かすことができません」


ミレーユは書簡を机に置いた。


物流の停止。 木材の発注が滞っているだけではない。


ミレーユは椅子から立ち上がり、別の書類を引き出した。 辺境領に出入りする商人たちからの直近の報告を束ねたものだった。


一通目。穀物の入荷が遅れている。 二通目。鉄製品の納品が未着。 三通目。薬草の原料を扱う行商人が、「街道が使えない」と言って引き返した。


全て、ここ二週間以内の報告だった。


ミレーユの指先が冷えた。


木材だけではない。 穀物。鉄製品。薬草。


辺境領全体の物流が、止まり始めている。


王太子領を経由する幹線街道。 王国東部の物資がこの経路を通って各地に届く。その中継機能が失われている。


原因は明白だった。


ミレーユが解除した物資供給契約。 ブランシャール家の信用保証を撤回したことで、王太子領の契約が連鎖的に崩壊した。その影響が、幹線物流路の機能不全として、東部全域に広がっている。


ミレーユは書斎を出た。



セドリックは応接間にいた。


窓際の椅子に座り、帳簿に目を通している。額の汗を袖で拭う仕草が、さきほどより頻繁になっていた。


「セドリックさま。お話がございます」


ミレーユの声に、セドリックが顔を上げた。


ミレーユの表情を見て、帳簿を閉じた。


「何かありましたか」


「物流が止まっています」


ミレーユは椅子に座り、商会からの返答と、商人たちの報告を並べた。


セドリックが一通ずつ目を通す。 表情が、読み進めるごとに引き締まっていった。


「木材だけではないのですね」


「はい。穀物、鉄製品、薬草の原料。全てが王太子領を経由する幹線路を通って届いていました。その経路が機能していません」


セドリックは報告書を机に戻した。


「原因は」


「王太子領の物資供給契約の連鎖的な崩壊です。幹線路の中継機能が失われたことで、東部全域に影響が及んでいます」


ミレーユは声を落とした。


「このまま放置すれば、冬までに辺境の食糧と燃料の備蓄が足りなくなります」


セドリックの手が、膝の上で止まった。


沈黙が落ちた。


窓の外から、子どもたちの笑い声が聞こえている。 菜園で遊んでいるのだろう。


その声が、今は胸に刺さった。


ミレーユは物流の地図を広げた。


王太子領を経由する幹線路。辺境領への支線。周辺の領地との接続点。


指先が、地図の上を滑る。


「王太子領を迂回する代替経路を探す必要があります」


ミレーユの目が、辺境の南に止まった。


「ここです。モンフォール伯爵領。辺境の南に位置し、独自の物流経路を持っています。ここを経由すれば、王太子領を通らずに東部の物資を辺境に引き込める可能性があります」


セドリックが地図を覗き込んだ。


「モンフォール伯爵とは、薬草の取引で繋がりがあります。辺境で採れる薬草の一部を、以前から伯爵領に卸しています」


「それは使えます。既存の取引関係があるなら、交渉の足がかりになる」


ミレーユの声に、力が戻っていた。


手が空くと不安になる癖が、身体の奥で疼いた。 けれど今回は違う。やるべきことが、明確にある。


守らなければならないものがある。


この孤児院。この子どもたち。この辺境の暮らし。


穏やかな朝が続くことを信じきれないと、今朝思った。 けれど、信じられないなら守ればいい。


セドリックがミレーユを見ていた。


「ブランシャール嬢」


「はい」


「モンフォール伯爵は少々──気難しい方です」


ミレーユは顔を上げた。


セドリックの目に、申し訳なさと、それから微かな笑みがあった。


ミレーユは答えた。


「気難しい方との交渉は得意です」


二人の目が合った。


一瞬、互いの口元がほころんだ。


すぐに、ミレーユは地図に視線を戻した。


代替経路の詳細を詰めなければならない。モンフォール伯爵への書簡の文面も考える必要がある。


穏やかだった朝が、もう遠い。


けれど、胸の奥にあるのは不安だけではなかった。


二人で向き合える問題がある。 その事実が、不思議な充実感として、静かに胸を満たしていた。



王都。王太子府の執務室。


側近が、書類の束を抱えて入ってきた。


「殿下。物資供給の代替契約を三件試みましたが、いずれもブランシャール家の信用保証なしでは商会側が応じません」


エドワールは机の上の書類から目を上げなかった。


「他の公爵家に頼め」


「ノワール家にお伺いしましたが、現在殿下との直接の取引には慎重な姿勢でして」


エドワールのペンが止まった。


沈黙が、執務室に落ちた。


側近は一歩退き、もう一つの報告を口にした。


「加えて、王太子領の物流停止の影響が、東部の辺境領にも及び始めているとの報告がございます」


エドワールは書類に目を戻した。


「……それが俺に何の関係がある」


声は低かった。


以前のような尊大さは、そこになかった。


側近は何も言わず、一礼して退室した。


執務室に、エドワールだけが残った。


窓の外で、王都の鐘が鳴っている。


その音が、誰もいない部屋に落ちて、消えた。

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