第2話「冬を越すために」
辺境の街道に、空の荷馬車が一台、止まっていた。
御者が荷台の縁に腰を下ろし、煙管をくゆらせている。荷を積む予定だった場所は空のままで、幌だけが風に揺れていた。
ミレーユはその荷馬車の横を通り過ぎながら、視線だけで確認した。
商会の荷印がない。行き先の札もない。
街道に止まっているのではなく、動けずに止まっているのだ。
辺境公爵邸に戻ると、書斎の机の上に報告が積まれていた。
昨日の夕方から今朝にかけて届いたもの。辺境領の各地から、使用人や商人の手で運ばれてきた書簡の束。
ミレーユは一通ずつ開封し、内容を確認した。
ベルフォンテーヌ南地区の商人から。穀物の卸値が上がり始めている。王太子領経由の穀物が入らなくなり、在庫を放出している商家が価格を吊り上げた。
東の集落の農家から。秋の収穫に必要な鉄の農具が届かない。鍬の刃が欠けたまま使っているが、これでは畑を深く耕せない。
孤児院の世話役から。薬草の備蓄が残り少ない。子どもの一人が腹痛を訴えたが、煎じ薬の原料が手に入らない。
ミレーユは報告書を机に並べた。
全て、同じ原因だった。
王太子領を経由する幹線物流路の機能不全。 穀物、鉄製品、木材、薬草の原料。全てがあの街道を通って辺境に届いていた。
問題の規模は、孤児院の修繕どころではない。
辺境領全体が、冬を越せなくなる。
◇
セドリックが書斎に入ってきたのは、ミレーユが報告書を読み終えた直後だった。
「状況は」
短い問いだった。普段の穏やかな口調に、硬さが混じっている。
「想定より深刻です」
ミレーユは報告書を三つの束に分けて机に並べた。
「まず食糧。穀物の入荷が止まり、域内の在庫も限られています。農家は自家消費分を確保するので精一杯で、孤児院や領民への余剰が出にくい状況です」
セドリックが椅子に座り、一つ目の束に目を通した。
「次に資材。鉄製品と木材が届かないことで、農具の修繕も建物の修繕もできません。秋の収穫に響きます」
二つ目の束。
「最後に薬草。子どもたちの体調管理に直結します。煎じ薬の原料が入らなければ、冬の風邪一つ対処できなくなります」
セドリックは三つの束を順に読み、机に戻した。
顔色が悪かった。暑さのせいだけではない。
「放置すれば、冬を越せない世帯が出る」
「はい」
ミレーユは白紙の紙を引き出し、ペンを取った。
「対処を三段階に分けます」
セドリックが顔を上げた。
「第一に、緊急の食糧確保。辺境内の農家との追加契約で、短期をしのぎます。以前契約を結んだ農家に追加の供給を依頼する形です」
ペンが紙の上を走る。数字と項目が、簡潔に並んでいく。
「第二に、中期的な代替物流経路の構築。モンフォール伯爵領との交渉です。これが本命になります」
「第三に、長期的な辺境領の自立的物流網の整備。王太子領に依存しない経路を、恒常的に持つこと」
ミレーユはペンを置き、紙をセドリックの前に滑らせた。
「第一段階はわたくしがすぐに動きます。第二段階は殿下のお力が必要です」
セドリックは計画を見つめた。
三段階の対処が、一枚の紙に収まっている。問題の構造、優先順位、それぞれの担当。全てが明確だった。
「……一晩で、また」
声がかすれた。
以前、孤児院の計画書を見た時と同じ反応だった。
ミレーユは首を振った。
「今回は一晩ではありません。報告書を読んでいる間に、頭の中で組み立てていただけです」
セドリックの目が、ミレーユを見た。
その視線に、驚きだけでなく、信頼があった。
ミレーユの耳の奥が、かすかに熱くなった。
視線を紙に戻した。
◇
午後。ミレーユは孤児院の近くの農家を訪ねた。
以前、食糧供給の直接契約を結んだ三軒の農家。ミレーユが辺境に来て最初に交渉した相手だった。
一番年長の農家の主が、納屋の前でミレーユを迎えた。
「ミレーユさま。物流が止まっているのは、うちも承知しておりますよ」
「ありがとうございます。追加の供給をお願いできないかと思い、伺いました」
農家の主は腕を組んだ。
「お気持ちはありがたい。けどな、正直なところ、うちも苦しいんだ」
ミレーユは黙って聞いた。
「王太子領経由で入るはずだった種と肥料が届いていない。今年の秋蒔きの分だ。追加で出せる余力が、あんまりねえ」
辺境の農家も、同じ問題に直面していた。
物流の停止は、供給だけでなく生産の基盤も揺るがしている。
二軒目、三軒目も同様の回答だった。
追加供給は可能だが、量は限られる。
ミレーユは三軒を回り終えた後、馬車の中で数字を整理した。
三軒から追加で確保できる穀物と野菜の量。 辺境領の人口と、冬までに必要な備蓄量。
差し引いた結果が、紙の上に残った。
当面一か月から二か月は持つ。
だが、秋以降の見通しは立たない。
内部だけでは、根本的な解決にならない。
やはり、外との繋がりが要る。
モンフォール伯爵領との交渉。それが全ての鍵だった。
◇
夕刻。辺境公爵邸の書斎。
ミレーユとセドリックは、並んで机に向かっていた。
モンフォール伯爵への書簡を起草するためだった。
辺境公爵の名義で、伯爵に物流提携を打診する。
セドリックが下書きの文面を書き、ミレーユがその内容を確認し、修正を加えていく。
孤児院の計画書の時と同じ形だった。セドリックの名前と、ミレーユの実務能力。その組み合わせが、ここでも動いている。
「ここの表現は、もう少し柔らかくした方がよいかもしれません」
ミレーユが身を寄せ、セドリックの書いた文面の一行に指を添えた。
「"物流提携を求める"ではなく、"相互の利益に資する取引の可能性をご相談したい"と」
セドリックが頷き、文面を書き直した。
二人の肩が、触れそうな距離だった。
ミレーユはセドリックの手元を見ていた。ペンを動かす指先。丁寧に、一字ずつ形を整えていく筆跡。
セドリックがペンを止め、ミレーユの指先を見た。
文面に添えられたままの、細い指。
セドリックの視線が、自分の手に落ちた。
「あなたの字は、いつも迷いがないですね」
静かな声だった。
ミレーユは指を離さないまま答えた。
「迷いがないのではなく、迷う前に手が動くだけです」
「それを迷いがないと言うのです」
セドリックが微笑んだ。
ミレーユの耳が熱くなった。
視線を書面に戻した。指先が、ようやく文面から離れた。
心臓が、少しだけ速い。
けれど声には出さなかった。
書簡の文面を仕上げ、添え書きをセドリックが自筆で加えた。
「伯爵は実力主義の方です。書面より対面を好む」
セドリックがペンを置きながら言った。
「直接お伺いした方がよいのでしょうか」
「そう思います。書簡だけでは、門前払いになりかねません」
ミレーユは頷いた。
「であれば、馬車旅の準備を進めます。伯爵領までは何日ほどですか」
「馬車で二日です。体調が持てば」
セドリックの声が、最後の一言でわずかに沈んだ。
ミレーユはそれを聞き逃さなかった。
けれど、今は何も言わなかった。
窓の外に、夕焼けが広がっている。辺境の空が、赤く燃えていた。
二人でならできる。
その確信が、危機の只中にあって、静かに根を張り始めていた。
◇
王都。王太子府の執務室。
日が暮れた部屋に、灯りは一つだけだった。
エドワールは机に向かい、ペンを手にしていた。
便箋が一枚、目の前にある。
隣国への定例報告。 月に一度、送らなければならない書簡。
ペンを紙につけた。
書き出しの一行で、止まった。
何と書けばいい。
「貴国の」──その先が出てこない。
文面の組み立て方が、わからなかった。
以前は、机の上に下書きが置かれていた。 丁寧で簡潔な文面。一字の乱れもない筆跡。自分はそれを写して署名するだけでよかった。
その下書きは、もう来ない。
エドワールはペンを置いた。
天井を仰いだ。
高い天井に、灯りの影が揺れている。
声はなかった。怒りも、苛立ちもなかった。
ただ、書けなかった。
それだけが、暗い執務室に残った。




