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「お前に使った十年を返せ」と言われたので、お返しした結果がこちらです  作者: 月雅
第2章

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第9話「手放す勇気」

「殿下。わたし、お話があります」


その言葉が書簡に記されていたのを、ミレーユは辺境公爵邸の書斎で読んだ。


父ギヨームからの手紙だった。


セドリックの熱が下がり、数日の安静を経て、体調が落ち着いた頃に届いた書簡。


ギヨームの筆跡は簡潔だった。いつもと同じ角張った字で、要件だけが記されている。


「リゼット・ノワールが王太子のもとを訪れ、正式に関係を終えた」


ミレーユは書簡を膝の上に置いた。


ギヨームの手紙には、リゼットの言葉が引用されていた。


「殿下のおそばにいたいと思っていました。けれど、わたしがいても殿下のお力にはなれませんでした。わたしは殿下の傍にいることで、自分が必要とされていると信じたかっただけかもしれません」


泣かず、微笑んで去ったと記されていた。


ミレーユは書簡を読み返した。


リゼットの言葉が、胸の中で静かに響いた。


好きな人の傍にいたいという気持ちだけでは、足りない。


ミレーユ自身の十年間が、そこに重なった。


エドワールの傍にいた。義務だと思って、すべてをやった。感謝されることはなく、見てもらえることもなく、最後には「返せ」と言われた。


リゼットは、あの場所で同じことに気づいたのだ。


傍にいるだけでは、何も変わらないということに。


「リゼット嬢は強い方だ」


ミレーユは小さく呟いた。


あの夜会で、困惑した顔でエドワールの袖を掴んでいた令嬢。善意だけを武器に、慣れない社交を必死にこなそうとしていた人。


その人が、自分の意思で離れることを選んだ。


ミレーユは書簡を折り畳んだ。



午後。孤児院の庭。


セドリックはベンチに座っていた。


顔色は、数日前よりずいぶん良くなっている。まだ本調子ではないが、庭の空気を吸えるところまで回復していた。


ミレーユがベンチの傍に立った。


「お加減はいかがですか」


「おかげさまで。ミレーユ嬢のおかげです」


セドリックが微笑んだ。


「嬢」がまだついている。けれど、「ブランシャール嬢」ではなくなった。


その変化が、ミレーユの胸を温めた。


セドリックが表情を改めた。


「お詫びしなければならないことがある、と申し上げました」


熱の夜、言いかけて止められた言葉。


ミレーユは頷いた。


「はい。伺います」


セドリックは膝の上で指を組んだ。ほどいて、また組んだ。


言葉を探している。


ミレーユは待った。


「あなたを辺境にお呼びしたのは、孤児院のためでした」


セドリックの声は静かだった。


「けれど──正直に申し上げれば、それだけではありませんでした」


風が庭の木を揺らした。子どもたちの声が、遠くから聞こえている。


「あなたという人に、会いたかったのです」


セドリックの目が、ミレーユを見た。


怖がっている目だった。けれど、逸らさなかった。


「弟の名義で送られる外交書簡の筆跡を見て、この字を書く人に会いたいと思いました。あの仕事量を、誰にも気づかれずにこなしている人に。孤児院の依頼は本当です。けれど、手紙を出した理由の半分は──私の、個人的な願いでした」


沈黙が落ちた。


ミレーユの胸の中で、何かが静かに満ちた。


驚きではなかった。


「知っていました」


ミレーユの声は穏やかだった。


セドリックの目が見開かれた。


「知って……いた?」


「殿下のお手紙には、孤児院への想いだけでなく、書いた方の想いが滲んでいましたから」


あの手紙を受け取った夜のことを、ミレーユは覚えている。


封蝋のない、差出人不明の便箋。辺境公爵領の紋章が透かしに入った紙。


短い依頼文だった。けれど、紙質を確かめ、インクの色を見て、筆跡をなぞった時、ただの依頼ではないと感じた。


「来てよかったと思っています」


ミレーユは言った。


声が、少しだけ震えた。


「わたくしも、あなたに会いたかったから」


セドリックの目が潤んだ。


唇が震えた。声が出ない。


ミレーユの手が伸びた。


セドリックの頬に触れた。


指先が、温かい肌に触れる。熱の名残はもうなかった。


「泣かないでください」


ミレーユの声は柔らかかった。


セドリックが笑った。目に涙を溜めたまま、笑った。


「あなたがそれを言いますか」


ミレーユの口元がほころんだ。


あの日、声を上げて泣いた自分を、この人は覚えている。


頬に触れた手を、ミレーユはゆっくりと離した。


離す前に、セドリックの手がミレーユの手を包んだ。


温かかった。


熱の夜に握った手とは違う。穏やかで、確かな温度だった。



夕刻。書斎に戻ったミレーユは、ギヨームの書簡の続きを読んだ。


リゼットの離別の報告の後に、もう一段落あった。


「リゼット嬢が去った後のエドワールの様子も記しておく。一人で執務室にいるそうだ。誰もいなくなった」


ミレーユは書簡を机に置いた。


胸の中で、何も動かなかった。


かつてなら、何かが揺れたかもしれない。


十年間を共にした相手だ。怒りがあった。虚しさがあった。


けれど今は、もうなかった。


エドワールの孤独は、エドワール自身が選んだ結果だった。


ミレーユの感情を動かすものは、もうあの場所にはない。


書簡を引き出しにしまった。


窓の外に、夕焼けが広がっている。


辺境の空は広い。王都より、ずっと広い。


ミレーユは窓辺に立ち、セドリックの言葉を思い出していた。


あなたという人に、会いたかった。


自分もそうだったのだと、今なら言える。


あの手紙を受け取った夜。封蝋のない便箋を手に取った時。


行こう、と思ったのは、孤児院のためだけではなかった。


この字を書いた人に、会いたいと思った。


ミレーユは窓辺を離れ、書斎を出た。



孤児院の庭。


子どもたちが夕食前の時間を庭で過ごしている。


セドリックがベンチに座り、最年少の男の子に絵本を読んでやっていた。


ミレーユが近づくと、セドリックが顔を上げた。


「ミレーユ嬢」


「セドリックさま」


人前では、まだ「さま」と「嬢」がつく。


けれど、その呼び方の中に、以前とは違う温度があった。


セドリックが男の子の頭を撫で、立ち上がった。


「これから、二人でどうしていきましょうか」


穏やかな問いだった。


物流の問題はひとまず収まった。孤児院の修繕は進んでいる。冬支度の見通しも立った。


政治的な圧力は父が抑えている。


その先に、何があるのか。


ミレーユは答えた。


「わたくしからお話があります」


セドリックの目が、少しだけ開いた。


ミレーユは続けなかった。


今日ではない。もう少しだけ、この感覚を抱えていたかった。


自分の中で、言葉が形になるのを待ちたかった。


「明日、お話しします」


セドリックは頷いた。


「待っています」


その声は穏やかだった。


ミレーユは微笑んだ。


夕焼けの光が、孤児院の庭を橙色に染めていた。


子どもたちの声が響いている。


この場所で、この人の隣で、自分の言葉を探している。


それが今の自分だった。



ギヨームの書簡に記されていた、もう一つの報告。


リゼットが去った後、エドワールは執務室の窓の外を見ていたという。


夕暮れの王都。灯りが一つずつ点いていく。


リゼットの最後の言葉が、耳に残っていた。


「殿下がお幸せでありますように」


微笑んで去った。泣かなかった。


エドワールは窓に手をつき、その言葉を反芻していた。


幸せ。


その言葉の意味を、考えている顔をしていたという。


ギヨームの書簡には、それだけが記されていた。


簡潔な一文だった。


けれどミレーユは、その一文を読み飛ばさなかった。


読んで、静かに書簡を閉じた。


もう、あの人のことで心が揺れることはない。


それ自体が、ミレーユの答えだった。

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