第8話「熱の夜」
セドリックの手が、熱い。
夕方、庭でセドリックの腕を掴んだ時から、その温度が指先に残っていた。
高すぎる体温。浅い呼吸。ふらついた足取り。
セドリックを屋敷の寝室に連れ帰った後、ミレーユは使用人に水と布を持ってこさせた。
セドリックは寝台に横たわっていた。
額に汗が浮いている。頬が赤い。呼吸が速く、浅い。
ミレーユはセドリックの額に手を当てた。
熱かった。
指先から、熱が染み込んでくるようだった。
「セドリックさま。熱があります」
声は冷静だった。
前世の記憶が、身体を動かしていた。
紛争地の支援施設で、限られた医療資源しかない中、何度も発熱した子どもたちの看病をした。薬が足りない。医師がいない。それでもできることはある。
ミレーユは使用人が持ってきた水を盥に移し、布を浸して絞った。
冷たい布をセドリックの額に乗せた。
「薬草茶を煎じます。世話役に伝えて、孤児院にある薬草の備蓄から解熱に使えるものを持ってきてもらってください」
使用人が頷いて走った。
ミレーユは椅子を寝台の横に引き寄せ、座った。
セドリックの呼吸を見ている。
心臓に後遺症がある。幼い頃の高熱で傷を負った心臓。
発熱は、この人にとって楽観視できない。
命に関わるものではないと、頭ではわかっている。
わかっているのに、手が震えた。
◇
薬草茶を煎じ、少しずつ飲ませた。
額の布を替え、汗を拭いた。
窓の外が暗くなっていった。
使用人が灯りを持ってきた。ランプの光が、寝室を淡く照らす。
「ミレーユさま、交代いたしましょうか」
世話役の女性が、扉の前に立っていた。
「大丈夫です。わたくしがおります」
ミレーユの声は穏やかだったが、動かなかった。
世話役は何も言わず、頭を下げて去った。
孤児院の子どもたちの世話は世話役に任せた。修繕の作業は職人たちが進めている。
今夜、ミレーユがすべきことは、ここにある。
セドリックの呼吸が、少しだけ落ち着いてきた。
薬草茶が効いているのだろう。額の熱も、わずかに下がった気がする。
けれど、まだ高い。
ミレーユは布を絞り直し、セドリックの額に当てた。
セドリックが薄く目を開けた。
「……ブランシャール、嬢」
声がかすれていた。
「"ミレーユ嬢"です」
ミレーユは静かに訂正した。
セドリックの口元が、微かに動いた。笑おうとしたのだろう。
「ミレーユ……嬢」
「はい。ここにおります」
セドリックの目が閉じた。
熱に朦朧としている。
その手が、寝台の上を探るように動いた。
ミレーユの手に触れた。
指が、ミレーユの手を掴んだ。
熱い手だった。
力が弱い。けれど、離すまいとしている指の感触が伝わった。
ミレーユは握り返した。
離さなかった。
夜が深くなった。
ランプの灯りが揺れている。
セドリックの呼吸を数えていた。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
その音を聞きながら、ミレーユの中で記憶が蘇った。
五歳の夜。
母の手を握っていた。
冷たくなっていく手。呼吸が浅くなり、やがて止まった。
泣かなかった。
泣いても仕方がない。泣いても母は戻らない。
あの夜から、感情を閉じた。
大切なものを持てば、失った時に壊れる。だから持たない。
十七年間、そうしてきた。
今、手の中にある温度は、あの夜とは違う。
温かい。熱すぎるほどに、温かい。
けれど、恐怖は同じだった。
また失うのか。
この手が冷たくなっていくのを、また握り続けるのか。
ミレーユの目の奥が熱くなった。
視界が滲んだ。
手は震えなかった。実務は完璧にこなしている。布を替え、薬草茶を温め直し、呼吸を確認し、額の汗を拭いた。
けれど、心がついていかなかった。
セドリックの手を握る力が、強くなった。
夜通し。
手を繋いだまま、朝を待った。
◇
窓の外が白み始めた。
鳥の声が聞こえる。辺境の朝が来ていた。
セドリックの額に手を当てた。
昨夜より、低い。
まだ平熱ではないが、明らかに下がっていた。
ミレーユの肩から、力が抜けた。
セドリックが目を開けた。
ゆっくりと、まぶたが上がる。
ミレーユの顔を見た。
それから、繋いだ手を見た。
ミレーユの目の下の隈を見た。
「ずっと、ここにいてくださったんですか」
声はかすれていたが、昨夜よりはっきりしていた。
「当然です」
ミレーユは答えた。
その「当然」は、かつて十年間使い続けた言葉と同じ音だった。
けれど、意味が違った。
義務ではない。
誰かに命じられたのでもない。
自分がここにいたいから、ここにいた。
セドリックの目が揺れた。
「……心配をかけました」
「はい。とても」
ミレーユの声が震えた。
怒りと安堵が混ざった声だった。
セドリックが目を伏せた。
「あなたが戻った時に、全部揃っていたら──喜んでくださるかと思って」
物資の確認。修繕の準備。ミレーユが王都にいる間、セドリックは一人で進めていた。
この暑さの中で。この身体で。
ミレーユが戻った時にすぐ動けるように。
その事実が、胸を突いた。
十年間、誰かのために尽くして、当たり前にされた。
この人は逆だった。ミレーユのために無理をした。
嬉しいはずだった。
けれど、嬉しさよりも先に、怒りが込み上げた。
「喜ぶ前に倒れられたら、何の意味もありません」
声が硬かった。
セドリックが顔を上げた。
ミレーユの目が、赤かった。
泣いてはいない。けれど、泣く手前の目だった。
セドリックの口が開きかけた。
ミレーユが先に言った。
「お願いです。無理をしないでください」
初めてだった。
誰かに、自分の望みを伝えたのは。
十年間、何も求めなかった。求めれば裏切られると知っていたから。
けれど今は、求めている。
この人に、無理をしないでほしい。倒れないでほしい。自分の傍にいてほしい。
セドリックはミレーユの手を見つめた。
繋いだまま、一晩中離さなかった手。
「……わかりました」
静かな声だった。
「約束します」
ミレーユは頷いた。
声が出なかった。
頷くだけで精一杯だった。
繋いだ手を、まだ離していなかった。
セドリックが小さく息を吐いた。
「一つ、お詫びしなければならないことがあります」
ミレーユが顔を上げた。
セドリックの目は真剣だった。
熱はまだ残っている。顔色も悪い。けれど、目の奥に光があった。
「今はお休みになってください。お話は、回復されてからで結構です」
ミレーユの声は、看病する者の声に戻っていた。
セドリックは何か言いかけたが、目を閉じた。
すぐに、呼吸が穏やかになった。
眠っている。
ミレーユは椅子に深く腰を下ろした。
繋いだ手は、まだそのままだった。
窓から朝の光が差し込んでいる。
大切な人を失う恐怖と向き合った一夜だった。
母を亡くした五歳の夜と同じ恐怖。けれど、結末は違った。
この手は、温かいまま朝を迎えた。
ミレーユは目を閉じた。
この人が大切だ。
その感情が、もう名前を持っていることを、ミレーユは知っていた。
◇
王都。王太子府の執務室。
国王の執務室から退出して以来、エドワールは机に向かっていた。
枢密院からの新たな指示書が置かれている。
「王太子の統治能力に関する再評価を実施するにあたり、業務の現況報告を提出されたし」
その下に、積み上げられた未処理の書類。
側近はいない。
取り巻きはいない。
リゼットも、いない。
エドワールはペンを手に取った。
現況報告。自分の業務の実態を、自分の手で書かなければならない。
ペンを紙につけた。
書き出しで止まった。
以前なら、ここで天井を仰いだ。
書けないことから目を逸らし、誰かを怒鳴り、机を叩いた。
今は、仰がなかった。
ペンを握ったまま、紙を見つめた。
書けない。
けれど、書かなければならない。
もう誰も、代わりに書いてはくれない。
エドワールの顔は蒼白のままだった。
父王の声が、まだ消えない。
けれど、ペンは握ったままだった。
下手な字が、一行だけ紙の上に残っていた。




