第10話「十年の先へ」
ミレーユ・ブランシャールが自分から誰かに「隣にいたい」と言ったのは、この日が初めてだった。
辺境の朝。秋の風が、孤児院の庭を渡っていく。
夏の暑さが遠のき、空気が澄み始めていた。木々の葉が色づき始め、庭の菜園では最後の夏野菜が収穫を終えようとしている。
孤児院の屋根は、新しい木材に変わっていた。
雨の度に桶を並べていた広間の天井は、もう雫を落とさない。子どもたちが走り回る足音が、しっかりとした屋根の下に響いている。
水回りの修繕も終わった。井戸から台所まで、水がまっすぐに流れる。
伯爵領からの物資は定期的に届いている。穀物と鉄製品の備蓄は冬を越すのに十分な量が揃った。薬草の取引も軌道に乗り、煎じ薬の原料に困ることはなくなった。
辺境の冬支度は、順調に進んでいた。
ミレーユは庭に立ち、朝の空気を吸った。
秋の風は冷たいが、心地よかった。
昨日、セドリックに「お話があります」と言った。
今日、それを伝える。
胸の奥で、心臓が強く鳴っていた。
◇
孤児院の庭の奥。大きな木の下のベンチ。
セドリックが座っていた。
体調は、あの熱の夜から時間をかけて回復していた。顔色に血の気が戻っている。夏の暑さが去ったことも、この人には助けになっただろう。
セドリックはミレーユの姿を見て、立ち上がりかけた。
「座っていてください」
ミレーユが言った。
セドリックは頷いて、腰を下ろした。
ミレーユはベンチの傍に立った。
風が、庭の木の葉を揺らしている。木漏れ日が、二人の足元に落ちていた。
子どもたちの声が、庭の向こうから聞こえている。
ミレーユは口を開こうとした。
声が出なかった。
喉が詰まっている。
十年間、求めずに与え続けた。
婚約者としての義務。当然のこと。そう処理して、感情を閉じた。
セドリックの告白を受け入れることはできた。「セドリックさま」と呼び方を変えることもできた。名前から「さま」を外すこともできた。
けれど、自分から「隣にいたい」と求めることは、さらに一段深い壁だった。
求めれば、失った時に壊れる。
五歳で母を失った夜に覚えた恐怖。
泣いても仕方がない。泣いても母は戻らない。だから泣かない。だから求めない。
その習慣が、最後の壁として立っていた。
ミレーユは自分の手を見た。
この手で、子どもたちに食事を作った。契約書を書いた。伯爵と交渉した。父の前で想いを語った。セドリックの熱い額に布を当てた。
この手で、できないことがあるだろうか。
もう大丈夫。
五歳の自分に、そう言い聞かせた。
ミレーユは顔を上げた。
セドリックを見た。
「ここにいさせてください」
声が震えていた。
あの日、声を上げて泣いた時と同じ震え。
けれど今は、涙ではなかった。
「仕事としてではなく、あなたの隣に」
セドリックの目が見開かれた。
ミレーユの声は震えていたが、目は逸らさなかった。
「わたくしは、ここにいたいのです。この孤児院に。この辺境に。──あなたの、隣に」
風が止まった。
木漏れ日が揺れなくなった。
セドリックの唇が動いた。
声が出ていなかった。
目が潤んでいた。
それから、口が開いた。
「ミレーユ」
嬢が、なかった。
ただの名前だった。
セドリックの声は震えていた。けれど、はっきりと聞こえた。
「ずっと、そう言ってほしかった」
ミレーユの視界が滲んだ。
セドリックが立ち上がった。
ミレーユの前に立った。
手を伸ばし、ミレーユを抱きしめた。
ミレーユの手が、セドリックの背中に回った。
額を、セドリックの肩に預けた。
温かかった。
あの夜、手を握り続けた温度。茶碗を受け取る時に触れた温度。ハンカチを渡された時の温度。告白の日に包まれた温度。
全て同じ人の温度だった。
今は、手だけではない。
背中に回した腕の中に、肩に預けた額に、全身でその温度を感じていた。
「……温かい」
ミレーユの声は、ほとんど囁きだった。
セドリックの腕が、少しだけ強くなった。
庭の向こうから、足音が聞こえた。
小さな足音。たくさんの、ばらばらの足音。
子どもたちが駆けてきた。
「おかあさんとセドリック、ぎゅうしてる!」
最年少の男の子が叫んだ。
子どもたちが二人を囲んだ。
笑い声が、秋の庭に弾けた。
ミレーユはセドリックの肩から顔を上げた。
笑っていた。
涙は流れていない。
目の縁は熱かったが、頬にあるのは笑みだった。
泣かないと決めた五歳の少女が、二十二の今、笑っている。
セドリックの隣で。子どもたちに囲まれて。辺境の秋の空の下で。
セドリックはミレーユの手を握ったまま、子どもたちの頭を撫でていた。
膝が窮屈な小さなベンチの傍で、隣に立つ人の手を握って、子どもたちの声の中にいた。
ミレーユは空を見上げた。
秋の空は高く、雲が薄く流れている。
この空の下に、自分が選んだ場所がある。
十年間の献身の先に、自分で選んだ幸福がある。
それを、もう怖いとは思わなかった。
◇
王都。王太子府の執務室。
机の上に、枢密院からの新たな指示書と、積み上げられた未処理の書類がある。
エドワールは一人、ペンを持って机に向かっていた。
書簡の一通に目を落としている。
宮内省からの月次報告の催促だった。
ゆっくりと、書き始めた。
下手な字だった。
読みにくい文面だった。
行が曲がり、言葉の選び方がぎこちない。
けれど、自分の手で書いていた。
自分の言葉で。
誰かの代筆ではなく。
窓から秋の風が入ってきた。
エドワールは一瞬ペンを止めて、窓の外を見た。
秋の王都。木々が色づき始めている。
「……十年、か」
呟きは、あの夜、執務室で一人天井を仰いだ時と同じ言葉だった。
けれど声の温度が違っていた。
諦めと──それだけ。
赦しも再生もない。
ただ、もう誰も代わりにやってくれないという、乾いた現実だけがそこにある。
エドワールは窓から目を戻し、ペンを握り直した。
下手な字の続きを、書いた。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もし楽しんでもらえたなら★★★★★ボタンをぜひ押していただけると嬉しいです!
ブックマークやリアクションなどもとても活力になっています!




