第八話 太后
ルジエの政権は、地揺れによる崩壊からの手際の良い復興策によって、大きな支持を集めつつあった。
しかし、それを憎々しげに陰で見ていたのが宰相その人である。
ルジエ自身もそのことに気づいてはいたが、当面のところ無視することにしていた。
政権の中枢がルジエの手の者全てにおきかえられた今、宰相に手だしの余地はない。
その事態が一変したのは、その日の午後のことだった。
「大変です! 陛下が突然お倒れに――!」
侍従の報に、集まっていた大臣たちが一斉にざわめく。
ルジエはぐっと自分の胸元をつかんだ。
皇帝はルジエよりも年上だが、まだ天から迎えが来るような年齢ではない。
「私が様子を見に行きます。最悪の事態を想定し、宰相の動向に気を配っておきなさい。あとは任せましたよ」
ルジエは大臣たちとともに非公式に今後の政策を協議しているところだったが、その場を中座し、皇帝の元に向かった。
「陛下……!」
ルジエが駆け込むと、皇帝付きの医師団と宰相の姿があった。
「お静かに。手は尽くしたのですが……」
医師の言葉にルジエは目を見開いた。
まさかこんなにあっさりと皇帝が命を落とそうとは、さすがのルジエも思いもよらなかった。
「長年の不摂生が祟ったのでしょう。何度も助言は差し上げたのですが」
そう言って、医師はやり切れないように首を振った。
宰相は黙って皇帝の顔を見つめていたが、不意にルジエの方を振り返った。
「皇后陛下。伝統に則り、葬儀を執り行わなくてはなりません。そのためには、是非皇帝のご長男を呼び寄せなくては」
皇帝の長男。
皇帝は、第一夫人と第二夫人との間には娘しか生まれなかったので、皇帝の長男となれば、第三夫人の子どもになる。
「一度追放した夫人の子を呼び寄せるのですか?」
ルジエは静かな口調で宰相に問うた。
「追放しようとも、皇帝陛下のご長男であらせられることには変わりがありません。ここは、ご長男のヘルダー様においでいただくのが順当でしょう」
宰相の瞳が鈍く光る。
宰相は既に、そのヘルダーと連絡を取り合っているのに違いない。
皇帝崩御は宰相にとっても突然のことだっただろうが、そうでなくとも、ルジエを追い落とすために、その機会を狙っていたのに違いない。
「ヘルダー様はまだ幼くてあらせられたと思いますが?」
ルジエは冷やかな表情で宰相に対峙する。
皇帝が亡くなった今、取り繕う必要などなくなった。
それはお互い様であろうが。
「では、他にどなたがおられると? 少なくともルジエ様の御子よりは、はるかに大きくていらっしゃる。ヘルダー様には葬儀の後、皇帝の位についていただくのが、順当でしょう。――玉座が穢れた血で埋められてはなりませんからな」
穢れた血。
それはすなわち、ルジエのことか。それとも、ルジエの子どものことか。
「確かに。玉座は正当な血統の者が継ぐべきものだわ」
ルジエが素直にうなずくと、宰相は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「分かっていただけて光栄です。では、私は段取りがありますので、これで」
宰相はそそくさとその場を後にした。
これからヘルダーとその母、第三夫人ポリージャの元に行くのであろう。
医師団はその様子を、見て見ぬふりをしていた。
「……穢れた血、ね」
ルジエはそう呟くと、医師団に向き直った。
「御苦労でした。突然のことでしたが、こればかりは仕方のないこと。陛下の御身体を丁重に清めて差し上げて。祭司の者をすぐに呼ぶように」
医師団たちは何か言いたげだったが、ルジエの言葉に黙ってうなずいた。
この時とばかりに動きだしたのは、宰相だけではなかった。
元大臣職にあった者たちがこぞって、皇帝の子どもを担ぎあげて、自分ものし上がろうと慌ただしく動き出したのである。
ルジエ派の家臣たちはそれを逐一ルジエに報告した。
「追い落すべき者が誰なのか、これですぐにわかるわね」
そう言ってルジエは冷やかに笑った。
「しかし……。我々はもちろん、皇后陛下の施政を支持しております。ですが――失礼ですが、血統の話を持ち出されてはこちらが不利かと。宰相などが担いだ皇子に追いやられるなど、我慢なりません。どうか、今のうちに対策を」
家臣たちの心配を余所に、ルジエはそんな忠言を軽く受け流した。
そして、ついに来るべき時が来たのである。
葬儀が終わり、誰を次の皇帝とするか、話し合いの場がもたれた。
家臣たちは次々と皇帝の子どもの名を挙げる。
皇帝は後継ぎには困らないほど、多くの子どもがいる。
それはつまり、国が内紛でつぶれてしまうほど、後継者候補が多いということでもあった。
そんな中、ルジエはついに皇后の椅子から立ち上がったのである。
「見苦しい言い争いはその辺にしておくがよい」
そして、玉座へと歩み寄った。
「ルジエ様……!」
誰かが悲鳴のような声を上げた。
すると、それを皮切りに、別の場所から怒鳴り声があがる。
「その女は皇族ではない! 所詮は卑しき民草の娘にすぎぬ! 玉座に座らせるな!」
宰相の腰巾着の男。
わっと立ち上がる大臣たちを、ルジエに掌握された親衛隊が遮った。
「口に気をつけるが良い」
そう言って、ルジエは王笏をかかげた。
艶やかな象牙の杖の先には、二匹の蛇が絡みつく黄金の剣のシンボルが付いている。
「な、なんだ……」
宰相をはじめとした、旧大臣たちは呆けた顔で、その様子を見つめる。
「歴史に造詣のある宰相なら、これに見覚えがあるでしょう?」
宰相はルジエが手にする笏を睨んだ。
「それが――、それがなんだというのだ」
咄嗟のことに、宰相は口をもぐもぐさせた。
「愚かな……。所詮は見せかけの賢者というわけですか。では、教えてあげましょう。私は初代皇帝の長男、ベルグ皇子の直孫にあたる者。本来ならば、我が祖先、ベルグ皇子が皇位を継ぐべきところを、策略によって中央を追われた。元をたどれば、この玉座は私のものといっても過言ではない。そして、我が一族に伝わるこの王笏が、何よりの証拠である」
初代皇帝は、軍人でありながら、国の中枢までのぼりつめ、ついには初代皇帝に列せられた武断の王である。
王の間には、未だその肖像画が掲げられ、それはルジエと驚くほどよく似た目をしていた。
そして、ベルグ皇子は、二代皇帝の謀略により、失脚させられた悲劇の皇子として名高い。
「馬鹿な!」
悲鳴のような声が上がるのを、ルジエは微笑みをたたえて見つめた。
「さて。宮廷に無用な混乱を招くような不届き者を、どうすべきかしら?」
今やルジエの側近となったルジエの後見人、ダイアスが恭しく応える。
「皇位簒奪を目論み、あまつさえ皇后陛下を――、大后陛下を“卑しき者”とまで罵ったのですから、一族含めて、死罪がふさわしいかと」
「そうね。では、そのように」
ルジエが王笏で宰相と元大臣たちを指し示すと、親衛隊が素早く動いた。
「ば、バカな!? 我々が何故、死罪など……! お前のような小娘に――!」
しかし、宰相が最後まで言い終えるより先に、親衛隊は彼らを王の間から連れだしていた。
こうして、ついにルジエはこの国の実権を握ったのである。
亡き皇帝もルジエが初代皇帝の直系であることを知っていた。だからこそ、貧しい山村出身のルジエを受け入れたのである。
彼がルジエを愛したのは、彼女が美しかったからだけではない。
傍系の出身であった皇帝もまた、初代皇帝を崇拝し、純粋な血統というものに憧れていた。
それが、ルジエへの一層の愛へとつながったのだった。