第二章 非売品
大佐の事務所は、潰れたカラオケ店の中にある。
川のミャンマー側、新龍城開発区の手前に、民兵が検問を構える小さな町がある。その目抜き通りに、ピンク色の看板が残っている。「カラオケ さくら」。日本語で書いてある。中国人の経営者が、日本人客を当てこんで建てた店だった。客は来なかった。経営者は夜逃げし、建物は大佐のものになった。
朝十時。舟を降りた灯子が店のドアを押すと、中からこぶしのきいた歌声が流れてきた。
「――ああ、津軽海峡、冬景色ぃ――」
第七大隊の指揮官、ミンゾー大佐は、いちばん奥の個室で、マイクを両手で握っていた。五十歳手前の、腹の出た男だった。迷彩のズボンに、中日ドラゴンズの野球帽をかぶっている。帽子のつばの裏に、マジックで「ミンゾー」とカタカナで書いてあるのを、灯子は知っていた。
歌が終わるまで、灯子は戸口で待った。待つ時間には料金がかからない。
大佐は最後の一音を長く伸ばし、マイクを置き、灯子に向かって手を叩いた。自分の歌に、ではなく、灯子の到着に。
「おお、有坂さん。えらい早いな。朝飯は食ってきたんか」
大佐の日本語は、岐阜の言葉だった。二十代の終わりに技能実習生として日本へ渡り、岐阜の自動車部品工場で三年、溶接をした。寮の食堂のテレビで演歌と将棋と野球を覚え、時給七百円で溶接を覚え、帰国してから民兵に入って、銃を覚えた。
「日本はわしに、えらいええもんを教えてくれた。溶接と、演歌と、人は時給で動くっちゅうことや」
初めて会ったとき、大佐は灯子にそう言った。二年前、弟を探しに来たばかりの灯子に。
「本社の話です」
灯子はソファに座らずに言った。大佐は眉を上げ、テーブルの上の魔法瓶から、甘い紅茶を二つの湯のみに注いだ。
「座りや。立っとると、話が高うなるで」
「話の値段は、座っても同じでしょう」
「ほやな。ほやけど、わしの首が疲れる」
灯子は座った。
大佐は紅茶をすすり、帽子を脱いで、薄くなった頭を掻いた。
「本社の、誰や」
「三浦蒼。二十六、日本人の女」
「ああ」
大佐は、知っている顔をした。知っていることを隠さない顔だった。この男は、知っていることは全部売る。隠すのは、まだ値段がついていないものだけだ。
「本社のエースや。恋人のふりして、日本の男から金を取る係の、いちばん上におる。部長のお気に入りやで。あれを出すんか」
「出せますか」
「買い戻しなら、わしが窓口に話を通したる。手数料は十万バーツ。ただし、本社が売るかどうかは、本社が決める」
「脱走なら」
大佐は湯のみを置いた。
「有坂さん。あんた、本社の川門がどうなっとるか、知っとるやろ」
「電子錠。暗証番号は週に一度変わる。見張り小屋に二人。その上に、真壁」
「知っとるやないか」
「確認です」
「確認にも値段はつくで」
大佐は笑ってから、少し声を落とした。
「あとな、今の本社は、ぴりぴりしとる。ひと月前に、財布が空になったんや」
「財布」
「本社が稼いだ金や。ドルと同じ値段の暗号の金、USDTっちゅうやつで、四億円ぶん。持ち主の董事長の財布から、どっかへ消えた。中の誰かが動かしたらしい。部長は、月末までに見つけな首が飛ぶ。比喩やないで。董事長は、本当に飛ばす」
灯子は湯のみを持ち上げ、口をつけずに戻した。
「誰が動かしたか、わかってるんですか」
「わかっとったら、わしが売っとるわ」
大佐は肩をすくめた。
「部長が見つけられんかったら、董事長はどうするんですか」
「部長を替える。それだけや。去年の摘発で、川沿いの園区がいくつも潰れたやろ。ほやけど、一年で、また建った。持ち主も、ちょっとは替わったけどな。建物と発電機と回線は、動かんでな。人は、求人を出せば、なんぼでも来る。部長も、人や」
大佐は、それを、自分の工場の話でもするように言った。
「ついでに言うとくと、去年の摘発から、タイの警察とアメリカの捜査機関が、本社の財布をずっと追っとる。どこへ金が流れたか、帳面みたいに全部見えるんやと。わしにはよう分からんが、部長の顔が青いのは、そっちのせいもある」
四億円。ひと月前。そして、千葉の台所に干された牛乳パックと、八百万円。
灯子は、その三つを頭の中で並べた。並べただけで、まだ結ばなかった。
「真壁さんは、まだ本社に」
「おる。毎週日曜、わしと将棋を指しに来る。あの爺さん、四間飛車しか指さん」
「強いんですか」
「強い。わしは岐阜の寮で、毎晩、食堂のおっさんに負けとった。真壁さんにも負ける。ほやけど、一局ごとに、あの人の癖を一個ずつ覚えとる。いつか勝ったる」
大佐は、灯子の顔を見た。
「有坂さん。あんたの弟さんのことは、わしも覚えとる。真壁さんのことを、あんたに売ったのもわしや。ほやで、言うとくわ。本社の仕事を受けるんなら、私情は抜きにしときや。私情は、高うつく」
「私情に値段はつけません。値段がつかないものは、持ち歩かないことにしてます」
「ほうか」
大佐は帽子をかぶり直した。
「ほんなら、買い戻しの電話、つないだろか」
*
本社の窓口は、ふつう、日本語の話せる中国人の若い男が出る。二年前に灯子が湊の値段を聞いたときも、そうだった。
大佐のノートパソコンの画面に映ったのは、別の男だった。
五十代の初めの、日本人の男。白いワイシャツの襟元に、小さな金色の社章をつけている。髪は七三に分けて固めてあり、銀縁の眼鏡の奥で、目が笑っていた。男の背後の壁には、額に入った毛筆の書が掛かっている。
――お客様は、寂しい。
「はじめまして。新龍城第三園区、営業本部の黒木と申します。皆からは部長と呼ばれております」
黒木は画面越しに、きれいに頭を下げた。
「本日は、当社のスタッフの件でご連絡いただいたとか」
「三浦蒼さんのご家族から、依頼を受けています。有坂です」
「有坂さん」
黒木は名前を繰り返した。ゆっくり、舌の上で転がすように。
「ご家族は、三浦さんの賠償金を払う用意があります。四百万円。大佐を通して、現金でお支払いします」
灯子は四百万と言った。三浦の母から受け取ったのは八百万で、自分の取り分を引いても、もっと出せた。だが最初から全部を見せる交渉はない。
黒木は、画面の向こうで指を組んだ。
「四百万円。ご立派ですね」
「お受けいただけますか」
「残念ですが」
黒木は眉を下げた。本当に残念そうな顔だった。
「三浦くんは、非売品です」
「非売品」
「ええ。三浦くんは当社のエースでして。先月も、お一人で二千八百万円の売上を立てています。スタッフの成長は、会社の財産です。財産は、売りません」
「では、いくらなら」
「いくらでも、売りません」
黒木は、にこやかに言った。
「それより、有坂さん。少しお伺いしてもよろしいですか」
「どうぞ」
「三浦くんのお母様は、たしか、船橋のスーパーで、レジのお仕事をされていますね。お父様は、三浦くんが中学生のときに家を出られた。お母様のお給料は、月に十四万円ほど。お住まいは、家賃五万八千円の、二DKのアパート」
灯子は黙っていた。
園区は、働かせる人間の家族を、全部調べてある。住所も、勤め先も、給料も。逃げた者の家族を脅すために。
「そのお母様が、四百万円をすぐにご用意できる」
黒木は、眼鏡の奥で目を細めた。
「素晴らしいことです。親の愛ですね。どうやってご用意なさったのか、私、とても興味があります」
「借りたんでしょう。親戚から」
「三浦くんには、頼れるご親戚はいらっしゃらないはずですが」
「調べ不足じゃないですか」
「そうかもしれません。私の勉強不足です」
黒木は、また頭を下げた。下げた頭の、七三の分け目が、まっすぐ画面のこちらを向いた。
「本日はわざわざありがとうございました。またぜひ、ご連絡ください。有坂さんのお名前は、覚えておきます」
画面が暗くなった。
灯子はしばらく、暗い画面に映った自分の顔を見ていた。
しくじった、と思った。
金のない家が、金を出した。それを、自分の口で本社に教えた。四億円が消えてひと月の本社に。
「あの部長な」
大佐が、紅茶の残りを飲み干して言った。
「今晩あたり、わしに電話してくるで。有坂っちゅう回収屋は何もんや、ゆうて。わしは売るでな」
「何を」
「あんたのことや。元自衛隊。腕がええ。二年前、本社の川門で弟を撃たれた。撃ったのは真壁さん。全部、売り物や」
「いくらで」
「あんたの弟の話なら、五万バーツやな」
「売らない分の値段は」
「売る値段の倍やで」
灯子は財布を出さなかった。大佐は、残念そうでもなく頷いた。
「ほやろな。あんたは、そういう人や」
*
メーランに戻ったのは午後の三時だった。
ノイの店の二階で、伊吹は床に座って、散弾銃に油を差していた。灯子が話し終えると、伊吹はウエスを握ったまま、ぽかんと口を開けた。
「つまり、三浦さんが、四億円盗んだ犯人ってことですか」
「たぶん」
「で、盗んだ金で、自分の母親に八百万渡して、母親から回収屋を雇わせて、自分を盗み出させようとしてる」
「たぶん」
「それ、めちゃくちゃかっこよくないですか」
灯子は伊吹を見た。
「いや、だって」
伊吹は膝を立てた。
「本社ですよ。逃げようとしたら真壁に撃たれる本社で、四億ですよ。それを、ばれないように動かして、外の回収屋を、母親に雇わせる。しかも、相場の五倍出せば、断ってた回収屋も受けるって読んでる。実際、受けてるし」
「受けたのは、私の計算」
「三浦さんの計算どおりの計算ですよね」
灯子は答えなかった。答えると、伊吹の言うとおりだと認めることになった。
「問題は、もう買い戻せないことだ。部長は三浦を疑い始めた。疑わせたのは私だ。疑いが確かめられたら、三浦は消される。だから時間がない」
「脱走ですよね」
「脱走には、中の人間がいる。川門の暗証番号は、週に一度変わる。知っているのは中の管理側だけ。三浦がエースなら、知っている可能性がある。でも、外からは三浦と話せない。本社の中の電話は、全部、会社のものだ」
「大佐の兵隊は? 外を見張ってるんですよね」
「外周の見張りに、大佐の部下のチョーがいる。塀ごしに、紙と電話を受け渡すくらいはやってくれる。一日千バーツで。でも、チョーは中に入れない。塀の内側で、三浦に話を通す人間がいる」
言いながら、灯子は、自分がどこへ話を運んでいるのかわかっていた。わかっていて、運んだ。
伊吹が、ウエスを床に置いた。
「俺を売ってください」
灯子は、すぐには返事をしなかった。
「本社は、勧誘業者から新人を買ってますよね。日本人の若いの。俺、ぴったりじゃないですか。十九で、日本語ができて、電話が上手い。しかも、掛け子の仕事を全部知ってる。中に入って、三日で三浦さんを見つけて、話をつけて、チョーさんに紙を渡します」
「中で何をされるか、知ってるだろ」
「知ってます。俺、一年いたんで」
伊吹は、自分の左手の甲を、右手の親指でこすった。そこに、煙草を押しつけられた丸い痕が四つ並んでいる。成績が悪かった週に一つずつ、と、前に一度だけ伊吹は言った。
「トウコさんが入ったら、すぐばれますよ。手を見られたら一発です。銃を撃つ手ですもん。俺の手は、電話を持つ手です」
灯子は伊吹の手を見た。柔らかい手だった。去年、灯子が回収したときより、少しだけ指の節が硬くなっていた。散弾銃の重さを覚え始めた手だった。
灯子は、頭の中で数字を並べた。
この手が一番早い。他の手は全部遅い。遅ければ三浦は消える。三浦が消えれば、八百万は返さなくていいが、仕事は失敗になる。失敗した回収屋の名刺は、家族のあいだで回らなくなる。
それから、数字にならないものを並べた。
本社の川門。白髪の男。五発。込め直す手つき。
中に人間を入れれば、真壁の動きがわかる。何時に門に立ち、何時に寝て、何人を連れて歩くのか。
灯子は、自分が二つ目の並びのほうを長く見ていることに気づいた。気づいて、目を逸らさなかった。逸らしても、そこにあるのは同じだった。
「条件がある」
「はい」
「三日。三日で三浦に話がつかなかったら、あんたは出てくる。出られなかったら、私があんたを買い戻す」
「買い戻す」
「本社の値段で」
「俺の値段、いくらですかね」
「知らない。四十万で売って、いくらで買い戻すことになるか、見当もつかない」
「四十万? 安っ」
「日本語ができて、若くて、前科がない。書類の上ではね。相場だよ」
「いや、俺、警察官役で月三百万稼いでたんですけど」
「本社は、それを知らない。知られたら値段が上がる。黙ってて」
伊吹は、少し考えてから笑った。
「俺、自分を安く売るの初めてです」
「慣れなくていい」
*
勧誘業者は、大佐が紹介した。
バンコクとメーランのあいだを往復して、空港で「日本語のカスタマーサポート、月給四十万」の若者を拾い、川を渡らせ、園区に一人いくらで売る男たちだ。灯子はその一人に、伊吹を「メーランで拾った、仕事を探してる日本人のガキ」として渡した。業者は伊吹の歯を見て、腕を見て、パスポートを見て、灯子の手に九万バーツ握らせた。四十万円。業者の取り分は、本社に売るときに乗せるのだろう。
伊吹は、自分の本物のパスポートを持って行った。偽物は、本社の受付で見抜かれる。
出発は、その日の夜だった。
メーランの外れの空き地に、幌をかけたトラックが停まっていた。荷台に、伊吹のほかに若い日本人が三人乗った。一人は二十歳くらいの男で、膝を抱えて泣いていた。空港で騙されて、さっき携帯を取り上げられたばかりの顔だった。
伊吹は荷台の縁に腰かけて、その男の肩を軽く叩いた。何か言った。男が、驚いた顔で伊吹を見た。それから、少しだけ泣き止んだ。
灯子は空き地の端の暗がりに立って、それを見ていた。
伊吹が、こちらを見た。暗がりの中の灯子が見えたはずはない。それでも伊吹は、手を挙げかけて、やめて、代わりに、指を三本立てた。
三日。
トラックが走り出した。テールランプが、国境の川の方角へ揺れながら遠ざかった。荷台の幌の隙間から、伊吹の白いスニーカーが一瞬見えた。
灯子は店に戻り、三階の自分の部屋に上がった。
床板の一枚を外すと、下に、緑色の金属の箱がある。米軍の、五〇口径の弾薬箱。防水で、錆びない。中に、バーツの札束と、小さな金の延べ板が入っている。二年間、回収で稼いだ金の残り。円にして、千六百万円ぶん。目標は二千万だった。二千万あれば、沖縄の小さな港で、中古の釣り船を一艘買って、客を乗せて沖へ出て、何も数えずに暮らせる。
灯子は業者から受け取った九万バーツを、弾薬箱には入れなかった。
机の引き出しから茶封筒を出し、札をそこに入れ、封をして、表に油性ペンで書いた。
伊吹。
封筒を引き出しに戻し、床板を元に戻した。それから窓を開けて、川の方角を見た。暗くて何も見えなかった。川の向こうの、本社の窓の明かりだけが、遠くに、横一列に並んでいた。二千人ぶんの、夜通し消えない明かりだった。




