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回収屋は、払った分だけ撃つ  作者: 久賀ラトル


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第一章 一発二百バーツ

 弾は一発、二百バーツする。


 闇で買えば四十バーツの九ミリ弾を、有坂灯子は自分の帳簿で二百バーツとして付けていた。差額の百六十バーツは、撃った後に起きることの代金だ。撃てば音が出る。音が出れば誰かが来る。誰かが来れば、また撃つ。一発目が二発目を呼ぶ値段を、最初の一発にまとめて乗せておく。そうしておけば、引き金に指をかけるたびに、八百円ちょっとの重さを感じることができる。


 午前二時四分。ラーイ川のミャンマー側、バナナ畑の端に、灯子は腹ばいになっていた。


 目の前に、トタンを継ぎはぎした塀がある。高さは三メートル弱。上に鉄条網が二重に巻いてある。中は「金鶏園区」と呼ばれる小さな詐欺拠点で、六十人ほどが働かされている。三階建ての宿舎が二棟。どの窓にも鉄格子があり、どの窓も夜通し明るい。日本の夕方の時間に合わせて、電話をかけ続けているからだ。


「二時十分まで、あと六分」


 隣で伊吹大地が囁いた。十九歳。去年の今ごろ、灯子が別の園区から引きずり出した若者だ。今はその灯子の隣で、黒いパーカーのフードをかぶり、レミントンの散弾銃を抱いている。


「時計くらい自分で見られる」


「いや、俺が読み上げると緊張感が出るかなって」


「出なくていい」


「三分しか開かないんすよね、あそこ」


「三分で五万バーツだ。一秒、二百七十八バーツ」


「それ今言う必要あります?」


 灯子は答えずに、塀の一点を見た。トタンの継ぎ目に、内側から南京錠をかけた小さな通用口がある。外周を見回る民兵の一人に、五万バーツを払ってある。二時十分にそこが開き、二時十三分に閉まる。開いているあいだに、客が二人、出てくる。


 客の名前は小池と浜野。小池は二十四歳の男で、浜野は二十二歳の女だった。どちらも去年の秋に「タイで日本語のカスタマーサポート、月給四十万」という求人に応募し、バンコクの空港から車に乗せられて、川を渡った。家族が灯子に連絡してきたのは、本人たちが借りた電話で「助けて」とだけ送ってきた三週間後だ。料金は一人百五十万円。前金で半分、引き渡しで残り半分。


 二時十分。


 通用口の南京錠が外れる音がした。扉が内側に開き、懐中電灯の光が一度だけ地面を撫でた。合図だ。


 灯子は立ち上がり、二十メートルを走った。伊吹がついてくる足音が、少し大きい。


 扉の隙間に、民兵の若い男の顔があった。迷彩のシャツに、首から五六式自動歩槍をぶら下げている。男は灯子を見て顎を引き、後ろを振り返った。


 闇の中から、二人が出てきた。


 痩せた男と、髪を一つに縛った女。二人ともサンダルを履いていた。灯子は写真で見た顔と照らし合わせた。小池の左眉の上の古い傷。浜野の、写真より十キロは落ちた頬。


「小池さん。浜野さん」


 二人が息を呑んだ。


「お母さんたちから頼まれて来た。有坂です。走れますか」


 浜野が頷き、小池が泣きそうな顔で何か言いかけた。灯子はその腕をつかんで、外へ引いた。


 そのとき、三人目が出てきた。


 四十代の男だった。白髪の混じった坊主頭で、ランニングシャツが汗で黒く貼りついている。男は扉の隙間に体をねじこみ、灯子の袖をつかんだ。


「日本の方ですか。日本の方ですよね。私も、私も連れてってください」


 灯子は男の顔を見た。写真の中にない顔だった。


「名前は」


「沢井です。沢井和則。埼玉の、川口の」


「沢井さん。あなたの分はもらってない」


 男の口が開いたまま止まった。


 民兵が早口で何か言った。ビルマ語はわからないが、意味はわかる。人数が違う、ということだ。五万バーツは二人分の値段で、三人目は契約にない。


「トウコさん」


 伊吹が言った。声が上ずっている。


「一人くらい、いいじゃないですか」


「よくない」


「でも」


「一人くらい、が通るなら、次は二人くらいになる。その次は全員だ。全員連れて走ったら、全員撃たれる」


 灯子は沢井の指を、袖から一本ずつ外した。男の指は熱く、震えていた。灯子はベストの胸ポケットから名刺を一枚抜き、男の手に押しこんだ。白い紙に、電話番号とLINEのID、それに「回収業 有坂」とだけ印刷してある。


「家族に電話させて。この番号に。料金は百五十万。分割も相談に乗る」


「ぶん……」


「分割払い。ここを出られる日が少し遅れるだけで、出られないわけじゃない。生きて待ってて」


 民兵が扉を押した。沢井の体が内側へ押し戻され、名刺を握った手だけが最後まで隙間に残った。扉が閉まり、南京錠がかかる音がした。


 二時十二分。一分余った。灯子はその一分を払い戻してもらうべきか一瞬考え、やめた。


「行く」


 四人はバナナ畑の中を、川に向かって走った。


   *


 畑の真ん中あたりで、背後の園区にサイレンが鳴った。


 空襲警報のような、間延びした音だった。振り返ると、宿舎の屋上でサーチライトが首を振り始めていた。


「なんで」


 伊吹が叫んだ。


「沢井さんだ」


 灯子は走りながら言った。


「戻された後、騒いだか、誰かに見られた。それか、扉を開けた男が自分で鳴らした。疑われる前に、見つけた側になれば金は返さなくていい」


「最悪じゃないですか」


「最悪の値段は、もう払ってある」


 浜野が転んだ。灯子は足を止めずに、その脇に手を差しこんで引き起こした。女の体は驚くほど軽かった。


 畑が切れて、土手に出た。乾季に入ったばかりで、川はまだ水が多い。黒い水面の向こう、百メートルほど先に、タイ側の岸の明かりがぽつぽつと並んでいる。土手の下、葦の陰に、細長いロングテールボートが一艘つないである。舟尾に、車のエンジンを改造した舟外機が載っている。


 背後で、エンジンの音が二つ、重なって近づいてきた。


 バイクだ。畑の脇の農道を、ヘッドライトを揺らしながら走ってくる。後ろに一人ずつ、銃を持った男を乗せているのが、光の揺れ方でわかった。


「伊吹、エンジン」


「はい!」


 伊吹が土手を滑り降り、舟に飛びこんだ。灯子は小池と浜野の背中を押して舟に乗せ、底に伏せさせた。それから土手の上に戻り、肩にかけていた五六式を下ろした。


 中国製のカラシニコフの写しで、銃床は下に折り畳める型だった。二年前に大佐から買った。三十発の弾倉に、二十発だけ入れてある。満杯にするとばねが弱るからだ、と人には言っていた。本当は、二十発で足りない夜は、三十発でも足りないと思っているからだった。


 灯子は銃床を伸ばし、肩に当て、土手の草の上に肘をついた。


 最初のバイクが、三百メートル先の農道の曲がり角に現れた。ヘッドライトの光が、まっすぐこちらを向いた。


 後ろの男が撃った。


 オレンジ色の火が、ばらばらと三つ光った。弾は灯子の左、ずっと上を抜けていった。走るバイクの後ろから撃って当たるのは、映画の中だけだ。


 灯子は照門越しにヘッドライトを見た。光の少し下、エンジンのあたりに照星を置いた。


 一発。


 ヘッドライトが、空を向いた。バイクが横倒しになり、光が畑の中を転がっていった。乗っていた二人が投げ出されたのが、影でわかった。


「二百」


 灯子は口の中で言った。


 二台目のバイクは、曲がり角の手前で止まった。賢い。止まって、降りて、撃ってくる。男が農道の脇の盛り土に身を伏せる。そこから、さっきより正確な連射が来た。弾が灯子の三メートル手前の土を跳ね上げ、葦を裂いた。


 灯子は土手を一段降りて、身を低くした。


「トウコさん、エンジンかかりました!」


「出して。私が乗ったらすぐ」


「乗ってないじゃないですか!」


「今乗る」


 灯子は盛り土の方角に二発撃った。当てるためではなく、頭を下げさせるための二発。四百バーツ。それから土手を駆け下り、舟の舳先に飛び乗った。


 伊吹がスロットルを開けた。


 ロングテールボートの長い軸の先で、スクリューが水を叩いた。舟は葦を押し分けて、川の真ん中へ滑り出した。


 盛り土の男が立ち上がって撃った。舟の右舷すれすれに、水柱が三本立った。浜野が悲鳴を上げた。小池は浜野の頭を抱えこんでいた。


「伊吹、右に寄せて。流れに乗って」


「右ってどっちです、舟の右ですか、俺の右ですか」


「同じだろ」


「後ろ向いて座ってるんですよ俺!」


 灯子は舳先にしゃがんだまま、五六式を後ろへ向けた。揺れる舟の上から、揺れない土手を撃つ。男は盛り土の陰から上半身を出して、弾倉を替えようとしていた。


 灯子は息を吐いて、舟が波の底に沈む瞬間を待った。


 一発。


 男の体が、盛り土の向こうへ消えた。当たったかどうかは、わからなかった。わからなくていい。もう撃ってこなければ、それで値段は合っている。


 三台目の光が見えた。農道ではなく、土手の上を走ってくる、四輪の光だった。荷台に何か大きなものを載せたピックアップトラック。荷台の上で、別の光がこちらに首を回した。


 サーチライトだ。


 白い光が川面を走り、舟の上を一度通り過ぎ、戻ってきた。光の中で、伊吹の顔が真っ白に浮かび上がった。


「やばいやばいやばい」


「ライトを撃つ」


「あれ一個いくらですか」


「知らない。高いんじゃないか」


 灯子は光そのものを狙った。目が焼かれて、照星が見えない。光の真ん中ではなく、光の左下、荷台の縁があるはずの場所に、記憶で照準を置いた。


 二発撃った。一発目は外れた。二発目で、光が消えた。ガラスの割れる音が、水の上を渡ってきた。


 闇が戻ってきた。


 トラックの荷台から、まだ撃ってくる。だが光がない。音のする方向へ、当てずっぽうに撃っているだけだ。舟はもう川の三分の二を渡っていた。タイ側の岸が近づいてくる。向こうの土手の上には、もう誰も追ってこられない。追ってくれば、そこはタイの国で、タイの国境警備隊がいる。


 灯子は五六式の銃床を畳んだ。


「六発」


「え?」


「今夜、六発撃った。千二百バーツ」


 伊吹は舵を握ったまま、しばらく黙っていた。それから言った。


「沢井さんの分、引いたら、いくら残ります?」


 灯子は答えなかった。


 舟がタイ側の葦の中に突っこんで止まった。浜野が、底に伏せたまま、声を殺して泣き始めた。小池がその背中をさすっていた。小池の手も震えていた。


   *


 メーランの町は、川から車で十分のところにある。


 国境の町らしく、看板の文字がタイ語とビルマ語と中国語で三重になっている。市場の裏手、トタン屋根の並ぶ路地の奥に、ノイの麺屋がある。一階が店で、二階と三階を灯子が借りている。家賃は月に六千バーツ。ノイは家賃のほかに、灯子が持ちこむ厄介ごとの数だけ別料金を取る。


 明け方五時。店のシャッターを半分だけ上げて、ノイが鍋に火を入れていた。


「生きてる顔が四つ」


 ノイは灯子たちを見て、タイ語なまりの日本語で言った。四十代の半ばで、首が太く、腕が太く、声が太い。若いころバンコクの日本料理屋で十年働いたので、日本語は灯子より口が悪い。


「足りない顔は?」


「ない。最初から二人分」


「ふうん」


 ノイは伊吹の顔を見た。伊吹は目をそらした。


 小池と浜野は、店の奥の長椅子に座らされ、ノイの出した米の麺をすすった。浜野は箸を持ったまま、何度も手を止めた。小池は三杯おかわりした。


 朝になれば、ノイの従兄弟が車で二人をメーランの入国管理局まで送る。二人は「自力で川を渡って逃げてきた被害者」として出頭し、大使館が引き取る。灯子のことは話さない約束になっている。話しても誰も困らない程度には、灯子はこの町の役人に金を払っていたが、話さないに越したことはなかった。


 二人の家族に、それぞれ電話をかけた。小池の父親は電話口で声を上げて泣き、浜野の母親は一言も話せず、代わりに出た兄が何度も礼を言った。灯子は、残金の振込先をもう一度読み上げた。


 電話を切ると、カウンターの端に伊吹が座っていた。麺に手をつけず、灯子の名刺を一枚、指の間で回している。


「沢井さん、たぶん、殴られますよね」


「たぶん」


「俺のときも、殴られました。逃げようとしたやつがいると、同じ部屋の全員が」


「知ってる」


「それでも、置いてくんですね」


 灯子は伊吹の前の丼を、少し押した。


「食べて。冷めると、ノイが怒る」


「怒らないよ」


 厨房から、ノイが言った。


「冷めたら、温め直し代、二十バーツ」


 伊吹が笑いかけて、笑えずに、麺をすすり始めた。


 去年の伊吹は、こんな顔をする人間ではなかった。灯子が回収したとき、伊吹は別の園区で「警察官役」として月に三百万円を稼ぐ掛け子だった。電話の向こうの日本の老人に、「こちら警視庁捜査二課の者ですが」と、本物の刑事より刑事らしい声で話した。その声で、何人もの老人から何千万円も引き出した。回収を頼んできたのは、伊吹の祖母だった。祖母は、孫が何をしていたかを知らなかった。灯子は知っていた。そして伊吹は、日本に帰れなかった。帰れば、空港で逮捕される。だから灯子のところにいる。給料は月に三万バーツ。仕事は、灯子の雑用と、舟の操縦と、たまに散弾銃を抱いて隣に伏せること。


「トウコさん」


「何」


「沢井さんの家族から電話がかかってきたら、俺、行っていいですか」


「料金を払ったらね」


「払ったら、ですね」


「払ったら、私が行く。あんたはエンジン」


 伊吹は丼の底を見たまま、うん、と言った。


   *


 昼過ぎに、二件目の仕事が来た。


 来たというより、ノイの店の電話にかかってきた。灯子の番号は、被害者の家族のあいだで回っている。ネットの掲示板には書かれていない。家族から家族へ、口伝えで回っている。それが、この仕事のいちばん大事な広告だった。


 ノイが二階に上がってきて、受話器を差し出した。


「日本の女の人。ビデオで話したいって」


 灯子は自分のスマートフォンで、相手のLINEにかけ直した。


 画面に、五十代の女の顔が映った。疲れた顔だった。後ろに、古いアパートの台所が見える。流しの上に、洗った牛乳パックが二つ、逆さに干してある。


「有坂さん、ですか」


「はい」


「三浦と申します。三浦幸恵。千葉の、船橋に住んでます。娘を……娘を、お願いしたくて」


 娘の名前は三浦蒼。二十六歳。三年前に「タイのリゾートホテルで通訳」という仕事に応募して、それきり家に帰っていない。最初の一年は月に一度だけ短い連絡があり、そのあと二年は、連絡が途絶えた。


 一か月前、娘から電話が来た、と幸恵は言った。


「知らない番号からでした。蒼は、メーランっていう町の、ノイさんっていう人のお店に、有坂さんっていう人がいるから、その人に頼んでって。それだけ言って、切れてしまって」


「娘さんは、どこにいると言ってましたか」


「シンリュウジョウ……新しい、龍の……」


「新龍城開発区」


「はい。そこの、第三」


 灯子は画面から目を外さずに、指先だけ止めた。


 新龍城開発区、第三園区。ラーイ川沿いに並ぶ詐欺拠点の中で、いちばん大きく、いちばん新しく、いちばん警備が固い。働かされている人間は二千人とも三千人とも言われる。中で働く者たちはそこを「本社」と呼んでいる。会社のように運営されているからだ。


「三浦さん。料金のことは、聞いてますか」


「はい。あの……八百万円、で、お願いできないでしょうか」


 灯子は、今度は表情も止めた。


 相場の五倍以上だった。


「三浦さん。普通の料金は、百五十万円です。本社は難しい場所なので、もう少しいただくことになりますが、八百万は」


「お願いします。蒼が、そうしてくれって。八百万で頼めば、有坂さんは断らないって」


 幸恵の後ろで、牛乳パックがひとつ、流しに落ちた。幸恵は振り返らなかった。


「お金は……お金は、用意しました。そちらに、届けてもらうことになってます。チャイさんという方が」


 チャイは、メーランの市場で両替屋をやっている男だ。バーツと、ドルと、人民元と、暗号資産を、手数料を取って何にでも替える。この町で金が動くとき、たいていチャイの手を一度は通る。


「わかりました。少し考えさせてください。今夜、こちらから連絡します」


「お願いします」


 幸恵は画面の向こうで、深く頭を下げた。下げたまま、なかなか上げなかった。灯子は通話を切った。


 ドアの外で、階段がきしんだ。


「伊吹。聞いてたなら入って」


 伊吹が、ばつの悪そうな顔で入ってきた。


「八百万って言いました?」


「言った」


「本社って言いました?」


「言った」


「トウコさん、本社は断ってましたよね。ずっと。割に合わないって」


 この一年で、本社から人を出してくれという依頼は四件あった。灯子は四件とも断った。断るたびに伊吹に、本社は割に合わない、と言った。警備が固く、民兵への袖の下が高く、失敗したときに死ぬ確率が高い。百五十万では、どう計算しても合わない。


「八百万なら合う」


「ほんとに?」


「計算した」


「今の三秒で?」


 階段の下から、ノイの声がした。


「トーコ。チャイが来たよ。でっかい鞄持って」


 チャイは小柄な、顔の丸い男だった。店の奥のテーブルに、黒い布の鞄を置き、ファスナーを開けた。中に、千バーツ札の束が詰まっていた。


「百七十七万バーツ。八百万円。手数料はもらってるから、きっちり」


「誰から」


「依頼人から」


「千葉の三浦さんは、スーパーのパートだと思う。台所に、洗った牛乳パックが干してあった」


 チャイは丸い顔で笑った。


「トーコさん。客の秘密は、両替屋の商品。売るときは、ちゃんと値段をつけて売るよ」


 灯子は札束を一つ取り、指で弾いた。本物の手触りだった。


「受ける」


 伊吹が、灯子の横顔を見た。


   *


 夜、灯子は三階の自分の部屋で、銃を分解した。


 床に新聞紙を敷き、その上に部品を並べる。チェコ製のCZ75B。九ミリ、十六発。二年前に、大佐から五六式と一緒に買った。鋼鉄のフレームは重いが、重いぶん撃ったときの跳ねが小さい。スライドを外し、銃身を抜き、リコイルスプリングを抜く。ブラシで、火薬の煤を落とす。


 手は、何も考えなくても動く。陸上自衛隊にいた六年間で、八九式小銃を目をつぶって分解できるようになった。射撃検定は特級だった。それが役に立つ仕事に就くとは、制服を着ていたころには思っていなかった。


 銃身を窓の明かりに透かして、中を覗いた。螺旋の溝が、きれいに光っている。


 二年前の夜も、こうして銃身を覗いていた。


 あのときの本社は、まだ今の場所ではなかった。川の少し上流、古い製材所の跡に建っていた。弟の湊はそこにいた。二十一歳だった。大学を休学して「タイのIT企業でインターン」という募集に応募し、半年後に、借りた電話で灯子にだけ連絡してきた。母にも父にも言わないで、と湊は書いてきた。姉ちゃんなら何とかしてくれるだろ、自衛隊なんだし、と。


 灯子は、そのとき自衛隊をもう辞めていた。それでも休暇を取ったふりをして、タイへ飛んだ。何のつてもなかった。メーランの安宿に泊まり、片言の英語で人を訪ね歩き、ノイの店に辿り着き、ノイに大佐を紹介され、大佐に金を払った。舟を借りた。


 最初は、買い戻そうとした。園区の中には、家族が「賠償金」を払えば人を返す窓口がある。大佐が間に入って、本社に値段を聞いてくれた。四百万円だった。灯子の貯金は、六年分の給料の残りで百三十万円あった。足りない分を待ってくれと頼み、値切り、三度目の電話で、本社の窓口の男は笑って言った。値切る家族の子は、値切った分だけ働いてもらうことにしています。


 払えなかった。


 それで、湊の計画に乗った。湊が書いてきた計画は、湊ひとりのものではなかった。同じフロアの五人と一緒に逃げる、と湊は言った。灯子は、六人を乗せられる舟を用意した。


 夜、灯子は舟の上で待っていた。川門と呼ばれる裏の門から、湊たちが走ってくるはずだった。


 門は開いた。最初に出てきたのは、湊ではなかった。門の上の見張り台に、人影が立った。


 白髪の男だった。遠くて顔は見えなかった。投光器の光の中に、白い頭と、右手に下げた拳銃の形だけがあった。銃身の短い、回転式の拳銃だった。


 湊たちが門から飛び出してきた。五人だった。一人足りなかった。


 白髪の男は、走る五人に向けて、ゆっくり撃った。一発ずつ、間を置いて。灯子は舟の上で、その発砲の数を数えていた。数えることしかできなかった。手元に銃はなかった。あのころはまだ、銃を持っていなかった。


 五発。


 五発撃って、男は撃つのをやめた。弾倉を振り出し、何かを押しこみ、また閉じた。六発入る拳銃で、一発を残して、込め直した。


 湊は、川まであと三十メートルの浅瀬で倒れていた。


 灯子は、そこまで行けなかった。舟の上に、浅瀬に、弾が来た。舟を出していた大佐の部下が、勝手に舟を出した。灯子は舟から飛び降りようとして、その部下に殴られて、舟の底に押さえつけられた。


 あとで、湊の遺体は大佐が引き取って、灯子に「売った」。二十万バーツだった。灯子は払った。


 白髪の男の名前は、その半年後に、大佐から聞いた。二万バーツだった。それも払った。


 真壁。元は日本のヤクザで、本社の警備主任をしている男。


 灯子は銃身をフレームに戻し、スプリングを戻し、スライドを戻した。スライドを引き、離した。金属が噛み合う、乾いた音がした。


 本社の警備主任は、今も真壁だ。それは、先月の時点で大佐から聞いていた。そっちは一万バーツだった。値下がりしていた。


 八百万円なら、合う。


 計算したのは本当だった。何を計算したのかを、伊吹には言わなかった。


 灯子は弾倉に、九ミリの弾を一発ずつ押しこんだ。十六発。三千二百バーツ。

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