第9話 黒
第1章 勇者の終焉
第9話 黒
ニィ……。
裂けた口が、笑みの形へ吊り上がっている。
「…………」
ヤヌスは動けなかった。
異形の顔に浮かんでいるものが。
笑顔だと理解するまでに、時間がかかった。
喜んでいるわけではない。
楽しんでいるようにも見えない。
人間がそうするから。
形だけを真似ている。
そんな笑い方だった。
「…………」
異形が首を傾けた。
ゴキ。
骨の鳴る音が響く。
さらに傾く。
ゴキッ。
人間ならば耐えられない角度まで。
頭が肩へ近づいていく。
大きく見開かれた目は。
その間も、ヤヌスから離れなかった。
「…………ッ」
ヤヌスは右足を半歩引いた。
異形が。
半歩、前へ出る。
「…………」
ヤヌスが止まる。
異形も止まった。
再び、右足を引く。
異形が左足を前へ出す。
まるで。
鏡に映った自分を見ているように。
こちらの動きへ合わせている。
ヤヌス
「……なんなんだよ、お前」
「…………」
返事はない。
異形の口元だけが。
もう1度、ゆっくりと吊り上がった。
ニィ……。
「――ッ!」
姿が消えた。
ヤヌスの目には。
動き出した瞬間すら見えなかった。
腐った肉の臭いが。
突然、真横から鼻を突いた。
「…………!」
振り向く。
そこに。
異形の顔があった。
触れ合いそうなほど近くに。
裂けた口。
濁った目。
歯の隙間から垂れる、粘ついた唾液。
異形の腕が動く。
異様に長い指が。
ヤヌスの脇腹を打ち抜いた。
「がッ……!」
身体が地面から浮く。
木々の間を飛び。
背中から太い幹へ叩きつけられた。
肺の中にあった空気が、一気に吐き出される。
地面へ落ちる。
胸の奥に。
鈍い痛みが広がった。
「ぐ……っ」
塞がったはずの傷が、内側から裂けたように疼く。
ヤヌスは片膝をついたまま、顔を上げた。
「…………」
異形は。
最初に立っていた場所へ戻っている。
いつ移動したのか分からない。
長い両腕を力なく垂らし。
変わらない笑みを浮かべている。
ニィ……。
「…………ッ」
ヤヌスが拳を握る。
その時。
背後から。
濡れた息遣いが聞こえた。
「…………」
ゆっくりと振り返る。
木の陰から。
別の顔が覗いていた。
片方の目が潰れ。
顎が胸元まで裂けた顔。
そいつも。
笑っている。
ニィ……。
「…………」
左。
茂みの奥。
四つん這いになった異形が、歯を剥き出している。
右。
曲がった木の幹へ。
手足の長い影が逆さまに張りついている。
頭上。
枝の隙間から。
幾つもの濁った目が、ヤヌスを見下ろしていた。
ニィ……。
ニィ……。
ニィ……。
同じ笑みが。
暗闇の中へ次々と浮かび上がる。
「…………」
最初から。
1体ではなかった。
囲まれていた。
湿った呼吸。
喉の奥で鳴る低い唸り。
地面へ落ちる唾液。
腐臭と血の臭いが混ざり。
息を吸うだけで吐き気が込み上げた。
老人の言葉が蘇る。
『その身体では、この奈落から出るどころか。森の奥へ辿り着くことすらできん』
そのとおりだった。
外へ出る道すら分からない。
身体も治りきっていない。
その状態で。
自分は、何が潜んでいるのかも知らずに小屋を出た。
ヤヌス
「……クソッ」
異形たちが。
一斉に地面を蹴った。
「――ッ!」
正面から迫った爪を、身体を沈めてかわす。
頭上を風が切った。
ヤヌスはその懐へ入り。
拳を腹へ叩き込む。
鈍い感触。
異形の身体が折れた。
だが。
倒れない。
「…………!」
異形は腹へ拳を受けたまま。
ヤヌスの顔を覗き込んだ。
ニィ……。
その口が大きく開く。
ヤヌスは咄嗟に顎を蹴り上げた。
歯が砕ける。
血と唾液が飛び散った。
異形が仰向けに倒れる。
直後。
背中へ爪が食い込んだ。
ヤヌス
「ぐッ!」
別の異形が。
後ろからヤヌスへしがみついている。
肩へ顔を寄せ。
裂けた口を開いた。
噛まれる寸前。
ヤヌスは身体を捻り、背中の異形ごと木へ激突する。
鈍い音。
腕の力が緩む。
振り払う。
だが。
息をつく暇もなかった。
足元から。
四つん這いの異形が飛びかかる。
「――ッ!」
牙が左脚へ食い込んだ。
肉が裂ける。
ヤヌス
「離せッ!」
頭を蹴る。
1度。
2度。
それでも顎は離れない。
別の異形が、右腕へ爪を立てた。
さらに1体。
胸へ飛びつく。
重さに耐えきれず。
ヤヌスの身体が地面へ倒れた。
「ぐ……ぁッ!」
背中へ衝撃が走る。
治りかけていた骨が軋んだ。
腕を押さえつけられる。
脚へ噛みつかれる。
爪が服を裂き。
皮膚の上を削っていく。
異形たちは。
ヤヌスをすぐには殺そうとしなかった。
押さえつけ。
引き裂き。
まだ息があるうちに。
少しずつ喰らおうとしている。
「…………!」
目の前に。
異形の顔が降りてくる。
潰れた鼻。
腐った歯。
口の中にこびりついた、黒ずんだ肉片。
そこから。
血と唾液が頬へ落ちた。
それでも異形は。
笑っていた。
ニィ……。
ヤヌス
「離せぇッ!!」
無理やり右腕を引き抜く。
肩へ激痛が走る。
構わず。
目の前の異形を殴り飛ばした。
身体を起こす。
脚へ噛みついていた頭を踏みつけ。
顎を外す。
よろめきながら立ち上がった。
だが。
倒したはずの異形が。
背後で再び起き上がっていた。
砕けた歯を血と共に吐き出し。
変わらない笑みを浮かべている。
「…………ッ」
前から。
横から。
頭上から。
次々と襲いかかってくる。
拳を振るう。
かわす。
蹴り飛ばす。
腕で爪を受け止める。
それでも。
すべては防げない。
背中が裂ける。
頬を爪が掠める。
肩へ歯が食い込む。
振り払うたびに。
別の何かが身体へ取りついた。
息が続かない。
足が動かない。
胸の奥が。
呼吸のたびに焼けるように痛んだ。
「はっ……はぁ……!」
怖い。
初めて。
はっきりと、そう思った。
老人の言うとおりだった。
今の自分では。
こいつら1体を倒すことすら難しい。
それが。
何体いるのかも分からない。
森を抜けるどころではない。
仮面の魔人を探すことも。
レオンの仇を討つこともできない。
ここで。
名も知らない化け物に囲まれ。
生きたまま喰われて終わる。
「…………ッ」
異形の爪が。
ヤヌスの肩を掴んだ。
別の腕が首へ巻きつく。
後ろへ引き倒される。
地面へ身体が落ちる、その瞬間。
ドクン。
「……っ」
右手が。
焼けるように熱くなった。
包帯の下で。
黒い痣が脈打つ。
ドクン。
「…………」
異形たちの動きが止まった。
1体だけではない。
ヤヌスの腕を掴んでいたものも。
脚へ噛みつこうとしていたものも。
木の上から飛びかかろうとしていたものも。
すべてが。
同時に動きを止めていた。
「…………?」
ヤヌスの身体から。
ゆっくりと離れていく。
1歩。
さらに、1歩。
さっきまで浮かべていた笑みが消えている。
裂けた口が閉じられ。
喉の奥から、怯えたような唸り声が漏れた。
異形たちは。
ヤヌスの顔を見ていない。
視線は。
右手だけへ向けられている。
「…………」
ヤヌスも。
自分の手を見る。
血に濡れた包帯。
破れた隙間から。
黒い痣が覗いていた。
ドクン。
脈打つたびに。
黒が指先へ広がっていく。
同時に。
異形たちの身体が大きく震えた。
「…………」
知っているのか。
こいつらは。
この黒が何なのか。
それとも。
何も知らないまま。
本能だけで怯えているのか。
ヤヌス
「……なんなんだよ」
右手が震える。
異形への恐怖とは違う。
自分の身体の一部へ向けた恐怖だった。
「…………」
あの夜の光景が蘇る。
仮面の魔人へ襲いかかる自分。
壊れた言葉を繰り返し。
何度倒されても。
殺すことだけを考えていた。
そして。
ルミナ。
泣きながら。
自分の名を呼んでいた。
それなのに。
自分は。
あの細い首へ、黒い手を伸ばした。
『……おまえか?』
「…………ッ」
胃の奥から。
冷たいものが込み上げる。
この黒が広がれば。
自分は。
また、ああなる。
誰が敵なのかも。
誰を守りたかったのかも忘れる。
レオンの最期の言葉さえ失って。
ルミナを殺そうとする。
ヤヌス
「なんなんだよ……これは……」
答える者はいない。
異形たちは距離を取り。
黒い右手を警戒している。
その姿が。
何よりも恐ろしかった。
人間ではないものが。
自分の中にある何かを恐れている。
なら。
自分の中には。
一体、何がいる。
「…………」
異形の1体が。
低く唸った。
恐怖に震えながら。
それでも。
空腹に耐えきれないように、片足を前へ出す。
別の異形が続く。
さらに。
もう1体。
怯えている。
黒から逃げろと。
本能が訴えている。
それでも。
目の前にある血と肉を。
諦めることはできない。
異形
「ギ……ァアアアッ!」
1体が駆け出した。
それを合図に。
すべての異形が、再びヤヌスへ殺到する。
「――ッ!」
腹へ体当たりを受ける。
踏ん張る力は残っていなかった。
地面へ押し倒される。
両腕を掴まれ。
胸の上へ異形が跨がった。
右手の黒を恐れながら。
それでも。
飢えた口を大きく開く。
「ぐ……ッ!」
首を動かそうとしても。
背後から髪を掴まれ、地面へ押さえつけられる。
裂けた口が迫る。
熱い息が。
顔へ触れる。
「…………」
ヤヌスは。
自分の右手を見た。
黒。
異常な力。
消えない痣。
死ぬはずの傷を塞いだ身体。
理性を失い。
家族すら殺そうとした自分。
ヤヌス
「俺は……」
喉から。
震えた声が漏れる。
ヤヌス
「……何なんだよ……」
返事はない。
異形の歯が。
喉へ触れようとする。
「…………」
今度こそ。
死ぬ。
そう思った瞬間。
仮面が浮かんだ。
『……まだ、弱い』
見下ろす目。
血に濡れた剣。
その向こうで。
レオンが光へ変わっていく。
『……生きろ』
最後まで。
自分を見ていた目。
そして。
崖の上で。
必死に手を伸ばしていたルミナ。
あの男が。
すべてを奪った。
レオンを殺し。
ルミナまで。
自分の手が届かない場所へ残した。
「…………」
まだ。
何ひとつ返していない。
まだ。
あの男は生きている。
ヤヌス
「…………まだ」
身体が震える。
怖い。
目の前の異形がではない。
右手が。
自分自身が。
何よりも怖かった。
また。
すべてを忘れるかもしれない。
自分ではなくなるかもしれない。
それでも。
ヤヌス
「まだ……死ねない」
今まで。
どこかで黒を押さえつけていた。
広がるなと。
あの夜の自分へ戻るなと。
身体の奥で。
必死に拒んでいた。
「…………」
ヤヌスは。
その力を抜いた。
黒を受け入れたわけではない。
力を求めたわけでもない。
ただ。
拒むことをやめた。
飲み込まれることへ。
抗わなかった。
ヤヌス
「……あいつを殺すまでは……」
ドクン。
黒が手首を越える。
腕へ。
肘へ。
皮膚の下を。
生きた何かのように這い上がってくる。
ヤヌス
「ぐ……ぁ……!」
熱い。
身体の内側へ。
溶けた鉄を流し込まれているようだった。
黒が肩へ届く。
首筋へ。
胸へ。
ヤヌスの右半身を、一気に侵していく。
ドクン――!!
「――――ッ!」
心臓が。
大きく跳ねた。
頭の中で。
何かが切れた。
「…………」
ヤヌスを押さえつけていた異形の身体が。
宙へ吹き飛んだ。
木の幹へ衝突する。
骨の砕ける音。
別の異形も。
弾かれたように地面を転がっていく。
「…………」
ヤヌスが立ち上がる。
俯いた顔。
乱れた黒髪の隙間から。
赤く濁り始めた瞳が覗く。
右腕だけではない。
肩から胸。
頬の下まで。
黒い筋が這い上がっていた。
「…………」
異形たちが後退する。
喉を鳴らし。
歯を剥きながら。
それでも近づこうとはしない。
ヤヌスは。
自分の右手を見つめた。
指を動かす。
拳を握る。
自分の手ではないように感じた。
黒く染まり。
血に濡れ。
異形たちを怯えさせている手。
「…………ッ」
まだ。
僅かに理性が残っている。
その理性が。
逃げろと叫んでいた。
これ以上、この黒へ身体を渡すな。
また。
ルミナへ手を伸ばした時のようになる。
その時。
横から異形が飛びかかった。
「…………!」
考えるよりも先に。
右腕を振るった。
拳が。
異形の顔面へ当たる。
ぐしゃり。
濡れた音がした。
「…………」
異形の顔が潰れた。
頭が不自然な方向へ捻れ。
身体が地面を跳ねながら吹き飛んでいく。
木の根元へぶつかり。
動かなくなった。
「…………え」
ヤヌスは。
自分の拳を見た。
血が付いている。
黒い指の隙間に。
砕けた歯と肉片が挟まっていた。
「…………」
殺した。
自分が。
たった1度。
腕を振っただけで。
さっきまで。
何度殴っても起き上がった異形を。
今は。
簡単に殺せた。
「…………ッ」
息が詰まる。
吐き気が込み上げる。
自分の手が。
恐ろしい。
けれど。
立ち止まることは許されなかった。
2体目が迫る。
爪が胸元へ伸びる。
「…………」
今度は。
自分から踏み込んだ。
腹へ拳を突き刺す。
骨が砕け。
異形の身体が折れ曲がった。
そのまま持ち上げ。
地面へ叩きつける。
土が爆ぜる。
異形の背中が、あり得ない方向へ曲がった。
「…………」
3体目。
首を掴む。
爪が腕へ食い込む。
痛い。
血も流れている。
それなのに。
身体は動く。
力が抜けない。
死なない。
「…………」
ヤヌスは異形の頭を。
木の幹へ叩きつけた。
鈍い音。
まだ動く。
もう1度。
幹へ叩きつける。
頭から血が飛ぶ。
まだ指が動いている。
さらに。
もう1度。
頭蓋が潰れ。
ようやく身体から力が抜けた。
「はっ……はぁ……」
荒い呼吸。
怖かった。
目の前にいる異形も。
黒く染まった自分も。
すべてが怖い。
けれど。
死ななかった。
自分は。
まだ生きている。
異形は壊れた。
自分ではなく。
向こうが。
「…………」
胸の奥にあった恐怖が。
ほんの僅かに薄れた。
別の異形が、背後から腕を振り上げる。
ヤヌスは振り返り。
その腕を掴んだ。
引き寄せる。
膝を腹へ突き刺した。
何かが潰れる。
異形が血を吐く。
その身体を放り投げ。
別の1体へ叩きつけた。
2体が絡まり。
地面へ倒れる。
「…………」
倒れた異形の胸を。
黒い足で踏みつけた。
骨が沈む。
異形が腕を伸ばす。
ヤヌスは。
もう1度踏んだ。
ぐしゃり。
もう動けない。
放っておいても。
すぐには立ち上がれない。
それでも。
もう1度。
踏みつけた。
ヤヌス
「……邪魔」
骨と肉が潰れる。
足の裏へ。
柔らかな感触が伝わってきた。
「…………」
また。
1体が迫る。
ヤヌスはその顔を掴んだ。
指が頬へ食い込む。
持ち上げる。
暴れる身体を。
地面へ叩きつけた。
ヤヌス
「……邪魔だ」
頭が土へ沈む。
まだ。
動いている。
爪が。
ヤヌスの足首を掴んだ。
「…………」
苛立った。
なぜ。
まだ動く。
なぜ。
自分の前へ立つ。
自分は。
あの仮面を殺しに行かなければならない。
こんなところで。
こんなものに。
止められている暇はない。
「…………」
もう1度。
異形の頭を踏む。
ぐしゃ。
ヤヌス
「……壊れろ」
まだ指が動く。
もう1度。
ぐしゃ。
ヤヌス
「……壊れろ」
もう1度。
ぐしゃり。
今度こそ。
異形は動かなくなった。
「…………」
胸の奥が。
僅かに軽くなった。
壊せた。
もう。
邪魔をされない。
視線を上げる。
まだいる。
木々の間に。
暗闇の奥に。
自分を取り囲む、幾つもの異形。
「…………」
怖いはずだった。
逃げたいはずだった。
けれど。
今は。
違う。
壊せる。
自分には。
こいつらを壊す力がある。
「……は」
息と共に。
小さな音が漏れた。
次の異形が飛びかかる。
顔面を殴る。
肉が潰れる。
別の異形が爪を振るう。
腕を掴み。
逆方向へ折った。
突き出した骨が。
皮膚を突き破る。
「は……はは……」
呼吸が変わっていく。
苦しさに乱れていた息が。
熱を帯びていく。
胸が高鳴る。
黒が脈打つたび。
身体の奥から力が溢れる。
痛みが遠ざかる。
恐怖も。
レオンを失った悲しみも。
ルミナへ手を伸ばした自分への嫌悪も。
異形を壊している間だけ。
すべてが消える。
「…………」
異形の首を掴む。
木へ叩きつける。
1度。
2度。
まだ動く。
3度。
4度。
とうに。
抵抗する力は失われている。
それでも。
ヤヌスは止めなかった。
ヤヌス
「じゃま……」
ぐしゃ。
頭が潰れる。
手を離す。
次の異形を見る。
ヤヌス
「ジャマ……」
地面を蹴る。
腹を貫くように拳を叩き込む。
その身体を振り回し。
別の1体へぶつけた。
肉と骨がぶつかる音。
悲鳴。
血。
全部が。
遠く聞こえる。
もっと。
壊したい。
目の前で。
形のあるものが潰れていく。
自分の力で。
邪魔なものが消えていく。
それが。
気持ちよかった。
ヤヌス
「じゃまじゃまじゃまじゃま……」
笑いながら。
拳を振るう。
倒れた異形を蹴る。
宙へ浮いた身体を掴み。
地面へ叩き落とす。
まだ足りない。
もう動かないのに。
さらに拳を振り下ろす。
血が顔へ飛ぶ。
温かい。
口の中へ入る。
鉄の味がする。
それさえ。
今は不快ではなかった。
ヤヌス
「じゃまじゃまじゃまじゃまぁぁぁぁッ!!」
黒い拳が。
異形の胸を打ち抜いた。
背中から。
血と肉が弾ける。
叫び声が。
奈落の森へ響き渡った。
「はっ……はぁ……はは……!」
ヤヌスは。
笑っていた。
足元には。
形を失った異形が幾つも転がっている。
血に濡れた手。
赤く濁った瞳。
黒に覆われた右半身。
それでも。
まだ終わっていない。
「…………」
残った異形たちが。
距離を取っていた。
最初に。
ヤヌスを囲んでいた時とは違う。
誰も襲いかかってこない。
誰も笑っていない。
身体を低くし。
震えながら。
逃げ道を探している。
「…………」
ヤヌスが振り返る。
異形の肩が跳ねた。
1歩。
ヤヌスが進む。
異形たちが。
同時に1歩、後ろへ下がる。
「…………」
それを見て。
ヤヌスの口元が歪んだ。
裂けそうなほど。
大きく吊り上がる。
ニィ……。
先ほどの異形よりも。
深く。
喜びに満ちた笑みだった。
「…………」
恐怖していた者と。
恐怖させる者が。
入れ替わっていた。
その場で。
最も化け物に近いものが何なのか。
もう。
分からなかった。
「…………」
突然。
異形たちの動きが止まった。
ヤヌスが一歩進んでも。
後退しない。
襲いかかってもこない。
ただ。
一斉に姿勢を正した。
ヤヌス
「……?」
1体が。
静かに後ろへ下がる。
それに合わせて。
隣の異形も下がった。
さらにもう1体。
同じ速さ。
同じ動き。
さっきまで。
仲間の死体を踏み越え。
互いを押し退けながら。
本能のままヤヌスへ群がっていたものたちが。
突然。
統率されたように動き始めた。
「…………」
左右へ分かれる。
頭を垂れる。
暗い森の中へ。
1本の道が作られていく。
誰も鳴かない。
誰もヤヌスを見ていない。
獣の群れではない。
王の前へ並ぶ臣下のように。
すべての異形が。
道の両側へ伏していた。
「…………」
赤く濁ったヤヌスの目が。
開かれた道の先へ向く。
暗闇。
木々の奥。
何も見えない。
それでも。
何かがいる。
「…………」
ズ……。
重い音が響いた。
何かを。
地面へ引きずる音。
ズ……。
音が近づくたび。
伏した異形たちが。
さらに深く頭を下げていく。
「…………」
道の中央に。
1体だけ、異形が残っていた。
逃げ遅れたのか。
傷つき、上手く動けないのか。
地面を這いながら。
必死に道を空けようとしている。
ズ……。
巨大な影が。
そいつの前へ立った。
「――――」
ぐちゃ。
異形の身体が。
足の下で潰れた。
悲鳴を上げる暇もない。
周囲の異形たちは。
誰も反応しなかった。
顔を上げることも。
逃げ出すこともしない。
ただ。
頭を垂れ続けている。
「…………」
暗闇の中から。
巨大な足が現れた。
1歩。
地面が沈む。
湿った土に。
深い足跡が刻まれた。
次に。
異様に長い腕。
太い筋肉へ覆われ。
指先は地面へ届きそうなほど伸びている。
皮膚は裂け。
黒ずんだ血管が浮かび。
幾つもの古い傷が、その身体を走っていた。
それでも。
どこかに。
人間だった頃の形が残っている。
「…………」
巨体が。
ゆっくりと闇から姿を現す。
他の異形とは違う。
身体が大きいからではない。
纏う空気が。
明らかに違っていた。
そこにいるだけで。
奈落の森そのものが押し沈む。
周囲の異形たちが。
この存在を恐れ。
従っている理由が。
言葉などなくても分かった。
「…………」
最後に。
顔が闇から現れる。
歪んでいる。
片側は大きく崩れ。
皮膚の下から骨が浮かび上がっている。
濁った瞳。
裂けた頬。
人間と呼べる姿ではない。
けれど。
完全な怪物にも見えなかった。
壊れた輪郭の奥に。
かつて人間だったものが。
今も僅かに残っている。
「…………」
その異形は。
笑わなかった。
唸り声も上げない。
ただ。
ヤヌスを見ていた。
知性があるのか。
何も考えていないのか。
濁った目からは読み取れない。
「…………」
赤く濁った瞳。
黒に覆われた右半身。
血に濡れながら笑う少年。
対する。
巨大な異形。
周囲では。
幾つもの異形が地面へ伏している。
2人の視線が。
暗い森の中でぶつかった。
「…………」
巨大な異形が。
僅かに首を動かした。
目の前にいるヤヌスを。
何かと見定めるように。
そして。
閉ざされていた口が。
ゆっくりと開いた。
強個体
「……ル……」
掠れた音。
言葉なのか。
ただの呻きなのか。
ヤヌスには分からない。
「…………」
ヤヌスの笑みが。
さらに深くなる。
ヤヌス
「……じゃま」
血に濡れた拳を握る。
1歩。
異形へ近づく。
ヤヌス
「……こわす」
「…………」
巨大な異形も。
1歩、前へ出た。
ズン――。
地面が。
深く沈んだ。




