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第8話 目覚め


第8話 目覚め


 湿った木の匂いがした。


「…………」


 暗い。


 閉じた瞼の向こうにも。


 僅かな明かりが揺れている。


 ぱちり。


 ぱちり、と。


 薪の爆ぜる音が聞こえた。


「…………」


 ヤヌスは、ゆっくりと目を開いた。


 見知らぬ天井。


 黒ずんだ木の板が、幾つも並んでいる。


 隙間から湿った空気が流れ込み。


 奈落の森に漂う冷気が、頬を撫でていた。


「……ここ……」


 声を出した途端。


 乾いた喉に痛みが走った。


 ヤヌスは身体を起こそうとする。


「――ッ」


 胸の奥に、鈍い痛みが走った。


 息が詰まる。


 片手を寝台へつき。


 もう片方の手で、胸元を押さえた。


「…………」


 服の上から。


 指先で、傷のあった場所を確かめる。


 仮面の魔人の剣が。


 ここを貫いた。


 肉を裂き。


 背中まで突き抜けた。


 そのあと。


 奈落へ落とされた。


 岩壁へ身体を打ちつけ。


 枝を折り。


 何度も落下しながら。


 深い闇へ呑み込まれた。


 それなのに。


「…………」


 服の下へ手を入れる。


 胸には。


 傷がほとんど残っていなかった。


 指先へ触れるのは。


 薄く盛り上がった、新しい皮膚だけ。


 肩も動く。


 脚も曲がる。


 身体の奥には、まだ重い痛みが残っている。


 力を入れれば。


 折れた骨の奥が軋むように疼いた。


 それでも。


 剣で胸を貫かれ。


 奈落へ落ちた人間の身体ではなかった。


「…………」


 どうして生きている。


 なぜ。


 傷が塞がっている。


 考えようとした瞬間。


 頭の奥で。


 記憶が弾けた。


 血に濡れたレオン。


 白銀の光。


 仮面の魔人。


 伸ばした手。


『……生きろ』


「…………ッ」


 レオンの身体が。


 光になって消えていく。


 届かなかった。


 呼び止めても。


 手を伸ばしても。


 何も掴めなかった。


 そのあと。


 右手から広がった黒。


『殺す……』


『ころす……ころす……』


 誰かを殺そうとしている。


 何度も。


 何度も。


 憎しみだけを吐き出しながら。


 仮面の魔人へ襲いかかる。


 だが。


 記憶は、そこで終わらなかった。


 泣いている少女。


 白い髪。


 震えながらも。


 自分へ手を伸ばしている。


『ヤヌス……戻ってきて』


「…………!」


 黒く染まった右手が。


 ルミナの首へ伸びていく。


『……おまえか?』


「ルミナ……!」


 ヤヌスは勢いよく身体を起こした。


 その瞬間。


 首筋へ。


 冷たい感触が触れた。


「――ッ」


 動きが止まる。


 喉元に。


 研ぎ澄まされた剣先が向けられていた。


 あと少しでも前へ動けば。


 皮膚を貫く距離。


 ヤヌスは息を止めたまま。


 剣の先にいる者を見る。


「…………」


 マントを纏った老人が。


 寝台の傍らに立っていた。


 深く被った頭巾に隠れ。


 その顔は、よく見えない。


 いつからそこにいたのか。


 気配すら感じなかった。


マントの男

「動くな」


 低い声。


 大きくも。


 荒くもない。


 だが。


 逆らえば、次の瞬間には首を斬られる。


 ヤヌスの身体が。


 本能だけで、それを理解していた。


 強い。


 仮面の魔人を前にした時とは違う。


 押し潰されるような殺気はない。


 それでも。


 構えもなく剣を向けているだけの老人に。


 今の自分では触れることすらできない。


「…………」


 老人の視線が。


 ヤヌスの胸元へ落ちる。


マントの男

「一晩で、そこまで治るとはのう」


「…………」


マントの男

「見つけた時には、息をしているのかさえ分からぬほどじゃった」


 剣先は動かない。


マントの男

「胸を貫かれ。崖から落ち。全身の骨を幾つも折っていた」


マントの男

「普通の人間ならば、とうに死んでおる」


「…………」


 ヤヌスには。


 何も答えられなかった。


 老人の目が細くなる。


マントの男

「小僧」


 一拍。


 冷たい剣先が。


 首筋へ僅かに触れた。


マントの男

「お主、何者じゃ?」


「…………」


 言葉が。


 胸の奥へ落ちる。


 お前は何者だ。


 そんなこと。


 今まで考えたこともなかった。


 自分は、ヤヌスだ。


 レオンに拾われ。


 ルミナと一緒に暮らしていた。


 それだけでよかった。


 けれど。


「…………」


 右手を見る。


 汚れた包帯。


 その隙間から。


 黒い痣が覗いている。


 あの夜。


 この痣から黒が広がった。


 身体を呑み込み。


 今までとは比べものにならない力を与えた。


 なぜ。


 あんな力が出た。


 なぜ。


 自分は、ルミナさえ分からなくなった。


 なぜ。


 死ぬはずの傷が、僅か一晩でここまで塞がっている。


「…………」


 何ひとつ。


 答えられない。


 自分の身体なのに。


 自分の右手なのに。


 自分が。


 何なのかさえ分からなかった。


ヤヌス

「…………分からない」


 掠れた声が落ちる。


 老人は。


 しばらくヤヌスを見つめていた。


 嘘を見抜こうとしているように。


 だが。


 それ以上、問い詰めることはなかった。


 剣先が。


 僅かに喉元から離れる。


マントの男

「ならば、質問を変えよう」


 老人の視線が。


 部屋の隅へ向けられた。


「…………」


 壁際。


 粗末な布の上に。


 巨大な剣が置かれている。


 聖剣アウロラ。


「…………!」


 ヤヌスの目が見開かれた。


 レオンが握っていた剣。


 最後まで。


 自分達を守ろうと振るい続けた剣。


 それが。


 今は、持ち主を失い。


 見知らぬ小屋の隅へ置かれている。


マントの男

「なぜ、あの剣がお主と共にあった」


「…………」


 ヤヌスはアウロラを見つめる。


 視界の中へ。


 あの夜が戻ってくる。


 仮面の魔人の刃が、レオンの胸を貫く。


 血が落ちる。


 アウロラが弾き飛ばされる。


 それでも。


 レオンは立ち上がろうとした。


 自分とルミナを守ろうとした。


『……俺の子だ』


 そして。


 笑った。


「…………」


 喉が詰まる。


 息を吸っても。


 上手く声が出なかった。


ヤヌス

「……レオンが……」


 続きが出てこない。


 口にしてしまえば。


 今度こそ。


 本当に認めることになる。


 レオンは。


 もういない。


「…………」


 ヤヌスは拳を握った。


 爪が掌へ食い込む。


ヤヌス

「……死んだ」


「…………」


 空気が変わった。


 薪の爆ぜる音が止まったように感じた。


 老人は動いていない。


 剣を向けた姿勢も変わらない。


 それなのに。


 先ほどまでとは比較にならない圧が、小屋の中へ満ちていく。


 古びた壁が軋む。


 床に積もった埃が、小さく震えた。


「…………!」


 ヤヌスの身体が強張る。


 首筋に剣を向けられた時よりも。


 遥かに濃い殺気。


 息を吸うだけで。


 肺の奥まで斬り裂かれるようだった。


マントの男

「……小僧」


 一拍。


 老人の声が。


 低く沈む。


マントの男

「つまらん冗談は好きではない」


ヤヌス

「冗談じゃない!」


 ヤヌスは剣先も忘れ。


 老人を睨みつけた。


ヤヌス

「レオンは……俺達を守って……!」


 声が震える。


 胸の奥に押し込めていたものが。


 一気に溢れ出す。


ヤヌス

「俺とルミナを守るために戦って……!」


ヤヌス

「仮面の魔人に殺された!」


「…………」


 老人の殺気が止まった。


 消えたわけではない。


 ただ。


 何かへ気づいたように。


 ヤヌスを見る目が変わる。


マントの男

「……仮面の魔人?」


ヤヌス

「ああ……」


 老人が黙り込む。


 僅かに考えたあと。


 静かに問いかけた。


マントの男

「長い髪の剣士だったか」


「…………」


 なぜ。


 それを知っている。


 疑問が浮かぶ。


 だが。


 ヤヌスは頷いた。


ヤヌス

「……ああ」


「…………」


 沈黙。


 老人だけが。


 何かを理解している。


 仮面の魔人の強さを。


 レオンの強さを。


 そして。


 レオンの身体に何が起きていたのかを。


 すべて知っているような沈黙だった。


 やがて。


 ヤヌスの喉元へ向けられていた剣先が。


 ゆっくりと下がる。


マントの男

「…………そうか」


 それだけだった。


 なぜ信じたのか。


 なぜ。


 仮面の魔人の特徴を聞いただけで。


 レオンが負けたことを受け入れたのか。


 ヤヌスには分からない。


「…………」


 老人が剣を鞘へ収める。


 乾いた音が。


 静かな小屋へ響いた。


ヤヌス

「……知ってるのか?」


 老人は答えない。


 ヤヌスは寝台から足を下ろす。


 床へ立とうとした瞬間。


 身体の奥に痛みが走った。


「――ッ」


 膝が折れかける。


 それでも。


 寝台へ手をつき、無理やり身体を支えた。


ヤヌス

「あの仮面を……知ってるのか?」


「…………」


マントの男

「……ああ」


 ヤヌスの目つきが変わった。


ヤヌス

「どこにいる」


マントの男

「……何?」


ヤヌス

「あいつは、どこにいる」


 身体の痛みを無視して。


 老人へ詰め寄ろうとする。


ヤヌス

「教えろ」


マントの男

「知って、どうする」


ヤヌス

「殺す」


 考える間すらなかった。


 呼吸をするのと同じように。


 言葉が口から出ていた。


「…………」


 老人は驚かない。


 ただ。


 ヤヌスを見ている。


マントの男

「……無理じゃ」


「…………」


マントの男

「今のお主では届かん」


 短く。


 突きつける。


マントの男

「あの男とお主では、次元が違う」


「…………」


 ヤヌスの脳裏に。


 仮面の魔人の姿が浮かぶ。


 黒に呑まれ。


 自分ではない何かのような力を得ても。


 届かなかった。


 何度殴っても。


 何度蹴っても。


 ただ、あしらわれた。


 最後には。


 胸を貫かれた。


『……まだ、弱い』


「…………」


 分かっている。


 力の差くらい。


 自分が。


 何もできなかったことくらい。


 それでも。


ヤヌス

「……関係ない」


マントの男

「何?」


ヤヌス

「届かなくても……関係ない」


 拳を握る。


 右手の黒い痣が。


 包帯の下で、焼けるように疼いた。


「…………」


 頭で考えているわけではなかった。


 何を言えばいいのか。


 どんな言葉なら、この憎しみを表せるのか。


 そんなことさえ分からない。


 ただ。


 胸の奥に溜まり続けていたものが。


 抑えきれず。


 声となって、口から零れ出していく。


ヤヌス

「腕を斬られても……」


 震える足で。


 身体を起こす。


ヤヌス

「足を潰されても……」


 顔を上げる。


ヤヌス

「何回、殺されても……」


 濁った瞳が。


 そこにはいない仇を捉える。


ヤヌス

「殺す……」


「…………」


ヤヌス

「あいつだけは……殺す……」


 唇が。


 勝手に言葉を紡いでいく。


 死ねば。


 もう殺すことなどできない。


 そんな当たり前のことさえ。


 今のヤヌスには届かない。


 理屈よりも深い場所で。


 憎しみだけが叫んでいた。


ヤヌス

「殺すまで……死なない……」


 一拍。


 乾いた唇が歪む。


ヤヌス

「死んでも――殺す」


「…………」


 それは。


 老人へ向けた言葉ではなかった。


 自分へ言い聞かせたものですらない。


 心の底から溢れた憎しみが。


 ただ。


 ヤヌスの声を借りていただけだった。


 老人は。


 壊れかけた少年を、黙って見ていた。


 怒鳴りつけることも。


 言葉を否定することもない。


 ただ。


 ヤヌスの奥にあるものを確かめるように。


マントの男

「……なぜ、そこまで復讐にこだわる」


「…………」


 老人の目が。


 静かに細められる。


マントの男

「奴の強さは桁が違う」


マントの男

「せっかく拾った命を、無駄にするつもりか」


「…………」


 答えようとして。


 ヤヌスの口が止まる。


 なぜ。


 そんなこと。


 考えるまでもない。


 レオンが殺された。


 それだけで十分だった。


 けれど。


 言葉にしようとした瞬間。


 幾つもの記憶が浮かんだ。


 木剣を握り。


 何度挑んでも勝てなかった朝。


 狩りへ出て。


 大きな猪から助けられた日。


 泥だらけで帰り。


 ルミナに叱られた。


 3人で囲んだ食卓。


 肉を取り合い。


 野菜を押しつけ。


 くだらないことで笑った夜。


 小さな家に灯る明かり。


 いつも前にあった。


 大きな背中。


「…………」


 喉が震える。


ヤヌス

「…………親父を」


 老人の目が。


 僅かに動いた。


ヤヌス

「親父を……殺されたんだ」


 掠れた声。


 握っていた拳が震える。


ヤヌス

「ルミナも……奪われた」


「…………」


 自分が奈落へ落とされたあと。


 ルミナがどうなったのか。


 ヤヌスは知らない。


 生きているのか。


 あの魔人に殺されたのか。


 何も分からない。


 最後に見たのは。


 崖の上から。


 泣きながら自分へ手を伸ばす姿だった。


 その手を。


 自分は掴めなかった。


ヤヌス

「俺には……あの2人しかいなかった」


 視界が滲む。


 それでも。


 ヤヌスは目を閉じなかった。


 乾ききった瞳の端が切れ。


 溢れた涙へ。


 僅かに赤が混じった。


 血の滲んだ涙が。


 頬へ細い跡を残していく。


ヤヌス

「親父と……ルミナしか……」


 声が続かない。


 息を吸う。


 胸の奥が、傷よりも強く痛んだ。


ヤヌス

「俺の……全部だったんだ」


「…………」


 レオンと出会う前。


 自分がどこにいたのか。


 何をしていたのか。


 何も覚えていない。


 帰る場所も。


 名前を呼んでくれる者も。


 他にはいなかった。


 レオンとルミナが。


 ヤヌスの世界のすべてだった。


ヤヌス

「それを……」


 声に。


 再び憎しみが混じる。


ヤヌス

「あいつが、全部奪った」


「…………」


 血の混じった涙が。


 顎の先から落ちる。


 床へ。


 小さな赤い染みを作った。


 老人は何も言わない。


 慰めもしない。


 家族は生きていると。


 無責任な希望を与えることもない。


 ただ。


 目の前にいる少年を見つめている。


 初めて。


 知った。


 レオンが。


 見知らぬ少年に、親父と呼ばれる男になっていたことを。


「…………」


 長い沈黙が。


 小屋の中へ落ちた。


 薪が崩れる。


 火の粉が僅かに舞い上がった。


 やがて。


 老人が背を向ける。


マントの男

「……好きにせい」


「…………」


マントの男

「ワシに、お主を止める権利はない」


 小屋の奥へ歩き。


 火の前で足を止める。


マントの男

「勝手に進むのも」


マントの男

「勝手に死ぬのも、お主の自由じゃ」


「…………」


 老人が。


 僅かに顔だけをヤヌスへ向ける。


マントの男

「じゃが、今日は休め」


ヤヌス

「…………」


マントの男

「傷が塞がっていようと、中まで元どおりになったわけではない」


マントの男

「その身体では、この奈落の出口へ辿り着くどころか、森の奥まで進むことすらできん」


 ヤヌスは答えない。


 従うとも。


 休むとも言わなかった。


「…………」


 老人の視線が。


 壁際のアウロラへ移る。


マントの男

「それと――」


 ヤヌスも剣を見る。


マントの男

「出ていくのは勝手じゃが、アウロラは置いていけ」


「…………」


 ヤヌスが老人を見る。


ヤヌス

「……なんで、その名前を知ってる」


 返事はない。


ヤヌス

「あんたは……レオンと、どういう関係なんだ」


「…………」


 老人は答えなかった。


 火の中へ。


 新しい薪を投げ入れる。


マントの男

「あれは、お主のものではない」


 それだけ。


 レオンを知っている。


 仮面の魔人を知っている。


 アウロラの名まで知っている。


 だが。


 老人が何者なのか。


 レオンと、どんな関係にあったのか。


 何ひとつ明かそうとはしなかった。


◇◇◇


 どれほど時間が経ったのか。


 小屋の中は。


 変わらず静かだった。


「…………」


 ヤヌスは、寝台へ横になっている。


 目を閉じていた。


 だが。


 眠ってはいない。


 瞼の裏へ。


 何度も同じ光景が浮かぶ。


 光になって消えていくレオン。


 泣きながら手を伸ばすルミナ。


 黒に呑まれ。


 そのルミナへ手を掛けようとした自分。


 仮面の魔人。


『……まだ、弱い』


「…………」


 ヤヌスが目を開く。


 暗い天井を見上げる。


 このまま眠って。


 朝を待つ。


 そんなことができるはずもなかった。


「…………」


 ゆっくりと身体を起こす。


 両腕を動かす。


 指を握り。


 開く。


 肩を回すと。


 関節の奥に鈍い痛みが残っていた。


 寝台から足を下ろし。


 床を踏む。


 右脚へ体重を掛けた瞬間。


 骨の内側が軋んだ。


「――ッ」


 壁へ手をつく。


 痛い。


 だが。


 立てる。


 足も動く。


 歩くこともできる。


「…………」


 胸元へ触れる。


 深く息を吸えば。


 まだ、傷の奥が刺されたように痛んだ。


 それでも。


 仮面の魔人に貫かれた時と比べれば。


 痛みと呼べる程度のものだった。


「…………」


 老人の姿はなかった。


 小屋の中には。


 薪の燃える音だけが響いている。


 ヤヌスは壁際を見る。


 聖剣アウロラ。


 今にも。


 レオンが扉を開け。


 何をしていると叱りながら、その柄を握りそうだった。


「…………」


 ヤヌスは。


 アウロラの前まで歩く。


 手を伸ばす。


『あれは、お主のものではない』


「…………」


 老人の言葉が蘇る。


 伸ばした指が。


 柄へ触れる寸前で止まった。


 この剣は。


 レオンの剣だ。


 自分のものではない。


 仇を討つための道具として。


 勝手に持っていくことはできなかった。


 ヤヌスは手を下ろす。


 アウロラを残し。


 小屋の扉へ向かった。


 軋む音を立て。


 扉を開ける。


 湿った冷気が。


 小屋の中へ流れ込んだ。


「…………」


 振り返らない。


 ヤヌスは1人で。


 奈落の森へ足を踏み出した。


◇◇◇


 薄暗い森。


 湿った空気が、肌へ纏わりつく。


 頭上を覆う木々に遮られ。


 陽の光は、ほとんど届いていない。


 どの方角へ進めばいいのか。


 奈落の外へ繋がる道が、本当にあるのか。


 何も分からない。


 それでも。


 ヤヌスは歩いた。


 濡れた土へ足を取られ。


 胸を押さえ。


 何度も木の幹へ手をつく。


 老人の言ったとおり。


 身体は治りきっていない。


 少し歩くだけで。


 息が乱れた。


 額に汗が浮かぶ。


 それでも。


 足を止めることはできなかった。


「…………」


 仮面の魔人の姿が。


 頭から離れない。


ヤヌス

「待ってろ……仮面」


 右手を握る。


 包帯の下で。


 黒い痣が僅かに疼いた。


ヤヌス

「絶対に……殺してやる」


 低い声が。


 奈落の森へ溶けていく。


「…………」


 どれほど歩いたのか。


 身体の痛みが強くなり。


 呼吸を整えるため、何度目かの足を止めた時だった。


 木々の隙間。


 少し離れた場所に。


 人影が立っている。


「…………!」


 ヤヌスは顔を上げた。


 背丈は。


 大人の人間と変わらない。


 こちらへ背を向けたまま。


 木の幹の傍らに立っている。


ヤヌス

「……人?」


 ほんの一瞬だけ。


 ヤヌスの表情が変わった。


 この奈落に住んでいる者なら。


 外へ出る道を知っているかもしれない。


 仮面の魔人の居場所を。


 聞き出せるかもしれない。


ヤヌス

「おい!」


「…………」


 返事はない。


 人影は。


 背を向けたまま動かない。


ヤヌス

「森の出口を教えてくれ!」


「…………」


 声が。


 暗い木々の間へ吸い込まれていく。


 それでも。


 人影から返事はなかった。


「…………」


 何かがおかしい。


 近づくほど。


 腐った肉のような臭いが強くなる。


 ヤヌスの足が。


 僅かに遅くなった。


ヤヌス

「……おい」


 1歩。


 また、1歩。


 距離を詰める。


「…………」


 人影の首が動いた。


 ゆっくりと。


 軋むように。


 こちらへ振り返る。


「…………」


 ヤヌスの足が止まった。


 人間ではない。


 歪んだ顔。


 裂けた皮膚。


 異様なほど大きく開かれた目。


 片方の頬は大きく膨れ上がり。


 もう片方は、骨の形が浮かぶほど痩せ細っている。


 腕の長さも。


 指の数も。


 人間とは違っていた。


 それでも。


 どこかに人の形だけが残っている。


 まるで。


 人間だったものを。


 無理やり壊し。


 別の何かへ作り直したような姿。


ヤヌス

「…………」


 異形も動かない。


 大きく見開いた目で。


 ただ、ヤヌスを見つめている。


 逃げようとも。


 襲いかかろうともしない。


「…………」


 裂けた口が。


 ゆっくりと動いた。


 端から。


 少しずつ。


 吊り上がっていく。


 ニィ……。


 異形が。


 人間のように。


 笑った。

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