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第7話 魔女の街

第1章 勇者の終焉


第7話 魔女の街


 朝。


 窓から差し込む光が、小さな家の中を照らしていた。


「…………」


 ルミナは食卓の前に座っている。


 目の前には。


 固くなった黒パンと、水の入った器が置かれていた。


 空腹は感じない。


 食べたいとも思わなかった。


 それでも。


『2人とも、生きろ』


 手記に残されていた言葉が、頭から離れない。


「…………」


 ルミナは黒パンを手に取った。


 小さく千切り。


 口へ運ぶ。


 噛むたびに、乾いたパンが口の中の水分を奪っていく。


 喉を通らない。


 水を含み。


 無理やり飲み込む。


 もう1口。


 また、もう1口。


 時間をかけて。


 少しずつ、身体へ入れていった。


「…………」


 食事を終えると。


 冷たい水で顔を洗った。


 頬に残っていた涙の跡と。


 何日も動かなかった間に積もった汚れが落ちていく。


 乱れた白い髪を梳かし。


 汚れた服を脱いだ。


 新しい服へ袖を通す。


 何をするにも。


 身体が、自分のものではないように重かった。


 それでも。


 ルミナは止まらなかった。


 小さな鞄へ。


 数日分の食料。


 水。


 着替え。


 そして。


 レオンの手記を入れる。


 最後に。


 しおりを手に取った。


「…………」


 指先に。


 微かな温もりが伝わってくる。


 ルミナはしおりを胸元へしまい、鞄を背負った。


 家の中を見回す。


 小さな食卓。


 3脚の椅子。


 壁に立てかけられた木剣。


 火の消えた暖炉。


 数日前まで。


 ここには、3人分の声があった。


 ヤヌスが騒ぎ。


 レオンが短く叱り。


 それを見て、ルミナが笑っていた。


 今は。


 誰もいない。


「…………」


 ルミナは扉を開けた。


 朝の冷たい空気が、家の中へ流れ込む。


 外へ出る。


 そして。


 扉を閉める前に。


 もう1度だけ、振り返った。


 ここは。


 もう誰も帰らない家ではない。


 ヤヌスが生きているのなら。


 いつか。


 また、この場所へ帰ってくるかもしれない。


 その時。


 自分がいなければ。


 きっとヤヌスは怒る。


 どうしていないんだと。


 自分を捜し回るかもしれない。


 それでも見つからなければ。


 何も言わず。


 誰もいない家の中で、落胆するかもしれない。


 そんなヤヌスを。


 もう1人にはしたくなかった。


ルミナ

「……行ってきます」


 返事はない。


 それでも。


 今度は、返事を待たなかった。


 ルミナは扉を閉める。


 家を背に。


 廃棄の森の外へ向かって、歩き始めた。


◇◇◇


 森を抜けるまでに、長い時間がかかった。


 何日も動かなかった身体は弱り。


 少し歩くだけで息が切れる。


 張り出した根を越えるたび、足が震えた。


 何度も休み。


 水を飲み。


 固いパンを少しずつ口にする。


 それでも。


 足だけは止めなかった。


「…………」


 やがて。


 密集していた木々が少なくなり。


 差し込む光が強くなる。


 風の匂いが変わった。


 湿った土と、古い葉の臭い。


 その中に。


 微かに、煙の匂いが混じっている。


「…………!」


 ルミナは顔を上げた。


 木々の向こうに。


 青い空が見えた。


 最後の茂みを抜ける。


 視界が、一気に開けた。


 どこまでも続く街道。


 風に揺れる草原。


 遠くには。


 幾つもの煙突から煙を上げる街が見える。


「…………」


 廃棄の森の外。


 レオンとヤヌスに守られていた場所の、その先。


 ルミナは初めて。


 たった1人で、外の世界へ足を踏み出した。


◇◇◇


 辿り着いた街には、見覚えがあった。


 昔。


 レオンと一緒に訪れたことがある。


 高い城壁に囲まれた、小さな街。


 大通りには商店が並び。


 行き交う人々の声が、石畳の上へ重なっていた。


商人

「焼きたてだ! 今なら安くしておくぞ!」


女

「そっちじゃないって。市場はこっちよ」


子供

「待ってよ!」


 籠を抱えた女達が、店先で品物を選んでいる。


 荷車が石畳の上を通り。


 車輪の音が街の中へ響く。


 子供達は人の間を縫うように走り。


 怒られながらも、笑っていた。


 開け放たれた酒場の扉からは。


 男達の大きな笑い声が聞こえてくる。


「…………」


 誰もが。


 いつもと変わらない1日を過ごしている。


 食べて。


 働いて。


 怒って。


 笑っている。


 数日前。


 ルミナの世界から、すべてが消えた。


 けれど。


 外の世界は。


 何ひとつなかったように動き続けていた。


「…………」


 胸の奥が痛む。


 苦しくなる。


 立ち止まりそうになった足へ、力を込める。


 今は。


 泣いているだけでは、何も見つからない。


 ルミナは胸元へ手を当てた。


 服の下には。


 レオンのしおりがある。


 微かな温もりを確かめてから。


 もう1度、歩き出した。


◇◇◇


 ルミナは、通りの先にある酒場へ目を向けた。


 以前。


 レオンとこの街を訪れた時も、最初に足を運んだのがあの店だった。


 宿を探す時も。


 街道の様子を尋ねる時も。


 何かを知りたければ、まず人の集まる酒場へ行け。


 そう教えられたことを思い出す。


 ルミナは酒場の扉を開けた。


 昼を少し過ぎた頃だというのに。


 店内には、多くの客がいた。


 酒を飲む者。


 食事を取る者。


 昼間から卓へ突っ伏している者。


 肉の焼ける匂いと。


 酒の匂い。


 男達の声が、狭い店内に満ちている。


店主

「いらっしゃい」


 カウンターの奥にいた店主が、ルミナを見る。


 まだ若い娘が1人。


 しかも。


 旅慣れているようには見えない。


 不思議そうにしながらも。


 店主は手にしていた器を拭き続けた。


店主

「食事か?」


ルミナ

「……いえ」


店主

「宿なら、うちはやってないぞ」


ルミナ

「聞きたいことがあるんです」


 店主の手が止まる。


店主

「聞きたいこと?」


 ルミナは胸元から、しおりを取り出した。


 店主に見せても。


 何か分かるとは思っていない。


 それでも。


 これ以外に手掛かりはなかった。


ルミナ

「魔女の街が、どこにあるか知りませんか?」


「…………」


 それまで騒がしかった店内の声が。


 僅かに小さくなった。


 近くにいた客が、ルミナへ顔を向ける。


 店主も。


 手にした器を置いた。


店主

「魔女の街?」


ルミナ

「はい」


店主

「お嬢ちゃん。そんな場所へ何の用だ?」


ルミナ

「会わなければならない人がいるんです」


店主

「誰に?」


ルミナ

「エリュシアという人です」


「…………」


 店主が眉を寄せる。


 知らない名前なのか。


 それとも。


 知っていて口にしたくないのか。


 ルミナには分からなかった。


 少し離れた卓から。


 酒に濡れた声が飛んでくる。


酔客

「魔女の街なんて、昔の話だろ」


 赤ら顔の男が。


 木の杯を片手に、こちらを見ていた。


酔客

「とっくに消えちまったよ」


別の客

「消えたんじゃねえ。人間を嫌って、どこかへ隠れたんだ」


酔客

「同じようなもんだろ。誰も見つけられねえんだからよ」


 周囲の客が笑う。


 店主が面倒そうに息を吐いた。


店主

「魔女の街があったのは確からしい。だが、今どこにあるかを知る者はいない」


ルミナ

「今、どこにあるか……?」


店主

「街ごと場所を変えるとも。霧の向こうに隠れているとも言われている。どれも旅人の噂話だ」


 店主は、古い記憶を探るように目を細めた。


店主

「姿を消したのは……確か、勇者レオンが魔王に敗れた頃だったか」


「…………」


 名前を聞いた瞬間。


 ルミナの指が、しおりを強く握った。


 周囲でも。


 何人かの客が反応する。


別の客

「勇者レオンか……」


酔客

「魔王を倒すって出ていって、そのまま消えた勇者だろ」


別の客

「魔王と相打ちになったって話じゃなかったか?」


酔客

「相打ちなら、魔王も死んでるはずだろ」


男

「生き残って、どこかへ逃げたって噂もあったな」


 男達は。


 昔から誰も答えを知らない話を、酒の肴にするように言葉を重ねていく。


 レオン。


 魔王に敗れ。


 その後、姿を消した勇者。


 それだけが。


 外の世界に残されたレオンの姿だった。


 廃棄の森で。


 傷を抱えながら。


 ヤヌスとルミナを育てていたことを。


 誰も知らない。


 最後まで。


 自分達を守ろうと戦ったことも。


 誰も知らない。


酔客

「今もどこかで、魔王に怯えながらコソコソ暮らしてるんじゃねえのか?」


 男が声を上げて笑う。


酔客

「人類最強の勇者様も、最後は腰抜けだったってことだ」


 周囲から。


 幾つかの笑い声が重なった。


「…………」


 胸の奥で。


 何かが切れた。


 ルミナは拳を握る。


ルミナ

「……違う」


酔客

「あ?」


 男が振り返る。


 ルミナは顔を上げた。


 何日も泣き続け。


 もう声を上げる力など残っていないと思っていた。


 それでも。


 レオンを嘲笑う声だけは。


 聞き流すことができなかった。


ルミナ

「レオンは……そんな人じゃない」


酔客

「なんだ、お嬢ちゃん。知り合いか?」


ルミナ

「何も知らないくせに……」


 声が震える。


 悲しみではない。


 身体の奥から。


 熱いものが込み上げてくる。


ルミナ

「レオンが、どれだけ戦ったのか……」


ルミナ

「どれだけ傷ついて……」


ルミナ

「それでも、誰かを守ろうとしたのか……」


 笑い声が消える。


 卓を叩いていた男の手が止まる。


 杯を傾けていた客も。


 料理を運んでいた者も。


 全員がルミナを見ていた。


 先ほどまで。


 声を張り上げなければ会話もできなかった酒場が。


 別の場所になったように静まり返っている。


 ルミナの目に、涙が浮かんだ。


 それでも。


 逸らさない。


ルミナ

「あなた達は、何も知らない!」


 声が酒場を貫く。


ルミナ

「レオンを……馬鹿にしないで!」


「…………」


 完全な静寂が落ちた。


 聞こえるのは。


 ルミナの荒い呼吸だけ。


 誰も言い返さない。


 けれど。


 誰も自分を理解してはくれない。


 周囲から向けられる視線の中に。


 ルミナは、たった1人で立っていた。


 ここにも。


 自分の居場所はない。


「…………」


 それ以上。


 その場にはいられなかった。


 しおりを胸元へ押し込み。


 ルミナは酒場の出口へ向かう。


 扉へ手を掛ける。


 力任せに押し開いた。


 バンッ――!


 扉が壁へぶつかる音が響く。


 その瞬間。


「…………」


 音が。


 消えた。


◇◇◇


 笑い声も。


 食器が触れ合う音も。


 店主が何かを叫ぶ声も。


 何ひとつ聞こえない。


 遠ざかったのではない。


 扉を1枚隔てただけでもない。


 つい先ほどまで存在していた音が。


 途中から、切り取られたように消えていた。


「…………」


 ルミナは酒場の外へ踏み出しかけた姿勢のまま、動けなかった。


 頬を濡らしていた涙が。


 冷たいまま止まっている。


 風がない。


 髪も揺れない。


 肌を撫でていた空気の流れさえ、なくなっていた。


 目の前に。


 街はなかった。


 大通りも。


 立ち並ぶ商店も。


 行き交っていた人々もいない。


 白い霧だけが。


 音のない空間を満たしていた。


「…………」


 ルミナは息を呑む。


 恐る恐る。


 後ろを振り返った。


 酒場の扉はない。


 建物そのものが消えている。


 背後にも。


 果ての見えない白い霧が広がっていた。


「…………」


 時間まで。


 止まってしまったようだった。


 前へ進んでいるのか。


 立ち止まっているのか。


 自分の呼吸さえ。


 誰かのもののように遠く感じる。


 音も。


 空気も。


 時間も。


 何もかもが変わっていた。


 扉を開ける前とは。


 世界そのものが、別の場所へ切り替わっている。


「…………」


 胸元が、僅かに温かい。


 ルミナは服の上から、しおりへ触れた。


 その温もりだけが。


 つい先ほどまでいた世界と変わらない。


 ここへ来る前から続いている、唯一のものだった。


 その時。


 白い霧の向こうで。


 何かが動いた。


「…………!」


 ルミナが身構える。


 足音はしない。


 それでも。


 霧の中から、ゆっくりと人影が近づいてくる。


 やがて。


 マントを羽織った女が姿を現した。


 ルミナよりも。


 ほんの少し年上に見える。


 女は少し離れた場所で足を止める。


 警戒するルミナではなく。


 その胸元を見つめていた。


女

「……そのしおり」


「…………」


 ルミナは反射的に、胸元を押さえた。


女

「見せてもらってもいい?」


ルミナ

「……誰ですか?」


 女は答えず。


 しおりから視線を外さない。


女

「それ……レオンの?」


「…………!」


 ルミナの目が見開かれる。


 手が胸元へ入る。


 取り出したしおりを。


 両手で守るように握り締めた。


ルミナ

「……レオンを知ってるんですか?」


 女が顔を上げる。


 警戒していた表情が。


 一気に明るくなった。


女

「もちろん!」


 一切の迷いもない。


 真っ直ぐな声だった。


女

「レオンは、私達の英雄だよ!」


「…………」


 ルミナの唇が震えた。


 つい先ほどまで。


 魔王に負けた。


 逃げた。


 腰抜けだ。


 そう笑われていた。


 けれど。


 目の前の女は。


 何の迷いもなく。


 レオンを英雄と呼んだ。


「…………」


 視界が滲む。


 止まったと思っていた涙が。


 再び、頬を伝った。


女

「あ……」


 女が慌てたように両手を上げる。


女

「ご、ごめん。私、何か変なこと言った?」


 ルミナは首を振る。


 声を出そうとしても。


 上手く出てこない。


 胸元のしおりを強く握り。


 何度か呼吸を整える。


ルミナ

「違うんです……」


 涙を拭う。


 けれど。


 次の涙が、すぐに溢れてくる。


ルミナ

「ただ……レオンを、そう呼んでくれる人が……まだいたんだと思って……」


「…………」


 女の表情から、笑みが消えた。


 ルミナの言葉に。


 何かを察したのだろう。


 レオンではなく。


 泣き腫らした目をした少女が、彼のしおりを持って現れた。


 それだけで。


 問いかけなくても分かることがあった。


 それでも。


 女は何も聞かなかった。


 代わりに。


 ルミナの顔を、改めて見つめる。


 白い髪。


 痩せた頬。


 何日も泣き続けた目。


 旅慣れていない服装。


 そして。


 大切そうに握られた、レオンのしおり。


女

「もしかして……」


 少し迷い。


 女が尋ねる。


女

「レオンの子?」


「…………」


 ルミナの胸に。


 最後の夜の記憶が蘇る。


『……俺の子だ』


 血の繋がっていないヤヌスへ。


 レオンが残した言葉。


 レオンは。


 ヤヌスを息子だと思っていた。


 なら。


 きっと。


 自分も。


 ルミナは涙を拭った。


 女の目を見て。


 ゆっくりと頷く。


ルミナ

「……はい」


 その答えを口にした瞬間。


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


ルミナ

「私は……レオンの娘です」


「…………」


 女は驚いたように目を瞬かせた。


 やがて。


 柔らかく笑う。


女

「そっか」


 それ以上。


 血が繋がっているのかとは聞かなかった。


 疑うこともなかった。


 ただ。


 ルミナの答えを、そのまま受け入れた。


女

「私はリリア」


 女――リリアが、自分の胸へ手を当てる。


リリア

「魔女の街から、あなたを迎えに来たの」


ルミナ

「迎えに……?」


リリア

「うん」


 リリアの視線が、しおりへ落ちる。


リリア

「あなたが人間の街へ入った時から、ずっと感じてた」


ルミナ

「何を……?」


リリア

「レオンの力」


「…………」


 ルミナは手の中にあるしおりを見る。


 自分には。


 微かな温もりしか感じられない。


リリア

「そのしおりには、レオンの力が残ってるの」


 リリアの声が。


 ほんの少しだけ、寂しげに沈んだ。


リリア

「だから、最初は……レオンが帰ってきたんだと思った」


「…………」


 ルミナの指が強張る。


 リリアは。


 すぐに笑顔を作った。


 けれど。


 先ほどまでの明るさは戻らなかった。


リリア

「街へ案内するね」


ルミナ

「待ってください」


 歩き出そうとしたリリアが振り返る。


ルミナ

「リリアさんが……魔女なんですか?」


リリア

「そうだよ」


 リリアは軽く胸を張る。


リリア

「でも、あなたが会いに来た魔女は、私じゃないよね?」


ルミナ

「エリュシアという人に……会わなければならないんです」


リリア

「やっぱり」


 その名を聞いても。


 リリアは驚かなかった。


リリア

「エリュシア様なら、街にいるよ」


 ルミナは周囲の白い霧を見回す。


ルミナ

「ここが……魔女の街じゃないんですか?」


リリア

「ここは境界」


 リリアが白い霧の向こうへ目を向ける。


リリア

「外の世界と、私達の街の間にある場所」


ルミナ

「間……?」


リリア

「魔女の街は、外から探しても見つからないの」


 リリアの声が、音のない霧へ広がる。


リリア

「世界のどこにも存在しない」


 そこで。


 ルミナへ振り返った。


リリア

「でも、世界のどこへでも繋がることができる」


「…………」


 ルミナは周囲を見回した。


 音のない霧。


 時間まで止まったような世界。


 自分が今。


 どこに立っているのかさえ分からない。


リリア

「そのしおりは、鍵じゃない」


 リリアがルミナの手元を見る。


リリア

「レオンが残してくれた、私達への呼び声みたいなもの」


リリア

「その力を感じたから、私が境界を繋いだの」


「…………」


 ルミナは、しおりを胸元へ戻した。


 レオンが。


 死んだあとまで。


 自分の進む道を残してくれている。


リリア

「はぐれないでね」


 リリアが霧の中へ歩き出す。


 ルミナは少し迷ってから。


 その後を追った。


◇◇◇


 どれだけ歩いたのか。


 ルミナには分からなかった。


 足音は霧へ吸い込まれ。


 振り返っても、通ってきた道は見えない。


 前を歩くリリアの背中だけが。


 この場所で唯一の目印だった。


「…………」


 やがて。


 霧の向こうに、淡い光が見えた。


 最初は。


 小さな光だった。


 歩くたびに大きくなり。


 白い霧を、内側から染めていく。


リリア

「着いたよ」


 リリアが足を止めた。


 同時に。


 2人を包んでいた霧が、左右へ流れ始める。


「…………!」


 ルミナは息を呑んだ。


 霧の向こう。


 巨大な街が広がっていた。


 緩やかな斜面に沿って。


 白い石造りの家々が立ち並んでいる。


 屋根の形も。


 窓の大きさも。


 外で見た街とは、どこか違う。


 宙には。


 幾つもの淡い光が浮かび。


 街灯のように通りを照らしていた。


 光を纏った小さな鳥が、屋根から屋根へ飛び移り。


 透き通った水路が、街の中を縫うように流れている。


 遠くには。


 空へ届きそうなほど高い塔がそびえていた。


 塔の周囲には。


 幾つもの光が、星のように漂っている。


 外の世界とは。


 何もかもが違った。


「…………」


 数日前から。


 何を見ても。


 ルミナの心は動かなかった。


 空が晴れても。


 雨が降っても。


 何も感じなかった。


 けれど。


 目の前の光景からだけは。


 目を逸らすことができない。


ルミナ

「……綺麗……」


 小さな声が漏れた。


 自分でも。


 そんな言葉が出たことに驚いた。


 リリアがルミナを見る。


 その横顔に。


 ほんの僅かだけ戻った感情を見つけ。


 静かに笑った。


リリア

「ようこそ」


 街へ向かって、両手を広げる。


リリア

「ここが、魔女の街だよ」


◇◇◇


 街の中へ入っても。


 ルミナは何度も周囲へ目を向けていた。


 通りでは。


 箒や薬草を抱えた女達が行き交っている。


 店先には。


 見たことのない色をした薬や。


 小瓶に詰められた光が並んでいた。


 建物の窓辺では。


 誰の手も触れていない布が、ひとりでに折り畳まれている。


「…………」


 街の者達は。


 リリアと歩くルミナへ、何度も視線を向けた。


 外から来た人間が珍しいのだろう。


 中には。


 足を止める者もいる。


 けれど。


 誰も近づいてはこなかった。


 興味だけではない。


 僅かな警戒が、その目にはあった。


 魔女の街が。


 長い間、外の世界から閉ざされてきた場所なのだと。


 言葉にされなくても分かった。


 大通りを進んだ先。


 1人の女が、道を塞ぐように立っていた。


「…………」


 暗い色の外套。


 肩まで伸びた黒髪。


 切れ長の瞳。


 年齢は、リリアと同じくらいに見える。


 女の鋭い視線は。


 リリアではなく、ルミナへ向けられていた。


リリア

「ノクス!」


ノクス

「止まれ」


 短い声だった。


 だが。


 その一言だけで、周囲の空気が張り詰める。


 ノクスはルミナから目を離さない。


ノクス

「その娘は誰だ」


リリア

「外から来たの」


ノクス

「それは見れば分かる」


 ノクスの眉間に、僅かに皺が寄る。


ノクス

「誰であろうと、この街へ勝手に入れるなと言われているだろう」


リリア

「でも、この子は――」


ノクス

「関係ない!」


 鋭い声が。


 リリアの言葉を切った。


 ルミナの肩が小さく震える。


ノクス

「外の者を許可なく招き入れて、何か起きてからでは遅い」


リリア

「だから、話を聞いてってば!」


 リリアが、ルミナを庇うように1歩前へ出る。


リリア

「この子はルミナ」


 そして。


 ルミナが握っているしおりへ目を向けた。


リリア

「レオンの娘だよ」


「…………」


 ノクスの表情が止まった。


ノクス

「……レオンの?」


 鋭い視線が。


 ルミナの顔から、手元へ落ちる。


 使い古されたしおり。


 その内側に残るものを感じ取ったのか。


 ノクスの目が僅かに見開かれた。


ノクス

「そのしおりを、どこで手に入れた」


ルミナ

「レオンが……残してくれたものです」


ノクス

「残した……?」


「…………」


 問い返した声から。


 先ほどまでの勢いが消えた。


 ノクスは、改めてルミナを見る。


 痩せた頬。


 泣き腫らした目。


 大切なものへ縋るように、しおりを握る手。


 そして。


 レオン本人ではなく。


 この少女が、しおりを持ってここへ来たという事実。


 それだけで。


 何があったのか、おおよそのことは察したのだろう。


 リリアも俯いている。


 ルミナは。


 胸の奥へ刺さる痛みに耐えながら。


 自分の口で伝えた。


ルミナ

「レオンは……死にました」


「…………」


 ノクスの表情が止まった。


 リリアの唇から。


 僅かに息が漏れる。


 驚いた様子はない。


 ただ。


 認めたくなかった現実を。


 とうとう言葉にされてしまったように、唇を強く噛んでいる。


ルミナ

「仮面をつけた魔人に……殺されました」


「…………」


 ノクスは何も答えなかった。


 外套の下で握られた拳だけが。


 僅かに震えている。


 長い沈黙のあと。


 ノクスが踵を返した。


ノクス

「エリュシア様へ報告する」


リリア

「ルミナも?」


ノクス

「当然だ」


 ノクスは振り返らない。


ノクス

「レオンの死を、我々だけで止めておけると思うな」


 黒い髪を揺らし。


 街の奥にそびえる塔へ向かって歩き出す。


 リリアは一度だけ。


 ルミナへ心配そうな目を向けた。


リリア

「……行こう、ルミナ」


 ルミナは頷き。


 2人のあとを追った。


◇◇◇


 星幽の塔。


 近くで見ると。


 その大きさは、街の入口から見た時以上だった。


 白い石で造られた壁が。


 空へ向かって、どこまでも伸びている。


 見上げても。


 塔の先端は薄い雲に隠れ、はっきりとは見えない。


 入口には。


 巨大な扉があった。


 取っ手はない。


 鍵穴もない。


 白い表面へ。


 細い線で、幾重もの円が刻まれている。


ノクス

「しおりを」


「…………」


 ルミナは胸元へ手を伸ばした。


 取り出したしおりを見つめたまま。


 僅かに躊躇う。


 今のルミナに残された。


 レオンとの、数少ない繋がり。


 ノクスは。


 その手から奪おうとはしなかった。


 扉の中央を指す。


ノクス

「渡さなくていい」


 先ほどよりも。


 僅かに声を落として続ける。


ノクス

「持ったまま、扉の中央へ触れてくれ」


「…………」


 ルミナは扉へ近づいた。


 刻まれた幾重もの円。


 その中心に。


 しおりと同じ形をした、細長い窪みがある。


 ルミナは。


 しおりを握ったまま、その場所へ重ねた。


「…………」


 静かな音が鳴る。


 しおりの触れた場所から。


 淡い光が広がった。


 扉へ刻まれていた線が。


 1つ。


 また1つと、光を帯びていく。


 幾重もの円が回り始める。


 互いに違う方向へ。


 ゆっくりと。


 やがて。


 巨大な扉全体へ、光の模様が浮かび上がった。


「…………!」


 ルミナはしおりを離す。


 けれど。


 光は消えない。


 扉から溢れた光が床を走り。


 ノクスの足元へ集まっていく。


「――ッ」


 ノクスの身体が僅かに震えた。


 俯く。


「…………」


 リリアが息を呑み。


 すぐに、その場へ膝をついた。


リリア

「エリュシア様……」


「…………」


 ノクスが。


 ゆっくりと顔を上げる。


 目が変わっていた。


 鋭い眼差しは、そのまま。


 けれど。


 その奥から、別の何者かがルミナを見ている。


ノクス

「……その娘か」


 ノクスの口から。


 ノクスではない女の声が響いた。


「…………!」


 ルミナの身体が強張る。


 姿は見えない。


 それでも。


 遥か高い場所から見下ろされているような重圧が、肩へ圧し掛かる。


リリア

「はい。レオンのしおりを持っていました」


 ノクスの瞳を通して。


 見えない誰かが、ルミナを見定める。


 顔を。


 服を。


 握られたしおりを。


 順番に確かめていく。


 やがて。


 僅かな沈黙を挟み、口を開いた。


ノクス(エリュシア)

「レオンが……死んだのだろう?」


「…………」


 問いかけているはずなのに。


 確信している声だった。


 ルミナはしおりを握り締める。


ルミナ

「……はい」


「…………」


 扉を覆っていた光が、大きく揺らいだ。


 空気が震える。


 けれど。


 それも一瞬だった。


ノクス(エリュシア)

「……そうか」


 短い声。


 悲しみも。


 怒りも。


 そこから読み取ることはできない。


 すべてを押し殺したまま。


 エリュシアは、ルミナを見ている。


 長い沈黙のあと。


 ノクスの唇が、再び動いた。


ノクス(エリュシア)

「それで?」


「…………」


 先ほどまで残っていた僅かな揺れが。


 声から消えていた。


ノクス(エリュシア)

「お前は、ここへ何をしに来た?」


 突き放すような声だった。


ノクス(エリュシア)

「レオンを失い。帰る場所も失った」


ノクス(エリュシア)

「だから、私達に助けを求めに来たのか?」


「…………」


 ルミナの膝が震える。


 助けてほしくないわけではない。


 自分1人では。


 何もできないことも分かっている。


 それでも。


 ここへ来た理由は。


 守られるためではない。


「…………」


 ルミナの脳裏に。


 あの夜の光景が蘇る。


 血に濡れたレオン。


 白い光。


 仮面の魔人。


 黒に呑まれ。


 自分へ手を伸ばしたヤヌス。


『……おまえか……?』


 自分を忘れた目。


 奈落へ落ちていく身体。


 最後に。


 微かに動いた唇。


『ル……ミ……』


「…………」


 ルミナは顔を上げた。


ルミナ

「……強くなりたいです」


 静かな声。


 けれど。


 迷いはなかった。


 ノクスの目が細くなる。


ノクス(エリュシア)

「何のために?」


「…………」


 戦うためではない。


 誰かを倒すためでもない。


 仮面の魔人へ復讐するためでもなかった。


 ヤヌスが生きているのなら。


 見つけなければならない。


 黒に呑まれ。


 自分さえ分からなくなったとしても。


 あの手を。


 もう1度、掴まなければならない。


ルミナ

「家族を……連れ戻すために」


「…………」


 ルミナは、しおりを胸元へ押し当てる。


ルミナ

「もう1度、ヤヌスに会いたいんです」


ルミナ

「生きているなら……必ず見つけたい」


ルミナ

「今度は、私が……」


 声が震える。


 それでも。


 ノクスの奥から見つめる者へ、真っ直ぐに顔を向ける。


ルミナ

「たった1人の家族を、守りたい」


「…………」


 大きく息を吸う。


ルミナ

「だから私は……強くなりたい」


「…………」


 沈黙が落ちた。


 リリアは膝をついたまま。


 ノクスも動かない。


 ルミナは視線を逸らさず。


 答えを待った。


 やがて。


 ノクスの唇が、僅かに持ち上がる。


ノクス(エリュシア)

「……そうか」


 試すような目が。


 ほんの僅かに細められた。


ノクス(エリュシア)

「ならば、来い」


 重い音を響かせ。


 巨大な扉が左右へ開いた。


 その隙間から溢れ出した光が。


 一気に弾ける。


「――ッ!」


 眩い白が、ルミナ達を呑み込んだ。


 足元が消える。


 身体が浮かび上がる。


 風も。


 音も。


 上下の感覚さえ失われた。


 ルミナは咄嗟に目を閉じる。


 直後。


 足の裏に、固い床の感触が戻る。


「…………」


 目を開ける。


 広大な部屋。


 床一面に描かれた魔法陣。


 高い天井。


 壁を埋める巨大な窓。


 遥か下には、魔女の街が広がっている。


 塔の最上階。


「…………」


 ルミナが振り返った時には。


 リリアとノクスは。


 すでに、その場へ膝をついていた。


 部屋の奥。


 高く設けられた玉座に。


 1人の女が腰掛けている。


 長い赤紫の髪。


 片肘を玉座の肘掛けへ預け。


 頬へ指を添えたまま。


 悠然と、ルミナを見下ろしていた。


 その手には。


 古びた小さな杯が握られている。


 使われている様子はない。


 ただ。


 捨てることもできずに、残しているように見えた。


「…………」


 女の視線が。


 ルミナの手元へ落ちた。


 レオンのしおり。


 その瞬間だけ。


 静かな瞳が、ほんの僅かに揺れた。


 そこに。


 この場にはいない誰かの姿を見たように。


 けれど。


 その揺れは、すぐに消えた。


 女は杯を玉座の傍らへ置く。


エリュシア

「顔を上げろ」


「…………」


 ルミナは女を見上げる。


 恐ろしい姿をしているわけではない。


 声を荒らげてもいない。


 それなのに。


 この空間にあるものすべてが。


 彼女の許しを得て、存在しているように感じられた。


 女はルミナの目を見つめる。


 何を恐れ。


 何を失い。


 何を求めて、ここまで来たのか。


 そのすべてを見透かすように。


 やがて。


 赤紫の髪を指先で払い。


 僅かに口元を持ち上げた。


エリュシア

「私はエリュシア」


 玉座へ身を預けたまま。


 当然のことを告げるように続ける。


エリュシア

「……魔女よ」

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