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第10話 バケモノ

第1章 勇者の終焉


第10話 バケモノ


 ズン――。


 巨大な足が、地面へ沈んだ。


「…………」


 奈落の森から。


 音が消えていた。


 木々の間に伏した異形たちは、頭を上げようとしない。


 息を潜め。


 道の両側へ並んだまま。


 中央に立つ巨大な異形を恐れている。


「…………」


 その向かい。


 ヤヌスが立っていた。


 全身を異形の血で濡らし。


 黒に侵された右半身を、僅かに前へ傾けている。


 赤く濁った瞳。


 大きく吊り上がった口元。


 荒い呼吸が漏れるたび。


 黒い筋が、皮膚の下で脈打っていた。


「…………」


 周囲の異形たちは。


 ヤヌスからも距離を取っている。


 先ほどまで獲物として群がっていた少年へ。


 今は誰も近づこうとしない。


 しかし。


 目の前の強個体だけは、逃げなかった。


 大きく歪んだ身体。


 地面へ届きそうなほど長い腕。


 幾つもの古い傷が刻まれた皮膚。


 壊れた顔には。


 僅かに、人だった頃の輪郭が残っている。


 強個体は。


 笑わない。


 唸りもしない。


 ただ。


 濁った瞳でヤヌスを見ていた。


「…………」


 ヤヌスが1歩、前へ出る。


 周囲の異形が身体を震わせた。


 強個体は動かない。


 僅かに。


 首を傾ける。


 目の前の少年が何なのか。


 値踏みするように。


「…………」


 ヤヌスの笑みが深くなる。


ヤヌス

「こ……ろ……す……」


 掠れた声。


 もはや。


 誰を殺そうとしていたのかも覚えていない。


 レオンを殺した仮面の魔人。


 その姿さえ。


 黒く濁った意識の底へ沈んでいる。


 今はただ。


 目の前に立つ、邪魔なモノを壊す。


 それだけだった。


ヤヌス

「ころす……ころす……ころす……」


 黒が脈打つ。


 ドクン。


 次の瞬間。


 ヤヌスの足元が爆ぜた。


 バンッ!!


「――――!」


 姿が消える。


 地面へ深い亀裂だけを残し。


 一瞬で、強個体の目の前へ現れた。


ヤヌス

「ころすころすころすころすぅぅぅッ!!」


 黒い拳を振り下ろす。


 速い。


 重い。


 人間の肉体から放たれたとは思えない一撃が。


 強個体の顔面へ迫る。


「…………」


 強個体が。


 片手を上げた。


 ガァンッ!!


 拳と掌が激突する。


 空気が弾けた。


 ドォン――!!


 衝撃が、森を駆け抜ける。


 周囲の木々が大きくしなり。


 幹が軋み。


 積もっていた枯れ葉が、一斉に舞い上がった。


 2人の足元から。


 地面が円を描くように沈んでいく。


「…………!」


 周囲に伏していた異形たちが。


 衝撃に押され、地面の上を転がっていく。


 それでも。


 強個体は動かなかった。


 ヤヌスの拳を。


 片手だけで受け止めている。


「…………」


 濁った瞳が。


 間近からヤヌスを見つめる。


 強個体は。


 掴んだ拳を、軽く外へ弾いた。


 ブンッ!


「――ッ」


 ヤヌスの身体が流れる。


 守りが開く。


 強個体の腕が。


 ゆっくりと引かれた。


 次の瞬間。


 巨大な拳が、ヤヌスの身体へ突き刺さった。


 ドォンッ!!


「――――ッ!」


 ヤヌスの身体が吹き飛ぶ。


 地面と平行に。


 一直線に。


 逃げ遅れた異形の群れへ突っ込んだ。


 グシャッ!


 1体。


 バキッ!


 2体。


 触れた身体が潰れ。


 肉と骨が四方へ弾け飛ぶ。


 それでも勢いは止まらない。


 ヤヌスは木々の間を突き抜け。


 森の奥にそびえる岩壁へ背中から激突した。


 ドゴォォォンッ!!


 轟音。


 岩壁へ。


 大きな亀裂が走る。


 砕けた岩が降り注ぎ。


 ヤヌスの姿が、濃い砂煙の中へ消えた。


「…………」


 静寂。


 からん、と。


 小石が転がる音だけが。


 暗い森へ響いている。


 強個体は動かない。


 砂煙の向こうを。


 ただ見つめていた。


「…………」


 やがて。


 小さな声が聞こえた。


ヤヌス

「じゃま……」


「…………」


ヤヌス

「ころす……コロス……コロスコロスコロス……」


 砂煙の中で。


 黒い影が動いた。


 ヤヌスが。


 岩壁へ背中を預けながら立っている。


「…………」


 咄嗟に腕で防いだのだろう。


 だが。


 強個体の拳を受けた左腕は。


 あり得ない方向へ曲がっていた。


 肘から先が垂れ下がり。


 裂けた肉の隙間から。


 白い骨が覗いている。


 指先は動かない。


 腕としての形さえ、ほとんど残っていなかった。


「…………」


 ヤヌスは。


 壊れた左腕を見る。


 黒は右半身しか覆っていない。


 折れた骨が戻ることも。


 裂けた肉が塞がることもなかった。


 血だけが。


 指先から地面へ落ちていく。


 ぽたり。


 また、ぽたり。


「…………」


 治らない。


 それでも。


 ヤヌスの顔に恐怖はなかった。


 強個体へ視線を戻す。


 その口元が。


 再び、大きく吊り上がった。


 ニィ……。


ヤヌス

「……こわ……す」


 壊れた左腕を垂らしたまま。


 岩壁から身体を離す。


 ザッ。


 1歩。


 足元が揺れる。


 それでも倒れない。


 ザッ。


 もう1歩。


 強個体へ向かって歩き出す。


「…………」


 強個体も。


 ヤヌスへ近づいていく。


 ズン。


 1歩進むたび。


 巨体の重さで、湿った地面が沈む。


 ザッ。


 ズン。


 ザッ。


 ズン。


 互いの距離が縮まる。


 どちらも止まらない。


「…………」


 先に動いたのは。


 ヤヌスだった。


 使える右腕を引く。


 黒い拳を。


 強個体の胸へ叩き込んだ。


 ドンッ!!


 強個体が。


 初めて両腕を上げる。


 拳を正面から受け止めた。


 足元が沈む。


 土が跳ねる。


 強個体の巨体が、僅かに後ろへ滑った。


「…………」


 ヤヌスの瞳が。


 歓喜に揺れる。


ヤヌス

「こわす……」


 再び拳を振るう。


 ドッ!


 強個体の腕へ叩き込む。


 さらに。


 もう1度。


 ドンッ!


 同じ場所へ。


 ドッ!


 ドンッ!


 ドドドドドッ!!


 骨と肉がぶつかる鈍い音が。


 途切れることなく森へ響く。


強個体

「ル……」


 濁った声が漏れる。


ヤヌス

「こわす……こわす……」


強個体

「ル……ル……」


 何かを伝えようとしているのか。


 ただ。


 喉から音が漏れているだけなのか。


 ヤヌスには届かない。


 今のヤヌスには。


 言葉の意味など必要なかった。


「…………」


 強個体の腕へ。


 初めて亀裂のような傷が走る。


 ブシュッ!


 黒ずんだ血が吹き出した。


 ヤヌスの頬へ。


 生温かい血が掛かる。


「…………」


 壊せた。


 目の前のものが。


 自分の拳で。


 僅かに壊れた。


ヤヌス

「たの……し……」


 歪んだ笑みが。


 さらに深くなる。


ヤヌス

「こわすこわすこわすこわす……!」


 拳を振るう。


 受け止められる。


 もう1度。


 さらに強く。


 さらに速く。


 ドッ!


 ドドッ!


 ドドドドドドッ!!


 黒に覆われた右腕が。


 何度も強個体へ叩き込まれる。


 強個体の身体が軋む。


 皮膚が裂ける。


 血が飛ぶ。


 1撃ごとに。


 僅かずつ。


 巨体が後ろへ押されていく。


ヤヌス

「はっ……はぁ……はは……!」


 ヤヌスは止まらない。


 相手が傷つくたびに。


 呼吸が熱を帯びる。


 もっと。


 もっと強く。


 目の前のものが。


 跡形もなく壊れるまで。


 自分の身体がどうなろうと。


 そんなことは、もう考えていない。


 そして。


 嫌な音がした。


 ミシッ。


「…………」


 右腕。


 拳から肘へ。


 鋭い痛みが走る。


 ミシッ。


 ミシミシミシッ!


 黒が引き出す力へ。


 ヤヌス自身の肉体が耐えられない。


 筋肉が裂ける。


 ブチッ。


 さらに奥で。


 腱が弾ける。


 ブチブチッ!


 皮膚の下で、骨がずれていく。


 バキッ。


 拳の骨が砕け。


 指が不自然に歪んだ。


ヤヌス

「……?」


 ヤヌスの動きが止まる。


 右腕を見る。


 皮膚が裂け。


 血が溢れている。


 強個体から受けた傷ではない。


 誰かに壊されたわけでもない。


 自分が振るった力で。


 自分の腕が壊れた。


ヤヌス

「ア……レ……?」


 右手を握ろうとする。


 指が動かない。


 両腕とも。


 もうまともには使えない。


 左腕は、強個体の拳に砕かれ。


 右腕は。


 自分の力で壊れた。


 普通なら。


 そこで終わる。


 戦うどころか。


 立っていることさえできない。


「…………」


 ヤヌスは。


 垂れ下がった両腕を見た。


 次に。


 強個体へ顔を向ける。


 ニィ……。


 笑った。


ヤヌス

「……こわす」


 砕けた右手へ。


 無理やり力を込める。


 動かない指を。


 拳の形へ曲げていく。


 ギチッ。


 ギチギチッ。


 骨同士が擦れ。


 肉の奥で。


 何かが潰れていく。


 バキッ。


「…………」


 それでも。


 振るった。


 ぐしゃッ!!


 壊れた拳が。


 強個体の頬へ直撃する。


 顔が僅かに歪む。


 同時に。


 ヤヌスの右手も。


 さらに大きく潰れた。


 ベキッ!


 裂けた皮膚から。


 折れた骨が突き出す。


ヤヌス

「こわす……」


 もう1度。


 腕を振るう。


 ぐしゃッ!!


 強個体の肩から血が飛ぶ。


 ヤヌスの腕からも。


 血が飛び散る。


ヤヌス

「こわす……」


 さらに。


 もう1度。


 ぐしゃッ!!


 相手を壊すたび。


 自分の身体も壊れていく。


 どちらの血なのか。


 もう、分からない。


ヤヌス

「は……はは……」


 それでも。


 ヤヌスは笑っていた。


 黒は。


 砕けた骨を元へ戻さない。


 裂けた肉も塞がない。


 ヤヌスを痛みから守っているわけでもない。


 ただ。


 止めなかった。


 本来なら。


 痛みだけで意識を失う身体。


 本来なら。


 力を込めることすらできない腕。


 本来なら。


 地面へ倒れたまま、動けなくなるほどの損傷。


 そのすべてを無視して。


 黒は。


 ヤヌスの身体を動かし続ける。


 壊れても。


 さらに壊れても。


 目の前にあるものを。


 破壊するためだけに。


「…………」


 強個体の様子が変わった。


 最初のように。


 ヤヌスを観察してはいない。


 両腕には。


 幾つもの傷が刻まれている。


 片方の肩は大きく裂け。


 黒ずんだ血が、胸元を濡らしていた。


 濁った瞳の奥へ。


 初めて。


 明確な敵意が宿る。


強個体

「ルルッ!!」


 咆哮。


 巨体が踏み込む。


 ドンッ!!


 地面が沈む。


 ヤヌスが反応するよりも早く。


 拳が顔面へ直撃した。


 ドォンッ!!


 顔が跳ね上がる。


 身体が宙へ浮き。


 地面の上を何度も転がった。


 ドッ!


 ドドッ!


 木の根を砕き。


 太い幹へ横から衝突する。


 バキィッ!!


 幹が折れる。


 ヤヌスの身体は。


 倒れた木と共に、地面へ沈んだ。


強個体

「ルルルルルルルッ!!」


 強個体が走り出す。


 ズンッ!


 ズンッ!


 木々の間を。


 地面を踏み砕きながら突き進む。


 先ほどまでのような。


 値踏みする目ではない。


 目の前の存在を。


 明確に敵と認めている。


 殺すために。


 その巨体を動かしていた。


「…………」


 土煙の中。


 ヤヌスは倒れている。


 左腕は完全に折れ。


 右腕も原形を失っていた。


 片脚は木の下敷きになり。


 膝が不自然な方向へ曲がっている。


 肋骨も。


 先ほどの一撃で、幾つも折れていた。


 口元から。


 血が地面へ流れていく。


 普通なら。


 立てるはずがない。


 意識など。


 残っているはずもない。


 ドクン。


 黒が脈打った。


「…………」


 ヤヌスの指が。


 僅かに動いた。


 砕けた右手が。


 地面を掴もうとする。


 ギチッ。


 指先が土へ食い込む。


 身体を起こす。


「――ッ」


 途中で。


 支えきれずに崩れ落ちた。


 ドサッ。


 顔が地面へぶつかる。


「…………」


 それでも。


 もう1度。


 腕をつく。


 折れた骨が動く。


 ベキッ。


 傷口から。


 新たな血が溢れ出す。


 片脚を引きずり。


 木の下から、無理やり身体を抜いた。


 ズルッ。


 ズルズルッ。


 立ち上がる。


 1度。


 膝が折れる。


 それでも。


 もう1度。


 足へ力を込める。


「…………」


 ヤヌスは。


 壊れた身体のまま立った。


ヤヌス

「こわ……す……」


「…………」


 走っていた強個体が。


 一瞬だけ足を止めた。


 傷が治ったわけではない。


 骨は折れたまま。


 肉も裂けたまま。


 立っていること自体が。


 本来ならあり得ない。


「…………」


 強個体が。


 再び歩き出す。


 今度はゆっくりと。


 逃げることのできない獲物へ。


 確実にとどめを刺すために。


 ズン。


 ズン。


 ヤヌスの前へ立つ。


 巨大な腕が持ち上がった。


 拳が握られる。


 今度こそ。


 頭ごと。


 すべてを潰すために。


マントの男

「まったく……」


「…………」


 声が。


 頭上から落ちた。


マントの男

「これでは、どちらが化け物か分からんな」


 強個体の腕が止まる。


 濁った瞳が。


 ゆっくりと上へ向いた。


「…………」


 頭上。


 太い木の枝へ。


 マントを纏った老人が座っていた。


 片膝を立て。


 何事もないように。


 強個体とヤヌスを見下ろしている。


「…………」


 いつから。


 そこにいたのか。


 誰にも分からない。


 枝が揺れた音も。


 近づいてくる気配もなかった。


 周囲の異形たちでさえ。


 老人が声を出すまで、その存在へ気づいていなかった。


 老人が。


 枝の上で立ち上がる。


マントの男

「ワシは……その小僧を死なせたくない」


 強個体を見下ろす。


 一拍。


マントの男

「この意味が分かるか?」


「…………」


 森の空気が凍った。


 風が止まる。


 葉の擦れる音が消える。


 地面へ伏していた異形たちが。


 一斉に身体を硬直させた。


 息をすることさえ。


 許されていないように。


「…………」


 強個体だけが。


 老人を見上げたまま動かない。


 だが。


 握られていた拳が。


 僅かに震えている。


 その巨体が。


 頭上にいる小さな老人を。


 本能から恐れていた。


「…………」


 老人が。


 木の枝から姿を消した。


 落下する音はない。


 風も動かない。


 気づけば。


 強個体とヤヌスの間に立っていた。


「…………」


 老人の片手は。


 腰の剣へ触れていない。


 強個体を見上げ。


 静かな声で告げる。


マントの男

「……退いてくれんか?」


 柔らかな声だった。


 怒鳴ってもいない。


 殺気を剥き出しにしているわけでもない。


 それなのに。


 拒むという選択そのものが。


 許されていないように聞こえた。


「…………」


 周囲の異形たちが。


 地面を這うように後退し始める。


 ズッ。


 ズズッ。


 1体。


 また1体。


 木々の陰へ逃げ込んでいく。


 だが。


 強個体だけは動かなかった。


 震える身体へ。


 無理やり力を込める。


強個体

「ル……ルルッ!!」


 恐怖を押し殺すように吠える。


 巨大な拳を。


 老人へ振り下ろした。


 ブォンッ!!


マントの男

「そうか……」


 老人の手が。


 剣の柄へ触れた。


「…………」


 音はなかった。


 剣を抜く音も。


 刃が空気を裂く音も。


 何ひとつ。


 聞こえなかった。


「…………」


 ただ。


 強個体の振り下ろした腕が。


 途中から消えていた。


「…………?」


 強個体の動きが止まる。


 何が起きたのか。


 理解できていない。


 遅れて。


 切断面に。


 赤い線が浮かび上がる。


 ブシュウッ!!


 黒ずんだ血が噴き出した。


 ボトッ。


 巨大な腕が。


 地面へ落ちる。


強個体

「ル……?」


 自分の肩を見る。


 腕がない。


強個体

「ル……ルルルルァァァッ!?」


 絶叫が。


 奈落の森を震わせた。


 木々に止まっていた何かが。


 一斉に暗闇へ飛び去っていく。


「…………」


 老人は。


 いつの間にか剣を鞘へ戻していた。


 その場から。


 1歩も動いていない。


 騒ぐ強個体を。


 静かに見上げる。


マントの男

「続けるか?」


「…………」


 強個体の叫びが止まる。


 濁った目に。


 初めて明確な恐怖が浮かんだ。


 残った手で切断面を押さえ。


 1歩、後退する。


 ズッ。


強個体

「ルルル……」


 老人を見る。


 次に。


 その背後で立ち尽くすヤヌスへ視線を移した。


「…………」


 強個体の口が。


 僅かに動く。


強個体

「……ル……」


 それが。


 何を意味していたのか。


 誰にも分からない。


 やがて。


 強個体は背を向けた。


 片腕から血を流しながら。


 暗い森の奥へ消えていく。


 周囲に残っていた異形たちも。


 そのあとを追い。


 次々と闇へ姿を消した。


「…………」


 老人は追わない。


 姿が完全に見えなくなるまで。


 暗闇を見つめていた。


マントの男

「厄介なのに目をつけられたな」


 小さく息を吐く。


 そして。


 背後へ振り返った。


「…………」


 赤く濁った瞳。


 身体を侵す黒。


 自分と異形の血に濡れた少年。


 両腕は原形を失い。


 片脚も折れている。


 息を吸うたび。


 砕けた肋骨が、胸の内側を傷つけていた。


 それでも。


 まだ立っている。


 治ったわけではない。


 痛みを感じていないわけでもない。


 壊れた身体を。


 黒が、無理やり立たせている。


「…………」


 人間なのか。


 先ほどの異形と同じものなのか。


 あるいは。


 そのどちらにも属さない。


 この世に存在してはならない何かなのか。


 老人が目を細める。


マントの男

「ところで……」


 一拍。


マントの男

「お主は……なんじゃ?」


「…………」


 小屋で問いかけた言葉とは違う。


『お主、何者じゃ?』


 あの時は。


 少年の素性を問う言葉だった。


 今は。


 目の前にいるものが何なのか。


 老人自身にも。


 判断できずにいた。


「…………」


 ヤヌスは答えない。


 意識など。


 ほとんど残っていない。


 強個体が去った場所を見て。


 次に。


 目の前に立つ老人を見る。


ヤヌス

「こわす……」


 ズルッ。


 1歩。


 折れた脚を引きずりながら進む。


 身体の中で。


 骨が擦れる音が鳴った。


 ゴリッ。


ヤヌス

「じゃま……」


 ズルッ。


 もう1歩。


 老人は動かない。


ヤヌス

「こわす……!」


 ヤヌスが地面を蹴った。


 バンッ!!


 力の入らない脚が。


 さらに大きく軋む。


 ベキッ!


 それでも。


 黒が身体を前へ押し出した。


 壊れた右腕を振るう。


 ブォンッ!!


「…………」


 老人が。


 半歩だけ横へ動く。


 拳は。


 外套の端すら掠めなかった。


「…………」


 ヤヌスは身体を捻る。


 動く方の脚で蹴る。


 老人は。


 僅かに上体を引く。


 足先が。


 鼻先の前を通り過ぎた。


 外れる。


 もう1度。


 壊れた左腕を振るう。


 ブンッ!


 また。


 僅かな動きでかわされる。


「…………」


 老人は速く動いていない。


 大きく距離を取ることもない。


 ヤヌスの攻撃が来る場所から。


 必要な分だけ身体を外している。


 まるで。


 ヤヌスが動くより先に。


 次の一撃を知っているようだった。


ヤヌス

「ジャマァァァァァッ!!」


 黒い右腕を振り上げる。


 老人は。


 拳を見ていない。


 ヤヌスの足を見る。


 地面を踏む位置。


 傾いた重心。


 浅く乱れた呼吸。


 拳が動き出すより前に。


 その軌道から外れていた。


「…………!」


 空振りしたヤヌスの身体が。


 前へ大きく流れる。


 老人の足先が。


 踏み込んだ足へ僅かに触れた。


「――ッ」


 支えを失う。


 ドサッ!


 ヤヌスの身体が地面へ倒れた。


 だが。


 すぐに指を土へ食い込ませ。


 壊れた身体を起こす。


マントの男

「殺意だけで、力を振るう」


「…………」


 ヤヌスが再び踏み込む。


 拳。


 老人が首を傾ける。


 ブンッ!


 空を切る。


マントの男

「相手を見ず。己の欲するままに、暴力をぶつける」


 蹴り。


 老人が半歩下がる。


 また外れる。


 伸びきった脚へ。


 老人の指先が僅かに触れた。


「――ッ」


 重心が崩れ。


 ヤヌスが膝をつく。


マントの男

「そのうえ、自分の身体が壊れていることすら分からん」


「…………」


 ヤヌスは。


 また立ち上がる。


 折れた腕が揺れ。


 ぽたり。


 ぽたりと。


 血が地面へ散る。


 赤い瞳には。


 痛みも。


 恐怖もない。


 目の前にあるものを。


 壊すことしか残っていなかった。


「…………」


 老人は。


 その姿を黙って見つめる。


 やがて。


 低い声を落とした。


マントの男

「まるで獣じゃな」


ヤヌス

「コロスッ!!」


 ヤヌスが吠える。


 残った力をすべて足へ込め。


 正面から老人へ突進する。


 ドンッ!!


「…………」


 老人は。


 剣へ手を掛けなかった。


 抜く必要すらない。


 ヤヌスの踏み込みへ合わせ。


 僅かに身体をずらす。


 黒い拳が。


 老人の横を通り過ぎる。


 その懐へ入る。


「…………」


 老人の指が。


 ヤヌスの胸元へ触れた。


 軽く。


 押した。


 トン。


「――――」


 それだけだった。


 ヤヌスの身体が止まる。


 赤く濁った瞳が、大きく見開かれた。


 肺から。


 小さく息が漏れる。


 全身へ入っていた力が。


 一瞬で抜けた。


「…………」


 黒が消えたわけではない。


 右半身には。


 今も黒い筋が脈打っている。


 それでも。


 限界を越えて動かされ続けた身体は。


 もう。


 老人の一撃へ抗う力さえ残していなかった。


 膝が折れる。


 地面へ倒れかける。


「…………」


 老人が。


 その身体を受け止めた。


 ヤヌスの頭が。


 老人の肩へ落ちる。


「…………」


 意識が遠ざかっていく。


 ぼやけた視界。


 深く被られた頭巾。


 その奥にいる老人の姿が。


 一瞬だけ。


 別の誰かと重なった。


 いつも。


 自分達の前に立っていた。


 大きな背中。


 傷ついても。


 最後まで守ろうとした男。


ヤヌス

「……レ……オン……」


「…………」


 老人の表情が止まった。


 ほんの僅かに。


 何かを堪えるように。


 伏せられた目が揺れる。


「…………」


 ヤヌスの瞼が閉じた。


 身体から。


 完全に力が抜ける。


 老人は。


 腕の中で意識を失った少年を見下ろした。


 壊れた両腕。


 折れた脚。


 傷だらけの身体。


 血に濡れた顔。


 そして。


 右手に残る、黒い痣。


「…………」


 老人は何も言わない。


 ヤヌスの身体を抱き上げる。


 腕を揺らさないように。


 傷へ触れないように。


 先ほどまでとは違う。


 僅かに慎重な手つきだった。


「…………」


 老人は。


 強個体が消えた暗闇へ1度だけ目を向ける。


 そして。


 血まみれの少年を抱いたまま。


 奈落の森の奥へ歩き出した。

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