第11話 剣聖
第11話 剣聖
夜。
薄暗い小屋の中で、薪が静かに燃えていた。
ぱちり。
火の粉が弾け。
赤い光が、古びた壁を揺らしている。
「…………」
寝台には。
1人の少年が眠っていた。
ヤヌス。
両腕を厚い布で固定され。
胸や脚にも、幾重もの包帯が巻かれている。
折れた骨は、まだ繋がっていない。
裂けた肉も。
潰れた拳も。
完全には治っていなかった。
それでも。
血は止まり。
開いていた傷口は、少しずつ塞がり始めている。
普通の人間なら。
何か月もの治療を必要とする傷。
あるいは。
助かったこと自体が、奇跡と呼ばれるほどの損傷。
それが。
僅かな時間で、回復へ向かっている。
異常な治癒力。
だが。
決して、死なない身体ではない。
「…………」
ヤヌスの呼吸は浅い。
額には汗が滲み。
時折、苦しそうに眉を寄せている。
夢の中でも。
あの夜から逃れられないのだろう。
ヤヌス
「……レ……オン……」
掠れた声が漏れる。
閉じられた目尻から。
涙がひと筋、頬を伝った。
「…………」
寝台の傍らには。
聖剣アウロラが置かれている。
持ち主を失ってなお。
刀身からは、淡い白銀の光が漏れていた。
弱々しく。
今にも消えてしまいそうな光。
それでも。
闇の深い奈落では、あまりにも目立つ。
「…………」
小屋の外。
木々の奥から、低い唸り声が聞こえた。
1つではない。
白銀の光へ引き寄せられたのか。
幾つもの気配が、小屋の周囲を彷徨っている。
「…………」
アウロラの前には。
マントを纏った男が座っていた。
男は外の気配へ僅かに目を向ける。
それだけで。
木々の奥にいた気配が、一斉に遠ざかっていった。
マントの男
「弱々しいとはいえ……」
再び。
アウロラへ視線を戻す。
マントの男
「ここで、その光は目立ちすぎるのう」
傍らに置いていた布を手に取る。
長い間使われていたのか。
色褪せ。
所々が擦り切れた、粗末な布。
それを。
アウロラの刀身へ巻きつけていく。
白銀の光が。
少しずつ隠れていく。
最後まで包み終えると。
小屋の中へ、夜の暗さが戻った。
「…………」
マントの男は。
眠るヤヌスを見つめる。
傷だらけの身体。
頬に残る涙の跡。
包帯の下へ隠された、右手の黒い痣。
次に。
布に包まれたアウロラへ視線を移す。
長い沈黙のあと。
小さな声が落ちた。
マントの男
「……レオン」
ぱちり。
薪が爆ぜる。
揺らめく炎が。
遠い日の光景を映し出す。
まだ。
勇者が生きていた頃の夜を。
◇◇◇
魔王との決戦を。
翌日に控えた夜だった。
乾いた風が、荒れ果てた大地を吹き抜けている。
空には厚い雲が広がり。
月も。
星も見えない。
その暗闇の中で。
小さな焚き火だけが燃えていた。
「…………」
炎を囲む、3人の男女。
勇者レオン。
剣を抱えたヴァルド。
そして。
赤紫の髪を持つ魔女。
誰も話さない。
明日。
自分達は、魔王へ挑む。
その戦いから。
生きて帰れる保証はない。
薪が燃える音だけが。
静かな夜へ響いている。
「…………」
やがて。
レオンが顔を上げた。
レオン
「先生……」
ヴァルド
「なんじゃ」
ヴァルドが、僅かに目を向ける。
レオンは炎を見つめたまま。
しばらく言葉を探していた。
レオン
「俺達は……」
声が止まる。
その迷いに。
ヴァルドの目が僅かに細くなった。
向かいに座るエリュシアも。
手にしていた杯を止める。
レオン
「勝てると思いますか……」
「…………」
炎が揺れた。
歴代最強と呼ばれた勇者。
どのような魔物を前にしても恐れず。
どれほど傷ついても。
決して、弱音を吐かなかった男。
そのレオンが。
初めて。
戦う前に、勝敗を尋ねた。
「…………」
ヴァルドは。
驚いたように目を瞬かせたあと。
小さく笑った。
ヴァルド
「ははは……」
レオン
「…………」
ヴァルド
「戦う前から、何を言っておる」
膝の上に置いていた剣へ。
軽く手を添える。
ヴァルド
「お前は歴代最強の勇者なんじゃろう」
ヴァルド
「そのお前が、弱気になってどうする」
「…………」
エリュシアも。
杯の縁へ唇を寄せながら、僅かに笑う。
エリュシア
「レオンよ。其方には参ったぞ」
レオン
「何がだ」
エリュシア
「まさか、この私が負け戦に付き合わされるとはね」
軽口だった。
だが。
レオンは笑わなかった。
炎へ視線を落とす。
レオン
「……すまない」
「…………」
ヴァルドの表情から。
笑みが消えた。
ヴァルド
「謝るな」
低い声。
焚き火を囲んでいた空気が変わる。
レオンが顔を上げた。
ヴァルド
「ワシもエリュシアも」
ヴァルド
「お前の正義に惹かれて、ここにいる」
炎の向こうに座る弟子を。
真っ直ぐに見つめる。
ヴァルド
「誰かに命じられたわけではない」
ヴァルド
「お前についてきたのは、ワシらの意思じゃ」
ヴァルド
「お前が頭を下げる理由など、どこにもない」
「…………」
レオンは何も言わなかった。
ただ。
拳を握り。
自らの掌へ視線を落とす。
そこには。
淡く光る聖印が刻まれていた。
ヴァルド
「して……レオンよ」
レオン
「……?」
ヴァルド
「お主は、それで良いのか?」
「…………」
レオンが顔を上げる。
ヴァルドは、それ以上何も言わない。
何を選ぶのか。
どう戦うのか。
答えを急かすことなく待っている。
「…………」
レオンは再び。
自らの聖印を見つめた。
レオン
「この旅の間……ずっと考えていました」
エリュシア
「何を?」
レオン
「俺が魔王を倒せなかったら」
一拍。
炎が大きく揺れる。
レオン
「その先を、どうするべきなのか」
「…………」
ヴァルドも。
エリュシアも口を挟まない。
レオン
「俺は、この力を受け継いだ」
レオンの聖印から。
僅かな光が漏れる。
レオン
「多くの者の願いを背負い」
レオン
「勇者として、ここまで来た」
レオン
「それでも……届かないかもしれない」
エリュシア
「珍しく弱気ね」
レオン
「弱気じゃない」
即座に答える。
そして。
少し間を置いた。
レオン
「……負けたあとのことまで、考えておきたいだけだ」
「…………」
自分が英雄だから。
選ばれた勇者だから。
必ず勝てる。
レオンは。
そのようなことを、1度も考えていなかった。
勝つつもりでいる。
命を懸けて戦う。
だが。
もしも届かなかった時に。
すべてが終わることだけは、許さない。
レオン
「俺が倒せなくても」
聖印の光を。
拳の中へ握り込む。
レオン
「いつか……魔王を倒せる奴が現れるかもしれない」
ヴァルドが。
黙ったまま、弟子の言葉を聞いている。
レオン
「だったら――」
レオンは顔を上げた。
迷いは。
もう、その目にはなかった。
レオン
「俺は、自分の命を懸けてでも」
レオン
「必ず、次代へ繋ぎます」
「…………」
風が吹く。
炎が大きく傾いた。
エリュシアは杯を下ろし。
何も言わず、レオンを見つめている。
ヴァルドも。
しばらく口を開かなかった。
「…………」
やがて。
剣を抱えていた手を離す。
ヴァルド
「……1つだけ、約束してくれ」
レオン
「……?」
ヴァルドは。
勇者ではなく。
1人の弟子を見る目で、レオンを見つめた。
ヴァルド
「師であるワシより、先に死ぬな」
「…………」
レオンが。
僅かに目を見開いた。
予想していなかった言葉だったのだろう。
ヴァルドは笑わない。
冗談でもなかった。
「…………」
短い沈黙のあと。
レオンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
レオン
「……善処します」
ヴァルド
「馬鹿者」
ヴァルドが眉を寄せる。
ヴァルド
「そこは、約束すると言わんか」
向かいから。
小さな笑い声が漏れた。
エリュシア
「ふふっ……」
ヴァルド
「何がおかしい」
エリュシア
「いや。何でもないとも」
エリュシアは口元を隠し。
それでも、笑いを堪えきれていなかった。
レオンも。
困ったように目を伏せる。
ほんの僅かな間だけ。
3人は。
明日の決戦を忘れていた。
焚き火を囲み。
いつもと変わらないように言葉を交わす。
この時間が。
いつまでも続くかのように。
ぱちり。
炎が爆ぜる。
その赤い光が揺らぎ。
遠い日の3人を、闇の中へ消していった。
◇◇◇
同じように。
薪が爆ぜた。
「…………」
マントの男は。
小屋の中で、炎を見つめていた。
あの夜から。
長い時間が過ぎた。
勝ち目など、ほとんどないと知りながら挑んだ。
魔王との戦い。
その戦場を生き延び。
人ではない半身を抱え。
この奈落の底へ身を隠して。
それでも。
マントの男は生きている。
師より先に死ぬな。
そう告げた弟子だけが。
先に逝った。
「…………」
マントの男の口元へ。
僅かな苦笑が浮かんだ。
マントの男
「……親不孝な弟子だったぞ、レオン」
返事はない。
炎が揺れるだけだった。
「…………」
苦笑が。
少しずつ消えていく。
マントの男は片手を上げ。
顔を覆った。
誰も見ていない。
この小屋にいるのは。
眠り続ける少年だけ。
だから。
誰にも見せることのなかった感情が。
初めて。
僅かに零れ落ちた。
「…………」
指の隙間を通り。
涙が頬を伝う。
声は上げない。
肩も震わせない。
泣き崩れることもなかった。
ただ。
静かに。
亡くした弟子のために涙を流す。
マントの男
「……馬鹿者が」
掠れた声だった。
焚き火の音へ紛れ。
誰にも届かず消えていく。
「…………」
マントの男は。
長い間、そのまま動かなかった。
やがて。
深く息を吐く。
袖で顔を拭い。
ゆっくりと手を下ろした。
「…………」
寝台へ視線を向ける。
眠るヤヌス。
傷だらけの身体。
黒い痣。
レオンを父と呼び。
その死によって。
壊れかけている少年。
「…………」
次に。
布に包まれたアウロラを見る。
レオンが遺した剣。
そして。
レオンが最期まで守ろうとした少年。
どちらも。
奈落の底へ落ちてきた。
まるで。
死んだ弟子が。
自分へ託したかのように。
マントの男
「最後まで……面倒ばかり残しおって」
小さく苦笑する。
「…………」
マントの男は。
もう1度、ヤヌスを見た。
この少年が何者なのか。
右手の黒が何なのか。
なぜ異常な治癒力を持っているのか。
分からない。
信じられるかどうかも。
まだ判断できない。
だが。
レオンが命を懸けて守った。
それだけは。
確かなことだった。
マントの男
「……分かった」
誰に言うでもなく。
静かに告げる。
マントの男
「お前が命を懸けて残したものくらいは――」
眠る少年を見つめる。
マントの男
「ワシが見届けてやる」
「…………」
その時。
布に包まれたアウロラが。
淡く光った。
白銀の光が。
布を通して、1度だけ明滅する。
まるで。
亡き弟子が。
返事をしたように。
「…………」
マントの男は。
しばらく聖剣を見つめていた。
マントの男
「……ふん」
それ以上。
何も言わなかった。
◇◇◇
朝。
木板の隙間から差し込んだ光が。
ヤヌスの瞼を照らした。
「…………」
ゆっくりと。
目を開く。
見覚えのある天井。
湿った木の匂い。
薪の燃えた跡。
自分が最初に目を覚ました小屋だった。
ヤヌス
「…………」
身体を起こそうとする。
その瞬間。
全身へ激痛が走った。
ヤヌス
「ぐっ……!」
腕へ力が入らない。
胸の奥が軋み。
脚から鋭い痛みが突き上げる。
ヤヌスは。
再び寝台へ倒れ込んだ。
「…………ッ」
荒い息を吐く。
両腕には。
厚い包帯と添え木が巻かれていた。
胸にも。
腹にも。
脚にも、処置が施されている。
傷は治っていない。
開いていた肉は塞がり始めているが。
折れた骨までは戻っていなかった。
ヤヌス
「……また、ここか」
小さく呟く。
「…………」
どうして。
再び、この小屋にいる。
考えた瞬間。
記憶が蘇った。
森の中。
人の形を残した異形。
いくつもの笑顔。
自分へ群がる腕。
右手から広がった黒。
「…………」
異形を殴る。
骨が砕ける。
肉が潰れる。
何度も。
何度も。
壊れているのに。
さらに殴った。
『……壊れろ』
笑っていた。
相手が壊れるたびに。
血が飛ぶたびに。
もっと壊したいと思った。
『たの……し……』
「――ッ!」
ヤヌスの呼吸が止まる。
次の瞬間。
息を求めるように、肩が大きく上下した。
ヤヌス
「はっ……はぁ……!」
自分の右手を見る。
包帯の下。
黒い痣が刻まれている。
今は。
動いていない。
脈打っても。
広がってもいない。
それでも。
目を離すことができなかった。
ヤヌス
「……なんなんだよ……これ」
右手へ触れようとする。
「…………」
指先が止まった。
怖い。
この黒が。
自分の中にあることが怖い。
レオンを失った夜には。
ルミナさえ敵だと思った。
昨日は。
異形を壊すことを。
楽しいと感じた。
黒に操られていたのか。
それとも。
あれもすべて。
自分の中にあった感情なのか。
「…………」
分からない。
だからこそ。
何よりも怖かった。
黒だけではない。
あの時。
笑っていた自分自身が。
「…………」
扉が開いた。
ギィィ……。
朝の光が。
暗い小屋の中へ差し込む。
逆光の中。
マントの男が立っていた。
マントの男
「起きたか、小僧」
「…………」
ヤヌスは。
反射的に身体へ力を込める。
だが。
傷が痛み、僅かに顔を歪めた。
ヤヌス
「……ジジイ」
「…………」
マントの男の眉が動いた。
マントの男
「……誰がジジイじゃ」
ヤヌス
「どう見てもジジイだろ」
マントの男
「助けてもらった相手への第一声が、それか」
ヤヌス
「頼んでない」
マントの男
「可愛げのない小僧じゃ」
マントの男は。
呆れたように息を吐く。
それでも。
昨夜まで張り詰めていた空気が。
ほんの僅かに緩んだ。
「…………」
マントの男は小屋へ入り。
後ろ手に扉を閉める。
朝の光が細くなり。
再び、薄暗さが戻った。
マントの男
「子供のお主でも、分かったじゃろう」
「…………」
小さな窓の向こうへ視線を向ける。
薄暗い奈落の森。
その奥では。
今も何かの鳴き声が響いている。
マントの男
「ここが、どういう場所か」
「…………」
ヤヌスの頭へ。
昨日の異形が浮かぶ。
笑う顔。
群がる腕。
巨大な強個体。
黒がなければ。
この男が来なければ。
今頃、自分は喰われていた。
マントの男
「少し話をしよう」
マントの男がヤヌスを見る。
マントの男
「互いに何も知らぬままでは、何かとやりにくい」
ヤヌス
「そんなこと、どうでもいい」
ヤヌスは寝台へ手をついた。
痛みに耐えながら。
身体を起こそうとする。
ヤヌス
「俺は、ここを出る」
マントの男
「その身体でか?」
ヤヌス
「関係ない」
固定された腕を寝台へつく。
激痛が走る。
それでも。
足を床へ下ろした。
ヤヌス
「あの仮面野郎を――」
マントの男
「カインじゃ」
「…………」
ヤヌスの動きが止まった。
マントの男を見上げる。
ヤヌス
「……何?」
マントの男
「あの男の名は、カイン」
「…………」
静かな小屋へ。
その名だけが残る。
レオンを殺した男。
自分の胸を貫き。
奈落へ落とした男。
顔も知らない。
正体も分からない。
仮面の向こうにいる男へ。
初めて。
名前が与えられた。
ヤヌス
「……カイン」
小さく。
確かめるように呟く。
「…………」
右手が。
僅かに震えた。
包帯の下で。
黒い痣が疼く。
ヤヌス
「カイン……」
今度は。
憎しみを込めて呼ぶ。
ヤヌス
「……カインを殺す」
マントの男
「無理じゃ」
「…………!」
考える間もなく。
マントの男が即答した。
ヤヌスの目が鋭くなる。
ヤヌス
「……やってみなきゃ分からないだろ」
マントの男
「もう、やったじゃろう」
「…………」
言葉が止まる。
マントの男
「お主は、あの男へ挑んだ」
マントの男
「そして負けた」
何ひとつ。
言い返すことのできない事実だった。
黒に呑まれ。
今までとは比べものにならない力を得ても。
カインには届かなかった。
最後には。
胸を貫かれた。
『……まだ、弱い』
「…………」
ヤヌスの奥歯が鳴る。
マントの男
「今のお主では」
マントの男
「命が幾つあろうと、カインには届かん」
ヤヌス
「……黙れ」
マントの男
「それどころか」
マントの男が。
窓の外へ顔を向ける。
マントの男
「今のお主では、この奈落から出ることすらできん」
「…………」
異形に囲まれ。
腕を壊し。
脚を折られ。
また、ここへ運び込まれた。
マントの男の言うとおりだった。
「…………」
ヤヌスは拳を握ろうとする。
だが。
固定された指は、思うように動かない。
悔しい。
殺したい相手の名を知ったのに。
追いかけることすらできない。
何も言い返せず。
俯くことしかできなかった。
「…………」
マントの男は。
そんなヤヌスを見下ろしている。
しばらくして。
静かに口を開いた。
マントの男
「小僧」
ヤヌス
「……なんだよ」
マントの男
「まずは、力の使い方を覚えてみぬか?」
「…………」
ヤヌスが顔を上げる。
ヤヌス
「力の……使い方?」
マントの男
「今のお主は」
マントの男
「ただ、力を振り回しているだけじゃ」
マントの男の視線が。
ヤヌスの右手へ落ちる。
マントの男
「昨日もそうじゃった」
マントの男
「力に身体が耐えられぬまま」
マントの男
「壊れた腕を、さらに振るい続けた」
「…………」
黒に覆われた右腕。
自分の力に耐えきれず。
骨が砕け。
肉が裂けた。
それでも。
止めることができなかった。
マントの男
「そのまま進めば――」
一拍。
マントの男
「カインに殺されるより先に」
マントの男
「お主は、自分で自分を壊すぞ」
「…………」
ヤヌスは。
右手から目を逸らした。
否定できない。
黒は。
自分を守ってくれる力ではなかった。
傷を治さず。
痛みを消さず。
壊れた身体を、動かし続ける。
次に飲まれた時。
自分がどうなるのか。
ヤヌスにも分からなかった。
「…………」
マントの男が告げる。
マントの男
「ワシがお主を鍛えてやる」
「…………」
ヤヌスの目が。
僅かに見開かれた。
だが。
すぐに警戒の色が戻る。
ヤヌス
「……なんでだよ」
マントの男
「何がじゃ」
ヤヌス
「なんで、ジジイが俺を鍛えるんだよ」
マントの男
「…………」
ヤヌス
「俺が何なのかも」
ヤヌス
「この右手が何なのかも分からないんだろ」
自分自身でさえ。
何者なのか分からない。
そんな人間を。
なぜ助ける。
なぜ。
力を与えようとする。
「…………」
マントの男はすぐには答えなかった。
視線だけを。
壁際へ向ける。
そこには。
布に包まれたアウロラが置かれている。
マントの男
「……レオンが残したからじゃ」
「…………」
ヤヌスの呼吸が止まる。
ヤヌス
「……え?」
マントの男は。
アウロラを見つめたまま続ける。
マントの男
「あの馬鹿者が、命を懸けて守り」
マントの男
「最後まで生かそうとしたものを――」
視線が。
アウロラから、ヤヌスへ移る。
マントの男
「師であるワシが」
マントの男
「ここで見殺しにはできん」
「…………」
ヤヌスの目が揺れる。
ヤヌス
「……師?」
マントの男は。
僅かに目を細めた。
マントの男
「それだけじゃ」
ヤヌス
「…………」
マントの男
「勘違いするなよ、小僧」
一拍。
冷えた声で告げる。
マントの男
「今のところ」
マントの男
「お主自身に興味はない」
「…………」
慰めではない。
情けでも。
ヤヌスを気に入ったからでもない。
レオンが残した。
ただ。
それだけの理由で。
この男は、ヤヌスを生かそうとしている。
「…………」
腹は立った。
だが。
不思議と。
嘘を言われるよりは、信じることができた。
ヤヌスは。
マントの男を見つめる。
ヤヌス
「……師って」
もう1度。
その言葉を口にする。
ヤヌス
「ジジイ……何者なんだよ」
「…………」
マントの男は答えない。
代わりに。
纏っていたマントの留め具へ手を掛けた。
カチッ。
小さな音を立て。
金具が外れる。
「…………」
厚いマントが。
ゆっくりと肩から滑り落ちていく。
隠されていた身体へ。
薪の光が届いた。
ヤヌス
「……あ……」
ヤヌスの唇から。
声にならない息が漏れた。
現れた身体は。
細く。
老いていた。
だが。
骨張った肉体には。
長年、剣を振り続けた者だけが持つ、無駄のない筋肉が残っている。
無数の古傷。
斬られ。
抉られ。
それでも戦い続けた証。
そして。
その身体の半分は。
人間のものではなかった。
「…………」
片側の皮膚が。
黒く変色している。
肩から胸へ。
脇腹へ。
歪に膨れ上がった肉が連なり。
皮膚の下には。
太い血管のようなものが蠢いていた。
片腕は。
人の腕よりも僅かに長い。
節くれ立った指も。
鋭く伸びた爪も。
人間のものとは異なっている。
昨日。
奈落の森で見た異形。
その姿と。
どこか似ていた。
「…………!」
ヤヌスは反射的に。
動く方の脚で、寝台を蹴った。
身体を後ろへ逃がそうとする。
だが。
傷ついた身体は思うように動かない。
背中が壁へぶつかり。
寝台が大きく軋んだ。
ギシッ――。
ヤヌス
「ジジイ……それ……」
「…………」
マントの男は隠さない。
歪んだ半身を。
ヤヌスの前へ晒している。
人間ではない肉体。
それでも。
その瞳だけは。
異形とは違った。
濁っていない。
狂気にも。
飢えにも呑まれていない。
静かに。
澄んだ目で、ヤヌスを見つめている。
マントの男
「言っておくが――」
床へ落ちたマントを。
片足で脇へ退ける。
マントの男
「剣の腕だけなら」
人ではない半身を晒したまま。
静かに告げる。
マントの男
「ワシは、レオンより上じゃ」
「…………!」
ヤヌスの目つきが変わる。
レオンより上。
その言葉を。
聞き流すことなどできない。
ヤヌス
「レオンより……強い奴なんか……」
反発しようとする。
けれど。
言葉が続かなかった。
目の前に立つ男の身体から。
目を逸らすことができない。
昨日の異形と似た半身。
その異様な姿と。
巨大な強個体の腕を、一瞬で斬り落とした剣。
どちらも。
この男の言葉を否定することを、躊躇わせた。
「…………」
マントの男は。
そんなヤヌスの言葉を待たなかった。
マントの男
「あやつも元は」
一拍。
マントの男
「ワシの弟子じゃからな」
「…………」
ヤヌスが止まった。
マントの男の顔を見つめる。
冗談を言っているようには見えない。
嘘をついている様子もなかった。
「…………」
レオンが。
この男の弟子。
あれほど強かった男に。
剣を教えた者。
それが。
目の前にいる。
ヤヌス
「レオンの……」
一拍。
ヤヌス
「師匠……?」
「…………」
マントの男が。
1歩、前へ出る。
音は小さい。
それでも。
小屋の空気が僅かに沈んだ。
昨日。
巨大な強個体すら退かせた男。
レオンの師。
半身を異形へ変えながら。
今も人のまま立つ男。
ヴァルド
「ワシの名は――ヴァルド」
「…………」
ヤヌスは答えない。
ただ。
初めて聞く名前を、胸の内へ刻む。
「…………」
ヴァルドは。
真っ直ぐにヤヌスを見据えた。
ヴァルド
「かつて――」
一拍。
ヴァルド
「剣聖と呼ばれておった」
「…………」
その傍らで。
布に包まれたアウロラが。
僅かに。
白銀の光を放った。




