第12話 覚悟
第1章 勇者の終焉
第12話 覚悟
少し前――。
星幽の塔。
その最上階にある広間は。
息苦しいほどの静寂に包まれていた。
「…………」
高い天井。
床一面へ描かれた巨大な魔法陣。
壁に並ぶ窓の向こうでは。
淡い光に包まれた魔女の街が、遥か眼下へ広がっている。
広間の最奥。
玉座には、1人の女が腰掛けていた。
赤紫の長い髪。
余裕を感じさせる、静かな眼差し。
魔女の街を統べる者。
エリュシア。
「…………」
その前には。
ルミナ。
リリア。
ノクスの3人がいる。
リリアとノクスは。
玉座へ向かい、膝をついていた。
立っているのは。
ルミナだけ。
「…………」
エリュシアは何も言わない。
頬杖をつき。
玉座の前に立つ少女を見つめている。
白い髪。
何日も泣き続けた目。
痩せた身体。
胸元へ大切そうに押し当てられた、古びたしおり。
レオンが遺したもの。
「…………」
ルミナは。
その視線から逃げなかった。
何を見られているのか。
何を試されているのか。
分からない。
それでも。
しおりを握り締め。
エリュシアの言葉を待っていた。
「…………」
長い沈黙のあと。
エリュシアが、唐突に口を開いた。
エリュシア
「……レオンの復讐か?」
ルミナ
「……え?」
予想していなかった言葉に。
ルミナの目が僅かに見開かれる。
エリュシアは。
その反応を見ても、表情を変えない。
エリュシア
「私も手を貸そうか?」
リリア
「えっ……」
ノクス
「エリュシア様!?」
膝をついていたノクスが。
思わず立ち上がった。
普段の冷静さを失い。
驚愕を露わにして、玉座を見上げている。
ノクス
「本気で仰っているのですか?」
「…………」
リリアも。
目を見開いたまま、エリュシアを見つめている。
だが。
エリュシアは2人の反応など気にも留めない。
真っ直ぐに。
ルミナだけを見ていた。
エリュシア
「驚くこともあるまい」
一拍。
エリュシア
「旧友を殺されたんだ」
「…………」
静かな声だった。
怒鳴ってはいない。
憎しみを露わにしているわけでもない。
それでも。
その言葉の奥には。
隠しきれない怒りがあった。
「…………」
レオン。
その名を口にした時だけ。
エリュシアの瞳が、ほんの僅かに揺れた。
共に旅をして。
同じ戦場へ立ち。
魔王との戦いを生き延びた旧友。
長い間、会うことがなかったとしても。
その存在が。
エリュシアの中から消えたことはなかった。
エリュシア
「友の仇くらい」
組んでいた脚を、ゆっくりと解く。
エリュシア
「取りたくなるだろう?」
「…………」
ルミナは答えられなかった。
レオンの仇。
それを考えたことがなかったわけではない。
仮面の魔人を思い出すたび。
胸の奥には。
痛みと共に、黒い感情が浮かんだ。
それでも。
殺す。
その言葉を。
ルミナはまだ、自分の意思として考えたことがなかった。
エリュシア
「私達が手を貸せば――」
エリュシアが。
玉座の肘掛けへ指を置く。
エリュシア
「奴を追い詰めるところまでは、やれるだろう」
ルミナ
「奴……?」
エリュシア
「お前達を襲った、仮面の魔人だ」
「…………!」
ルミナの身体が、僅かに強張った。
夜の森。
黒い外套。
血に濡れた剣。
レオンの胸を貫き。
ヤヌスを奈落へ投げ捨てた男。
「…………」
あの仮面が。
目の前に浮かぶ。
身体の奥から。
冷たいものが這い上がってきた。
エリュシア
「――あとは」
一拍。
エリュシアの視線が。
ルミナを射抜く。
エリュシア
「お前が、とどめを刺せばいい」
「…………」
ルミナの指が強張った。
手の中で。
しおりが、僅かに歪む。
追い詰められた仮面の魔人。
その前に立つ自分。
武器を握り。
レオンの仇を。
この手で殺す。
「…………」
想像しようとしても。
最後の瞬間だけが浮かばない。
人を殺す。
命を奪う。
それが。
どのようなことなのかさえ。
ルミナには分からなかった。
エリュシア
「どうした?」
ルミナ
「私は……」
声が続かない。
エリュシアが目を細める。
エリュシア
「そもそも」
エリュシア
「お前は、あの男が何者なのか知らないようだな」
「…………」
ルミナは。
小さく頷いた。
ルミナ
「……何も、知りません」
ルミナ
「名前も」
ルミナ
「どうして、レオンを殺したのかも……」
「…………」
エリュシアは。
僅かに玉座へ深く腰掛け直した。
エリュシア
「仮面の魔人――」
一拍。
エリュシア
「名は、カイン」
「…………」
ルミナの胸の奥へ。
その名が落ちる。
ルミナ
「……カイン……」
レオンを殺した男。
ヤヌスを奈落へ落とした男。
仮面しか持たなかった存在へ。
初めて、名前が与えられた。
エリュシア
「魔王軍No.2」
「…………!」
ルミナが息を呑む。
ルミナ
「魔王軍……No.2……」
ただの人間ではない。
それだけは。
あの戦いを見ていたルミナにも分かっていた。
けれど。
まさか魔族であり。
そのうえ。
魔王軍の頂点に近い存在だったとは思わなかった。
「…………」
仮面の男が纏っていた力。
レオンと剣を交えながら。
僅かにも崩れなかった姿。
その異常さへ。
ようやく、名前と立場が与えられた。
「…………」
だが。
同時に、疑問が浮かぶ。
レオンは勇者だった。
誰よりも強かった。
ヤヌスが何度挑んでも。
1度も剣を届かせることができなかった。
そのレオンが。
どうして。
「…………」
ルミナの表情から。
考えていることを読み取ったのだろう。
エリュシアが続ける。
エリュシア
「お前達は知らなかったかもしれないが――」
レオンの名を語る声へ。
僅かな誇りが混じる。
エリュシア
「レオンは、歴代最強と謳われた勇者だ」
ルミナ
「……レオンが……?」
ルミナの目が見開かれる。
「…………」
小さな家で。
料理を作り。
ヤヌスを叱り。
時々、つまらないことで笑っていた男。
自分の過去を誇ることも。
功績を語ることもなかった。
ただ。
自分達の父親として生きていたレオン。
その男が。
歴代最強。
エリュシア
「勇者とは」
エリュシア
「人類が魔族へ対抗するために持つ、最大の力だ」
玉座へ座したまま。
エリュシアは静かに語る。
エリュシア
「その歴代勇者の中でも、レオンは抜きん出ていた」
エリュシア
「人類側の最高戦力」
一拍。
エリュシア
「本来ならば」
エリュシア
「魔王軍の幹部といえど、容易に触れられる男ではない」
「…………」
ルミナの脳裏へ。
あの夜の戦いが蘇る。
カインの剣を受け。
傷を負い。
血を流していたレオン。
それでも。
最後まで、自分達を守ろうと立ち続けた。
「…………」
歴代最強の勇者。
人類側の最高戦力。
なら。
どうして負けた。
どうして殺された。
その疑問が。
ルミナの顔へ浮かぶ。
エリュシア
「だが――」
エリュシアの声が僅かに沈んだ。
エリュシア
「お前達と共に暮らしていたレオンは」
一拍。
エリュシア
「すでに、本来の力を失っていた」
ルミナ
「……え?」
エリュシア
「かつての魔王戦で」
エリュシア
「レオンは、深い傷を負った」
「…………」
ルミナの呼吸が止まる。
エリュシア
「傷は、肉体だけに残ったものではない」
エリュシア
「力を使うたびに命を削り」
エリュシア
「少しずつ、あの男の身体を蝕み続けた」
エリュシア
「最後まで――」
一拍。
エリュシア
「癒えることはなかった」
「…………」
途切れていた記憶が。
ルミナの中で繋がっていく。
誰も見ていない時。
レオンが胸を押さえていたこと。
呼吸を乱しながら。
何事もなかったように、笑っていたこと。
以前より。
眠る時間が長くなっていたこと。
それでも。
自分達の前では。
決して、苦しいと言わなかったこと。
そして。
カインとの戦いで。
突然、吐き出した血。
ルミナ
「そんな……」
声が震える。
ルミナ
「レオンは……何も……」
何も言わなかった。
苦しいとも。
身体が蝕まれているとも。
自分の命が。
少しずつ失われているとも。
エリュシア
「あの男らしいだろう?」
エリュシアの口元へ。
寂しげな笑みが浮かぶ。
エリュシア
「自分の傷など隠し」
エリュシア
「守りたい者の前では、何事もないように振る舞う」
まるで。
何度も同じ姿を見てきたような声だった。
エリュシア
「昔から、そういう男だった」
「…………」
ルミナは。
胸元のしおりを強く握る。
知らなかった。
ずっと、一緒にいたのに。
レオンの苦しみに。
何ひとつ気づくことができなかった。
「…………」
俯くルミナへ。
エリュシアが告げる。
エリュシア
「だが、勘違いするな」
「…………」
ルミナが顔を上げる。
エリュシア
「レオンが万全なら勝てた」
エリュシア
「傷さえなければ、負けなかった」
一拍。
エリュシア
「その程度の言葉で片づけられる相手ではない」
「…………」
エリュシアの瞳から。
僅かな笑みが消える。
エリュシア
「あの男は」
エリュシア
「魔王軍という立場を抜きにしても、異常な存在だ」
エリュシア
「たった1人で」
エリュシア
「戦場のすべてを覆せるほどの“個”を持つ」
「…………」
ルミナの脳裏に。
レオンと対峙していたカインの姿が浮かぶ。
剣を交え。
巨大な光を前にしても。
最後まで。
仮面の奥から、感情を見せなかった男。
エリュシア
「全盛期のレオンであっても――」
一拍。
エリュシア
「勝てたかどうかは、私にも分からない」
「…………」
歴代最強の勇者。
人類側の最高戦力。
そのレオンと並べてもなお。
勝敗を断言することのできない存在。
魔王軍No.2。
カイン。
「…………」
レオンを奪った男は。
弱った勇者へ、とどめを刺しただけの存在ではない。
本来のレオンと正面から戦っても。
その命へ届き得るほどの怪物だった。
その事実が。
仮面の向こうにいた男を。
先ほどまでよりも遥かに遠く。
恐ろしい存在へ変えていく。
「…………」
ルミナの身体が。
小さく震えた。
エリュシア
「どうした?」
エリュシアが。
試すように問いかける。
エリュシア
「怖気づいたか?」
「…………」
それでも。
ルミナは、ゆっくりと首を振った。
ルミナ
「……違う」
エリュシア
「ならば――」
一拍。
エリュシア
「レオンの仇を討つか?」
玉座から。
真っ直ぐにルミナを見据える。
エリュシア
「望むなら、私が手を貸そう」
「…………」
ルミナは答えない。
震える指で。
しおりを握っている。
やがて。
小さく息を吸い。
顔を上げた。
ルミナ
「私は……」
声は弱い。
けれど。
逃げずに、エリュシアを見る。
ルミナ
「復讐のために、ここへ来たんじゃない」
「…………」
リリアが。
僅かに顔を上げた。
立ち上がっていたノクスも。
黙ったまま、ルミナへ視線を向ける。
エリュシア
「なら、何のためだ?」
ルミナ
「ヤヌスを……」
ルミナが1歩、前へ出る。
ルミナ
「ヤヌスを探したい」
声が。
広い空間へ響く。
ルミナ
「ヤヌスは生きています」
「…………」
確かな証拠はない。
あの高さから落ち。
胸には深い傷を負っていた。
普通なら。
生きているはずがない。
それでも。
ルミナは、もう疑わなかった。
ルミナ
「絶対に、生きてる」
一拍。
ルミナ
「私は、もう1度ヤヌスに会いたい」
「…………」
奈落へ落ちていったヤヌス。
最後に。
自分の名前を呼んだ唇。
届かなかった手。
そのすべてを思い出しながら。
ルミナは告げる。
ルミナ
「もう……1人にしたくない」
「…………」
エリュシアは。
玉座の上から、ルミナを見つめている。
僅かな沈黙のあと。
迷うことなく告げた。
エリュシア
「あいつはやめておけ」
ルミナ
「……え?」
エリュシア
「あの小僧は危険だ」
ルミナ
「それでも――」
エリュシア
「お前は見ただろう?」
「…………」
ルミナの言葉が止まった。
あの夜。
黒に覆われたヤヌス。
赤く濁った瞳。
レオンを失い。
憎しみだけに呑まれていた姿。
『レオンを殺したやつを殺す』
何度も。
同じ言葉を繰り返していた。
けれど。
やがて。
誰がレオンを殺したのかさえ分からなくなった。
『……だぁれ?』
濁った瞳が。
ルミナを捉える。
『おまえか……?』
「…………ッ」
ルミナの肩が震えた。
壊れてしまったヤヌス。
自分を見ても。
何も思い出してくれなかった瞳。
黒に侵された右手。
自分の首へ伸びてきた指。
あの瞬間。
確かに。
殺されると思った。
エリュシア
「怖かっただろう?」
ルミナ
「…………」
違う。
そう言おうとした。
ヤヌスは怖くない。
いつものヤヌスではなかった。
本当のヤヌスは。
自分を傷つけたりしない。
そう言えばよかった。
けれど。
言葉が出なかった。
身体は。
今もあの夜を覚えている。
「…………」
長い沈黙のあと。
ルミナの唇が動いた。
ルミナ
「……はい」
掠れた声だった。
ルミナ
「怖かったです……」
「…………」
リリアの表情が。
僅かに揺れる。
ノクスは何も言わない。
エリュシアだけが。
変わらない目で、ルミナを見つめている。
ルミナ
「殺されると……思いました」
胸元へ置いた手が震える。
ルミナ
「今でも……怖いです」
「…………」
認めたくなかった。
ヤヌスを怖いと思った自分が。
ヤヌスを裏切っているような気がした。
それでも。
嘘はつけなかった。
ルミナ
「でも……」
ルミナは顔を上げる。
瞳には涙が浮かんでいる。
それでも。
ほんの少しだけ、笑った。
ルミナ
「それでも、ヤヌスは……」
一拍。
ルミナ
「たった1人の家族だから」
「…………」
広間へ。
静寂が落ちた。
エリュシアの表情が。
ほんの僅かに揺れる。
エリュシア
「……家族……か」
小さく。
その言葉を反芻する。
「…………」
やがて。
エリュシアが脚を組み替えた。
エリュシア
「ならば――」
再び。
ルミナを見据える。
エリュシア
「その家族を、殺せるか?」
ルミナ
「……え?」
意味を理解するよりも早く。
エリュシアの指が動いた。
パチン――。
乾いた音が。
広間へ響く。
「…………!」
空間が歪んだ。
ルミナの周囲から。
玉座も。
リリアも。
ノクスも消えていく。
白い光が集まり。
広間の中央へ。
1人の少年を形作った。
「…………」
黒い髪。
見慣れた顔。
ヤヌス。
だが。
ルミナの知る姿ではなかった。
黒い筋が。
右手だけではなく。
肩から胸へ。
首へ。
顔の半分にまで広がっている。
濁った瞳。
荒い呼吸。
血に濡れた身体。
そこに。
いつものヤヌスの面影は、ほとんど残っていない。
ヤヌス
「……ころす……」
ルミナ
「ヤヌス……?」
ルミナが。
反射的に1歩、近づこうとする。
エリュシア
「幻だ」
「…………」
どこからともなく。
エリュシアの声が響いた。
ルミナの足が止まる。
エリュシア
「だが――」
一拍。
エリュシア
「あり得ぬ未来ではない」
「…………」
幻のヤヌスが歩き出す。
1歩。
また、1歩。
黒に侵された足が。
静かな床を踏む。
エリュシア
「もし、再び暴走したら?」
ヤヌスが近づく。
エリュシア
「他人を傷つけたら?」
さらに、1歩。
エリュシア
「誰かを殺そうとしたら?」
「…………」
光が集まり。
ルミナの右手へ。
1本の剣が現れた。
「――ッ」
冷たい。
重い。
両手で握っても。
剣先が震えている。
エリュシア
「家族だからと、見逃すのか?」
ルミナ
「……っ」
エリュシア
「ならば」
一拍。
エリュシア
「お前も共犯者だ」
「…………」
その言葉が。
ルミナの胸へ突き刺さる。
ヤヌスだから。
家族だから。
何をしても許す。
それは。
ヤヌスが傷つけた者を。
自分も傷つけることと同じだった。
エリュシア
「それとも――」
幻のヤヌスが。
ルミナの前へ近づく。
エリュシア
「お前が止めるか?」
一拍。
静かな声が。
逃げ道を塞ぐ。
エリュシア
「――殺してでも」
「…………」
幻のヤヌスが。
顔を上げた。
赤く濁った瞳が。
ルミナを捉える。
ヤヌス
「ころしてやる……」
「…………ッ」
剣を握る手が震える。
幻だと分かっている。
目の前にいるのは。
本物のヤヌスではない。
それでも。
剣を向けることができない。
「…………」
ルミナは。
震える腕を持ち上げようとする。
少しだけ。
剣先が上がる。
だが。
ヤヌスの顔が見えた瞬間。
腕が止まった。
ルミナ
「…………」
斬れない。
幻でさえ。
この顔へ。
刃を向けることができない。
ルミナ
「……できない……」
剣先が下がる。
エリュシアの声が。
間を置かずに返ってきた。
エリュシア
「ならば、終わりだ」
「…………!」
エリュシア
「お前は、ヤヌスの隣には立てない」
「…………」
その言葉が。
深く、ルミナの胸を抉った。
隣に立てない。
ヤヌスを探し出しても。
何もできない。
ただ。
暴走する姿を見ていることしかできない。
「…………」
幻のヤヌスが。
ルミナの目の前まで迫る。
黒く染まった腕が上がった。
指が開く。
細い首へ向かって。
ゆっくりと伸びてくる。
「…………ッ」
あの夜と同じだった。
怖い。
逃げたい。
身体が震える。
足が。
後ろへ下がろうとする。
「…………」
それでも。
ルミナは目を逸らさなかった。
ヤヌスの顔を。
赤く濁った瞳を。
真っ直ぐに見つめる。
ルミナ
「それでも……」
握っていた剣を下ろす。
指を開く。
剣が床へ落ちた。
カラン――。
澄んだ音が。
止まった世界へ響く。
「…………」
ルミナは。
後ろではなく。
前へ足を踏み出した。
ルミナ
「私は――」
黒い指先が。
喉へ届こうとする。
その前に。
自分から、ヤヌスへ駆け出した。
ルミナ
「1人にしない……!!」
幻のヤヌスへ。
正面から抱きついた。
「…………!」
ヤヌスの動きが止まる。
上げられていた右手が。
ルミナの肩の上で止まった。
「…………」
黒は冷たい。
触れているだけで。
肌の奥まで侵されるような恐怖がある。
それでも。
ルミナは腕を離さなかった。
ルミナ
「殺せない……」
涙が頬を伝う。
ルミナ
「私は……ヤヌスを殺せない」
震える腕へ。
さらに力を込める。
ルミナ
「でも――」
一拍。
ヤヌスを強く抱き締める。
ルミナ
「止める」
「…………」
黒い筋が。
僅かに揺らいだ。
ルミナ
「何度でも」
耳元へ。
必死に声を届ける。
ルミナ
「何度でも、名前を呼ぶ」
奈落へ落ちていったヤヌス。
遠ざかる身体。
最後に。
僅かに動いた唇。
『ル……ミ……』
『ご……め……』
「…………」
ヤヌスは。
完全に消えたわけではなかった。
黒に呑まれ。
自分のことすら分からなくなっても。
最後の瞬間には。
ルミナの名前を思い出した。
謝ってくれた。
なら。
何度でも呼ぶ。
もう1度。
思い出すまで。
ルミナ
「戻ってくるまで――」
ヤヌスの背中へ。
指が食い込むほど力を込める。
ルミナ
「絶対に離さない」
「…………」
幻のヤヌスを覆っていた黒が。
大きく揺らいだ。
右手から。
腕へ。
胸へ。
侵食していた黒が、少しずつ薄れていく。
赤く濁っていた瞳へ。
ほんの僅かに。
人間の色が戻る。
「…………」
最後の瞬間。
ルミナの腕の中にいたのは。
いつものヤヌスだった。
少し困ったように。
泣いているルミナを見つめている。
ルミナ
「ヤヌス……」
「…………」
手を伸ばそうとした時。
少年の姿が。
淡い光となって消えた。
「…………」
抱き締めていた腕が。
空を切る。
床へ落ちていた剣も消え。
歪んでいた空間が、元へ戻っていく。
玉座。
リリア。
ノクス。
そして。
エリュシア。
「…………」
広間の中央には。
ルミナだけが残されていた。
身体は震えている。
涙も止まっていない。
それでも。
倒れずに立っていた。
「…………」
エリュシアは。
玉座から、そんなルミナを見つめている。
長い沈黙のあと。
小さく息を吐いた。
エリュシア
「……そうか」
玉座から立ち上がる。
赤紫の髪が。
その動きに合わせて揺れた。
エリュシア
「復讐を選ばず」
ルミナへ向かって。
ゆっくりと歩き出す。
エリュシア
「かといって」
エリュシア
「あの小僧を、盲目的に肯定するわけでもない」
もう1歩。
ルミナとの距離を縮める。
エリュシア
「お前は――」
一拍。
エリュシア
「家族を選んだ」
「…………」
ルミナは。
涙に濡れた顔で頷いた。
ルミナ
「……はい」
「…………」
エリュシアが。
ルミナの前で足を止める。
間近から。
白い髪の少女を見下ろす。
エリュシア
「いいだろう」
ルミナが顔を上げる。
エリュシア
「教えてやる」
一拍。
エリュシア
「お前が望む――」
静かな声が。
広間へ響く。
エリュシア
「守るための力を」
ルミナ
「……!」
ルミナの瞳へ。
僅かな光が戻る。
だが。
エリュシアの表情は緩まなかった。
エリュシア
「ただし――」
「…………」
広間の空気が変わる。
その場にいる全員の視線が。
エリュシアへ集まった。
エリュシア
「覚えておけ」
ルミナの目を。
真っ直ぐに見つめる。
エリュシア
「お前が選んだ道は――」
一拍。
エリュシア
「荊の道だ」
「…………」
ルミナは。
黙ったまま、その言葉を受け止める。
エリュシア
「次に会った時も」
エリュシア
「あの小僧が、お前の知るヤヌスだとは限らない」
「…………」
小さな家。
木剣を振るうヤヌス。
肉を取られたと騒ぎ。
レオンに叱られ。
何も知らずに笑っていた少年。
その姿が。
ルミナの頭へ浮かぶ。
だが。
奈落から戻ってきた時も。
同じ笑顔を見せてくれるとは限らない。
エリュシア
「お前が、どれだけ手を伸ばしても――」
一拍。
エリュシア
「向こうが、その手を取るとも限らない」
「…………」
拒絶されるかもしれない。
自分を忘れているかもしれない。
再び。
敵として見られるかもしれない。
それでも。
手を伸ばすのか。
エリュシア
「そして、いつか――」
声が。
さらに低くなる。
エリュシア
「お前自身が望まぬ選択を」
一拍。
エリュシア
「迫られる日が来るかもしれない」
「…………」
殺す。
その言葉を。
エリュシアは口にしなかった。
それでも。
意味は伝わった。
次は。
抱き締めるだけでは止められないかもしれない。
呼びかけても。
届かないかもしれない。
守りたい人々と。
たった1人の家族。
そのどちらかを。
選ばなければならない日が来るかもしれない。
「…………」
ルミナは俯いた。
怖い。
今すぐ逃げ出したいほど。
その未来が怖かった。
けれど。
逃げれば。
ヤヌスは本当に1人になる。
「…………」
震える足へ。
力を込める。
もう1度。
エリュシアの顔を見上げた。
ルミナ
「……それでも」
掠れた声。
だが。
迷いはなかった。
ルミナ
「私は行きます」
「…………」
エリュシアは答えない。
ただ。
その先の言葉を待っている。
ルミナ
「ヤヌスを、1人にはしない」
「…………」
エリュシアの口元が。
ほんの僅かに緩んだ。
満足したのか。
呆れたのか。
ルミナには分からない。
エリュシアは。
ルミナへ背を向ける。
エリュシア
「……そうか」
長い外套を揺らし。
広間の奥へ歩き出す。
数歩進んだところで。
足を止めた。
エリュシア
「ならば来い」
「…………」
僅かに顔を動かし。
肩越しに、ルミナを見る。
エリュシア
「その覚悟が――」
一拍。
エリュシア
「いつまで続くか、見届けてやる」
「…………」
ルミナは。
目元の涙を拭った。
ルミナ
「……はい!」
はっきりと答える。
「…………」
膝をついていたリリアが。
嬉しそうに笑った。
立ち上がっていたノクスも。
ゆっくりと張り詰めていた力を抜く。
何も言わない。
それでも。
ルミナを見る目からは。
最初にあった警戒が、僅かに薄れていた。
「…………」
ルミナは。
胸元へ手を当てる。
服の下にある。
レオンのしおりを握る。
そして。
歩き出す前に、1度だけ立ち止まった。
「…………」
今。
どこにいるのか。
どれほど傷ついているのか。
何も分からない少年へ。
小さく呼びかける。
ルミナ
「……待ってて、ヤヌス」
声は。
広い空間へ静かに溶けていく。
「…………」
ルミナは顔を上げた。
もう、立ち止まらない。
守るための力を得るために。
そして。
たった1人の家族を連れ戻すために。
エリュシアの背中を追い。
最初の1歩を踏み出した。




