第13話 それぞれの道
第1章 勇者の終焉
第13話 それぞれの道
朝。
薄暗い小屋の中へ。
木板の隙間から、細い光が差し込んでいた。
「…………」
ヤヌスは寝台の上へ身体を起こしている。
両腕には添え木が当てられ。
胸や脚にも、幾重もの包帯が巻かれていた。
傷口は塞がり始めている。
だが。
折れた骨も。
裂けた筋肉も。
まだ、まともに動かせる状態ではない。
「…………」
その寝台の傍ら。
ヴァルドが立っていた。
昨夜まで身に纏っていたマントはない。
人ならざる形へ変わった半身も。
今は隠さず晒している。
片側は人間。
もう片側は異形。
それでも。
澄んだ瞳だけは変わらない。
ヤヌスを真っ直ぐに見据えていた。
ヴァルド
「ヤヌスよ」
「…………」
初めて名前を呼ばれ。
ヤヌスが僅かに顔を上げる。
ヴァルド
「これから、お主に剣術を教えるわけじゃが――」
一拍。
ヴァルド
「その前に、1つ約束してもらうことがある」
ヤヌス
「……なんだ?」
ヴァルドは。
床へ置かれていた細い枝を拾い上げた。
枝先をヤヌスへ向け。
静かに告げる。
ヴァルド
「意味のない剣は振るな」
「…………」
ヤヌスは眉を寄せた。
ヴァルドの持つ小枝を見る。
次に。
その顔を見る。
ヤヌス
「……素振りのことか?」
ピシッ――!
ヤヌス
「ってぇ!!」
小枝が。
ヤヌスの額へ叩き込まれた。
反射的に腕を上げようとして。
傷へ痛みが走る。
ヤヌス
「ぐっ……!」
ヴァルド
「違うわ、馬鹿者」
ヤヌス
「いきなり何すんだよ!」
ヴァルド
「お主が阿呆なことを言うからじゃ」
ヴァルドは小枝を肩へ乗せる。
ヴァルド
「ただ殺したいから振るう剣」
一拍。
ヴァルド
「力を誇示するための剣」
指を折りながら。
1つずつ数える。
ヴァルド
「誰かを脅し」
ヴァルド
「己の欲を満たすためだけに振るう剣」
「…………」
小枝の先が。
再びヤヌスへ向けられる。
ヴァルド
「そのような剣に、意味はない」
ヤヌス
「…………」
ヴァルド
「剣を握るならば」
ヴァルド
「何のために振るうのか」
ヴァルド
「誰のために振るうのか」
一拍。
ヴァルド
「それだけは、決して見失うな」
「…………」
ヤヌスは答えなかった。
意味のない剣。
ただ、殺したいから振るう剣。
あの夜から。
自分の中に残っているものは。
カインへの殺意だけだった。
あの男を殺す。
何度殺されても。
殺すまで死なない。
それ以外。
何も考えていなかった。
「…………」
ヴァルドが問いかける。
ヴァルド
「では、ヤヌス」
一拍。
ヴァルド
「お主は、何のために剣を振るう?」
「…………」
答えは決まっている。
ヤヌス
「レオンの仇を討つためだ」
迷わず告げた。
「…………」
だが。
ヴァルドは納得しなかった。
ヴァルド
「レオンのためか?」
ヤヌス
「……何?」
ヴァルド
「カインを殺すことを」
ヴァルド
「本当に、レオンが望んでおると思うか?」
「…………」
ヤヌスの言葉が止まった。
最後に見たレオン。
血に濡れながら。
それでも笑っていた男。
『……生きろ』
自分へ残された言葉。
あれは。
仇を討てという意味ではなかった。
「…………」
ヴァルド
「お主の復讐は」
ヴァルド
「本当に、レオンのためのものなのか?」
ヤヌス
「…………」
分からない。
カインを殺したい。
その気持ちに嘘はない。
だが。
それがレオンのためなのかと問われれば。
答えることができなかった。
ヤヌス
「……分からない」
小さな声が落ちる。
ヴァルドは何も言わない。
続きを待っている。
ヤヌス
「だけど……」
ヤヌスは。
固定された両腕へ視線を落とした。
ヤヌス
「あの小屋での暮らしは……」
小さな食卓。
3脚の椅子。
火の灯った暖炉。
レオンに叩き伏せられた朝。
ルミナと言い争った昼。
3人で食事を囲んだ夜。
くだらないことで笑った。
何でもない毎日。
ヤヌス
「レオンと」
一拍。
ヤヌス
「ルミナと一緒にいた時間は……」
声が震える。
ヤヌス
「俺の全部だった」
「…………」
レオンと出会う前の記憶はない。
どこで生まれたのか。
誰の子供なのか。
自分が何者なのか。
何ひとつ分からない。
ヤヌスという名前も。
帰る場所も。
家族も。
あの2人が与えてくれた。
ヤヌス
「俺には」
ヤヌス
「あの2人しかいなかった」
包帯の下で。
拳を握ろうとする。
動かない指が、僅かに震えた。
ヤヌス
「それを……カインが奪った」
「…………」
低い声に。
抑えきれない憎しみが混じる。
ヤヌス
「だから」
一拍。
ヤヌス
「あいつを殺したい」
「…………」
それは。
レオンのためだけではない。
奪われた家族のため。
失われた日々のため。
そして。
すべてを失い。
空っぽになった自分自身が立ち続けるため。
ヤヌスは。
復讐へ縋るしかなかった。
「…………」
ヴァルドは。
目の前の少年を静かに見つめていた。
カインを殺すことが。
レオンの望みではないと。
ヤヌスも分かっている。
それでも。
憎しみを手放せば。
この少年には、何も残らない。
「…………」
今。
無理に奪うべきものではない。
ヴァルドは小枝を下ろした。
ヴァルド
「……まあ」
一拍。
ヴァルド
「今は、それでよい」
ヤヌス
「……いいのかよ」
ヴァルド
「お主が本当の意味を見つけるまで」
ヴァルド
「剣を握らずにいるわけにもいくまい」
ヴァルドは。
小さな窓の外へ目を向けた。
湿った森。
その先にある。
広い世界を見るように。
ヴァルド
「世界を知れば」
ヴァルド
「今の考えも、変わるかもしれん」
ヤヌス
「…………」
ヴァルド
「何を正しいと思うか」
ヴァルド
「何を守りたいと思うか」
ヴァルド
「それを決めるには」
一拍。
ヴァルド
「お主は、まだ何も知らなさすぎる」
「…………」
ヤヌスは。
僅かに目を見開いた。
同じような言葉を。
以前にも聞いたことがある。
ヤヌス
「ジジイも……レオンと同じこと言うんだな」
「…………」
ヴァルドの目が。
僅かに動く。
ヴァルド
「レオンが?」
ヤヌス
「ああ」
ヤヌスは。
小屋の天井を見上げた。
ヤヌス
「世界は広いって」
ヤヌス
「自分の目で見て――」
一拍。
ヤヌス
「自分の頭で考えろって」
「…………」
ヴァルドは何も答えなかった。
レオン。
あの男は。
魔王との戦いに敗れ。
すべてを失ったあとも。
自分が師から受け取ったものを。
次の世代へ残そうとしていた。
「…………」
ヴァルドの口元へ。
ほんの僅かに笑みが浮かぶ。
だが。
何かを口にする前に。
ヤヌスが身を乗り出した。
ヤヌス
「……で?」
ヴァルド
「ん?」
ヤヌス
「何からやるんだ」
「…………」
ヴァルドが目を瞬かせる。
ヤヌス
「剣術を教えるんだろ?」
ヤヌス
「最初は素振りか?」
ヤヌス
「それとも、昨日みたいに――」
ヴァルド
「何もせん」
ヤヌス
「……は?」
間の抜けた声が落ちた。
ヴァルドは。
当然のことを告げるように答える。
ヴァルド
「まずは身体を治せ」
ヤヌス
「もう動ける」
ヴァルド
「馬鹿者」
ピシッ――!
ヤヌス
「ってぇ!」
再び。
小枝がヤヌスの額を打った。
ヴァルド
「動けることと」
一拍。
ヴァルド
「治っていることは違う」
「…………」
ヴァルドが。
固定されたヤヌスの腕を見る。
ヴァルド
「骨も」
ヴァルド
「肉も」
ヴァルド
「まだ、ぼろぼろじゃ」
ヤヌス
「でも――」
ヴァルド
「お主の身体は、痛みを訴えておる」
ヤヌスの言葉を遮る。
ヴァルド
「それを、何かが無理やり動かしていただけじゃ」
「…………」
森での記憶が蘇る。
折れた腕。
潰れた拳。
壊れているのに。
何度も振るい続けた。
ヴァルド
「己の身体の声すら聞けぬ者が」
一拍。
ヴァルド
「剣の声など聞けるものか」
「…………」
ヤヌスは。
不満そうに口を閉じた。
ヴァルド
「その身体で剣を振れば」
ヴァルド
「強くなる前に、今度こそ壊れるぞ」
ヤヌス
「…………」
ヴァルド
「修行は、傷が癒えてからじゃ」
反論しようにも。
今のヤヌスは。
寝台から立ち上がることすらできない。
「…………」
ヤヌスは顔を逸らした。
その視線の先。
壁際には。
布に包まれた巨大な剣が置かれている。
レオンが。
最後まで握っていた剣。
「…………」
ヤヌスが。
僅かに身体を動かした。
その視線に気づき。
ヴァルドが先に告げる。
ヴァルド
「あれは渡さんぞ」
ヤヌス
「……え?」
ヤヌスがヴァルドを見る。
ヴァルド
「今のお主が」
一拍。
ヴァルド
「触れてよいものではない」
ヤヌス
「そんなものがなくたって、俺は――」
ヴァルド
「あれは」
ヤヌスの言葉を遮る。
ヴァルドは。
布に包まれた剣へ視線を向けた。
ヴァルド
「レオンの――」
一拍。
ヴァルド
「勇者の聖剣じゃからな」
「…………」
ヤヌスは何も言えなかった。
自分にも。
そのことは分かっている。
あれは。
最後まで戦い抜いたレオンの剣。
仇を討つための道具として。
勝手に持ち出してよいものではない。
ヴァルド
「お主が、あの剣を持つに値するかどうか」
一拍。
ヴァルド
「決めるのは、これからじゃ」
「…………」
ヤヌスは。
しばらく聖剣を見つめていた。
やがて。
悔しそうに唇を噛み。
寝台へ身体を戻す。
ヤヌス
「……分かったよ」
ヴァルド
「よろしい」
ヤヌス
「じゃあ、俺は何をすればいい」
ヴァルド
「寝ろ」
ヤヌス
「……またかよ」
ヴァルド
「寝るのも修行じゃ」
ヤヌス
「絶対、嘘だろ」
ヴァルド
「うるさい。寝ろ」
ヴァルドが。
ヤヌスの頭から毛布を被せる。
ヤヌス
「おい! ジジイ!」
ヴァルド
「騒ぐ元気があるなら、その分だけ眠れ」
ヤヌス
「意味分かんねぇよ!」
「…………」
久しぶりに。
小屋の中へ、少年の声が響いた。
ヴァルドは答えない。
だが。
僅かに緩んだ口元だけは。
ヤヌスから見えないように、背を向けていた。
「…………」
壁際。
布に包まれた聖剣アウロラが。
ほんの僅かに。
白銀の光を灯していた。
◇◇◇
同じ頃。
魔女の街。
星幽の塔の一室に。
ルミナは立っていた。
「…………」
昨日まで着ていた服ではない。
動きやすいように整えられた衣服。
乱れていた白い髪も。
今は、リリアの手で丁寧に結ばれている。
胸元には。
レオンのしおり。
それだけは。
肌身離さず持っていた。
「…………」
ルミナの前には。
エリュシアが立っている。
赤紫の髪。
余裕を崩さない眼差し。
その後ろには。
リリアとノクスの姿もあった。
エリュシア
「昨日の言葉」
一拍。
エリュシア
「忘れてはいないな?」
「…………」
ルミナは。
真っ直ぐにエリュシアを見る。
ルミナ
「はい」
短い返事。
だが。
迷いはなかった。
エリュシア
「お前が選んだのは」
エリュシア
「決して、綺麗な道ではない」
「…………」
エリュシア
「強くなれば」
エリュシア
「すべてを守れると思うな」
一拍。
エリュシア
「力を得たからこそ」
エリュシア
「選ばなければならなくなるものもある」
「…………」
昨日。
幻の中で見たヤヌス。
黒に呑まれ。
自分へ手を伸ばしてきた姿。
その手を。
ルミナは抱き締めた。
けれど。
次も同じように止められるとは限らない。
「…………」
それでも。
ルミナは頷いた。
ルミナ
「分かっています」
エリュシア
「……そうか」
エリュシアが。
僅かに口元を緩める。
エリュシア
「ならば、覚悟しておけ」
一拍。
エリュシア
「私の教えは甘くないぞ」
「…………」
ルミナは。
胸元のしおりへ触れた。
レオンが残してくれた道標。
そして。
ヤヌスへ繋がるかもしれない、最初の一歩。
ルミナ
「……はい!」
白い髪が揺れる。
今度の声は。
昨日よりも強く。
はっきりと、部屋へ響いた。
「…………」
リリアが嬉しそうに笑う。
ノクスは腕を組んだまま。
何も言わない。
それでも。
ルミナを見る目には。
もう、最初の警戒はなかった。
「…………」
エリュシアが背を向ける。
エリュシア
「ついてこい」
ルミナ
「はい」
ルミナは。
その背中を追い、歩き出した。
まだ。
力はない。
ヤヌスが生きているという確証もない。
どこにいるのかすら分からない。
それでも。
もう、立ち止まらない。
「…………」
たった1人の家族を。
今度こそ。
1人にしないために。
◇◇◇
暗闇。
どこまでも続く、黒い石造りの廊下。
壁へ灯された青い炎が。
一定の間隔で揺れている。
カツン――。
硬い足音が響いた。
カツン――。
廊下を歩くのは。
黒い外套を纏った男。
白い仮面。
腰に佩いた剣。
仮面の魔人。
カイン。
「…………」
巨大な扉の前で。
カインが足を止めた。
扉には。
人間には読めない文字と。
幾重もの紋様が刻まれている。
「…………」
カインが手を触れるよりも先に。
重い扉が、ひとりでに開き始めた。
ゴゴゴゴゴ――。
石と石が擦れ合う音が。
暗い城内を震わせる。
扉の向こう。
広大な謁見の間が現れた。
「…………」
天井は。
闇に呑まれ、見えない。
左右には。
城そのものを支えるような、巨大な柱が並んでいる。
柱へ灯された青い炎だけが。
玉座まで続く長い道を照らしていた。
「…………」
謁見の間には。
無数の魔族がいた。
左右へ列を成し。
玉座へ向かって、深く頭を垂れている。
誰1人。
顔を上げようとはしない。
息遣いさえ。
広間の静寂へ溶けていた。
「…………」
その中央を。
カインだけが歩いていく。
カツン――。
足音が響くたび。
両側に伏す魔族達の身体が、僅かに強張る。
魔王軍No.2。
玉座の主へ最も近く。
同時に。
誰よりも危険な場所へ立つ男。
「…………」
カインは。
誰にも視線を向けない。
広間の最奥だけを見ている。
そこには。
巨大な玉座があった。
「…………」
1人の男が。
玉座へ座している。
顔は闇に隠れ。
姿の輪郭さえ、はっきりとは見えない。
肘掛けへ頬杖をつき。
近づいてくるカインを見下ろしていた。
「…………」
何もしていない。
ただ。
そこに座っている。
それだけで。
左右へ伏した魔族達は、指1本動かせない。
空気も。
炎も。
この城を覆う闇さえ。
玉座の主へ従っているようだった。
「…………」
魔王。
魔族の頂点。
存在するだけで。
他のすべてを、下へ置く者。
「…………」
カインは玉座の前まで進む。
両側の魔族と同じように跪くことはない。
ただ。
礼を失しない程度に、僅かに頭を下げた。
カイン
「ただいま戻りました」
「…………」
玉座の男が。
ゆっくりと目を開く。
暗闇の中へ。
2つの瞳だけが浮かび上がった。
「…………」
その瞬間。
左右に灯されていた青い炎が。
一斉に玉座へ向かって傾いた。
魔王
「……やったか?」
「…………」
静かな声だった。
大きくも。
低くもない。
それでも。
その一言だけで。
謁見の間にいるすべての魔族が、さらに深く頭を下げた。
「…………」
カインだけが。
変わらない姿勢で立っている。
カイン
「はい」
一拍。
カイン
「勇者レオンを」
仮面の奥から。
玉座へ座る男を見据える。
カイン
「この手で殺しました」
「…………」
勇者レオン。
歴代最強と謳われた男。
人類が持つ、最大の戦力。
その命が。
カインの手によって失われた。
「…………」
魔王は喜ばない。
笑いもしない。
ただ。
瞼を僅かに下ろした。
魔王
「……そうか」
「…………」
それだけだった。
魔王軍にとって。
最大の脅威が消えたという報告。
それでも。
広間には歓声も。
安堵の声も上がらない。
誰も。
玉座の主より先に、感情を表へ出そうとはしなかった。
「…………」
短い沈黙のあと。
魔王の指が。
玉座の肘掛けを1度だけ叩いた。
コツ――。
「…………」
小さな音。
だが。
それだけで、空気が変わった。
青い炎が細くなり。
列を成す魔族達の呼吸が止まる。
魔王
「それで――」
一拍。
魔王
「他に、報告することは?」
「…………」
カインは答えない。
仮面の奥から。
玉座へ座る魔王を見つめている。
「…………」
レオンの傍には。
2人の子供がいた。
白い髪の少女。
黒い痣を持つ少年。
カインは。
そのどちらも殺していない。
少女を残し。
少年を奈落へ落とした。
「…………」
魔王が。
それを知らないはずはなかった。
問いかけは。
報告を求めるだけのものではない。
カインが。
何を語るのか。
沈黙の向こうから、それを見ていた。
「…………」
やがて。
カインが静かに口を開く。
カイン
「レオンが死んだことで」
一拍。
カイン
「また、まともに戦える者がいなくなりました」
「…………」
魔王の指が止まる。
カイン
「少々」
一拍。
カイン
「退屈しております」
「…………」
左右へ伏していた魔族達の間に。
僅かな動揺が走った。
魔王の御前で。
そのような言葉を口にできる者など。
カイン以外にはいない。
魔王
「……退屈、か」
玉座の奥で。
魔王の口元が僅かに動く。
魔王
「確かにな」
「…………」
珍しく。
その声へ、過去を振り返るような響きが混じる。
魔王
「レオン以前の勇者に」
一拍。
魔王
「興味を抱いたことはない」
「…………」
人類にとって。
勇者は希望だった。
魔王へ挑み。
世界を救うために選ばれた英雄。
だが。
玉座の男にとっては。
歴代の勇者達でさえ。
興味を抱く価値のない存在だった。
魔王
「あの男だけだ」
暗闇の中で。
魔王の瞳が僅かに細くなる。
魔王
「剣を抜く前に」
一拍。
魔王
「私へ対話を求めてきた」
「…………」
魔王と戦うために。
人類の希望を背負って辿り着きながら。
レオンは。
最初から剣を抜かなかった。
魔族の王へ言葉を求め。
互いの正義を確かめようとした。
「…………」
その対話が。
どのように終わったのか。
ここにいる者で知るのは。
魔王とカインだけだった。
魔王
「そして」
一拍。
魔王
「剣を抜いてからは――」
魔王の口元が。
ほんの僅かに持ち上がる。
魔王
「初めて、戦いになった」
「…………」
その言葉を聞き。
伏していた魔族達の身体が強張る。
幾人もの勇者を退けてきた魔王が。
初めて。
レオンとの戦いだけを。
戦いと呼んだ。
「…………」
称賛ではない。
敬意でもない。
それでも。
魔王は。
レオンだけを明確に別の存在として記憶していた。
「…………」
短い沈黙。
やがて。
魔王が再びカインへ目を向ける。
魔王
「戦える相手が欲しいのだろう?」
カイン
「はい」
魔王
「その小僧が――」
一拍。
魔王
「いずれ、そうなると?」
「…………」
カインの仮面へ。
青い炎が揺らめく。
やはり。
魔王は知っている。
自分がヤヌスを殺さなかったことを。
「…………」
だが。
カインは動揺を見せない。
カイン
「あの小僧は」
一拍。
カイン
「私の殺気にも怯みませんでした」
魔王
「ほう」
カイン
「力の差など」
カイン
「理解できていなかったのでしょう」
あの夜。
黒に呑まれた少年。
何度倒しても。
地面へ叩きつけても。
濁った瞳で、カインだけを追い続けた。
カイン
「それでも」
一拍。
カイン
「何度倒しても、向かってきた」
「…………」
仮面の奥で。
カインの目が僅かに細くなる。
カイン
「目の前で」
カイン
「父親代わりのレオンを殺されたことが」
一拍。
カイン
「よほど憎かったのでしょう」
「…………」
まるで。
自分とは関係のない出来事を語るような声だった。
その淡々とした言葉に。
左右へ伏している魔族達でさえ。
顔を上げることなく息を潜める。
カイン
「深く刻まれた憎しみは」
カイン
「簡単には消えません」
一拍。
カイン
「深いものほど」
カイン
「時間と共に育つ」
静かな声が。
謁見の間の隅々まで響く。
カイン
「そして、やがて――」
一拍。
カイン
「強大な暴力へ変わる」
「…………」
魔王は何も言わない。
カインの言葉を。
ただ、聞いている。
カイン
「ならば」
カイン
「今、殺してしまうよりも」
一拍。
カイン
「その時を待つのも――」
仮面の奥で。
僅かに笑う。
カイン
「悪くないかと」
「…………」
広間へ。
長い沈黙が落ちた。
魔王は。
肯定も否定もしない。
ただ。
玉座の上から、カインを見下ろしていた。
「…………」
やがて。
カインが僅かに首を傾ける。
カイン
「……ところで」
魔王
「何だ?」
カイン
「いかがです?」
姿勢は変えない。
ただ。
右手を腰へ下ろし。
剣の柄へ、静かに添える。
「…………」
それだけで。
謁見の間の空気が張り詰めた。
左右へ伏していた魔族達が。
一斉に身体を硬直させる。
カイン
「久しぶりに――」
白い仮面が。
玉座の男を真っ直ぐに捉える。
カイン
「手合わせなど」
「…………」
静寂。
誰も動かない。
誰も声を出さない。
青い炎が。
揺れることさえ止めた。
「…………」
魔王は。
頬杖をついた姿勢すら変えなかった。
剣へ手を添えたカインを。
玉座の上から見下ろしている。
「…………」
次の瞬間。
ズン――。
空間が沈んだ。
「…………!」
音ではない。
衝撃でもない。
魔王という存在そのものが。
謁見の間を上から押さえつけた。
ゴゴゴゴゴゴ――。
巨大な柱が軋む。
青い炎が。
今度は一斉に床へ伏した。
左右へ並んでいた魔族達の額が。
さらに深く、石床へ押しつけられる。
「…………」
悲鳴を上げる者はいない。
許されない。
息をすることさえ。
玉座の主の前では。
許可を必要とするような圧だった。
「…………」
ただ1人。
カインだけが立っている。
黒い外套を激しく揺らしながら。
仮面の奥から。
魔王を見据えていた。
「…………」
その足は動かない。
膝も曲がらない。
剣へ添えられた手も。
離れることはなかった。
「…………」
やがて。
カインの身体からも。
濃密な気配が溢れ出す。
バキンッ――!
足元の石床へ。
1本の亀裂が走った。
カインを中心に。
黒い圧が立ち上がる。
魔王の力へ抗い。
押し潰されようとする空間を。
僅かに押し戻していく。
「…………」
魔王と。
魔王軍No.2。
魔族の頂点に立つ者と。
そのすぐ下へ名を連ねる者。
2つの気配がぶつかり合う。
だが。
剣は抜かれない。
魔王は立ち上がることすらない。
それでも。
並の魔族が踏み入れば。
それだけで命を失う。
そのような領域が。
2人の間に生まれていた。
「…………」
一瞬。
拮抗しているように見えた。
カインの圧も。
魔王の圧へ呑まれることなく。
確かに存在していた。
だが。
少しずつ。
本当に僅かずつ。
カインの気配が押し戻されていく。
ピシッ――。
足元の亀裂が広がる。
右足の下。
そこだけが。
重さへ耐えきれず、細かく砕けていく。
「…………」
カインは動かない。
後退もしない。
ただ。
足元の石だけが。
魔王との力の差を示すように崩れていく。
「…………」
仮面の奥。
カインの瞳に、恐怖はなかった。
あるのは。
自分と玉座の男との距離を測るような。
静かな歓喜。
(やはり――)
魔王の瞳が。
僅かに細くなる。
それだけで。
圧が、さらに深くなった。
バキンッ――!
カインの足元が沈む。
石床へ。
蜘蛛の巣のような亀裂が広がった。
(まだ、届かぬか……)
「…………」
やがて。
剣の柄へ添えていたカインの指が離れる。
同時に。
カインから放たれていた気配が消えた。
張り詰めた空間へ。
小さな笑い声が落ちる。
カイン
「……ふっ」
一拍。
カインが。
僅かに頭を下げた。
カイン
「やはり」
一拍。
カイン
「魔王様には敵いません」
「…………」
その瞬間。
謁見の間を支配していた圧が消えた。
柱の軋みが止まり。
床へ伏していた青い炎が。
何事もなかったように立ち上がる。
「…………」
左右へ並ぶ魔族達が。
ようやく呼吸を取り戻す。
それでも。
誰1人、顔を上げようとはしなかった。
「…………」
魔王は。
最初から何もしていなかったように。
頬杖をついたまま。
カインを見下ろしている。
勝ち誇ることも。
挑発を咎めることもない。
自分が上にいることなど。
確かめるまでもないと知っている。
魔王
「カイン」
カイン
「はい」
魔王
「遊ぶのも構わん」
一拍。
玉座から動かぬまま。
静かに告げる。
魔王
「だが――」
暗闇の奥。
魔王の瞳が、細く輝く。
魔王
「そろそろ始めるぞ」
「…………」
カインが。
僅かに姿勢を正した。
カイン
「……はい」
「…………」
その返事と共に。
青い炎が大きく揺れた。
一瞬だけ。
玉座の周囲を覆っていた闇が薄れる。
「…………」
そこには。
無数の剣があった。
玉座の背後。
黒い石壁。
床。
階段。
何本もの剣が。
墓標のように突き立てられている。
細身の剣。
巨大な剣。
白く輝く剣。
刃の欠けた剣。
そのすべてが。
異なる形をしていた。
「…………」
かつて。
勇者達が握っていた聖剣。
人類の希望を背負い。
魔王へ挑んだ者達の剣。
彼らは。
魔王へ届かなかった。
その命と共に。
剣だけを、この場所へ残した。
「…………」
幾つもの聖剣。
幾人もの勇者。
そのすべてを。
玉座の男は見てきた。
戦い。
退け。
その屍の上へ。
今もなお、君臨している。
「…………」
ただ。
その中に。
アウロラだけはない。
歴代最強の勇者が握った聖剣は。
今。
奈落の底にある。
「…………」
魔王は。
無数の聖剣を背に。
玉座へ座ったまま。
短く命じた。
魔王
「――始めろ」
「…………」
大声ではない。
謁見の間の外へ。
聞こえるはずもない声。
それでも。
その命令は。
魔王城の隅々まで届いた。
「…………」
城内にいた魔族達が。
一斉に動き始める。
巨大な城門が開く。
鎖に繋がれていた魔獣が解き放たれる。
黒い鎧を纏った兵が。
列を成し、城外へ進み始めた。
「…………」
この日を境に。
魔族の動きは変わった。
それまで。
各地で散発的に起きていた衝突。
人里へ迷い込む魔獣。
小さな村を襲う魔人。
人間と魔族の間で繰り返されていた争い。
そのすべてが。
明確な意思を持つ。
侵攻へ変わった。
「…………」
国境近くの村が焼かれた。
街道が断たれ。
商隊が途絶えた。
城壁都市へ。
魔獣の群れが押し寄せた。
教会の鐘が鳴る。
教会兵達が武器を取り。
人々を守るため、次々と戦場へ送り出される。
「…………」
少しずつ。
だが。
確実に。
人類の領域が。
魔族の闇へ侵食されていく。
長い間。
均衡を保っていた世界が。
音を立てて動き始めた。
◇◇◇
奈落。
薄暗い小屋。
「…………」
ヤヌスは寝台の上で眠っている。
両腕を固定され。
全身へ包帯を巻かれた姿は。
未だ、剣を握ることさえできない。
その傍ら。
ヴァルドが静かに座っている。
壁際には。
布に包まれたアウロラ。
レオンが遺した剣。
「…………」
ヤヌスは知らない。
奈落の外で。
魔王軍が動き始めたことを。
人間の街が。
戦火へ呑まれ始めていることを。
何も知らないまま。
傷ついた身体を癒し。
いつかカインへ届くために。
最初の1歩を踏み出そうとしていた。
◇◇◇
魔女の街。
その一角に建つ。
小さな家。
「…………」
通りへ面した窓辺に。
ルミナが立っている。
窓の外では。
朝を迎えた魔女達が行き交っていた。
箒を抱えて歩く者。
店先へ薬草を並べる者。
向かいの窓から、こちらへ手を振る者。
昨日まで。
外から来たルミナを警戒していた者達。
けれど。
これから同じ街で暮らし。
少しずつ。
互いを知っていく者達。
「…………」
窓辺のルミナへ。
通りを歩いていたリリアが大きく手を振る。
少し離れた場所では。
ノクスが呆れたように腕を組んでいた。
「…………」
ルミナも。
小さく手を振り返す。
その手には。
レオンのしおりが握られている。
「…………」
ヤヌスは生きている。
そう信じている。
もう1度、会うために。
今度こそ。
その手を掴むために。
ルミナもまた。
強くなろうとしていた。
「…………」
彼女も知らない。
遠く離れた土地で。
幾つもの命が失われ始めていることを。
自分達の運命だけではなく。
世界そのものが。
大きく変わり始めていることを。
◇◇◇
魔王城。
長い廊下。
カツン――。
カインが。
1人で歩いている。
青い炎が。
白い仮面の上を流れていく。
カツン――。
ヤヌスを奈落へ落とした男。
レオンを殺した男。
魔王軍No.2。
「…………」
城内では。
無数の魔族達が動き始めている。
兵が駆け。
魔獣の咆哮が響き。
巨大な城全体が。
目を覚ました生物のように脈動していた。
「…………」
その中を。
カインだけは。
変わらぬ足取りで進んでいく。
誰とも言葉を交わさず。
誰にも視線を向けず。
ただ。
魔王城の深い闇へ。
「…………」
ヤヌスは。
すべてを奪った男を殺すために。
奈落へ残った。
ルミナは。
たった1人の家族を連れ戻すために。
魔女の街へ辿り着いた。
カインは。
2人を置き去りにし。
魔王の下へ戻った。
「…………」
3人は。
それぞれ異なる場所へ。
異なる道を。
歩き始める。
今はまだ。
互いの姿を見ることすらできない。
それでも。
分かたれた道は。
いつの日か。
再び交わる。
「…………」
カツン――。
最後の足音が響く。
カインの背中が。
魔王城の深い闇へ呑まれていった。
そして――。
この日から。
世界は静かに崩れ始めた。
第1章 勇者の終焉 完




