第1話 奈落の住人
第2章 剣聖
第1話 奈落の住人
暗い森。
空を覆う枝葉の隙間から。
僅かな光が差し込んでいる。
「…………」
湿った土の上に。
1人の少年が立っていた。
黒い髪。
以前よりも伸びた背丈。
細かった身体には、無駄のない筋肉がついている。
衣服の下には。
奈落で過ごした日々を物語るように、幾つもの傷跡が残っていた。
「…………」
少年――ヤヌスの目元には。
黒い布が巻かれている。
右手にも。
同じ色の布が、指先から手首まで隙間なく巻かれていた。
武器はない。
頼れるものは。
耳と。
肌と。
足の裏から伝わる感覚だけ。
「…………」
その周囲を。
幾つもの人影が取り囲んでいた。
人間ではない。
歪んだ顔。
裂けた皮膚。
不自然に長い腕。
人であった頃の形を僅かに残しながら。
別の何かへ作り変えられた異形。
「…………」
異形たちは。
すぐには襲いかかってこなかった。
ヤヌスの右手を覆う布へ。
怯えるような視線を向けている。
布の奥にあるものを。
本能が覚えているかのように。
「…………」
だが。
やがて。
飢えが恐怖を上回った。
異形
「ギィ……」
正面の異形が。
身体を低く沈める。
次の瞬間。
湿った地面を蹴り、一気に飛びかかった。
「…………!」
ヤヌスの耳が。
土を蹴る音を捉えた。
風が動く。
正面。
右上から。
爪。
「…………」
半歩。
身体を左へずらす。
鋭い爪が。
鼻先を掠めて通り過ぎた。
背後から。
別の足音。
ヤヌスは振り返らない。
身を屈める。
頭上を。
長い腕が薙いでいく。
「…………」
さらに横。
茂みが揺れた。
葉の擦れる音。
異形の荒い呼吸。
飛びかかる直前。
足元へ力が集まる気配。
「――ッ」
ヤヌスは後ろへ跳んだ。
直後。
異形の牙が、先ほどまで立っていた場所へ食らいつく。
ガチンッ――!
歯と歯がぶつかる。
ヤヌスは着地すると。
すぐに身体の向きを変えた。
「…………」
見えない。
それでも。
少しずつ。
周囲の動きが分かるようになっていく。
湿った土を踏む音。
喉の奥から漏れる唸り声。
迫る身体が押し退ける空気。
足の裏から伝わってくる、小さな振動。
「…………」
左。
避ける。
背後。
屈む。
正面。
僅かに上体を反らす。
「…………!」
異形の攻撃が。
次々と空を切る。
最初は硬かったヤヌスの動きが。
少しずつ滑らかになっていく。
見る必要はない。
相手が動くよりも先に。
次の攻撃が来る場所が分かる。
「…………」
いける。
そう思った。
ヤヌスの口元が。
ほんの僅かに緩んだ。
その瞬間。
空気が変わった。
異形とは違う。
音も。
呼吸も。
殺気さえ感じさせない何かが。
一瞬で、ヤヌスの間合いへ入り込む。
斬ッ――!!
ヤヌス
「うわぁッ!?」
考えるよりも早く。
ヤヌスは身体を大きく後ろへ反らした。
冷たい刃が。
鼻先を通り過ぎる。
切断された前髪が。
数本、宙へ舞った。
「…………!」
ヤヌスは地面へ片手をつき。
勢いのまま後方へ跳ぶ。
着地と同時に。
目元の布を乱暴に外した。
ヤヌス
「ジジイッ!!」
「…………」
少し離れた場所。
異形の群れの中に。
ヴァルドが立っていた。
片手には。
鞘から抜かれた細身の剣。
いつからそこにいたのか。
ヤヌスには、まるで分からなかった。
ヤヌス
「今のは反則だろ!」
ヴァルド
「何がじゃ」
ヤヌス
「さっきまで、いなかっただろ!」
ヴァルド
「だからなんじゃ」
ヤヌス
「だからって、いきなり斬るなよ!」
ヴァルド
「避けたではないか」
ヤヌス
「そういう問題じゃないだろ……」
ヤヌスは。
鼻先へ手を当てる。
僅かに。
皮膚が切れていた。
指先へついた血を見て。
ヴァルドを睨む。
ヴァルド
「少し上手くいった程度で」
一拍。
ヴァルド
「気を抜くからじゃ」
ヤヌス
「……見てたのかよ」
ヴァルド
「間抜けな顔をしておったわ」
ヤヌス
「俺、目隠ししてただろ」
ヴァルド
「目を隠したところで」
一拍。
ヴァルド
「にやついた口元までは隠せんからの」
ヤヌス
「…………」
ヴァルドは剣を鞘へ収める。
カチン――。
ヴァルド
「それに」
ヴァルド
「気の緩みは、立ち方にも呼吸にも表れる」
一拍。
ヴァルド
「お主は特に分かりやすい」
ヤヌス
「……クソジジイ」
ヴァルド
「今日も、お主の負けじゃな」
ヤヌス
「分かったよ」
ヤヌスは。
外した布を首へ掛ける。
周囲を見回した。
「…………」
いつの間にか。
異形たちは木々の奥へ退いていた。
ヤヌスではなく。
ヴァルドの姿を恐れるように。
「…………」
ヤヌスは小さく息を吐く。
ヤヌス
「飯を取ってくればいいんだろ?」
ヴァルド
「今日は、少しはまともなものにせい」
ヤヌス
「なんだよ、まともって!」
ヴァルド
「いつも妙なものばかり狩ってきおって」
ヤヌス
「美味いからいいだろ!」
ヴァルド
「口を動かす暇があるなら、足を動かせ」
ヤヌス
「はいはい」
気のない返事を残し。
ヤヌスは森の奥へ歩き出した。
「…………」
その背中を。
ヴァルドは黙って見送る。
以前よりも。
遥かに広くなった背中。
まだ粗さは残っている。
それでも。
初めて出会った頃の少年とは。
もう、同じではなかった。
◇◇◇
ヤヌスは1人で。
奈落の森を進んでいた。
「…………」
目隠しは外している。
右手だけは。
黒い布に覆われたまま。
腰には。
使い古された剣を佩いている。
ヴァルドから与えられた。
何の力も持たない、ただの鉄剣。
「…………」
歩く足に迷いはない。
苔に覆われた岩を越え。
太い木の根を踏み。
濁った水溜まりを避けていく。
右へ進めば。
異形が集まる窪地。
左の斜面を下れば。
飲むことのできる水が湧いている。
さらに奥には。
獰猛な魔獣の縄張りがある。
「…………」
初めて、この森へ出た日。
どちらへ進めばいいのかさえ分からなかった。
今は。
足元へ積もった葉の形だけでも。
自分がどこにいるのか分かる。
「…………」
やがて。
前方の茂みが大きく揺れた。
木々の間から。
巨大な魔獣が姿を現す。
四足で歩き。
全身を黒褐色の毛に覆われている。
口から突き出した牙には。
乾いた血がこびりついていた。
「…………」
魔獣が頭を下げる。
前脚が土を掻いた。
ヤヌスは。
その姿を上から下まで眺める。
ヤヌス
「……こいつでいいか」
魔獣
「グルルルル……!」
地面が弾けた。
魔獣の巨体が。
一気にヤヌスへ迫る。
「…………」
ヤヌスは動かない。
魔獣の足。
沈んだ肩。
前へ傾いた重心。
そのすべてを見ている。
「…………!」
牙が届く直前。
半歩だけ横へずれた。
すれ違いざま。
剣を抜く。
ザシュッ――!
刃が魔獣の前脚を切り裂いた。
魔獣
「グァァッ!!」
巨体が揺れる。
ヤヌスはその懐へ踏み込み。
振り返るよりも早く。
首の付け根へ剣を突き立てた。
ズブッ――!
魔獣
「グ……ァ……!」
魔獣が。
大きな音を立てて地面へ倒れる。
ズズン――!
「…………」
ヤヌスは。
動かなくなった魔獣を見下ろした。
戦いは終わった。
だが。
その巨体を見て。
僅かに眉を寄せる。
ヤヌス
「……重そうだな」
「…………」
倒すことよりも。
持ち帰る方が面倒だった。
◇◇◇
小屋の近く。
湿った森の中へ。
何かを引きずる音が響いていた。
ズル……。
ズル……。
「…………」
ヴァルドが。
小屋の前で顔を上げる。
木々の向こうから。
巨大な魔獣の脚を掴んだヤヌスが現れた。
服は泥に汚れ。
頬にも。
乾き始めた血がついている。
「はぁ……はぁ……」
身体を後ろへ傾け。
両手で魔獣を引きずっていた。
獲物の身体が。
木の根へ何度も引っ掛かっている。
ヤヌス
「ジジイ……」
一度、息を整える。
ヤヌス
「これで……いいか?」
「…………」
ヴァルドは。
魔獣を見下ろした。
次に。
汗だくになっているヤヌスを見る。
ヴァルド
「……また、随分と大きいものを選んだの」
ヤヌス
「腹減ってるんだから、いいだろ!」
ヴァルド
「限度というものを知らんのか」
ヤヌス
「しばらく狩りに行かなくて済むだろ」
ヴァルド
「まあ」
一拍。
ヴァルド
「しばらく肉には困らんな」
ヤヌス
「だろ?」
ヤヌスは。
得意げに笑う。
その顔を見て。
ヴァルドは小さく息を吐いた。
「…………」
ヴァルドは。
魔獣の傍らへ屈み込む。
手にした刃物を。
迷うことなく腹へ入れた。
ザクッ――。
皮を裂き。
肉を分ける。
異形へ変わった腕で身体を押さえながら。
人間のまま残った手を、正確に動かしていく。
「…………」
その手際には。
僅かな淀みもない。
ヤヌスが隣へ屈み。
手を伸ばそうとする。
ヤヌス
「俺もやる」
ヴァルド
「いや」
ヴァルドが。
ヤヌスの姿を見上げる。
泥。
血。
汗。
森の湿気を吸った服。
僅かに鼻を動かしたあと。
顔を顰めた。
ヴァルド
「お主は風呂へ入ってこい」
ヤヌス
「手伝わなくていいのか?」
ヴァルド
「その格好で、飯を食うつもりか」
「…………」
ヤヌスは。
自分の身体を見下ろす。
服へついた泥を手で払う。
ほとんど落ちない。
ヤヌス
「……そんなに汚いか?」
ヴァルド
「臭い」
ヤヌス
「…………」
ヴァルド
「近寄るな」
ヤヌス
「そこまで言うか?」
ヴァルド
「さっさと行け」
ヤヌス
「分かったよ……」
納得できない様子で。
ヤヌスは小屋の裏へ歩いていく。
「…………」
数歩進んだところで。
足を止めた。
顔だけを。
ヴァルドへ向ける。
ヤヌス
「ジジイも、一緒に入るか?」
ヴァルド
「阿呆か!」
ヴァルドの怒鳴り声が。
奈落の森へ響いた。
「…………」
ヤヌスは。
満足そうに笑いながら歩いていく。
その後ろ姿を見送り。
ヴァルドは呆れたように息を吐いた。
そして。
何事もなかったように。
再び、魔獣を捌き始めた。
◇◇◇
火の上で。
厚く切られた肉が焼けている。
脂が落ちるたび。
ジュウッ――。
小さな炎が上がった。
「…………」
狭い小屋。
小さな食卓。
向かい合う、2人分の椅子。
ヤヌスとヴァルドは。
焼かれた魔獣の肉を挟み、席へついていた。
「…………」
風呂から上がったヤヌスの髪は。
まだ少し濡れている。
汚れていた服も。
別のものへ着替えていた。
「…………」
ヤヌスは肉を掴み。
大きく噛みつく。
何度か咀嚼し。
満足そうに頷いた。
ヤヌス
「……美味い」
ヴァルド
「毎度、よく食うのう」
ヤヌス
「ジジイも食ってるだろ」
ヴァルド
「ワシは普通ではないからの」
ヤヌス
「……?」
ヤヌスの手が止まる。
ヴァルドを見る。
ヴァルド
「普通の人間は」
一拍。
ヴァルド
「好んで魔獣など食わん」
ヤヌス
「……そうなのか?」
「…………」
本気で驚いている。
ヴァルドは。
呆れたように眉を寄せた。
ヴァルド
「魔獣の肉には、強い魔力が残っておる」
ヴァルド
「普通の人間が食えば」
ヴァルド
「腹を壊す程度では済まんこともある」
「…………」
ヤヌスは。
手にした肉を見る。
次に。
もう1口、齧った。
ヤヌス
「でも、美味いだろ」
ヴァルド
「味の話をしておるのではない」
ヤヌス
「じゃあ」
一拍。
ヤヌス
「外の人間は、何を食ってるんだ?」
ヴァルド
「豚や牛」
肉を切り分けながら答える。
ヴァルド
「魚」
ヴァルド
「野菜」
ヴァルド
「穀物」
一拍。
ヴァルド
「食うものなど、いくらでもある」
「…………」
ヤヌスは。
手にした肉を見つめた。
「…………」
ふと。
廃棄の森で過ごしていた頃を思い出す。
レオンと2人で狩りへ出た日。
茂みの奥にいた大きな猪へ飛びかかり。
逆に追い回されたこと。
捕まえた兎を持ち帰る途中で落とし。
レオンに呆れられたこと。
何を狩るか迷う自分の横で。
レオンが獲物を選んでいた姿。
ヤヌス
「そういえば」
一拍。
ヤヌス
「レオンも、よく獲物を選んでたな」
ヴァルド
「何でも食おうとするお主がいたからじゃろうな」
ヤヌス
「食えるなら同じだろ」
ヴァルド
「同じではない」
ヤヌス
「でも、魔獣も美味いだろ」
ヴァルド
「……そうかの」
ヤヌス
「俺には分からないんだから、仕方ないだろ」
ヴァルド
「レオンと暮らしていた頃に、食わなかったのか?」
ヤヌス
「肉は食ってた」
一拍。
ヤヌス
「でも、何の肉かなんて考えてなかった」
ヴァルド
「なるほどのう……」
ヴァルドは。
少しだけ考え込む。
レオンも。
食べ物の名前から教える必要があるとは。
思っていなかったのだろう。
ヤヌス
「外に出たら」
一拍。
ヤヌス
「自分で狩らなくても、飯が食えるのか?」
ヴァルド
「街へ行けば、店がある」
ヤヌス
「店?」
ヴァルド
「金を払い」
ヴァルド
「食事や品物を手に入れる場所じゃ」
ヤヌス
「金……」
存在は知っている。
だが。
どれほどの量で。
何が手に入るのか。
ヤヌスには分からなかった。
ヤヌス
「飯と交換するものだろ?」
ヴァルド
「飯だけではない」
ヴァルド
「宿にもいる」
ヴァルド
「服にもいる」
ヴァルド
「外では、何をするにも金が掛かる」
ヤヌス
「……面倒だな」
ヴァルド
「外へ出るつもりならば」
一拍。
ヴァルド
「覚えておかねば、すぐに路頭へ迷うぞ」
「…………」
ヤヌスの脳裏へ。
腰へ手を当て。
呆れた顔で自分を見ている、白い髪の少女が浮かんだ。
『ヤヌスは、もう少し考えてから動いて』
「…………」
何度。
同じことを言われただろう。
それでも。
ヤヌスが言うことを聞いた覚えはなかった。
ヤヌス
「ルミナにも、よく言われてたな」
ヴァルド
「何をじゃ」
ヤヌス
「何でもいいから」
一拍。
ヤヌス
「動く前に、少しは考えろって」
ヴァルド
「その娘は正しい」
ヤヌス
「ジジイは、ルミナの味方かよ」
ヴァルド
「正しい者の味方じゃ」
ヤヌス
「……その時になったら考える」
ヴァルド
「そう言っておる者ほど、妙なものを買わされる」
ヤヌス
「その時は、奪い返す」
ヴァルド
「最初から奪われるな、馬鹿者」
ピシッ――!
ヤヌス
「ってぇ!」
ヴァルドの指が。
ヤヌスの額を弾いた。
ヤヌス
「飯食ってる時まで叩くなよ!」
ヴァルド
「食っている時まで阿呆だからじゃ」
ヤヌス
「クソジジイ……」
「…………」
悪態をつきながらも。
ヤヌスは再び肉へ齧りついた。
食卓には。
2人の声が絶えず響いている。
それは。
いつの間にか。
この小屋で繰り返される、当たり前の時間になっていた。
◇◇◇
食事を終え。
火の勢いが弱まり始めた頃。
「…………」
ヤヌスは椅子へ座ったまま。
自分の右手を見つめていた。
指先から手首まで。
隙間なく巻かれた黒い布。
「…………」
壁際へ目を向ける。
そこには。
レオンが遺した聖剣が置かれている。
剣全体を。
右手と同じ黒い布が覆っていた。
「…………」
さらに。
ヴァルドの異形へ変わった半身にも。
同じ布が巻かれている。
ヤヌス
「そういやさ」
ヴァルド
「なんじゃ」
ヤヌス
「これ」
ヤヌスは。
自分の右手を持ち上げた。
ヤヌス
「全部、同じ布だよな」
ヴァルド
「そうじゃ」
ヤヌス
「どこで手に入れたんだ?」
「…………」
ヴァルドの視線が。
ヤヌスの右手から。
壁際の聖剣へ移る。
ヴァルド
「昔」
一拍。
ヴァルド
「ある魔女から貰った」
ヤヌス
「魔女……?」
ヴァルド
「少々、口の悪い女でな」
ヴァルド
「頼んでもおらんのに」
ヴァルド
「役に立つから持っていけと、押しつけられた」
「…………」
その時のことを。
思い出しているのだろう。
ヴァルドの口元が。
ほんの僅かに緩んだ。
ヤヌス
「特殊な布なのか?」
ヴァルド
「光を通さん」
ヤヌス
「まったく?」
ヴァルド
「ああ」
一拍。
ヴァルド
「どれほど強い光でも、完全に遮る」
だから。
目を塞ぐ修行にも使える。
ヤヌスの右手を隠すことも。
今なお光を放つ聖剣を覆うこともできる。
そして。
ヴァルドの異形へ変わった半身も。
外から見えないように隠すことができた。
「…………」
ヤヌスは。
右手の布を親指で撫でる。
その下にあるものを。
確かめるように。
「…………」
ふと。
昼間に見た異形たちが。
頭へ浮かんだ。
歪んだ身体。
濁った瞳。
飢えだけに動かされている姿。
「…………」
その顔へ。
別のものが重なる。
黒に侵された右腕。
赤く濁った瞳。
異形の身体を。
笑いながら壊していた自分。
『たの……し……』
「…………ッ」
ヤヌスの指が。
黒い布を強く掴んだ。
「…………」
同じではない。
そう思いたい。
だが。
自分もいつか。
あの異形たちと同じものになるのではないか。
ずっと。
心の奥から消えない恐怖があった。
ヤヌス
「ジジイ」
ヴァルド
「なんじゃ」
ヤヌス
「あいつらって……」
一拍。
ヤヌス
「何なんだ?」
「…………」
もしかしたら。
ヴァルドなら知っているかもしれない。
異形たちが何なのか。
そして。
自分が何へ変わろうとしているのか。
「…………」
ヴァルドは答えなかった。
火の中で。
赤く燃えている薪を見つめている。
「…………」
短い沈黙のあと。
静かに口を開く。
ヴァルド
「アベラント」
ヤヌス
「アベラント……」
ヴァルド
「この奈落に棲む」
一拍。
ヴァルド
「人ならざるものの名じゃ」
ヤヌス
「魔獣とは違うのか?」
ヴァルド
「ああ」
ヴァルドの声が。
僅かに低くなる。
ヴァルド
「簡単に言えば――」
一拍。
薪が崩れる。
火の粉が。
2人の間へ僅かに舞い上がった。
ヴァルド
「あれは、1度死んだモノじゃ」
「…………」
ヤヌスの表情が止まった。
ヤヌス
「死んだ……?」
ヴァルド
「それ以上は」
一拍。
ヴァルド
「今のお主が知る必要はない」
「…………」
ヤヌスは。
納得していない目でヴァルドを見る。
だが。
それ以上、問い詰めることはしなかった。
「…………」
もう1度。
自分の右手へ視線を落とす。
黒い布。
その下に刻まれた痣。
レオンを失った夜。
自分の身体を覆った黒。
壊れた身体を動かし。
異形を殴り続けた力。
「…………」
自分で。
止めることができなかった。
ルミナの顔も。
名前も。
分からなくなった。
目の前にいるものを。
ただ壊したいと思った。
「…………」
長い間。
右手を見つめたあと。
ヤヌスが小さく口を開く。
ヤヌス
「……俺も」
「…………」
ヴァルドを見る。
ヤヌス
「いつか」
一拍。
ヤヌス
「ああなるのかな」
「…………」
ヴァルドの目が僅かに動いた。
ヤヌス
「俺も、自分で止められなくなって……」
黒い布を。
左手で強く掴む。
ヤヌス
「最後は、あいつらみたいに――」
ヴァルド
「ならん」
「…………」
即答だった。
迷うことも。
考えることもなかった。
ヤヌスが顔を上げる。
ヴァルド
「少なくとも」
一拍。
ヴァルド
「お主のソレと、アベラントは同じものではない」
ヤヌス
「……なんで分かるんだ?」
「…………」
ヴァルドは。
異形へ変わった自らの腕を見る。
黒い布に覆われ。
その形までは見えない。
ヴァルド
「長く生きておれば」
一拍。
ヴァルド
「見たくないものまで、見えるようになる」
ヤヌス
「なんだよ、それ」
ヴァルド
「年寄りの知恵じゃ」
ヤヌス
「誤魔化すなよ」
ヴァルド
「今は、それでよい」
ヤヌス
「…………」
ヤヌスは不満そうに眉を寄せる。
ヴァルドは。
右手の布へ視線を戻した。
ヴァルド
「じゃが――」
一拍。
ヴァルド
「違うからといって」
ヴァルド
「放っておいてよいものでもない」
「…………」
ヤヌスの表情から。
不満が消える。
ヴァルド
「いつか」
ヴァルド
「お主がソレと向き合わねばならん日は来る」
ヤヌス
「…………」
ヴァルド
「その時」
一拍。
ヴァルド
「ソレに呑み込まれるのか」
一瞬。
ヴァルドの目が鋭くなる。
ヴァルド
「ソレを、お主の意思で従えるのか」
真っ直ぐに。
ヤヌスの目を見る。
ヴァルド
「決めるのは、お主自身じゃ」
「…………」
ヤヌスは。
布に覆われた右手を見つめる。
今はまだ。
中にあるものの正体さえ分からない。
触れることも。
動かすこともできない。
ただ。
抑え込んでいるだけ。
ヴァルド
「その時のためにも」
一拍。
ヴァルド
「今は、力の使い方を覚えろ」
ヴァルド
「見る」
ヴァルド
「聞く」
ヴァルド
「感じる」
一拍。
ヴァルド
「目の前の相手を知り」
ヴァルド
「己の身体を知れ」
「…………」
冒頭の修行。
目を塞ぎ。
目の前の相手を感じ取り。
異形の攻撃を避け続けた理由。
すべては。
得体の知れない力へ頼るのではなく。
自分自身で戦うため。
「…………」
ヤヌスは。
右手を握った。
ヤヌス
「……分かってる」
ヴァルド
「うむ」
ヴァルドは。
それ以上、何も言わない。
薪を1本。
火の中へ放り込む。
ぱちり。
再び大きくなった炎が。
2人の顔を赤く照らした。
◇◇◇
夜。
小屋の中には。
ヤヌスの静かな寝息が響いていた。
「…………」
寝台の上。
右手には。
黒い布が巻かれている。
「…………」
ヴァルドは。
椅子から静かに立ち上がる。
ヤヌスを起こさないように。
音を立てず。
小屋の扉へ向かった。
ギィ……。
僅かな軋み。
外へ出る。
扉を閉めると。
ヤヌスの寝息も聞こえなくなった。
「…………」
奈落の夜。
月の光は届かない。
黒い木々の間から。
アベラントの遠い唸り声だけが聞こえている。
「…………」
ヴァルドは周囲を見回す。
誰もいない。
ヤヌスが眠っていることを。
もう1度、背後の小屋へ目を向けて確かめる。
「…………」
異形へ変わった腕を覆う。
黒い布へ手を掛けた。
ゆっくりと。
ほどいていく。
1巻き。
また、1巻き。
布の下から。
黒く変色した皮膚が現れる。
「…………」
ヤヌスへ初めて見せた異形の半身。
だが。
以前と同じではない。
「…………」
黒ずんだ皮膚は。
腕から肩へ。
肩から胸へ。
僅かずつ、人間の部分を侵食していた。
以前まで残っていた境目から。
指2本分ほど。
黒い肉が広がっている。
「…………ッ」
ズキン――。
身体の奥から。
鋭い痛みが走った。
ヴァルドの顔が歪む。
異形へ変わった腕が。
意思とは関係なく、僅かに震えた。
皮膚の下で。
太い血管のようなものが脈打っている。
ドクン――。
また。
ドクン――。
「…………」
ヴァルドは。
歯を食い縛った。
声は出さない。
小屋の中にいる少年へ。
気づかれないために。
「…………」
『お主のソレと、アベラントは同じものではない』
少し前。
ヤヌスへ告げた言葉。
それは。
嘘ではなかった。
ヤヌスの右手にあるものと。
アベラントを生み出したものは違う。
だが。
「…………」
ヴァルド自身は。
確実に。
アベラントへ近づいている。
「…………」
黒く歪んだ指を。
ゆっくりと開く。
まだ動く。
まだ。
自分の意思へ従っている。
だが。
いつまで。
そうしていられるのか。
「…………」
ヴァルドは。
背後の小屋へ目を向けた。
古びた壁。
小さな窓。
その向こうで。
ヤヌスは何も知らずに眠っている。
「…………」
いつか。
向き合わなければならない。
それは。
ヤヌスだけではない。
ヴァルドにも。
その日は確実に近づいていた。
「…………」
ヴァルドは何も言わない。
広がった異形の半身へ。
再び黒い布を巻いていく。
1巻き。
また、1巻き。
人ならざる身体を。
夜の闇よりも深い布の下へ隠していく。
「…………」
すべてを覆い終えると。
ヴァルドは。
何事もなかったように扉へ手を掛けた。
ギィ……。
僅かに扉を開く。
「…………」
小屋の中から。
変わらないヤヌスの寝息が聞こえた。
ヴァルドは静かに中へ入り。
音を立てないように扉を閉める。
「…………」
寝台へ近づく。
眠るヤヌスの顔を覗き込む。
起きている時とは違い。
何の警戒も。
憎しみもない。
年相応の、あどけなさが残る寝顔。
「…………」
ヴァルドの目元が。
ほんの僅かに緩んだ。
その口元へ。
穏やかな笑みが浮かぶ。




