5話 奈落
第1章 勇者の終焉
第5話 奈落
暗い。
どこまでも。
夜空を覆う雲よりも。
光の届かない深い水底よりも。
濃く、重い闇が沈んでいる。
湿り気を帯びた空気は冷たく、淀んだまま動かない。
地面には苔が広がり、腐り落ちた木の葉が幾重にも積もっていた。
頭上には、天を塞ぐように枝を伸ばした木々。
その幹は不自然に曲がり、互いへ絡みついている。
森の遥か上。
切り立った岩壁に挟まれた細い空から、月明かりが僅かに差し込んでいた。
けれど。
その光も、奈落の底までは届かない。
「…………」
闇の中から、何かの鳴き声が聞こえる。
獣の唸り声にも。
人間の呻き声にも聞こえた。
ひとつではない。
遠く。
近く。
木々の奥に潜む何かが、互いの存在を確かめるように鳴いている。
その森の中に。
1人の少年が倒れていた。
「…………」
ヤヌスは、仰向けに倒れたまま動かない。
身体の半分が、湿った土へ沈んでいる。
衣服は裂け。
全身が血と泥にまみれていた。
胸には、仮面の魔人に剣で貫かれた傷が残っている。
そこから流れた血が衣服を濡らし、背中の下へ黒い染みを作っていた。
落下の衝撃も、全身へ深い傷を残している。
右脚は腫れ上がり。
肩から背中にかけて、青黒い痣が広がっていた。
肋骨も、何本か折れているのだろう。
浅い呼吸をするたびに。
胸の奥から、掠れた音が漏れていた。
普通なら。
この傷で生きてはいられない。
「…………」
少し離れた地面には。
巨大な剣が突き刺さっていた。
聖剣アウロラ。
仮面の魔人に弾き飛ばされた大剣は、そのまま奈落へ落ち。
ヤヌスよりも先に、この地へ辿り着いていた。
白銀の刀身が湿った土へ深く埋まり、僅かに傾いている。
泥に汚れながらも。
刃は遥か上から差し込む月明かりを、微かに映していた。
「…………」
ヤヌスの指が動いた。
ほんの僅かに。
土を引っ掻く。
ヤヌス
「……っ……」
唇の隙間から、弱い息が漏れた。
胸の奥で。
途切れかけていた鼓動が、重く鳴る。
ドクン。
「…………」
胸の傷から流れていた血が、少しずつ弱まっていく。
誰かが治癒魔法を使ったわけではない。
温かな光も。
傷を包む魔力もない。
貫かれた傷口が、時間をかけながら僅かに縮んでいく。
完全に塞がるわけではない。
落下で受けた傷も。
折れた骨も。
そのまま残っている。
それでも。
本来なら止まるはずだった鼓動は、消えずに続いていた。
死に瀕した身体が。
誰の意思も借りずに。
必死に命を繋ぎ止めている。
治っているというよりも。
身体そのものが。
死ぬことを、拒んでいるようだった。
「…………」
ヤヌスの意識は戻らない。
自分の身体に何が起きているのかも知らないまま。
浅く。
途切れ途切れに呼吸を繰り返している。
その唇が、僅かに動いた。
ヤヌス
「……レ……オン……」
声は闇へ溶けた。
返事はない。
代わりに。
森の奥から、濡れた地面を踏む音が聞こえた。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
一定ではない。
何かが片足を引きずりながら、こちらへ近づいてくる。
木々の間で、黒い影が動く。
枝の隙間から。
長い腕が伸びた。
「…………」
姿を現したものは。
人に近い形をしていた。
ただ。
どう見ても、人間ではない。
背中は大きく曲がり、片方の腕だけが地面へ届くほど長い。
異常に膨れ上がった肩から、細すぎる首が伸びている。
顔にあるはずの凹凸は崩れ。
歪に重なった皮膚の隙間から、濁った目が覗いていた。
裂けた口元から。
粘ついた唾液が糸を引く。
異形
「ァ……ぁ……」
不快な声が、喉の奥から漏れる。
異形は鼻を鳴らした。
血の臭いを嗅ぎ取ったのか。
濁った目が、倒れているヤヌスへ向けられる。
裂けた口が大きく開いた。
異形は身体を低く沈め、長い腕を使って地面を這う。
1歩。
また、1歩。
血の臭いを追うように。
ヤヌスとの距離を縮めていく。
「…………」
異形の腕が伸びた。
黒髪へ。
鋭く伸びた指先が、ヤヌスへ触れようとした時。
ドクン――
「…………!」
ヤヌスの右手。
包帯の下で、黒い痣が脈打った。
それだけだった。
ヤヌスは目を覚まさない。
腕を動かすこともない。
何かが放たれたわけでもなかった。
それなのに。
異形の身体が跳ねた。
異形
「ギッ……!」
喉を引き攣らせるような声。
異形は伸ばしていた手を引き、地面を蹴って後方へ飛び退いた。
着地に失敗し、濡れた土の上を転がる。
それでも止まらない。
長い腕で必死に地面を掻き。
倒れたまま、ヤヌスから距離を取ろうとする。
濁った目が大きく見開かれていた。
膨れ上がった身体が、小刻みに震えている。
「…………」
目の前に倒れているのは、意識を失った少年でしかない。
逃げることも。
抵抗することもできない。
異形が恐れるようなものは、何ひとつ見えない。
それでも。
もう1歩たりとも、近づこうとしなかった。
理由など理解していない。
ただ。
身体の奥深くに刻まれた本能だけが。
目の前の少年から逃げろと、叫んでいた。
「…………」
黒い痣の脈動が止まる。
再び。
奈落の森へ静寂が戻った。
異形は這いつくばったまま動かない。
逃げることも。
近づくこともできずにいる。
裂けた口からは、涎が落ち続けていた。
恐怖。
その奥に残る、飢え。
目の前には。
血の臭いを漂わせる、動かない獲物がいる。
「…………」
やがて。
異形が片腕を前へ出した。
地面を掴む。
震える身体を引きずりながら。
もう1度、ヤヌスへ近づこうとする。
異形
「ァ……ぁぁ……」
喉を鳴らし。
少しずつ。
本当に少しずつ、距離を詰めていく。
長い腕が伸びた。
ヤヌスの頭へ触れようとする。
その時。
「…………」
地面に突き刺さったアウロラが。
淡く光った。
白銀の輝きが、刀身をひと筋だけ走る。
弱々しい光だった。
周囲の闇を払うほど強くはない。
何かを傷つける力もない。
ただ。
消えかけた火のような輝きが。
ヤヌスの傍らで、静かに灯っている。
「…………!」
異形の指が止まった。
白銀の光を見る。
次に。
倒れているヤヌスを見る。
異形
「ギ……」
腕が引かれる。
異形は歯を剥き出しにしながらも、それ以上近づこうとはしなかった。
アウロラの光は揺れない。
追い払おうとも。
焼き尽くそうともしない。
ただ、そこにある。
レオンはもういない。
その声も。
温もりも。
ヤヌスを庇っていた背中も。
もう、どこにもない。
それでも。
レオンが遺した剣だけが。
今もヤヌスの傍らに立っていた。
「…………」
異形は低い唸り声を上げる。
アウロラを警戒したまま。
獲物を諦めきれず、その場を離れない。
その時。
別の音が聞こえた。
足音。
ゆっくりと。
一定の間隔で、湿った地面を踏んでいる。
異形の動きが止まった。
木々の奥へ顔を向ける。
光の届かない森の中から。
マントを羽織った男が歩いてきた。
長い剣を腰へ差している。
男は異形を見ても、歩みを止めなかった。
「…………」
異形が身体を沈める。
先ほどまでの怯えを振り払うように。
新たに現れた獲物へ、濁った目を向ける。
異形
「ァアアアアッ!!」
地面を蹴った。
歪んだ身体が、闇の中を駆ける。
長い腕を振り上げ。
マントの男へ飛びかかった。
「…………」
男の右手が、僅かに動いた。
それだけだった。
剣を抜く音は聞こえない。
刃が走る姿も見えなかった。
男は歩みを止めることなく、異形の横を通り過ぎる。
「…………」
異形の身体が宙で止まった。
長い腕が落ちる。
次いで。
首が地面へ転がった。
残された身体は勢いのまま数歩進み。
自分が斬られたことにすら気づかず、湿った土の上へ崩れ落ちる。
遅れて。
男の剣が鞘へ収まる音だけが響いた。
「…………」
男は倒れた異形へ目を向けなかった。
その視線は。
木々の間に灯る、僅かな白銀の光へ向けられていた。
歩みが止まる。
「…………」
地面に突き刺さった大剣。
見間違えるはずがない。
男の纏う空気が変わった。
僅かだった白銀の光が、刀身の中へ消えていく。
男は、無言のままアウロラを見つめていた。
なぜ。
この剣が、ここにある。
その答えを求めるように。
剣の周囲へ視線を巡らせる。
血まみれで倒れている、見知らぬ少年。
男の目が僅かに細くなった。
「…………」
木々の奥で。
いくつもの気配が動く。
異形は、1体ではなかった。
歪んだ影が。
木の上から。
茂みの奥から。
男と、倒れているヤヌスを窺っている。
男は、そちらへ振り向かなかった。
アウロラから目を離さないまま。
低い声を落とす。
マントの男
「ワシは今、機嫌が悪い」
「…………」
森の空気が変わった。
剣は鞘へ収まっている。
男は、何もしていない。
それでも。
木々の奥に潜んでいた気配が、一斉に遠ざかっていく。
枝が激しく揺れ。
草が掻き分けられる。
異形たちは互いを押し退けるように、暗い森の奥へ逃げていった。
男は追わなかった。
倒れた異形にも目を向けない。
まっすぐに。
アウロラへ近づいていく。
マントの男
「……なぜ」
低い声が漏れた。
地面に突き刺さったアウロラの前で足を止める。
マントの男
「なぜ、これがここにある」
アウロラ。
長い間。
勇者レオンと共に、いくつもの戦場を駆け抜けた聖剣。
レオンが手放すはずのない剣。
それが。
なぜ、奈落の底にある。
あの男に。
何があった。
「…………」
男の視線が。
初めて、倒れているヤヌスへ向いた。
見覚えのない少年。
全身は血と泥にまみれ。
胸には、剣で貫かれた傷が残っている。
崖の上から落ちてきたのだろう。
呼吸は弱い。
身体も、酷く傷ついている。
それなのに。
まだ生きていた。
「…………」
男がヤヌスの傍らへしゃがみ込む。
胸元へ視線を落とした。
先ほどまで流れていたはずの血は、ほとんど止まっている。
深い傷も。
ほんの僅かに、塞がり始めていた。
治りきってはいない。
命の危険が消えたわけでもない。
それでも。
この傷を受け。
奈落へ落ちた人間が、まだ呼吸をしている。
それ自体が異常だった。
マントの男
「……なんだ、こやつは」
治癒魔法が使われた痕跡はない。
アウロラの力でもない。
少年自身の身体が。
何かに抗うように、命を繋ぎ止めている。
「…………」
男の目が細くなる。
すぐに助けようとはしなかった。
なぜ。
レオンの剣と共に、ここへ落ちてきた。
レオンは、今どこにいる。
この少年が。
アウロラを奪ったのか。
「…………」
男の右手が。
腰に差した剣の柄へ触れた。
周囲の空気に、僅かな殺気が滲む。
その時。
ヤヌスの右手が、微かに動いた。
破れた包帯の隙間から。
黒い痣が覗いている。
「…………」
男の視線が、そこで止まった。
痣は脈打たない。
先ほど異形を怯えさせた気配も、今はない。
ただ。
黒い染みのように、少年の右手へ刻まれている。
アウロラ。
異常な回復。
右手の痣。
どれを取っても。
普通の少年ではない。
「…………」
ヤヌスの唇が震えた。
浅い呼吸に混じって。
小さな声が漏れる。
ヤヌス
「……レオ……ン……」
「…………!」
男の目つきが変わった。
今。
確かに、レオンの名を呼んだ。
偶然、同じ名前を口にしたとは考えにくい。
この少年は。
レオンを知っている。
「…………」
男はしばらく。
意識を失ったヤヌスを見下ろしていた。
次に。
地面へ突き刺さったアウロラを見る。
刀身に。
淡い白銀の光が、もう1度だけ灯った。
何かを訴えるように。
ほんの一瞬だけ瞬き、消える。
「…………」
男はアウロラへ手を伸ばした。
柄を握る。
深く突き刺さった大剣を、土の中から引き抜いた。
ずしりとした重さが、腕へ伝わる。
かつて何度も目にした剣。
その柄を握るべき男は。
ここにはいない。
マントの男
「……レオン。お主、何をしておる」
返事はない。
代わりに。
ヤヌスの口から、掠れた声が漏れた。
ヤヌス
「……レオン……」
「…………」
男はヤヌスの身体へ手を伸ばした。
肩へ担ぎ上げる。
傷は塞がり始めている。
だが。
このまま放置すれば、朝を迎えられるかも分からない。
ヤヌスの腕が、力なく垂れる。
黒い痣の刻まれた右手が、男のマントへ触れた。
「…………」
男は横目で、その痣を見る。
空いた手には。
レオンの聖剣。
肩には。
レオンの名を呼ぶ、正体不明の少年。
疑念しかない。
それでも。
今、この少年を死なせるわけにはいかなかった。
マントの男
「目を覚ましたら、色々と聞かせてもらわねばならんな」
男はヤヌスを担ぎ。
アウロラを持ったまま、奈落の奥へ歩き出す。
男がどこへ向かうのか。
ヤヌスは知らない。
男が何者なのかも。
なぜレオンとアウロラを知っているのかも。
何ひとつ分からないまま。
意識を失った少年は。
レオンの遺した剣と共に。
奈落のさらに深い闇へ、運ばれていった。




