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第16話 聞こえてる

黒印のヤヌス


第3章 


第16話 聞こえてる


 ドガァァァァンッ――!!


 凄まじい爆発が、リベラシオンの荒野を揺るがした。


 大地を呑み込んだ炎が渦を巻き、砕けた岩と砂を巻き上げる。爆風は周囲へ広がり、ルミナたちを閉じ込めた結界の表面を激しく震わせた。


ルミナ

「ヤヌスーーー!!」


ミレイユ

「ヤヌスさん!!」


 2人の叫びが荒野に響く。


 だが、炎の中から返事はなかった。


 エリシュアは腕を下ろしたまま、立ち昇る爆煙を見つめていた。


 その表情に、迷いはない。


 やがて、炎が弱まり始める。


 風に押された煙がゆっくりと流れ、その奥に人影が浮かび上がった。


ルミナ

「……っ!」


 ヤヌスだった。


 両足を大地へ踏みしめ、アウロラを身体の前へ突き出している。


 咄嗟に剣を盾のように構え、炎の直撃を受け止めていたのだ。


 しかし、完全に防ぎきれたわけではなかった。


 衣服は焼け焦げ、露出した腕には新たな火傷が広がっている。剣を握る指の間から血が滴り、足元の砂を赤く染めていた。


ヤヌス

「はぁ……はぁ……!」


 呼吸するたびに、胸の奥が軋む。


 カインとの戦いで受けた傷は、まだ癒えていない。ルミナの回復魔法によって、どうにか動ける程度まで戻ったにすぎなかった。


 それでも、立っていた。


ルミナ

「ヤヌス……!」


 ルミナの顔に、僅かな希望が戻る。


 生きている。


 まだ、間に合う。


ルミナ

「お師匠様! お願い、もうやめて!!」


 だが、エリシュアは答えなかった。


 ただ、右手を持ち上げる。


 ――パチン。


 乾いた音が鳴った。


 次の瞬間、ヤヌスの頭上に幾重もの魔法陣が展開される。


 空気が白く凍りついた。


 無数の氷の矢が形成され、その切っ先が一斉にヤヌスへ向けられる。


ヤヌス

「……っ!」


 考えるより早く、身体が動いた。


 地面を蹴り、横へ跳ぶ。


 直後。


 ドドドドドッ!!


 氷の矢が、先ほどまで立っていた場所へ次々と突き刺さった。


 大地が砕け、白い破片が飛び散る。


 ヤヌスは着地と同時に顔を上げた。


 しかし。


 目の前には、すでに新たな魔法陣が浮かんでいた。


ヤヌス

「……ちっ!」


 魔法陣が赤く染まる。


 巨大な火球が、至近距離から放たれた。


 かわす時間はない。


 ヤヌスはアウロラを振り抜いた。


 ガギィィンッ!!


 刃が火球の側面を捉える。


 凄まじい熱が腕を焼いたが、ヤヌスは強引に剣を押し切った。


 火球の軌道が逸れる。


 その先には、リリアがいた。


リリア

「わわっ!?」


 リリアが慌てて飛び退く。


 直後、火球が地面へ着弾した。


 ドガァァンッ!!


 爆風に煽られ、リリアの身体がよろめく。


リリア

「ちょ、ちょっとぉ!?」


ノクス

「リリア! 下がれ!!」


 ノクスが叫んだ。


 だが、その声とほぼ同時に、ヤヌスの背後へ新たな魔法陣が現れた。


 今度は氷。


 人の身体を容易く押し潰せるほど巨大な氷塊が、空中に形成される。


 ヤヌスは肩越しに振り返った。


 そして、地面を蹴る。


 氷塊が凄まじい勢いで落下した。


 ドゴォォンッ!!


 衝撃で大地が陥没する。


 飛び退いたヤヌスのすぐ先には、ノクスがいた。


ノクス

「くっ……!」


 ノクスも咄嗟に身をかわした。


 砕けた氷の破片が、2人の間を通り抜ける。


 ヤヌスは着地した瞬間、片膝をついた。


ヤヌス

「ぐっ……!」


 脇腹に激痛が走る。


 息を吸おうとしても、肺が思うように膨らまない。


 それでも顔を上げる。


 次の魔法陣が、すでに頭上で輝いていた。


 炎。


 氷。


 また炎。


 攻撃をかわした先へ、次の魔法が現れる。


 剣で弾けば、別の角度から氷が迫る。


 立ち止まれば、足元から炎が噴き上がる。


 逃げ道を見つけるたびに、その先が塞がれていく。


 対するエリシュアは、一歩も動いていなかった。


 ただ、指先を僅かに動かすだけ。


 それだけで、荒野の至るところから魔法が生まれ、ヤヌスへ襲いかかっていた。


 リリアは、その光景を呆然と見つめていた。


リリア

「……こんなの……」


 同じ炎の魔法を使う自分だからこそ分かる。


 1つ1つが、並の魔法使いなら全力を注いでようやく放てるほどの威力。


 それを、エリシュアは呼吸するように繰り返している。


 ノクスも、言葉を失っていた。


 これが、原初の魔女。


 魔女たちの頂点に立つ存在。


 そして今、その力のすべてが、傷だらけの少年へ向けられていた。


◇◇◇


 ヤヌスは荒い呼吸を繰り返していた。


 剣を握る右手が震えている。


 焼けた皮膚が裂け、血が止まらない。


 それでも、アウロラを下ろさなかった。


エリシュア

「……ルミナの回復魔法で、多少は動けるようになったか」


 エリシュアが静かに口を開く。


 その声に、息切れはなかった。


エリシュア

「だが、これは捌ききれまい」


 ――パチン。


 指が鳴る。


 その瞬間、エリシュアの背後へ巨大な魔法陣が次々と展開された。


 1つ。


 2つ。


 3つ。


 さらに、その外側へ幾重もの魔法陣が重なっていく。


 赤い光。


 青白い光。


 炎と氷が、空中で渦を巻き始めた。


リリア

「……嘘……」


ノクス

「これほどの魔法を……同時に……!」


 巨大な火球が膨れ上がる。


 鋭い氷槍が無数に形成される。


 その背後では、さらに巨大な氷塊が姿を現していた。


 ヤヌスはアウロラを構え直す。


 視界の端まで、魔法陣が広がっていた。


 どこへ逃げればいい。


 右か。


 左か。


 それとも後ろか。


 傷ついた身体では、すべてをかわしきれるはずがない。


 エリシュアが、ゆっくりと指先を向けた。


エリシュア

「……さあ、死ね」


 無数の魔法が、一斉に放たれた。


 轟轟轟ッ――!!


 炎が空を赤く染める。


 氷槍が風を切り裂く。


 巨大な氷塊が、地響きを伴って迫ってきた。


 ヤヌスは反射的に横へ跳ぼうとした。


 だが、その瞬間。


 肩越しに、背後を見た。


 少し離れた場所。


 ミレイユがいた。


 カインの殺気を浴びてから、まだまともに立ち上がれずにいる。


 結界の内側で、震える身体を抱えるように座り込んでいた。


 その視線の先には、迫り来る炎と氷。


ミレイユ

「あ……あわ……」


 ヤヌスの足が止まった。


 ほんの一瞬。


 背後へ向けられた視線が、正面へ戻る。


ヤヌス

「……くそっ!」


 アウロラを握り直す。


 そして、迫り来る魔法へ正面から踏み込んだ。


 ガガガガガッ!!


 剣が氷槍を砕く。


 続く火球を斬り裂く。


 飛び散った炎が腕を焼き、砕けた氷が頬を切り裂いた。


 それでも、剣を振り続けた。


ヤヌス

「ぐっ……あああッ!!」


 巨大な氷塊へ、アウロラを叩きつける。


 バギィィンッ!!


 氷塊が砕け散る。


 だが、その向こうには、まだ無数の火球が残っていた。


 1つ。


 2つ。


 3つ。


 剣を振るうたびに、身体が悲鳴を上げる。


 右腕の感覚が薄れていく。


 足元が揺らぐ。


 それでも、ヤヌスはその場から退かなかった。


 そして。


 ついに、剣が間に合わなくなった。


 ドガァァァァンッ――!!


 火球が直撃した。


 続けざまに氷塊が砕け、爆炎が膨れ上がる。


 さらに後続の魔法が殺到し、荒野の一角を呑み込んでいった。


 大地が震える。


 爆風が砂を巻き上げる。


 巨大な煙の柱が、空高く立ち昇った。


ルミナ

「ヤヌス!!」


 結界の中から、ルミナの悲鳴が響く。


 だが、返事はない。


 エリシュアは、無言で爆煙を見つめていた。


◇◇◇


 爆煙が、荒野の一角を覆い隠していた。


 砕けた岩が地面へ落ち、燃え残った炎が砂の上で揺らめいている。


 ルミナは結界へ両手をついたまま、煙の向こうを見つめていた。


ルミナ

「……ヤヌス……?」


 返事はない。


 先ほどまで聞こえていた剣の音も、苦しげな呼吸も。


 何ひとつ聞こえなかった。


ルミナ

「お師匠様!!」


 ルミナが振り返る。


ルミナ

「どうして……どうしてヤヌスにこんなことを……!」


 エリシュアは、ゆっくりとルミナへ視線を向けた。


エリシュア

「確かに、目の前にいるのはお前が探していた男だ」


ルミナ

「だったら――!」


エリシュア

「だが、お前が会いたがっていたヤヌスではない」


 言葉を遮られ、ルミナは息を呑んだ。


エリシュア

「人の死を弱さのせいだと切り捨て、師を殺したと平然と語る」


 エリシュアの声は静かだった。


 怒鳴ることも、感情を荒らげることもない。


 ただ、目の前の事実を並べるように言葉を続ける。


エリシュア

「お前が覚えている少年と、今のあれを同じものだと思うな」


ルミナ

「違う……!」


 ルミナは首を振った。


ルミナ

「ヤヌスは……そんな人じゃない……!」


エリシュア

「ならば、なぜあんな言葉が出る?」


ルミナ

「それは……!」


 答えられなかった。


 3年間。


 ヤヌスがどこで何をしていたのか、ルミナは知らない。


 どんな苦しみを味わい、何を失ってきたのか。


 何ひとつ、聞けていない。


 それでも、目の前で殺されるのを見ていられるはずがなかった。


 エリシュアは、そんなルミナをしばらく見つめていた。


エリシュア

「……ルミナ。覚えているか?」


ルミナ

「……え……?」


エリシュア

「お前と交わした約束を」


 ルミナの表情が強張った。


 忘れるはずがなかった。


 ヤヌスを探しに行くことを許してもらった時。


 エリシュアと交わした、たった1つの約束。


 もし、ヤヌスが黒い力に呑まれ、人を傷つけようとしたなら。


 その時は。


 殺してでも、止める。


 ルミナの唇が震えた。


ルミナ

「……覚えてる……」


エリシュア

「ならば、分かるはずだ」


 エリシュアが静かに告げる。


エリシュア

「私は、あの約束が果たされる時を待つまでもないと判断した」


ルミナ

「……っ!」


エリシュア

「今のあれは、すでに危険だ。誰かを傷つけてからでは遅い」


 ルミナは、何も言えなかった。


 エリシュアの言葉が、胸へ突き刺さる。


 約束は覚えている。


 その覚悟も、決めたつもりだった。


 けれど。


 目の前にいるのは、ヤヌスなのだ。


 3年間、探し続けてきた。


 生きていてほしいと願い続けた、大切な存在。


 ようやく会えたばかりなのに。


ルミナ

「お願い……話をさせて……!」


 ルミナの声が震える。


ルミナ

「まだ……何も聞けてないの……!」


 エリシュアは、僅かに目を伏せた。


 だが、次に顔を上げた時、その眼差しに迷いはなかった。


エリシュア

「……いや、ここで殺しておくべきだ」


 ルミナの顔から、血の気が引いた。


エリシュア

「世界のためにな」


 ――パチン。


 指が鳴った。


 爆煙の周囲へ、新たな魔法陣が展開される。


 赤い光が、煙を内側から照らし始めた。


ルミナ

「……やめて……」


 エリシュアは答えない。


 魔法陣の中心で、巨大な火球が形成されていく。


ルミナ

「お師匠様……!」


 轟ッ!!


 火球が放たれた。


 煙の中へ吸い込まれるように飛び込み、直後に大爆発を引き起こす。


 ドガァァンッ!!


 さらに、次の火球。


 その次も。


 ドガガガガッ――!!


 爆発が途切れない。


 炎が大地を焼き、衝撃が荒野を揺らし続ける。


ルミナ

「嫌ぁぁぁ!!」


 ルミナが結界へ拳を叩きつけた。


 ドンッ!!


 透明な壁が鈍く響く。


ルミナ

「やめてぇぇぇ!!」


 もう1度。


 さらにもう1度。


 何度叩いても、結界はびくともしなかった。


 ルミナは魔力を集中させ、結界の内側から干渉しようとする。


 だが、エリシュアの魔力はあまりにも強固だった。


 自分が学んできた結界魔法。


 そのすべての基礎を教えてくれた相手。


 今、その技術が、自分を閉じ込めるために使われている。


ルミナ

「お願いだから……!!」


 涙が頬を伝う。


ルミナ

「もう……やめてよぉぉ!!」


 最後の火球が、煙の中へ飛び込んだ。


 ドゴォォォンッ――!!


 ひときわ大きな爆発。


 地面が震え、砂煙がさらに高く巻き上がった。


 そして。


 ようやく、追撃が止まった。


 荒野に静寂が戻る。


 ルミナの拳が、結界の表面を滑り落ちた。


 膝から力が抜ける。


 その場へ崩れ落ち、両手を地面についた。


ルミナ

「……そんな……」


 視界が滲んでいた。


ルミナ

「せっかく……会えたのに……」


 3年間。


 何度も思い描いた再会。


 ヤヌスが生きていてくれたら。


 もう1度、名前を呼んでくれたら。


 それだけでよかった。


 ようやく、会えた。


 ようやく、声を聞けた。


 なのに。


ルミナ

「……ヤヌス……」


 涙が、乾いた大地へ落ちた。


 その時だった。


 爆煙の奥から、声が聞こえた。


ヤヌス

「……殺す……」


 ルミナの肩が震えた。


ルミナ

「……え?」


 聞き間違いかと思った。


 だが。


ヤヌス

「……殺す……殺す……」


 低く、掠れた声。


 先ほどまでのヤヌスの声とは、何かが違っていた。


ヤヌス

「殺す……殺す……殺す……」


 煙が、ゆっくりと流れていく。


 その奥に、人影が浮かび上がった。


 ヤヌスだった。


 しかし、その姿を見た瞬間、ルミナは息を呑んだ。


 身体が、不自然なほど大きく反り返っていた。


 両足は地面へ突き立てられ、胸が天を仰ぐように持ち上がっている。


 首は後方へ折れ曲がり、顔は空を向いていた。


 まるで、見えない何かに身体を吊り上げられているかのようだった。


 その姿勢のまま、微動だにしない。


 ただ、喉の奥から掠れた声だけが漏れ続けていた。


ヤヌス

「……殺す……殺す……」


 やがて。


 ギギ……。


 軋むような音がした。


 反り返っていた上半身が、ゆっくりと戻り始める。


 首が前へ倒れる。


 肩が落ちる。


 そして、顔が正面を向いた。


ルミナ

「……っ!!」


 そこにいたのは、ヤヌスの姿をした何かだった。


 右手の痣から伸びた黒い筋が、腕を這い上がり、肩から胸へ広がっている。


 首筋を覆い、顔の半分を黒く染め上げていた。


 皮膚の下では、無数の黒い筋が生き物のように蠢いている。


 顔の筋肉が不自然に引き攣り、口元は歪んでいた。


 その瞳には、先ほどまでの温かさも、苦痛も、怒りさえも見当たらない。


 ただ、底の見えない暗闇が広がっていた。


 人の顔をしている。


 だが、人の表情ではなかった。


 ルミナが知っているヤヌスの面影は、そこにはほとんど残っていなかった。


 黒い魔力が、煙のように身体から立ち昇っている。


ヤヌス

「……奪われる前に……殺す……」


 右手が、ゆっくりと持ち上がる。


 指先が不自然に曲がり、何かを掴もうとするように震えていた。


ヤヌス

「殺す……殺す……殺す……」


 同じ言葉を、何度も繰り返す。


 まるで、その言葉以外を忘れてしまったかのように。


 ルミナは立ち上がることもできず、その姿を見つめていた。


 あの夜。


 レオンを失った時。


 ヤヌスの身体に現れた、黒い異変。


 そして、つい先ほど。


 カインに追い詰められたヤヌスの右腕にも、同じ黒い筋が広がっていた。


 だが、今は違う。


 あの時よりも、遥かに濃い。


 侵食は腕だけに留まらず、胸も、首も、顔までも覆っている。


 何より。


 あの時は、まだヤヌスの顔だった。


 苦痛に歪み、怒りに震えていても、そこには確かにヤヌスがいた。


 しかし、今は。


ルミナ

「……ヤヌス……?」


 声が震える。


 エリシュアは、そんなルミナを一瞥した。


 そして、静かに告げた。


エリシュア

「……ほら、な?」


 その声には、勝ち誇った響きなどなかった。


 ただ、恐れていたものを目の前にした者の、冷たい確信があった。


◇◇◇


 リベラシオンへ続く荒野。


 乾いた大地を、馬の蹄が激しく叩いていた。


 先頭を走るのは、第一聖騎士ガレス。


 その後方を、新勇者アークと教会兵たちが追っている。


 遠くに見える荒野の向こうから、先ほどよりも強い魔力の揺らぎが伝わってきていた。


ガレス

「アーク! 速度を上げるぞ!!」


アーク

「はい!!」


 ガレスが馬の腹を蹴る。


 馬が大きく嘶き、さらに速度を上げた。


 アークも慌てて後を追う。


 だが、その表情には戸惑いが浮かんでいた。


 こんなガレスを見るのは、初めてだった。


 普段のガレスは、どんな状況でも冷静だった。


 魔族の襲撃を受けた時も。


 危険な魔人と対峙した時も。


 常に周囲を見渡し、最善の判断を下してきた。


 以前、アークが先を急ごうとした時も、焦るなと制したのはガレスだった。


 だが、今は逆だった。


 ガレスが誰よりも急いでいる。


 その背中からは、普段の余裕が感じられなかった。


アーク

「……ガレスさん……」


 声をかけようとした、その時。


 ガレスが突然、手綱を引いた。


 ヒヒィィンッ!!


 馬が前脚を高く上げ、急停止する。


アーク

「うわっ!?」


 アークも慌てて馬を止めた。


 後続の教会兵たちが次々と速度を落とし、荒野に蹄の音が乱れた。


アーク

「ガレスさん……?」


 ガレスは答えなかった。


 前方を凝視している。


 その顔から、みるみる血の気が引いていった。


 アークは、その表情を見て言葉を失った。


 ガレスが、恐れている。


 そう理解するまでに、僅かな時間が必要だった。


ガレス

「……総員!!」


 怒声が荒野に響く。


ガレス

「戦闘態勢!!」


 教会兵たちが一斉に顔を上げた。


アーク

「……え?」


ガレス

「急げ!! 守備兵は盾を構えて前方へ!!」


 兵士たちが慌ただしく動き始める。


 馬から飛び降り、巨大な盾を地面へ突き立てた。


ガレス

「魔法兵は極大魔法を装填しろ!!」


教会兵

「は、はいっ!!」


 魔法兵たちが杖を構える。


 足元へ魔法陣が展開され、周囲の魔力が集まり始めた。


 誰も、何が起きているのか分かっていなかった。


 それでも、ガレスの命令に従う。


 第一聖騎士。


 人類最強と謳われる聖騎士。


 その男が、これほどの警戒を命じている。


 それだけで、事態が尋常ではないことは理解できた。


アーク

「ガレスさん!? いったい何が……!」


 ガレスは答えない。


 ただ、前方を睨み続けていた。


 アークも視線を向ける。


 そこには、乾いた荒野が広がっているだけだった。


 風に揺れる砂。


 遠くの岩山。


 何も見えない。


 いや。


 一瞬だけ、遠くに人影のようなものが見えた気がした。


 アークが目を凝らす。


 だが、そこには何もない。


 見間違いか。


 そう思った時、ガレスの額を汗が伝った。


ガレス

「対象はSS――」


 その時。


男の声

「……流石だな、ガレス」


 ガレスの言葉が途切れた。


 前方に、1人の男が立っていた。


 白い仮面。


 黒い衣服。


 腰には、1振りの剣。


 いつから、そこにいたのか。


 誰にも分からなかった。


 仮面の魔人。


 カイン。


 ガレスの顔が強張る。


 後方にいた歴戦の教会兵たちも、その姿を見た瞬間、息を呑んだ。


 だが、アークには分からなかった。


 目の前の男が、何者なのか。


 なぜ、ガレスがここまで警戒しているのか。


アーク

「ちょ、ちょっと……何が……」


 その瞬間。


 アークの視界が、真っ暗になった。


◇◇◇


 風が吹いていた。


 荒野の上を、乾いた砂が流れていく。


 そこには、無数の人影が倒れていた。


 教会兵。


 守備兵。


 魔法兵。


 誰ひとりとして、立っていない。


 ガレスも。


 アークも。


 全員が、地面へ倒れ伏していた。


 ただ1人を除いて。


教会兵

「う……うわぁぁぁぁ!!」


 若い教会兵が、地面へ尻餅をついていた。


 全身が震えている。


 歯が激しく鳴り、呼吸は乱れていた。


 立ち上がろうとしても、足に力が入らない。


 それでも、剣だけは前へ突き出していた。


 その切っ先の向こうに、白い仮面の男が立っている。


 カインだった。


 男は剣を抜いていない。


 衣服にも、乱れはなかった。


 まるで、何事もなかったかのように立っていた。


教会兵

「ひっ……ひぃ……!」


 兵士の視線が、地面へ倒れたガレスへ向く。


 動かない。


 その少し先には、アークが倒れている。


 こちらも、目を閉じたままだった。


 つい先ほどまで、誰よりも頼もしかった2人。


 その2人が、今は地面へ倒れている。


 兵士には、何が起きたのか分からなかった。


 分かるのは、ただ1つ。


 目の前の男には、逆らってはいけない。


 それだけだった。


カイン

「……安心しろ」


 カインが静かに口を開く。


カイン

「殺してはいない」


教会兵

「ひっ……!」


 兵士の身体が大きく跳ねた。


 カインは気にする様子もなく、言葉を続ける。


カイン

「皆が起きたら伝えろ」


 白い仮面が、僅かに傾く。


カイン

「……これからは俺が動く、とな」


 次の瞬間。


 ヒュンッ――。


 カインの姿が消えた。


 兵士は、しばらく動けなかった。


 ただ、男が立っていた場所を見つめ続けている。


 やがて。


 震えていた指から、剣が滑り落ちた。


 カラン……。


 乾いた金属音が、荒野へ響いた。


 兵士は声を出すこともできず、その場に座り込んでいた。


◇◇◇


 リベラシオン。


 爆煙は、すでに風に流され始めていた。


 その中心に、ヤヌスが立っている。


 身体の右半分を覆う黒い筋。


 右手の痣から溢れ出した禍々しい魔力が、煙のように立ち昇っていた。


ヤヌス

「……殺す……」


 掠れた声が漏れる。


ヤヌス

「殺す……殺す……」


 右肩から胸へ広がった黒い筋が、さらに脈打った。


 皮膚の下で、何かが這い回っているようだった。


 黒い侵食は、ゆっくりと左半身へ伸びていく。


 首筋を這い上がり、頬を覆う。


 ヤヌスの瞳から、少しずつ光が失われていった。


ヤヌス

「……仕方ないだろ……」


 その声は、誰かに言い聞かせるようだった。


ヤヌス

「……弱いんだから……」


 弱者は奪われる。


 強者は奪う。


 奈落で植え付けられた言葉。


 何度も繰り返し、何度も自分へ言い聞かせてきた思想。


 それが今、ヤヌスの意識を覆い尽くそうとしていた。


ヤヌス

「……奪われる前に……」


 右手が、ゆっくりと持ち上がる。


ヤヌス

「……殺す……」


 ミレイユは、結界の内側からその姿を見つめていた。


 先ほどまで自分の隣にいた少年。


 傷だらけになりながらも、仮面の男へ立ち向かっていた少年。


 その身体が、今、黒い何かに呑み込まれようとしている。


 ミレイユは、すでに1度その異変を目にしていた。


 カインとの戦い。


 遠くから見ていたヤヌスの身体に、黒い筋が広がっていく光景。


 あの時も、ただならぬものを感じていた。


 だが、今は違う。


 あの時よりも、遥かに深く侵食されている。


 顔の半分を黒く染め、身体から禍々しい魔力を溢れさせている。


 それは、ミレイユの知るヤヌスとは、あまりにもかけ離れた姿だった。


ミレイユ

「……ヤヌスさん……?」


 返事はなかった。


 ヤヌスは、ゆっくりと顔を上げる。


 その瞳には、誰の姿も映っていないように見えた。


 エリシュアが、静かに右手を持ち上げた。


エリシュア

「……死ね」


 ――パチン。


 乾いた音が響く。


 次の瞬間、ヤヌスの周囲に巨大な魔法陣が展開された。


 頭上。


 左右。


 背後。


 逃げ道を塞ぐように、幾重もの魔法陣が重なっていく。


 巨大な火球が膨れ上がる。


 氷塊が形成される。


 それらすべてが、ヤヌスへ向けられていた。


 今度こそ、仕留める。


 エリシュアの眼差しには、そんな決意が宿っていた。


 だが。


 ファァァァ……。


 淡い光が、ヤヌスの周囲へ広がった。


 透明な結界が、身体を包み込むように展開される。


 エリシュアの眉が、僅かに動いた。


エリシュア

「……ちっ」


 そして、振り返る。


エリシュア

「ルミナ!!」


 ルミナが立ち上がっていた。


 涙に濡れた顔。


 震える両腕。


 それでも、両手は真っ直ぐヤヌスへ向けられている。


ルミナ

「ヤヌス!!」


 結界の向こうへ、必死に声を張り上げた。


ルミナ

「私の声が聞こえる!?」


エリシュア

「やめろ、ルミナ!!」


 エリシュアの怒声が響く。


 だが、ルミナは振り返らなかった。


 目の前のヤヌスだけを見つめていた。


ルミナ

「嫌だよ……ヤヌス……!」


 声が震える。


ルミナ

「せっかく会えたのに……!!」


 3年間。


 何度も名前を呼んだ。


 何度も探した。


 ようやく見つけたのに。


 こんなところで、終わらせたくなかった。


エリシュア

「無駄だ、ルミナ」


 エリシュアの冷たい声が響いた。


エリシュア

「今のあれに、お前の声など聞こえていない」


 ルミナの肩が震える。


 だが、首を振った。


ルミナ

「……違う……!」


 エリシュアを見ようともしない。


 ただ、ヤヌスへ向かって叫び続けた。


ルミナ

「お願い……戻ってきて……!」


 涙が頬を伝う。


ルミナ

「もう1度……私を見てよ……!」


◇◇◇


 結界の内側。


 ヤヌスは、俯いたまま立っていた。


 黒い魔力が、身体から溢れ続けている。


ヤヌス

「……弱いと……奪われ……」


 唇が、僅かに動く。


ヤヌス

「弱かったから……奪われ……」


 言葉が途切れる。


 再び、同じ言葉を繰り返す。


ヤヌス

「……奪われる……奪われる……」


 黒い筋が、さらに広がった。


 左肩へ。


 胸の中心へ。


 そして、顔全体へ。


 ヤヌスの呼吸が乱れ始める。


ヤヌス

「……うばわれる……」


 肩が大きく震えた。


ヤヌス

「うばわれる……うばわれる……!」


 次の瞬間。


ヤヌス

「うばわれるるるるるッ!!」


 ドガンッ!!


 ヤヌスの拳が、結界の内側へ叩きつけられた。


ルミナ

「……っ!」


 凄まじい衝撃が、結界全体へ広がる。


 光の波紋が幾重にも走った。


 だが、ヤヌスは止まらない。


 ドガンッ!!


 さらに殴る。


 ドガンッ!!


 もう1度。


 右手の皮膚が裂け、血が飛び散る。


 それでも、拳を振り続けた。


ルミナ

「ヤヌス……!」


 ルミナが両手へ魔力を集中させる。


 結界の光が強くなる。


 だが、その直後。


 ピシッ。


 透明な表面に、小さな亀裂が走った。


ルミナ

「……そんな……!」


 カインの剣を受け止めた結界。


 あの男の攻撃にも、必死に耐え続けた魔法。


 その結界が、今、ヤヌス自身の拳によって砕かれようとしている。


 守りたかった。


 傷つけたくなかった。


 だからこそ、結界を張った。


 それなのに。


 ヤヌスは、その結界を壊そうとしていた。


 ルミナの瞳から、また涙が溢れた。


ルミナ

「……お願い……」


 結界へ魔力を注ぎ続ける。


ルミナ

「もう……やめて……!」


 だが、ヤヌスには届かない。


 ドガンッ!!


 また拳が叩きつけられた。


 ピシピシッ!!


 亀裂が広がっていく。


 エリシュアが、静かに手を持ち上げた。


エリシュア

「……終わりだ」


 その周囲で、炎が揺らめく。


 エリシュアはヤヌスを見つめたまま、僅かに目を細めた。


 レオン。


 お前が遺したモノは。


 やはり……。


 エリシュアの指先に、魔力が集まり始める。


 その時。


ルミナ

「ヤヌス!!」


 ルミナが叫んだ。


ルミナ

「私の声が聞こえないの!!」


 涙ながらの声。


 喉が張り裂けそうなほどの叫びだった。


 ヤヌスの拳が、もう1度振り上げられる。


 そして。


 ドガァンッ!!


 パキィィィンッ――!!


 結界が砕け散った。


 無数の光の破片が、荒野へ舞い散る。


 黒い魔力が、その隙間から一気に溢れ出した。


◇◇◇


 砕け散った結界の破片が、光の粒となって消えていく。


 その中心で、ヤヌスがゆっくりと顔を上げた。


 黒い魔力が、身体から立ち昇っている。


 右半身だけではない。


 胸も。


 首も。


 顔も。


 禍々しい黒に覆われていた。


 ヤヌスが、1歩踏み出そうとする。


 だが。


 ピタッ。


 突然、その動きが止まった。


 左手が震えていた。


 指先が、不自然に曲がっている。


 何かを掴もうとしているようにも。


 何かを押さえつけようとしているようにも見えた。


 身体は前へ進もうとしている。


 それなのに、左手だけが動かない。


 肩が震える。


 首筋の黒い筋が、激しく脈打った。


 まるで、身体の内側で何かが争っているかのようだった。


ルミナ

「……ヤヌス?」


 ルミナが、小さく名前を呼ぶ。


 ヤヌスの左手が、ゆっくりと動いた。


 懐へ伸びる。


 震える指先が、何かを探る。


 そして。


 小刀を取り出した。


ノクス

「……なっ!?」


リリア

「わわっ!?」


 ノクスとリリアが息を呑む。


 ヤヌスは、小刀を握り直した。


 その刃先を、黒く染まった右手へ向ける。


 ほんの一瞬。


 身体が、大きく震えた。


 だが、左手は止まらなかった。


 次の瞬間。


 ドスッ!!


 小刀が、右手の黒い痣へ深く突き刺さった。


 鮮血が飛び散る。


ヤヌス

「ぐっ……!!」


 ヤヌスの身体が大きく反り返った。


 喉の奥から、押し殺したような呻きが漏れる。


 黒い魔力が激しく揺らいだ。


 右腕を覆っていた筋が、脈打つ。


 顔の半分を染めていた黒が、さらに濃くなったかと思うと、突然、その動きを止めた。


 ヤヌスは、荒い呼吸を繰り返していた。


ヤヌス

「はぁ……はぁ……!」


 左手は、まだ小刀を握っている。


 右手から血が滴り、足元へ落ちていった。


 そして。


ヤヌス

「……うるせえ」


 掠れた声が漏れた。


 ルミナの肩が震える。


ルミナ

「……え……?」


 ヤヌスが、ゆっくりと顔を上げた。


 黒に覆われた瞳。


 その奥に、僅かな光が戻っていた。


ヤヌス

「聞こえてる」


 短い言葉だった。


 だが、その声は、確かにヤヌスのものだった。


 次の瞬間。


 黒い筋が、ゆっくりと引き始めた。


 顔から。


 首から。


 胸から。


 肩から。


 腕へ。


 身体を覆っていた黒が、右手へ向かって戻っていく。


 禍々しい魔力が薄れ、荒野を覆っていた重苦しい気配が少しずつ消えていった。


 やがて。


 黒は、右手の痣へ収まった。


 ヤヌスはその場に立ったまま、荒い呼吸を繰り返していた。


 額から汗が流れ落ちる。


 顔には、苦痛の色が残っている。


 それでも。


 その瞳には、理性が戻っていた。


ミレイユ

「ヤヌスさん!!」


 ミレイユの声が響く。


 その表情に、ようやく安堵が浮かんだ。


 エリシュアは、無言でヤヌスを見つめていた。


 先ほどまで、殺すべきだと判断していた少年。


 黒い力に呑み込まれ、理性を失いかけていた存在。


 だが、その少年は。


 誰かの魔法によって救われたわけではなかった。


 自らの手を傷つけ、自分自身の力で、黒い侵食を押し戻した。


 エリシュアの指先から、ゆっくりと魔力が消えていく。


 その眼差しに、僅かな変化が生まれていた。


 だが、何も言わなかった。


ルミナ

「……ヤヌス……」


 ルミナの目から、涙がこぼれた。


 先ほどまで、もう二度と会えないのではないかと思っていた。


 ようやく再会した大切な存在が、目の前で消えてしまうのではないかと。


 だが。


 戻ってきた。


 自分の声が、届いていた。


ルミナ

「……良かった……」


 その場に立ち尽くしたまま、何度も涙を拭う。


 すぐに抱きしめたい。


 駆け寄って、もう二度と離したくない。


 それでも、足は動かなかった。


 目の前のヤヌスが、まだどれほど傷ついているのか分からない。


 ただ、正気に戻ったことが嬉しかった。


◇◇◇


 いつの間にか、ミレイユを閉じ込めていた結界も消えていた。


 ヤヌスの周囲には、砕けた結界の光が僅かに残っている。


 荒野には、再び風が吹き始めていた。


 ルミナは涙を拭い、ゆっくりとヤヌスへ歩み寄ろうとした。


ルミナ

「ヤヌス……今、治すからね」


 ヤヌスは何も言わなかった。


 右手には、まだ小刀が刺さっている。


 その周囲から血が滴り、砂の上へ小さな染みを作っていた。


 エリシュアも動かなかった。


 先ほどまで、ヤヌスを殺そうとしていた魔女。


 だが今は、ただ少年の姿を見つめている。


 その時だった。


教会兵

「た、助けてくれぇぇ!!」


 遠くから、悲鳴が響いた。


 ルミナが足を止める。


ルミナ

「……え?」


 全員が、声のした方角へ振り向いた。


 荒野の向こう。


 1人の教会兵が、よろめきながらこちらへ駆けてきていた。


 鎧は砂に汚れ、呼吸は激しく乱れている。


 何度も足をもつれさせながら、それでも必死に走っていた。


教会兵

「頼む……!!」


 男の顔には、明らかな恐怖が浮かんでいた。


教会兵

「誰か……助けてくれ!!」


 エリシュアは、教会兵から目を離さなかった。


 その顔を見つめ、やがて僅かに目を細める。


 何かを察したように。


 そして。


 荒野には、男の助けを求める声だけが響き続けていた。


――第16話「聞こえてる」終。

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