第15話 魔女の審判
黒印のヤヌス
第3章
第15話 魔女の審判
乾いた風が、リベラシオンの荒野を吹き抜けていた。
カインは、結界の向こうに立つ少女を見つめていた。
3年前。
あの夜、レオンの傍らにいた少女。
当時は、視界に留める必要すらないほど小さな存在だった。
だが、今は違う。
目の前の少女が展開した結界は、確かに自分の剣を受け止めた。
ただ魔力を注ぎ込むだけでは、これほど強固な結界は生み出せない。
才能。
技術。
そして、積み重ねてきた鍛錬。
それらが、この3年間で少女を大きく成長させていた。
カインは静かに剣を下ろした。
その背後で、ヤヌスが身じろぎする。
傷だらけの身体を起こし、地面へ片手をついた。
ヤヌス
「……待て」
声は掠れていた。
だが、カインは振り返らない。
カイン
「お前との戦いは終わった」
ヤヌス
「……何……?」
カイン
「今は、あちらの方に興味が湧いた」
それだけ告げると、ルミナへ向かって歩き始めた。
ヤヌス
「…………」
ヤヌスの指が、乾いた地面を掻いた。
3年間。
目の前の男を殺すためだけに、剣を振り続けてきた。
何度も倒れた。
何度も血を流した。
骨が折れても、意識を失っても、立ち上がった。
レオンを奪われた。
ヴァルドも失った。
帰る場所も、守りたかったものも。
すべて奪われた。
もう、自分には復讐しか残っていない。
あの男を殺すことだけが、生きる理由だった。
だから、強くなった。
強くなったはずだった。
それなのに。
目の前の男は、もう自分を見ていない。
3年間、憎み続けた相手。
何度も夢に見た仇。
その男が、今、自分へ背を向けて歩いている。
追いかけなければ。
立ち上がって、剣を握らなければ。
ヤヌスは地面へ腕を突き立てた。
ヤヌス
「ぐっ……!」
激痛が走る。
肘が折れ、身体が地面へ崩れ落ちた。
もう1度。
歯を食いしばり、腕へ力を込める。
だが、身体が持ち上がらない。
指先が震えていた。
すぐ近くに、アウロラが落ちている。
手を伸ばす。
届かない。
あと少し。
ほんの少しなのに。
指先は、虚しく砂を掻くだけだった。
ヤヌス
「……待て……」
カインの背中が遠ざかっていく。
ヤヌス
「……待てよ……!」
声を張り上げようとして、激しく咳き込んだ。
血が地面へ飛び散る。
それでも、目だけはカインを追い続けていた。
何なんだ。
あれだけ苦しんで。
あれだけ剣を振って。
ようやく、ここまで来たのに。
お前は。
俺を見ろ。
俺は、ここにいる。
お前を殺すために、生きてきたんだ。
だが、その思いが届くことはなかった。
カインの視線は、すでにルミナへ向けられていた。
◇◇◇
カインが近づいてくる。
ルミナは両手を胸の前へ持ち上げ、魔力を集中させた。
その両脇へ、ノクスとリリアが並ぶ。
2人とも、カインから目を離せずにいた。
白い仮面。
静かな足取り。
剣を片手に歩いているだけなのに、近づかれるほど呼吸が苦しくなる。
喉が渇く。
心臓の鼓動が、嫌になるほど大きく聞こえた。
リリア
「ノ、ノクス……準備はできてる?」
いつもの軽い調子を装った声。
しかし、語尾が震えていた。
リリアは両手を構えようとする。
だが、指先が言うことを聞かない。
魔力を集中させようとしても、意識が目の前の男へ引き戻されてしまう。
ノクスも同じだった。
額には冷や汗が浮かび、呼吸は浅くなっている。
ノクス
「……駄目だ……!」
リリア
「え……?」
ノクス
「あれは……私たちが戦えるような相手じゃない……!」
ノクスの声が震えた。
目の前の男が、また1歩近づく。
その瞬間、ノクスの足が無意識に後ろへ下がった。
リリアも同じように後ずさる。
逃げなければ。
頭の中で、何かがそう叫んでいた。
戦えば死ぬ。
そんな確信だけが、胸の奥へ広がっていく。
リリア
「……な、何なの……あいつ……」
リリアの唇が震える。
魔法を放たれたわけではない。
殺気を向けられたわけでもない。
ただ、そこにいる。
それだけで、身体が逃げろと訴えていた。
その時。
ファァァ……。
淡い光が、ノクスとリリアの身体を包んだ。
温かな魔力が全身へ染み渡っていく。
強張っていた筋肉が、少しずつ緩んだ。
乱れていた呼吸も、落ち着きを取り戻していく。
ルミナの強化魔法だった。
ルミナ
「大丈夫。私がいるから」
2人がルミナを見る。
ルミナも、恐怖を感じていないわけではなかった。
目の前にいるのは、あの夜、レオンを殺した男。
忘れられるはずがない。
だが、ルミナは逃げなかった。
あの男の背後には、ヤヌスがいる。
ようやく見つけた、大切な存在。
3年間、会いたいと願い続けてきた少年が。
もう二度と、目の前で失いたくなかった。
リリアが小さく息を吐く。
震えていた指先を握りしめ、無理やり口元を持ち上げた。
リリア
「……ノクス、もしかして怖いの?」
ノクス
「お、お前だって怖がっていただろう!」
リリア
「私はちょっと驚いただけ!」
ノクス
「……ふっ。そうだな。少し冷静さを欠いていた」
ノクスが深く息を吸った。
リリアも両手を構え直す。
恐怖が消えたわけではない。
それでも、震える身体を動かせるようにはなった。
2人は、もう後ろへ下がらなかった。
ルミナ
「姉さんたち! 行くよ!!」
リリア
「うん!!」
ノクス
「ああ!!」
3人が同時に動いた。
リリアの足元に、赤い魔法陣が展開される。
リリア
「燃えろッ!!」
轟ッ――!!
巨大な炎が生まれ、渦を巻きながらカインへ迫った。
ほぼ同時に、ノクスが片手を振るう。
空気が凍りついた。
無数の氷槍が形成され、炎とは反対側から射出される。
左右から迫る炎と氷。
互いの軌道を妨げることなく、逃げ道を塞ぐように殺到した。
さらに、2人の背後でルミナが魔力を巡らせる。
淡い光の筋がノクスとリリアの魔法陣へ繋がり、次の魔法を放つための魔力を補っていく。
攻撃の間隙を埋める補助。
3年間、共に修行を重ねてきた3人だからこそできる連携だった。
カイン
「……魔女か」
カインは歩みを止めなかった。
炎が迫る。
氷槍が降り注ぐ。
そのすべてが、仮面の男へ直撃した。
ドガァァァンッ!!
爆発が荒野を揺らした。
炎が弾け、氷が砕ける。
激しい爆風が吹き荒れ、砂煙が高く巻き上がった。
リリア
「やった!?」
リリアが思わず足を止める。
ノクス
「まだだ、リリア!! 止まるな!!」
ノクスが叫んだ。
その直後。
爆煙の奥に、人影が浮かび上がった。
ゆっくりと。
煙を押し分けるように。
白い仮面が現れる。
カインだった。
衣服には焦げ跡ひとつない。
足取りも変わらない。
先ほどとまったく同じ姿で、こちらへ歩いてきていた。
カイン
「……良い連携だ」
リリア
「そんな……!」
ノクス
「無傷……だと……?」
2人の顔から血の気が引いた。
確かに直撃した。
魔法が外れたわけではない。
それなのに、傷ひとつ負わせられていない。
次の瞬間。
カインの姿が消えた。
リリア
「……え?」
風が吹いた。
いや。
何かが、2人の間を通り抜けた。
リリアの髪が激しく揺れ、ノクスの衣服がはためく。
振り返るより早く、カインはルミナの目の前に立っていた。
白い仮面。
抜き身の剣。
その刃が、振り上げられる。
ヤヌス
「ルミナァ!!」
離れた場所から、ヤヌスの叫びが響いた。
傷ついた身体を無理やり起こし、必死に手を伸ばす。
だが、届かない。
3年前。
レオンが殺された、あの夜。
何もできなかった。
ただ、目の前で大切な人が奪われるのを見ていることしかできなかった。
そして今。
また同じ男が、大切な存在へ剣を向けている。
なのに。
身体が動かない。
ヤヌス
「やめろぉぉッ!!」
剣が振り下ろされた。
ガキィィィンッ――!!
凄まじい衝撃音。
ルミナの目の前に、透明な結界が展開されていた。
カインの剣が、その表面で止まっている。
光の波紋が幾重にも広がった。
ルミナ
「くっ……!」
ルミナの足元が僅かに沈む。
それでも、結界は砕けない。
カインは刃を押し当てたまま、静かにルミナを見つめていた。
◇◇◇
カインは剣を引かなかった。
結界越しに、ルミナを見つめている。
カイン
「……2度も俺の剣を止めるとは」
その声には、僅かな感心が混じっていた。
カイン
「良い結界だ」
カインが剣を握る手に力を込める。
ギギギギッ――。
結界の表面が軋んだ。
ルミナ
「うっ……!」
ルミナの表情が歪む。
両腕へ魔力を集中させ、必死に結界を維持する。
だが、カインの剣は少しずつ押し込まれていた。
ノクス
「ルミナ!!」
リリア
「ルミナ!!」
2人が駆け出す。
しかし、その声より早く。
ピシッ。
透明な結界に、小さな亀裂が走った。
ルミナ
「……っ!」
カインがさらに力を込める。
ピシピシピシッ!!
亀裂が枝分かれし、結界全体へ広がっていく。
ルミナの額から汗が流れ落ちた。
魔力を注ぎ込んでも、修復が追いつかない。
結界の向こうでは、カインが何事もなかったかのように剣を押し込んでいる。
あと少し。
ほんの僅かでも押し込まれれば、刃が自分へ届く。
ルミナは奥歯を噛みしめた。
駄目だ。
ここで倒れるわけにはいかない。
ヤヌスがいる。
ようやく会えたのに。
まだ、何ひとつ話せていない。
だが、結界は限界を迎えようとしていた。
ピシッ――。
また1つ、亀裂が増える。
その音が、妙にはっきりと聞こえた。
ルミナの呼吸が止まる。
ノクスとリリアの足音が、遠くなる。
視界には、結界へ食い込む剣だけが映っていた。
砕ける。
そう思った、その時だった。
――パチン。
乾いた音が響いた。
それは、決して大きな音ではなかった。
だが、不思議なことに。
結界の軋む音も。
ノクスとリリアの叫びも。
風が砂を巻き上げる音さえも。
その一瞬だけ、遠ざかったように感じられた。
まるで、戦場のすべてが、その音に耳を傾けたかのように。
カインの仮面が、僅かに動いた。
次の瞬間。
ゴオオオオッ――!!
大地が爆ぜた。
カインとルミナの間から、巨大な炎の壁が噴き上がる。
天へ届かんばかりの炎が、一瞬にして2人を隔てた。
凄まじい熱気が荒野を駆け抜ける。
砂が赤く照らされ、地面の表面が焼け焦げていった。
カイン
「……これは」
カインが即座に後方へ跳んだ。
その直後。
炎の壁が大きく揺らめいた。
内部から無数の火球が飛び出し、カインへ向かって殺到する。
カインは身体を傾け、最初の火球をかわした。
続けて横へ踏み込む。
足元を掠めた炎が背後の大地へ着弾し、凄まじい爆発を引き起こした。
さらに火球が迫る。
右へ。
左へ。
背後へ回り込むように軌道を変え、逃げ道を塞いでいく。
カインはそのすべてを見切り、かわしていった。
だが。
先ほどとは違っていた。
リリアとノクスの魔法を、カインは避けようともしなかった。
直撃しても、歩みを止めることすらなかった。
しかし、今は違う。
カインが自ら足を動かしている。
火球をかわし、距離を取っている。
それだけで、魔法の危険性が伝わってきた。
リリア
「……嘘……」
リリアは呆然と炎を見つめた。
炎の形。
魔力の流れ。
その構成自体は、自分の知る魔法と大きく変わらない。
それなのに、まるで別物だった。
威力も。
速度も。
魔力の密度も。
そして、発動するまでの速ささえ。
すべてが桁違いだった。
その時。
炎の向こうから、女の声が響いた。
女の声
「……私の娘に、何をするつもりだ?」
揺らめく炎の壁。
その中心から、1人の女が歩み出てきた。
炎が彼女を避けるように左右へ分かれる。
周囲の熱気さえ、その身体には触れない。
女はゆっくりと足を止めた。
カインを見据える眼差しに、怯えはなかった。
ただ、静かな怒りが宿っていた。
ルミナ
「お師匠様!?」
リリア
「エリシュア様!!」
ノクス
「エリシュア様……!」
エリシュア。
魔女たちを束ねる、魔女の街の長だった。
◇◇◇
カインは少し離れた場所で足を止めていた。
白い仮面の奥から、エリシュアを見つめている。
カイン
「……原初の魔女か」
エリシュア
「久しいな、仮面」
カイン
「……相変わらずだな」
エリシュア
「お前もな」
それだけだった。
互いに驚く様子もない。
懐かしむ様子もない。
まるで、いつか再び相まみえることを知っていたかのように、自然に言葉を交わしていた。
だが、その場にいる者たちは、誰ひとりとして口を開けなかった。
ノクスの額から、冷たい汗が流れ落ちる。
リリアは無意識に息を潜めていた。
ルミナでさえ、2人の間へ踏み込むことを躊躇っていた。
先ほどまで、自分たちを圧倒していた仮面の男。
その男と、エリシュアが対等に向き合っている。
どちらも動かない。
剣を振るわない。
魔法も放たない。
それなのに、先ほどの激しい戦闘よりも、遥かに恐ろしい。
カインが僅かに肩を動かす。
それだけで、エリシュアの周囲に漂う魔力が微かに揺らいだ。
エリシュアが指先を動かす。
カインの視線が、その動きを捉える。
互いの一挙手一投足を見逃さない。
何も起きていないように見えて、その実、2人の間ではすでに駆け引きが始まっていた。
どちらが先に動くのか。
どこまで踏み込めば、相手が動くのか。
そして。
もし、この2人が本気で戦い始めたら。
今、自分たちが立っている大地は、どうなってしまうのか。
ルミナは思わず、周囲へ視線を向けた。
切り裂かれた山々。
大地を走る巨大な亀裂。
遥か昔、規格外の戦いによって刻まれた傷跡。
その光景が、今の2人と重なった。
目の前にいるのは、世界でも指折りの強者たち。
自分たちとは、立っている場所そのものが違う。
そんな錯覚さえ覚えるほどの、圧倒的な存在感だった。
ルミナ
「お師匠様!! どうしてここに……!」
ルミナが近づこうとする。
エリシュア
「下がっていろ」
短い言葉だった。
だが、逆らう余地はなかった。
ルミナの足が止まる。
エリシュアは、カインから視線を外していなかった。
――パチン。
再び、指が鳴らされる。
その瞬間。
エリシュアの周囲へ、巨大な魔法陣が次々と展開された。
右側には、燃え盛る巨大な火球。
左側には、無数の氷の矢。
片側では熱気が大地を焦がし、反対側では白い霜が地面を覆っていく。
炎と氷。
リリアとノクスが先ほど使った魔法と同じ系統。
しかし、その規模は比較にならなかった。
魔法陣の数。
魔力の密度。
そして、1つ1つの魔法に込められた破壊力。
それらすべてが、エリシュアの指先ひとつで制御されていた。
ノクスは息を呑む。
リリアも言葉を失っていた。
エリシュアは薄く笑った。
だが、その目は笑っていない。
カイン
「……そんな身体で、俺と戦うつもりか?」
その言葉に、ルミナが僅かに眉を動かした。
そんな身体。
どういう意味なのか。
だが、エリシュアは気にした様子もなかった。
エリシュア
「何だってするさ。娘のためならな」
カイン
「…………」
カインは動かなかった。
エリシュアも、魔法を放たない。
ただ、互いを見つめていた。
張り詰めた空気が、荒野を覆う。
エリシュアの周囲では、巨大な火球が低く唸りを上げていた。
氷の矢は、すべてカインへ向けられている。
その数は、数えることすら難しい。
一方、カインは剣を握ったまま、微動だにしない。
だが、決して隙を見せているわけではなかった。
ほんの僅かでもエリシュアが魔法を放てば、即座に動ける。
そう確信させるほど、自然な構えだった。
2人とも、相手の実力を知っている。
ここで戦えば、簡単には終わらない。
たとえ勝敗がついたとしても、無傷では済まない。
それでも、エリシュアには退く理由がなかった。
背後にはルミナがいる。
自分が育てた、大切な娘が。
その娘へ剣を向けた男を前に、引き下がるつもりはなかった。
沈黙が続く。
風が止んだ。
いや、止んだように感じられた。
誰も声を出さない。
ノクスもリリアも、呼吸さえ忘れたように2人を見つめている。
ルミナは、エリシュアの背中から目を離せなかった。
指先が、僅かに動く。
それだけで、魔法陣が明滅した。
カインの剣先が、ほんの少し傾く。
次の瞬間、何かが起こる。
誰もが、そう感じていた。
しかし。
先に動いたのは、カインの口元だった。
仮面の奥から、小さく息が漏れる。
カイン
「……ふっ。今日はここまでだ」
その言葉と共に、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。
だが、エリシュアの笑みは変わらない。
エリシュア
「そうか。引いてくれるなら、こちらもありがたい」
カインが剣を下ろす。
しかし、エリシュアは魔法を解除しなかった。
巨大な火球も。
無数の氷の矢も。
すべてが、カインへ向けられたままだった。
◇◇◇
リヴェルナ。
魔族の襲撃によって大きな被害を受けた街では、今も復旧作業が続けられていた。
崩れた建物の前には瓦礫が積み上げられ、あちこちから槌を振るう音が響いている。
教会兵たちも、その作業に加わっていた。
負傷者の搬送。
瓦礫の撤去。
倒壊しかけた建物の確認。
街の人々と協力しながら、少しずつ復旧を進めていた。
その一角。
アークは、崩れた石壁を運び出していた。
近くでは、ガレスが教会兵たちへ指示を出している。
その時だった。
――ドクン。
アークの胸が、大きく脈打った。
アーク
「……っ!?」
思わず、手を止める。
遠くから、何かが伝わってきた。
魔力。
それも、尋常ではないほど巨大な魔力だった。
肌が粟立つ。
空気そのものが、僅かに震えているように感じられた。
アーク
「……今のは……?」
アークが顔を上げる。
街の外。
遥か遠くの荒野。
その方角から、強大な魔力の波動が伝わってきていた。
ガレスも、すでに作業の手を止めていた。
鋭い眼差しで、遠くの空を見つめている。
ガレス
「……妙だな」
アーク
「ガレス様も感じましたか?」
ガレス
「ああ」
短く答える。
その表情は険しかった。
ガレスは、これまで数多くの魔族と戦ってきた。
強大な魔力を持つ魔人とも、何度も刃を交えている。
だが、今感じたものは、それらとは明らかに異なっていた。
ただ大きいだけではない。
底が見えない。
そんな不気味さがあった。
アーク
「……魔族でしょうか?」
ガレス
「分からん。だが、ただ事ではない」
ガレスは、近くの教会兵へ視線を向けた。
ガレス
「復旧作業は他の部隊へ引き継げ。動ける者を集めろ」
教会兵
「はっ!」
教会兵が駆け出す。
アークは再び、荒野の方角を見つめた。
遠くの空は、何事もなかったかのように晴れている。
だが、その向こうで何かが起きている。
それだけは、確かだった。
ガレス
「警戒を怠るな。確認に向かう」
アーク
「はい!」
間もなく、教会兵たちが集まってきた。
ガレスを先頭に、アークたちはリベラシオンへ向けて街を出た。
◇◇◇
荒野に、静寂が戻りつつあった。
カインはエリシュアへ背を向ける。
剣を鞘へ戻し、そのまま歩き始めた。
エリシュアは動かない。
魔法陣も、まだ消えていなかった。
その時。
ヤヌス
「……待て!!」
掠れた怒声が響いた。
カインは足を止めない。
少し離れた場所では、ヤヌスが何とか立ち上がっていた。
その身体を、ミレイユが支えている。
カインとエリシュアが対峙している間に、岩陰から駆け寄ってきたのだ。
ミレイユの肩へ体重を預けながら、ヤヌスは必死に立っていた。
額から血が流れ、呼吸は乱れている。
膝は何度も折れかけ、そのたびにミレイユが支え直していた。
ミレイユ
「ヤヌスさん……もう……!」
ミレイユの声は震えていた。
これ以上戦えば、どうなるか分からない。
それでも、ヤヌスはカインから目を離さなかった。
ヤヌス
「はぁ……はぁ……」
唇を噛みしめる。
ヤヌス
「まだ……終わってねぇ!!」
その声を聞き、ルミナが振り返った。
ルミナ
「ヤヌス!」
駆け寄ろうとする。
しかし。
エリシュア
「……待て」
エリシュアが片手を上げ、ルミナを制止した。
ルミナ
「お師匠様……?」
エリシュアは答えなかった。
視線は、カインへ向けられている。
カインは歩きながら口を開いた。
カイン
「いや、終わりだ」
振り返らない。
カイン
「今のお前に興味はない」
その言葉が、ヤヌスの胸を抉った。
興味がない。
3年間、殺すためだけに追い続けた相手。
その男にとって、自分はもう振り返る価値すらない。
ヤヌス
「待てって言ってんだろうがっ!!」
怒声が荒野へ響いた。
その瞬間。
カインの足が止まった。
ゆっくりと。
白い仮面が、こちらへ向けられる。
――ゾワッ。
空気が変わった。
息が詰まる。
全身の毛が逆立つ。
見えない何かが、荒野全体へ押し寄せてきた。
リリアの喉から、短い悲鳴が漏れた。
リリア
「うわぁっ!?」
思わず後ずさる。
ノクスは片腕を上げ、何かを防ぐように身構えた。
ノクス
「くっ……!」
だが、防ぐものなど見えない。
ただ、身体が震えていた。
ルミナも息を呑む。
ルミナ
「ヤヌス!!」
エリシュアの表情が僅かに険しくなった。
エリシュア
「……まったく。化け物め」
ミレイユの身体が硬直した。
息ができない。
喉が締めつけられ、胸の奥が苦しくなる。
膝が震える。
ヤヌスを支えていた腕から、力が抜けていった。
ミレイユ
「……っ……!」
その場へ崩れ落ちる。
逃げなければ。
頭ではそう思っている。
だが、身体が動かない。
下腹部から、じわりと生温かな感触が広がった。
自分の意思とは関係なく、身体が恐怖に屈していた。
ミレイユは何が起きたのか理解した瞬間、顔を強張らせた。
しかし、恥じる余裕さえなかった。
ただ、目の前の男が恐ろしかった。
ヤヌスも膝を震わせていた。
傷ついた身体が、悲鳴を上げる。
立っているだけで精一杯だった。
それでも、歯を食いしばってカインを睨みつける。
ヤヌス
「ぐっ……!」
カインは静かに告げた。
カイン
「……分かるだろう」
その声は、驚くほど穏やかだった。
カイン
「これが俺とお前の差だ」
ヤヌスの指が震える。
否定したい。
違うと言いたい。
だが、言葉が出てこなかった。
自分は全力で戦った。
すべてをぶつけた。
それでも、何ひとつ届かなかった。
カイン
「今のお前では、七魔将に届くかすら怪しい」
ヤヌス
「…………!」
七魔将。
その言葉に、ヤヌスの脳裏へミレイユの声が蘇った。
以前、道中で聞かされた話。
魔王軍の頂点に立つ、7人の魔将。
それぞれが、常識では測れないほどの力を持つ存在だという。
目の前の男は、その七魔将を引き合いに出して、自分の弱さを告げている。
ヤヌスは奥歯を噛みしめた。
七魔将がどれほど強いかなど、今はどうでもよかった。
ただ、目の前の男に勝てない。
その事実だけが、どうしようもなく重かった。
カインは、それ以上何も言わなかった。
ヒュンッ――。
姿が消える。
同時に、荒野を覆っていた殺気も消え去った。
静寂。
誰も動けなかった。
ただ、乾いた風だけが、何事もなかったかのように吹き抜けていった。
エリシュアはしばらくカインが消えた方角を見つめていた。
やがて、指を軽く下ろす。
周囲に展開されていた魔法陣が、音もなく消えていった。
◇◇◇
カインの姿が消えた。
それを確かめた瞬間、ルミナが駆け出した。
ルミナ
「ヤヌス!!」
荒れた大地を駆け抜け、ミレイユの隣へ膝をつく。
その途中、地面に座り込んだミレイユの姿が視界に入った。
顔色は青白く、身体を小さく震わせている。
へたり込んだ下半身には小さな水たまり。
だが、今のルミナには、目の前のヤヌスから意識を離すことができなかった。
傷だらけの身体。
顔には血がこびりつき、衣服はあちこち破れている。
右手には、痛々しい噛み傷。
剣を握っていた皮膚には、焼けただれたような痕まで残っていた。
ルミナ
「大丈夫!? ひどい怪我……!」
ルミナが手を伸ばす。
ヤヌスは、その顔を呆然と見つめていた。
ヤヌス
「……ルミナ」
名前を呼ぶ。
まだ、信じられなかった。
3年前。
あの日、離れ離れになった少女。
レオンを失い、奈落へ落ちてから、もう二度と会えないと思っていた。
生きているのかさえ分からなかった。
その少女が、今、自分の目の前にいる。
あの頃より背が伸びていた。
髪も長くなり、顔立ちには大人びた面影がある。
けれど、瞳は変わっていなかった。
昔から何度も見てきた、あの瞳だった。
ヤヌス
「本当に……ルミナなのか?」
ルミナの瞳が揺れた。
その問いかけに、胸の奥が締めつけられる。
ずっと会いたかった。
何度も名前を呼んだ。
何度も探した。
ようやく見つけたヤヌスが、こんなにも傷ついている。
ルミナは涙を浮かべながら、小さく頷いた。
ルミナ
「……うん」
唇が震える。
それでも、笑おうとした。
ルミナ
「ルミナだよ、ヤヌス」
その言葉を聞いた瞬間、ヤヌスの表情が僅かに緩んだ。
何かを言おうとして、口を開く。
だが、声が出なかった。
聞きたいことは山ほどある。
どうしてここにいるのか。
これまで、どこで何をしていたのか。
無事だったのか。
けれど、どれも言葉にならない。
ルミナは、そんなヤヌスの様子を見つめていた。
そして、そっと両手を伸ばす。
ルミナ
「待ってて。今、治すから……!」
淡い光が、ルミナの掌から溢れ出した。
温かな魔力がヤヌスの身体を包み込む。
頬の傷が少しずつ塞がっていく。
裂けた皮膚が繋がり、血の流れが止まっていった。
ヤヌスは、自分の身体を包む光を見つめていた。
不思議な温かさだった。
痛みが和らいでいく。
カインとの戦いで張り詰めていた身体が、ようやく少しずつ力を取り戻していく。
ルミナ
「……私ね」
ルミナが、小さく口を開いた。
回復魔法を続けながら、ヤヌスを見つめる。
ルミナ
「ヤヌスの隣に立ちたくて……ずっと頑張ってきたんだ」
涙が頬を伝った。
それでも、ルミナは微笑んでいた。
ルミナ
「こんなことも……できるようになったんだよ」
掌の光が、少しだけ強くなる。
ヤヌスは、その光を見つめた。
3年前。
何もできなかった。
レオンを守れなかった。
ルミナとも離れ離れになった。
あの日から、自分は強くなることだけを考えてきた。
誰かを殺すために。
誰にも奪わせないために。
けれど、目の前の少女は、いつの間にか自分の知らない力を身につけていた。
傷を癒やしていく温かな光。
昔のルミナには、できなかったこと。
あの頃、隣で笑っていた少女が、自分の知らない場所で、自分の知らない時間を過ごしてきた。
その3年間が、今、目の前にある。
ヤヌス
「……ルミナ」
それ以上、言葉が続かなかった。
ルミナは、何も急かさなかった。
ただ、傷を癒やし続けた。
風が吹く。
遠くで、小さな砂粒が地面を転がる音がした。
つい先ほどまで、剣と拳がぶつかり合っていた荒野。
その場所に、ほんの僅かな静けさが戻っていた。
ミレイユは、2人の様子を黙って見守っていた。
ヤヌスがこんな表情をするのを、初めて見た気がした。
いつも険しく、どこか遠くを見ていた少年。
その顔から、ほんの少しだけ刺々しさが消えている。
ミレイユは、そっと息を吐いた。
しかし。
その時間は、長く続かなかった。
エリシュア
「……ヤヌス」
静かな声が響いた。
ヤヌスが顔を上げる。
少し離れた場所に、エリシュアが立っていた。
ルミナの回復魔法を見つめながら、こちらへ歩いてくる。
エリシュア
「初めまして、だな?」
ヤヌスは、女の顔を見た。
先ほど、カインを退かせた魔女。
その魔法の規模も、カインと交わした会話も、普通の人間ではないことを示していた。
ヤヌス
「……あいつは?」
ルミナが顔を上げる。
ルミナ
「私のお師匠様だよ。エリシュア様って言うの」
そう答えながら、回復魔法を続ける。
ミレイユの目が大きく見開かれた。
エリシュア。
その名前には聞き覚えがあった。
魔女の長。
遥か昔から生きていると伝えられる、伝説の魔女。
まさか、そんな人物が目の前にいるとは思わなかった。
しかも、あの仮面の男と対等に言葉を交わしていた。
ミレイユは、エリシュアとヤヌスを交互に見つめた。
状況を理解しきれないまま、ただ黙っていた。
◇◇◇
エリシュアは、ヤヌスの前で足を止めた。
ルミナは回復魔法を続けている。
淡い光が、ヤヌスの傷を少しずつ塞いでいた。
エリシュアは、その様子を一瞥する。
そして、ヤヌスへ視線を戻した。
エリシュア
「ヤヌス。2、3質問に答えろ」
ヤヌスが眉を寄せる。
ヤヌス
「……何を――」
エリシュア
「まず1つ。お前は何のために森から出てきた?」
ヤヌスの言葉を遮るように、エリシュアが問いかけた。
ヤヌスは、迷わなかった。
ヤヌス
「……復讐だ」
短い答えだった。
そこに躊躇いはない。
エリシュアは、静かに頷いた。
エリシュア
「……そうか」
表情は変わらない。
エリシュア
「では、リヴェルナの襲撃をどう見る?」
ヤヌス
「……なんとも」
ルミナの手が僅かに揺れた。
ルミナ
「……ヤヌス?」
エリシュアは、目を細める。
エリシュア
「なんとも、だと?」
少し間を置く。
エリシュア
「人が死んでいるんだぞ。それも、多くの人がだ」
ヤヌスは顔を上げた。
その瞳に、迷いはなかった。
ヤヌス
「……仕方ない」
ミレイユの呼吸が止まった。
ヤヌス
「弱かったから、奪われただけだ」
静かな声だった。
怒りも、悲しみもない。
ただ、当然のことを口にするような声音。
ルミナの掌から溢れていた光が、僅かに揺らいだ。
ルミナ
「……ヤヌス……?」
ミレイユは、ヤヌスを見つめていた。
リヴェルナの襲撃。
燃え上がる街。
崩れた建物。
そして、ニコ。
もう二度と帰ってこない、大切な息子。
あの日の光景が、鮮明に蘇った。
弱かったから。
奪われただけ。
その言葉は、あまりにも残酷だった。
ミレイユ
「……ヤヌスさん」
掠れた声が漏れる。
ヤヌスは振り返らなかった。
ミレイユの声が聞こえていないわけではない。
ただ、その言葉を取り消すつもりがなかった。
エリシュアは、しばらくヤヌスを見つめていた。
エリシュア
「……そうか」
静かな声だった。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
やがて、エリシュアが再び口を開いた。
エリシュア
「……最後の質問だ」
ほんの僅かに間を置く。
エリシュア
「ヴァルドの最期は、どうだった?」
ヤヌスの表情が止まった。
ヴァルド。
奈落で共に過ごした数年間。
剣を教えてくれた男。
身体が少しずつ異形へ変わっていく中でも、最後まで自分を見ていてくれた。
何度も馬鹿弟子と呼ばれた。
最期には、馬鹿孫だと笑われた。
口は悪く、容赦もなかった。
それでも、あの男の傍には、不思議な温かさがあった。
レオンを失った自分に、もう1度、帰る場所を与えてくれた男だった。
そして。
最後に、自分へ剣を向けさせた男。
あの日の光景が、脳裏をよぎった。
それでも、ヤヌスは目を逸らさなかった。
ヤヌス
「……俺が殺した」
ルミナの手が止まった。
ヤヌス
「それが最期だ」
ルミナ
「ヤヌスっ!?」
リリア
「えっ……!?」
ノクス
「なんと……!」
ミレイユは何も言わなかった。
ただ、ヤヌスを見つめていた。
エリシュアも、黙っている。
風が吹いた。
砂が、足元を流れていく。
やがて。
エリシュア
「……そうか」
それだけだった。
怒りはない。
驚きもない。
ただ、何かを確かめ終えたような声だった。
エリシュアは、ヤヌスを見下ろす。
その瞳から、僅かに残っていた温かさが消えていた。
そして。
エリシュア
「ならば死ね」
――パチン。
指が鳴った。
その瞬間。
ルミナとミレイユの周囲に、透明な結界が生まれた。
ルミナ
「……え?」
気づいた時には、2人はそれぞれ別の結界に包み込まれていた。
ルミナの掌から溢れていた回復の光が、ヤヌスへ届かなくなる。
ヤヌスだけが、結界の外に取り残された。
同時に。
エリシュアの傍らで、炎が膨れ上がった。
魔法陣が展開される。
その中心で、凝縮された火球が一瞬にして形成された。
結界の展開。
火球の生成。
そして、射出。
そのすべてが、ほとんど同時だった。
ルミナが異変を理解した時には、すでに火球がヤヌスへ向かっていた。
ルミナ
「待っ――」
轟ッ!!
炎が一直線に荒野を駆け抜ける。
傷ついたヤヌスには、剣を構える時間すらなかった。
ドガァァァァンッ――!!
凄まじい爆発が、荒野を揺るがした。
炎が大地を呑み込み、爆風が周囲へ広がる。
砂と岩の破片が吹き上がり、巨大な煙の柱が立ち昇った。
ルミナ
「ヤヌスーーー!!」
ルミナが結界へ両手を叩きつけた。
ドンッ!!
透明な壁が、鈍い音を立てる。
だが、びくともしない。
ルミナ
「お師匠様!! 何してるの!? 開けて!!」
返事はない。
ルミナは何度も結界を叩いた。
掌が赤くなる。
それでも、叩くのをやめなかった。
ミレイユ
「ヤヌスさん!!」
ミレイユも結界の中から叫んでいた。
先ほどまで、確かにそこにいた少年。
傷だらけの身体で、ようやく立っていた少年。
その姿が、炎と爆煙の向こうへ消えていた。
エリシュアは動かなかった。
ルミナの叫びにも。
ミレイユの悲鳴にも。
振り返ることはなかった。
ただ、煙の向こうを見つめていた。
やがて、炎が少しずつ弱まっていく。
だが。
ヤヌスの姿は、見えなかった。
――第15話「魔女の審判」終。




