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第14話 届かない

黒印のヤヌス


第3章


第14話 届かない


ヤヌス

「……ずっと、お前だけを殺すために生きてきた」


 乾いた風が、荒野を吹き抜ける。


 ヤヌスは黒い布に包まれたアウロラを構え、目の前の男を睨みつけていた。


 右手には、先ほど自ら噛みついた傷が残っている。布の隙間から覗く黒い筋も、まだ完全には消えていない。


 それでも、呼吸は落ち着いていた。


 足を開き、重心を落とす。剣を握る手から余計な力を抜き、切っ先を相手へ向ける。


 奈落で過ごした3年間。


 数え切れないほど繰り返してきた構えだった。


 その正面で、カインは黙って立っていた。


 白い仮面の奥から、ヤヌスを見つめている。


 やがて、ゆっくりと腰の剣へ手を伸ばした。


 シャリン――。


 鞘から刃が抜かれる。


 ヤヌスの瞳が僅かに動いた。


 3年前。


 目の前の男に、何もできなかった。


 剣を振るうことも、攻撃を防ぐこともできず、ただ一方的に叩きのめされた。


 あの日、自分には見えなかった男の動き。


 その男が今、目の前で剣を抜いている。


 カインが静かに構えた。


 力みはない。


 肩も、腕も、足も。


 どこにも無駄な力が入っていない。


 一見すれば、隙だらけにも思えた。


 だが、ヤヌスには分かる。


 正面から踏み込んでも、横へ回り込んでも、どこから斬りかかろうと、あの刃が自分を捉える。


 そんな感覚があった。


 ヤヌスは奥歯を噛みしめた。


 それでも、迷いはなかった。


 地面を蹴った。


 ドンッ――!!


 踏み込んだ足元が砕け、乾いた大地が陥没する。


 直後、ヤヌスの姿が掻き消えた。


 舞い上がった砂埃だけが、その場に取り残される。


 次の瞬間には、カインの眼前。


 間合いを一瞬で詰めたヤヌスが、振り上げたアウロラを叩きつけた。


 ガギィィンッ――!!


 アウロラとカインの剣が激突した。


 金属音が荒野へ響き、足元の砂が弾ける。


 ヤヌスは剣を押し込んだ。


 しかし、カインの刃は動かない。


 力では押し切れない。


 そう判断した瞬間、ヤヌスは腕の力を抜いた。


 刃を滑らせ、斬撃の角度を変える。


 横薙ぎ。


 カインが剣を傾け、受け流す。


 その動きに合わせ、ヤヌスはさらに踏み込んだ。


 今度は下段。


 足元を狙った一撃を、カインは剣を引いてかわす。


 ヤヌスは止まらない。


 足を運び、重心を移す。


 相手の剣だけを追わない。


 肩を見る。


 腰を見る。


 足を見る。


 呼吸を読む。


 かつて、ヴァルドに何度も叩き込まれた教え。


 力任せに剣を振るうな。


 相手を見ろ。


 動きの先を読め。


 ヤヌスの剣が、再びカインへ迫った。


 ガキンッ!!


 カインが受け止める。


 そのまま刃を押し返してきた。


 ヤヌスは逆らわず、押し返された力を利用して身体を回す。


 踏み替えた足が地面を削り、回転に乗せた斬撃が横から迫った。


 カインは剣を立て、受け流した。


 ガギィンッ!!


 火花が散る。


 カインの視線が、僅かに動いた。


カイン

「……ヴァルドの剣か」


 ヤヌスの眉が動く。


 だが、剣は止めなかった。


 踏み込み、斬り上げる。


 カインはそれを受けながら、静かに続けた。


カイン

「良い師についたな」


ヤヌス

「……黙れ」


 吐き捨てるように答え、ヤヌスはさらに剣を振るった。


 ガギンッ!!


 刃がぶつかる。


 カインは受け止め、ヤヌスは斬り返す。


 そのたびに金属音が重なっていく。


 かつては、目で追うことさえできなかった。


 だが、今は違う。


 相手の剣が見える。


 動きが見える。


 少なくとも、剣を交えることはできている。


 それだけでも、3年前の自分とは違っていた。


◇◇◇


 少し離れた岩陰。


 ミレイユは身を潜めたまま、2人の戦いを見つめていた。


ミレイユ

「……ヤヌスさん」


 目の前で繰り広げられている光景が、信じられなかった。


 ヤヌスの強さは知っている。


 道中で襲ってきた魔獣を、何度も一撃で倒してきた。


 剣を抜く必要すらない相手ばかりだった。


 そのヤヌスが今、全身を使って剣を振るっている。


 そして、仮面の男はそのすべてを受け止めていた。


 ミレイユは、思わず胸元で両手を握りしめた。


 仮面の男。


 リヴェルナにいた頃から、ヤヌスが探し続けていた相手。


 その男が、今、目の前にいる。


 先ほどまで一緒に食事をしていた少年が、姿を見た途端に豹変した理由も分かった。


 ようやく見つけたのだ。


 ヤヌスが、ずっと追い求めていた相手を。


 だが、ミレイユの胸に浮かんだのは安堵ではなかった。


 ヤヌスの剣が、何度も振るわれる。


 その一撃一撃を、仮面の男は平然と受け止めていた。


 道中、どんな魔獣も容易く倒してきたヤヌスが、これほど必死に戦っている。


 それなのに、あの男には少しも余裕を失った様子がない。


ミレイユ

「……ヤヌスさん」


 ミレイユは唇を噛んだ。


 探していた相手に、ようやく出会えた。


 けれど、それが本当に良かったことなのか。


 目の前の戦いを見ていると、どうしてもそうは思えなかった。


◇◇◇


 ガギィンッ!!


 ヤヌスの斬撃を、カインが受け止める。


 その瞬間、ヤヌスは踏み込む足を変えた。


 真正面から押し合うのではなく、相手の剣を外へ流す。


 空いた胴へ、アウロラを振るった。


 カインが身体を引く。


 刃は届かない。


 だが、ヤヌスは追撃した。


 1撃。


 2撃。


 3撃。


 上段から振り下ろし、受け止められれば横へ払う。


 横薙ぎをかわされれば、そのまま踏み込んで突きを放つ。


 突きが外れれば、引き戻した刃で斬り上げる。


 攻撃を止めない。


 呼吸を乱さない。


 相手の動きから目を離さない。


 ガギンッ!!


 ガギィィンッ!!


 金属音が、途切れることなく荒野へ響いていた。


 カインは剣で受け続けている。


 ヤヌスが踏み込めば、必要な分だけ足を動かす。


 刃が迫れば、最小限の動きで受け流す。


 それでも、攻撃しているのはヤヌスだった。


 カインに剣を振らせる暇を与えない。


 そのことが、ヤヌスの中に小さな確信を生み始めていた。


 ――見える。


 カインの剣が、右へ傾く。


 その動きに合わせ、ヤヌスは足を踏み替えた。


 次にどこへ刃が来るのか。


 どちらへ身体を動かすのか。


 以前は何も分からなかった。


 今は、少しずつ見えている。


 カインが横へ動いた。


 ヤヌスは、その動きを追う。


 いや。


 追うのではない。


 移動する先へ、先回りする。


 ヴァルドとの修行で何度も繰り返した動きだった。


 相手が動いてからでは遅い。


 動く前に、次の一手を読む。


 カインの足が地面を踏む。


 ヤヌスは、その一瞬を逃さなかった。


ヤヌス

「死ねぇぇッ!!」


 渾身の力を込め、アウロラを振り下ろす。


 カインの肩から胴へ。


 まともに入れば、身体ごと断ち切る一撃。


 だが。


 カインは、僅かに身体を横へずらした。


 それだけだった。


 アウロラが空を切る。


 直後。


 ドガァァァンッ!!


 大剣が地面へ叩きつけられた。


 乾いた大地が砕け、衝撃が周囲へ走る。


 足元から数メートル先まで亀裂が伸び、砂と岩の破片が激しく舞い上がった。


 ヤヌスはすぐに剣を引き戻した。


 追撃できる。


 まだ動ける。


 カインは、すぐ目の前にいる。


 今度こそ。


 そう思った。


 だが。


 カインは追撃してこなかった。


 ただ、足元を見ていた。


 ヤヌスが刻んだ亀裂。


 砕けた大地。


 そこへ、静かに視線を落としている。


ヤヌス

「はぁ……はぁ……」


 肩が僅かに上下する。


 額を伝う汗が、頬へ流れ落ちた。


 ヤヌスは剣を構え直す。


 何を見ている。


 何を考えている。


 相手の動きを警戒しながら、乱れた呼吸を整えようとする。


 その時だった。


 カチン――。


 小さな音が響いた。


 カインが剣を鞘へ収めたのだ。


ヤヌス

「…………?」


 理解できなかった。


 まだ戦いは終わっていない。


 自分は剣を構えている。


 次の一撃を放つ準備もできている。


 それなのに。


 目の前の男は、剣を収めた。


カイン

「……こんなものか」


 静かな声だった。


 僅かな落胆が、その声に滲んでいた。


 もう少しは楽しめると思っていた。


 そんな期待が外れたかのように。


 ヤヌスの顔が強張る。


ヤヌス

「……なんだと?」


 カインは答えなかった。


 代わりに、足元の亀裂から視線を外す。


 その先。


 荒野を大きく引き裂く、巨大な傷跡。


 地平線の向こうへ続くほどの亀裂が、大地へ刻まれていた。


 ヤヌスが今作ったものとは、比較にもならない。


 数メートル先で途切れた亀裂。


 そのすぐ近くに、数百メートル先まで続く大地の裂け目。


 カインは、その傷跡を見つめながら口を開いた。


カイン

「……あれはレオンが刻んだものだ」


ヤヌス

「…………!」


 ヤヌスは、思わず巨大な亀裂へ目を向けた。


 レオン。


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられる。


 目の前に広がる、途方もない戦闘痕。


 これを。


 レオンが作ったというのか。


 ヤヌスは、自分の足元へ視線を落とした。


 先ほど、全力で振り下ろした一撃。


 その結果として生まれた亀裂。


 そして、もう1度、遠くへ続く大地の裂け目を見る。


 規模が違う。


 あまりにも。


 違いすぎる。


 3年間。


 何度も剣を振った。


 何度も倒れた。


 何度も立ち上がった。


 ヴァルドに叩きのめされながら、それでも剣を握り続けた。


 強くなったはずだった。


 少なくとも、あの日の自分とは違うはずだった。


 だが。


 目の前の光景は、そんな確信を簡単に揺るがせた。


 カインが、ゆっくりとヤヌスへ向き直る。


 そして、歩き始めた。


 剣は鞘に収めたまま。


 その手には、何も握られていなかった。


◇◇◇


 ヤヌスはアウロラを構え直した。


 剣を収めたまま近づいてくるカイン。


 その姿が、あまりにも無防備に見えた。


 だが、油断はできない。


 ヤヌスは呼吸を整え、相手の足元を見た。


 間合いへ入る。


 その瞬間。


 地面を蹴った。


 横薙ぎの一閃。


 カインは僅かに上体を引き、刃をかわした。


 そのまま踏み込む。


 拳が、ヤヌスの胸元へ迫る。


 ヤヌスは反射的にアウロラを引き戻し、刀身で防いだ。


 ドゴォッ――!!


 凄まじい衝撃が、剣越しに両腕へ伝わった。


ヤヌス

「ぐっ……!」


 身体が後方へ弾き飛ばされる。


 ヤヌスは足を地面へ突き立て、数メートルにわたって砂を削りながら踏みとどまった。


 両腕が痺れている。


 剣を握る指に、思うように力が入らない。


 それでも、すぐに構え直した。


 その時には。


 カインが、既に目の前にいた。


ヤヌス

「……っ!」


 拳が迫る。


 アウロラを立てて防ぐ。


 ドンッ!!


 剣が大きく揺れた。


 次の拳。


 身体をひねり、かわす。


 だが、カインは止まらない。


 踏み込んだ足を軸に身体を回し、反対の拳を放つ。


 ヤヌスは剣を引き戻す。


 間に合う。


 そう思った瞬間。


 ドゴンッ!!


 衝撃が腕を貫いた。


 防いだはずだった。


 確かに、剣で受け止めた。


 それなのに、身体が後ろへ押し戻される。


 足元の大地が砕けた。


 ヤヌスは歯を食いしばり、反撃する。


 上段から斬り下ろす。


 カインが身体をずらす。


 続けて横薙ぎ。


 かわされる。


 踏み込んで突きを放つ。


 その切っ先さえ、届かない。


 カインは剣を抜いていなかった。


 ただ、素手でヤヌスの攻撃をかわし、拳を打ち込んでくる。


 そして、その一撃一撃が重かった。


 剣を受け止めた時とは違う。


 今度は、カインが攻撃している。


 ヤヌスは防ぐことに追われていた。


 ガンッ!!


 拳がアウロラへ叩きつけられる。


 ヤヌスの腕が跳ね上がった。


 空いた胴へ、次の拳が迫る。


 慌てて身体をひねる。


 拳が脇腹を掠めた。


 それだけで、身体の芯が揺れた。


ヤヌス

「がっ……!」


 呼吸が乱れる。


 視界が揺れる。


 それでも、ヤヌスは剣を振るった。


 だが。


 届かない。


 あと僅か。


 あと少し。


 そう思うたび、カインはその距離から離れていた。


 ヤヌスの刃は、何度も空を切った。


◇◇◇


 岩陰に身を潜めていたミレイユは、息を呑んでいた。


 目の前で繰り広げられる戦いは、もはや彼女の理解を超えていた。


 剣と拳がぶつかるたび、大地が揺れる。


 砂埃が舞い、岩が砕ける。


 人間が戦っているとは思えない光景だった。


 そして。


 ミレイユにも、少しずつ分かり始めていた。


 ヤヌスが押されている。


 あれほど強かった少年が。


 魔獣を一撃で倒していた少年が。


 今は、攻撃を防ぐことすら苦しそうにしている。


ミレイユ

「……ヤヌスさん!」


 思わず声が出た。


 だが、届かない。


 その時。


 カインが、ヤヌスの剣をかわした。


 ほんの僅かに身体を傾ける。


 アウロラが空を切った。


 ヤヌスの身体が前へ流れる。


 その一瞬。


 カインの拳が振り抜かれた。


 ドゴッ――!!


 拳が、ヤヌスの顔面を捉えた。


 視界が白く弾ける。


 地面が足元から消えた。


 次の瞬間。


 ドガァァァァンッ!!


 ヤヌスの身体が、遠くの岩壁へ叩きつけられた。


 凄まじい衝撃。


 岩壁に亀裂が走り、大量の岩が崩れ落ちる。


 その岩壁には、遥か昔に刻まれた巨大な斬撃痕が残っていた。


 山の一部を斬り裂いたかのような、途方もない傷跡。


 かつてレオンが、この地で残した戦いの痕跡だった。


 その傷跡の下へ、ヤヌスの身体が叩きつけられた。


 アウロラが手から離れる。


 黒い布に包まれた大剣が地面を転がった。


 ヤヌスも、崩れた岩とともに地面へ落ちる。


 砂煙が周囲を覆い隠した。


 しばらく、何も見えなかった。


◇◇◇


 荒野を進む3つの人影。


 ルミナ、ノクス、リリアは、ヤヌスの気配を追って街道を進んでいた。


 その時。


 遠くから、低い地響きが伝わってきた。


リリア

「……何、今の?」


 足元の小石が、僅かに震える。


ノクス

「……戦闘か?」


 ノクスが遠くの荒野へ目を向ける。


 だが、ルミナは答えなかった。


 風に混じって、微かな魔力が流れてきていた。


 荒々しい。


 禍々しい。


 以前とは、まるで違う。


 それでも。


 忘れるはずがなかった。


ルミナ

「…………!」


 ルミナが目を見開く。


 その顔から血の気が引いた。


 次の瞬間。


 地面を蹴った。


リリア

「ちょっ、ルミナ!?」


 ルミナは振り返らない。


 ただ、前だけを見て走り続ける。


 ノクスとリリアも慌てて後を追った。


◇◇◇


 リベラシオン。


 巨大な戦闘痕が刻まれた岩壁の下。


 砂煙の中で、ヤヌスは地面へ手をついていた。


 口の中に、鉄の味が広がっている。


 鼻から流れた血が、顎を伝って落ちた。


 頭が割れるように痛む。


 身体のあちこちが悲鳴を上げていた。


 背後では、先ほど自分が叩きつけられた岩壁から、小さな石がぱらぱらと落ち続けている。


 それでも、ヤヌスは身体を起こそうとした。


 震える腕へ力を込める。


 だが、身体が言うことを聞かない。


 その時。


 足音が聞こえた。


 ゆっくりと。


 一定の間隔で。


 カインが歩いてくる。


 ヤヌスが叩きつけられた岩壁。


 その巨大な斬撃痕を目にして、カインは足を止めた。


カイン

「……レオンなら、今の一撃でも剣を離さなかった」


 ヤヌスの指が、僅かに動く。


 地面へ転がったアウロラ。


 その柄へ、手を伸ばした。


カイン

「……反撃までしてきたぞ」


 ヤヌスは、奥歯を噛みしめた。


 腕を伸ばす。


 あと少し。


 指先が柄に触れた。


 強く握りしめる。


カイン

「……ヴァルドも、もっと強かった」


 その言葉を聞いた瞬間。


 ヤヌスの手が止まった。


 レオン。


 ヴァルド。


 2人の顔が脳裏に浮かぶ。


 自分を育ててくれた男。


 剣を教えてくれた男。


 どちらも、もういない。


 ヤヌスはアウロラを地面へ突き立てた。


 その柄へ体重を預け、ゆっくりと立ち上がる。


ヤヌス

「……黙れ……」


 声が震えていた。


 怒りなのか。


 悔しさなのか。


 自分でも分からなかった。


 ただ、目の前の男が許せなかった。


ヤヌス

「……黙れッ!!」


 顔を上げる。


 血に濡れた唇が歪む。


ヤヌス

「お前が……」


 アウロラを握る手に力が入る。


ヤヌス

「お前が、2人を語るなッ!!」


 怒声が、荒野へ響き渡った。


 だが。


 カインは、僅かにも動じなかった。


◇◇◇


 カインは、ヤヌスの怒声を聞いても足を止めなかった。


 剣は鞘に収めたまま。


 ゆっくりと歩み寄ってくる。


カイン

「……足りないんだよ」


ヤヌス

「…………」


 ヤヌスは荒い呼吸を繰り返していた。


 カインの声が、妙にはっきりと聞こえる。


カイン

「憎しみが」


 ドクン――。


 右手が脈打った。


ヤヌス

「……っ!」


 布の下から、黒い筋が這い出してくる。


 指先。


 手首。


 腕。


 ドクン。


 ドクン。


 鼓動に合わせ、黒が広がっていく。


 ヤヌスは右手を見つめた。


 止めなければならない。


 分かっている。


 このままでは、また自分を失う。


 そう思った瞬間。


 頭の奥から、聞き覚えのある声が響いた。


 ――仕方ないよね。


 ――弱かったんだから。


ヤヌス

「……っ……!」


 ヴァルドの亡骸の前。


 穏やかに笑っていた、あの男。


 顔を思い出すことはできない。


 だが、その声だけは忘れられなかった。


 何度も。


 何度も。


 頭の中で繰り返されてきた言葉。


ヤヌス

「……黙れって……言ってんだろ……」


 絞り出した声が、掠れる。


 誰に向けた言葉なのか。


 目の前のカインなのか。


 頭の中の男なのか。


 自分でも分からない。


 ドクンッ!!


 黒い筋が肩へ伸びた。


 さらに首筋へ這い上がる。


 ヤヌスの呼吸が荒くなった。


 その時、アウロラを握る右手から、白い煙が立ち上り始めた。


ヤヌス

「……ぐっ……!」


 焼けるような痛みが走る。


 黒い布の隙間から、細い煙が幾筋も漏れ出していた。


 何が起きているのか。


 なぜ、剣を握る手が焼けるように痛むのか。


 ヤヌスには分からなかった。


 それでも、剣を離さない。


 カインが近づく。


カイン

「……また力に呑まれるのか」


 その言葉に、ヤヌスの瞳が揺れた。


 3年前。


 レオンを失った日。


 自分の中から溢れ出した黒。


 何も分からなくなった。


 何をしたのかも、どうなったのかも。


 気づけば、奈落へ落ちていた。


 あの時と同じものが、今も身体の奥から這い上がってきている。


 ――強者は奪う。


 ヤヌスは頭を押さえた。


 ――弱者は奪われる。


ヤヌス

「……黙れ……」


 黒が頬へ伸びる。


 視界の端が、僅かに暗くなった。


 頭の中で、何かが軋んでいる。


 目の前にはカインがいる。


 レオンを殺した男。


 3年間、何度も夢に見た男。


 ようやく、ここまで来た。


 それなのに。


 届かなかった。


 剣を振った。


 何度も振った。


 ヴァルドに教わったすべてをぶつけた。


 それでも、届かなかった。


 カインは足を止めた。


カイン

「……つまらん戦いだった」


 シャリン――。


 再び、剣が抜かれる。


 呼吸は乱れていない。


 黒が広がるヤヌスを前にしても、カインは僅かにも身構えなかった。


 その目の前で何が起きようと、自分の剣が届かなくなるとは考えていない。


 ただ、剣を手に取った。


 戦いを終わらせるために。


 それだけだった。


ヤヌス

「……黙れ……」


 右手が震える。


 黒い筋が、さらに広がっていく。


ヤヌス

「黙れ……黙れぇぇッ!!」


 ドクンッ!!


 黒が激しく脈打った。


 身体の奥底から、何かが這い上がってくる。


 ヤヌスの視界が揺れた。


 耳鳴りがする。


 指先の感覚が、少しずつ薄れていく。


 このままでは、また呑まれる。


 分かっている。


 分かっているのに。


 目の前の男から、視線を外せなかった。


 3年間。


 ずっと、この瞬間のために生きてきた。


 レオンを殺した男を。


 自分からすべてを奪った男を。


 この手で殺すために。


 だが、今の自分では届かない。


 ならば。


 どうすればいい。


 何を捨てればいい。


 何を差し出せば、あの男へ届く。


 ヤヌスは、黒く染まり始めた右手を見つめた。


 噛みつけば、まだ止められるかもしれない。


 痛みで意識を繋ぎ止めれば、引き返せるかもしれない。


 だが。


 今、これを止めたら。


 もう二度と、あの男へ届かないのではないか。


 そんな考えが、頭をよぎった。


 ヤヌスの唇が震える。


ヤヌス

「……今……ここで……」


 カインが剣を構える。


 ヤヌスは、その刃を見つめた。


ヤヌス

「お前を……殺せるなら……」


 黒い筋が、頬を這い上がる。


 首筋が脈打つ。


 胸の奥から、得体の知れない熱が広がっていく。


 ヴァルドの教えが、脳裏をよぎった。


 剣を握ったなら、獣になるな。


 何度も聞いた言葉。


 何度も守ろうとした言葉。


 それでも。


 ヤヌスは、目の前の男から視線を外さなかった。


ヤヌス

「……バケモノに……」


 呼吸が途切れる。


 そして。


ヤヌス

「……なったって……いい」


 ドクンッ――!!


 まるで。


 その言葉を、ずっと待っていたかのように。


 黒が、一気に広がった。


 それまでヤヌスの抵抗に押し留められていたものが、ようやく許しを得たかのようだった。


 右腕から肩へ。


 首へ。


 頬へ。


 生き物のような黒い筋が、身体を這い回る。


 魔力が溢れ出し、足元の砂が激しく舞い上がった。


 アウロラを握る手から、白い煙が噴き出す。


 皮膚が焼ける。


 肉が軋む。


 それでも、ヤヌスは剣を離さなかった。


 もう、痛みさえ遠かった。


ミレイユ

「ヤヌスさん!?」


 岩陰から、ミレイユの悲鳴が上がる。


 だが、ヤヌスには届かない。


 魔力が、身体を包み込んでいく。


 視界が暗くなる。


 カインの姿だけが、ぼんやりと浮かんでいた。


 殺す。


 あの男を。


 それだけが、頭の中に残っていた。


 カインは、静かにヤヌスを見つめていた。


 魔力がどれほど膨れ上がろうと、その姿勢は変わらない。


 やがて、剣を持ち上げた。


カイン

「……これで終わりだ」


 刃が振り下ろされる。


 ヤヌスは動かなかった。


 いや。


 動けなかった。


 黒が意識を喰らい、身体の感覚が失われていく。


 迫る刃。


 白い仮面。


 その光景さえ、暗闇へ沈みかけた。


 次の瞬間。


 ガキィィィンッ――!!


 凄まじい金属音にも似た衝撃が、荒野へ響き渡った。


 カインの剣が、空中で止まっていた。


 何もないはずの場所。


 ヤヌスの頭上に、淡く輝く透明な結界が展開されている。


 刃が結界へ食い込み、表面に光の波紋が広がった。


 だが。


 砕けない。


 カインの剣を、確かに受け止めていた。


カイン

「……ほう」


 仮面の奥で、カインの視線が動いた。


 その時。


 遠くから、声が響いた。


ルミナ

「ヤヌス!!」


 ヤヌスの瞳が、僅かに動いた。


 聞き覚えのある声。


 忘れるはずのない声。


 3年前。


 毎日のように聞いていた声。


 黒い筋の侵食が止まった。


 ヤヌスは、ゆっくりと顔を動かす。


 荒野の向こう。


 風に髪を揺らしながら、1人の少女が立っていた。


 3年前よりも背が伸びていた。


 顔立ちも、少し大人びている。


 あの頃より長く伸びた髪が、風に揺れていた。


 それでも。


 間違えるはずがなかった。


ヤヌス

「……ルミナ……?」


 掠れた声が漏れる。


 ルミナの瞳が揺れた。


 目の前にいる少年。


 3年前に別れた、あの日のヤヌス。


 けれど、その姿はあまりにも変わっていた。


 身体には傷が刻まれ、右腕からは禍々しい黒が広がっている。


 頬には血がこびりつき、握りしめた剣からは白い煙が立ち上っていた。


 それでも。


 ルミナには分かった。


 間違いなく、ヤヌスだった。


ルミナ

「……ヤヌス!」


 もう1度、名前を呼ぶ。


 その声を聞いた瞬間。


 ヤヌスの顔から、僅かに力が抜けた。


 憎しみに歪んでいた瞳が揺れる。


 生きていた。


 ルミナが。


 あの日、離れ離れになったまま、もう会えないかもしれないと思っていた少女が。


 今、自分の目の前にいる。


 3年前。


 まだレオンが生きていた頃。


 何も知らずに笑っていた、あの頃の少年の表情が。


 ほんの一瞬だけ、戻った。


ヤヌス

「……お前……」


 言葉が続かなかった。


 何を言えばいいのか分からない。


 生きていた。


 その事実だけで、胸の奥がいっぱいになっていた。


 なぜ、ここにいるのか。


 どうして、自分を見つけられたのか。


 聞きたいことは、いくつもあった。


 だが。


 その前に、ヤヌスは自分の右手へ目を落とした。


 黒い筋。


 焼けた皮膚。


 そして、握りしめたアウロラ。


 自分が何をしようとしていたのか。


 ようやく、理解した。


ヤヌス

「……っ!」


 アウロラを離す。


 大剣が地面へ落ちた。


 そのまま右手を口元へ引き寄せる。


 ブチッ――!!


 黒い痣の上へ、強く噛みついた。


 血が溢れ、唇を伝って落ちる。


 ヤヌスは歯を離さない。


 痛みへ意識を集中させる。


 少しずつ。


 黒い筋が、皮膚の下へ引いていく。


 荒い呼吸を繰り返しながら、ヤヌスはゆっくりと右手から口を離した。


 カインは、その一部始終を静かに見つめていた。


 そして。


 結界の向こうに立つ少女へ、視線を向ける。


カイン

「……あの時の娘か」


 3年前。


 レオンとともにいた少女。


 あの時は、まだ幼さの残る子供だった。


 だが今。


 その少女が、自分の剣を受け止めるほどの結界を張っている。


 カインは、僅かに顔を傾けた。


カイン

「……面白い」


 乾いた風が、荒野を吹き抜けた。


 ヤヌスは、まだルミナを見つめていた。


 3年間。


 どれほど強くなっても、届かなかった男がいる。


 どれほど剣を振っても、埋められなかった差がある。


 それでも。


 3年間、離れ離れになっていた少女の声だけは。


 黒に呑まれかけたヤヌスへ、確かに届いていた。


――第14話「届かない」終。

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