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第13話 過去との再会

黒印のヤヌス


第3章 


第13話 過去との再会


 ――リヴェルナ。


 魔族による襲撃から時間が経っても、街にはまだ生々しい傷跡が残っていた。


 崩れた建物。焼け焦げた壁。道の端へ積み上げられた瓦礫。


 あちこちで槌を振るう音が響き、その合間を縫うように、負傷者を運ぶ人々が行き交っている。


 街の一角では、ルミナが横たわる男の傷へ両手をかざしていた。


 淡い光が傷口を包み、裂けた皮膚が少しずつ塞がっていく。


男

「……すまない。助かったよ」


ルミナ

「まだ無理はしないでくださいね」


 男が頷くのを見届け、ルミナはゆっくりと立ち上がった。


 少し離れた場所では、ノクスとリリアも復旧作業を手伝っている。


リリア

「こっちは終わったよ!」


ノクス

「なら次だ。まだ怪我人がいる」


リリア

「分かってるって!」


 いつも通りの2人を見つめながら、ルミナは小さく息を吐いた。


 そして、意を決したように声をかける。


ルミナ

「……ノクス姉さん、リリア姉さん」


リリア

「ん? どうしたの?」


ルミナ

「少し、いいかな?」


 2人が振り返る。


 ルミナは一度だけ唇を結び、口を開いた。


ルミナ

「私、ヤヌスを探しに行きたい」


 リリアの表情が変わった。


リリア

「……ヤヌス?」


ルミナ

「うん。この街にいたって聞いたから……」


ノクス

「……そうか」


 ノクスは周囲へ目を向けた。


 復旧作業はまだ終わっていない。怪我人も残っている。


 だが、ルミナがどれほど長い間、その少年を探してきたのかも知っていた。


ノクス

「行くなら早い方がいいだろう」


ルミナ

「……いいの?」


リリア

「もちろん! ここまで来たんだもん!」


 リリアが笑う。


リリア

「私も早く会ってみたいな。ヤヌス君に!」


ルミナ

「……ありがとう!」


 ルミナの顔に、久しぶりに明るい笑みが浮かんだ。


◇◇◇


 リヴェルナの城門。


 街を出入りする人々の間を抜け、3人は門を守る衛兵へ近づいた。


ルミナ

「すみません。少しお聞きしたいことがあるんですけど……」


衛兵

「ん? どうした?」


ルミナ

「黒い髪で、大きな剣を持った男の人を見ませんでしたか?」


 衛兵は少し考え、やがて何かを思い出したように頷いた。


衛兵

「ああ!……あの兄ちゃんか」


ルミナ

「知ってるんですか!?」


衛兵

「ああ。妙な奴だったから覚えてるよ。確か、街に来た時に魔獣を食ってたとか……」


リリア

「……魔獣?」


ノクス

「……食った?」


 2人の顔が僅かに引きつる。


 だが、ルミナは気にする様子もなく身を乗り出した。


ルミナ

「それで! その人は今どこに!?」


衛兵

「昨日の朝、街を出ていったよ。女の人と一緒だったはずだ」


ルミナ

「女……」


 その言葉に、ルミナの動きが止まった。


 そして。


リリア

「えええっ!? 女の人!?」


 リリアが勢いよく身を乗り出す。


リリア

「ちょっと待って、ルミナ! ヤヌスって女の人と旅してるの!?」


ルミナ

「えっ!? い、いや、それは……!」


リリア

「3年ぶりに会えると思ったら、知らない女の人と一緒ってこと!?」


ルミナ

「そ、そうとは限らないでしょ!?」


リリア

「でも気になるでしょ!?」


ルミナ

「き、気にならないよ!」


 そう言いながら、ルミナの視線が泳ぐ。


 リリアはその様子を見逃さなかった。


リリア

「……本当に?」


ルミナ

「ほ、本当だってば!」


ノクス

「……お前ら、今はそこじゃないだろ」


 呆れたように息を吐き、ノクスが衛兵へ向き直る。


ノクス

「それで、どちらへ向かった?」


衛兵

「あっちだ。西の街道を進んでいったよ」


ノクス

「分かった。助かった」


ルミナ

「あ、ありがとうございます!」


 3人は衛兵へ頭を下げ、城門を抜けた。


 街道へ出たところで、ルミナが立ち止まる。


リリア

「ルミナ?」


ルミナ

「……ちょっと待って」


 ルミナは静かに目を閉じた。


 周囲へ意識を広げる。


 風に混じる微かな魔力の流れ。


 地面や木々に残された、人や魔獣の気配。


 その中から、たった1つを探す。


 3年前。


 毎日のように隣にいた少年。


 一緒に食事をして、笑って、時には喧嘩もした。


 もう二度と会えないかもしれないと思ったこともあった。


 それでも、忘れられなかった気配。


 やがて。


ルミナ

「…………!」


 ルミナの瞼が僅かに震えた。


 遠い。


 それでも、確かに感じる。


 以前よりも荒々しく、ずっと強い。


 まるで別人のように変わっている。


 だが。


 間違えるはずがなかった。


ルミナ

「……いた」


 ゆっくりと目を開く。


ノクス

「見つかったか?」


ルミナ

「うん……」


 ルミナの声が震える。


 けれど、その顔には笑みが浮かんでいた。


ルミナ

「……ヤヌスだ」


 3年前。


 突然、離れ離れになったあの日から。


 ずっと探し続けてきた。


 ようやく。


 ようやく、ここまで来た。


ルミナ

「行こう!」


 ルミナが駆け出す。


 ノクスとリリアも、その後を追った。


◇◇◇


 リヴェルナから遠く離れた街道。


 ヤヌスとミレイユは、荒野へ続く道を歩いていた。


 街を出た頃には緑が広がっていた景色も、今では乾いた大地が目立つようになっている。


 道の両脇には背の低い草がまばらに生え、遠くには岩山が連なっていた。


ミレイユ

「……ずいぶん、何もないところですね」


ヤヌス

「そうか?」


ミレイユ

「ええ。ヤヌスさんは、こういう道に慣れているんですか?」


ヤヌス

「森とか山の方が多いな」


ミレイユ

「……街道は?」


ヤヌス

「あまり通らん」


ミレイユ

「……でしょうね」


 ミレイユが小さく息をついた。


ミレイユ

「普通は、できるだけ安全な道を選ぶものですよ」


ヤヌス

「遠回りになるだろ」


ミレイユ

「……そういう問題ではないんですけどね」


 ヤヌスは不思議そうに首を傾げた。


 その様子に、ミレイユは思わず苦笑する。


 街を出てからというもの、こうしたやり取りが何度も続いていた。


 ヤヌスにとっては当たり前のことが、ミレイユには驚くほど非常識なのだ。


ミレイユ

「……ところで、ヤヌスさん」


ヤヌス

「なんだ?」


ミレイユ

「リヴェルナに来る前はどこで寝泊まりしていたんですか?」


ヤヌス

「木の上だ」


ミレイユ

「……ずっと?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「……怖くないんですか?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「危ないですよ?」


ヤヌス

「落ちたことはない」


ミレイユ

「……そういう問題でもないんですけど……」


 ミレイユは額へ手を当てた。


 だが、当の本人は何がおかしいのか分かっていない。


 しばらく歩いたところで、ヤヌスが周囲を見渡した。


ヤヌス

「……今日は木がないな」


ミレイユ

「……岩の上で寝ようとか考えてませんよね?」


ヤヌス

「……駄目なのか?」


ミレイユ

「駄目です」


 即答だった。


 ヤヌスが僅かに眉を寄せる。


ヤヌス

「……面倒だな」


ミレイユ

「ちゃんと休むことも大切なんですよ」


ヤヌス

「俺は平気だ」


ミレイユ

「私が平気じゃありません」


ヤヌス

「…………」


 少し考えた後。


ヤヌス

「……分かった」


 ミレイユは目を瞬かせた。


 もっと文句を言われると思っていた。


 だが、ヤヌスはそれ以上何も言わず、再び歩き始める。


 その歩幅は、先ほどより僅かに小さくなっていた。


 ミレイユは気づいていたが、何も言わなかった。


◇◇◇


 しばらく進んだところで、ヤヌスが足を止めた。


ミレイユ

「……どうしました?」


ヤヌス

「……来るぞ」


 街道の先。


 大きな岩の陰から、獣のような魔獣が姿を現した。


 低い唸り声。


 鋭い牙。


 地面を引っ掻く爪。


 魔獣は2人を見つけると、ゆっくりと身を低くした。


ミレイユ

「では、私はあちらに」


 ミレイユは近くの岩陰へ移動した。


 2人の旅が始まってからのいつもの流れ。


 ヤヌスは剣へ手を伸ばさない。


 ただ、魔獣を見つめている。


 次の瞬間。


 魔獣が地面を蹴った。


 鋭い牙が、ヤヌスの喉元へ迫る。


 だが。


 ヤヌスは身体を僅かにずらした。


 牙が空を切る。


 そのまま、すれ違いざまに拳を叩き込む。


 ゴッ――!!


 鈍い音。


 魔獣の頭が大きく揺れ、その身体が地面へ叩きつけられた。


 砂埃が舞い上がる。


 魔獣は、もう動かなかった。


ヤヌス

「……終わったぞ」


 岩陰から、ミレイユが顔を出す。


ミレイユ

「……もうですか?」


ヤヌス

「ああ」


 ミレイユは倒れた魔獣を見つめた。


 それから、ヤヌスの背中へ目を向ける。


ミレイユ

「……毎回思うんですけど」


ヤヌス

「なんだ?」


ミレイユ

「その大きな剣、使うことあるんですか?」


ヤヌス

「ある」


ミレイユ

「……そうですか」


ヤヌス

「強い相手には使う」


ミレイユ

「……なるほど」


 ミレイユは改めて、黒い布に包まれた大剣を見つめた。


 その大きさは、普通の人間が扱えるものには思えない。


ミレイユ

「……そういえば、ヤヌスさんは剣を誰かに教わったんですか?」


ヤヌス

「……ジジイに」


ミレイユ

「おじいさん、ですか?」


ヤヌス

「ああ。ヴァルドっていう、口うるさいジジイだ」


 ミレイユの足が止まった。


ミレイユ

「……ヴァルド?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「もしかして……剣聖ヴァルド様、ですか?」


ヤヌス

「……そう呼ばれてたらしいな」


ミレイユ

「えっ……!? あの剣聖様ですか?」


ヤヌス

「ああ」


 ミレイユは思わずヤヌスを見つめた。


 剣聖ヴァルド。


 その名を知らない者は、人間側ではそう多くない。


 かつて、その剣技で数多くの魔族を討ち、教会からも一目置かれていた人物。


 しかし、ある時を境に忽然と姿を消したとされていた。


ミレイユ

「でも……何年も前に姿を消されたと聞いていますが……」


ヤヌス

「奈落にいた」


ミレイユ

「……奈落?」


ヤヌス

「ああ」


 ミレイユの表情が強張る。


ヤヌス

「……もう死んだがな」


 何気ない一言のように聞こえた。


 だが、ミレイユはすぐに言葉を返せなかった。


 ヤヌスは既に前を向き、歩き始めている。


 その顔は見えない。


 ミレイユは少しだけ俯いた後、静かにその隣へ並んだ。


 それ以上、ヴァルドについて尋ねることはなかった。


◇◇◇


 しばらく歩いた後。


 ミレイユは、再びヤヌスの背中へ目を向けた。


ミレイユ

「……そういえば、その剣も剣聖様からいただいたものなんですか?」


ヤヌス

「違う」


 ヤヌスは短く答えた。


ヤヌス

「レオンのだ」


ミレイユ

「……レオン?」


 ミレイユは少し考え、顔を上げた。


ミレイユ

「……まさか、あの勇者レオン様ですか?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「えっ……!?」


 思わず声が大きくなる。


 ヤヌスは怪訝そうに振り返った。


ヤヌス

「なんだ?」


ミレイユ

「い、いえ……その……」


 剣聖ヴァルド。


 そして、歴代最強と謳われた勇者レオン。


 どちらも、人間側では伝説に近い存在だ。


 その2人と、目の前の少年が深く関わっていた。


 ミレイユには、すぐに理解できなかった。


ミレイユ

「……ヤヌスさんは、レオン様とお知り合いだったんですか?」


ヤヌス

「俺を育ててくれた男だ」


ミレイユ

「ええ!?」


 ミレイユはしばらく放心した後、静かに尋ねた。


ミレイユ

「……どんな方だったんですか?」


 ヤヌスは少しだけ考えた。


ヤヌス

「……強かった」


ミレイユ

「強かった……ですか」


ヤヌス

「ああ。俺が知ってる中で、一番強い」


 迷いのない答えだった。


 ミレイユは小さく微笑む。


ミレイユ

「……そうですか」


 少し間を置いて、続けた。


ミレイユ

「……優しい方だったんでしょうね」


ヤヌス

「……どうしてだ?」


ミレイユ

「ヤヌスさんを育ててくださった方ですから」


 ヤヌスは少し考えた。


 レオンの顔が浮かぶ。


 いつも笑っていた。


 くだらないことで怒り、飯を勝手に食えば本気で文句を言ってきた。


 危険なことをすれば、誰よりも先に駆けつけてきた。


 ルミナと3人で囲んだ食卓。


 何でもない朝。


 何でもない夜。


 思い出すのは、勇者として戦う姿ではなかった。


ヤヌス

「……うるさい男だった」


ミレイユ

「……ふふ」


ヤヌス

「いつも、あれをしろ、これをしろってな」


ミレイユ

「……そうなんですね」


ヤヌス

「飯を勝手に食うなとか、危ないことするなとか……」


 そこで、言葉が止まる。


 ミレイユは何も言わず、隣を歩いていた。


ヤヌス

「……でも」


 少しだけ、声が柔らかくなる。


ヤヌス

「……キライじゃなかった」


 ミレイユは小さく頷いた。


ミレイユ

「……そうですか」


 それ以上、何も聞かなかった。


 2人は再び、静かな街道を歩き始めた。


◇◇◇


 やがて。


 街道の先が、大きく開けた。


 そこには、異様な光景が広がっていた。


 地平線の向こうまで続く、巨大な亀裂。


 刃物で切り落とされたような山。


 大地を深く抉った陥没地。


 自然にできたとは到底思えない、無数の傷跡。


 その1つ1つが、途方もない規模だった。


 ヤヌスが足を止める。


ヤヌス

「……なんだ、ここは」


 ミレイユも立ち止まり、目の前の荒野を見つめた。


ミレイユ

「知らないんですか!?」


ヤヌス

「知らん」


ミレイユ

「レオン様と共にいながら……」


ミレイユは小さくため息をついた。


ミレイユ

「ここはリベラシオンです。有名ですよ?」


ヤヌス

「……リベラシオン」


ミレイユ

「ええ。解放の地とも呼ばれています」


 ヤヌスは周囲を見渡した。


 大地を裂く亀裂。


 山を切り落としたような断面。


 遠くまで続く、巨大な陥没地。


 どれほどの力があれば、こんな光景を作り出せるのか。


 想像もつかなかった。


ミレイユ

「昔、ここで勇者レオン様が強大な魔人と戦われたそうです」


ヤヌス

「……レオンが?」


ミレイユ

「はい」


 ミレイユは、遠くの山へ目を向けた。


ミレイユ

「当時、人間は魔族に追い詰められていたと聞いています。ですが、レオン様がここで魔人を退けたことで、人々は再び希望を持てるようになったそうです」


 風が吹く。


 乾いた砂が、足元を流れていく。


ミレイユ

「だから、この場所は解放の地と呼ばれているんです」


 ヤヌスは何も言わなかった。


 ただ、目の前の光景を見つめていた。


 レオンが、ここで戦った。


 あの男が。


 自分を育ててくれた父親が。


 これほどの傷を、大地へ残すような戦いをしていた。


 ヤヌスは、そんな話を聞いたことがなかった。


 レオンは、自分の過去をあまり語らなかった。


 どれほど強かったのか。


 どれほど多くの人間を救ったのか。


 何と戦ってきたのか。


 ヤヌスが知っているのは、いつも家で笑っていた男の姿だけだった。


ヤヌス

「……そうか」


 小さく呟く。


 そして、再び歩き始めた。


◇◇◇


 しばらく進んだところで、ミレイユが声をかけた。


ミレイユ

「……そろそろ、お昼にしませんか?」


ヤヌス

「まだ歩けるぞ」


ミレイユ

「……私がお腹空いたんです」


ヤヌス

「……そうか」


 ヤヌスは素直に足を止めた。


 近くにあった大きな岩のそばへ移動し、背負っていたアウロラを立てかける。


 ミレイユは荷物を下ろし、持ってきた食事を広げ始めた。


ミレイユ

「はい、ヤヌスさんの分です」


ヤヌス

「……肉は?」


ミレイユ

「ちゃんと入ってますよ」


 ヤヌスは中身を覗き込んだ。


ヤヌス

「……少ない」


ミレイユ

「野菜も食べなきゃ」


ヤヌス

「……肉の方が強くなる」


ミレイユ

「……誰がそんなことを?」


ヤヌス

「……俺だ」


ミレイユ

「……でしょうね」


 ミレイユが小さく笑った。


 ヤヌスは不満そうにしながらも、食事を始める。


 最初に肉を口へ運び、続けてもう1つ。


 野菜には、なかなか手を伸ばさない。


ミレイユ

「……ヤヌスさん」


ヤヌス

「なんだ?」


ミレイユ

「野菜も食べてくださいね」


ヤヌス

「……食ってる」


ミレイユ

「まだ1口も食べてませんよ」


ヤヌス

「…………」


 ヤヌスは仕方なさそうに野菜を口へ運んだ。


 ミレイユは、その様子を見て僅かに微笑んだ。


 こうして誰かの食事を気にかけるのは、久しぶりだった。


 だが、そのことを口にはしない。


 ヤヌスは食事を続けながら、ぽつりと呟いた。


ヤヌス

「……うまい」


 ミレイユが顔を上げる。


ミレイユ

「……そうですか。よかったです」


 自然と、表情が和らいだ。


 しばらく、2人は黙って食事を続けた。


 乾いた風が吹き抜ける。


 遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。


 巨大な戦闘痕が残る荒野の片隅。


 かつて勇者と魔人が戦った場所で、2人は何事もないように昼食を取っていた。


 やがて、ミレイユが口を開く。


ミレイユ

「……ヤヌスさん」


ヤヌス

「なんだ?」


ミレイユ

「こうして誰かと食事をするのは、楽しいですか?」


 ヤヌスは少し考えた。


ヤヌス

「……悪くない」


 その言葉に、ミレイユは少し驚いた。


 だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。


ミレイユ

「……そうですね」


 再び、静かな時間が流れる。


 風が吹き、砂が舞う。


 ヤヌスは食事を続けていた。


 ミレイユも、何気なく口を開く。


ミレイユ

「そういえば、さっきの――」


 そこで。


 ヤヌスの手が止まった。


 食べ物を口元へ運ぼうとしていた手。


 その動きが、途中で止まっている。


 ミレイユはまだ気づかない。


ミレイユ

「……ヤヌスさん?」


 返事はない。


 ヤヌスの視線は、ミレイユの向こう側へ向けられていた。


 広大な荒野。


 巨大な亀裂。


 切り裂かれた山。


 その景色の中に。


 1人の男が立っていた。


 白い仮面。


 長い髪。


 何もしていない。


 剣を抜いてもいない。


 構えてもいない。


 ただ、そこに立っている。


 カイン。


 ヤヌスの瞳が、大きく見開かれた。


 右手の黒い痣が脈打つ。


 ドクン――。


 指先から、黒い筋が這い上がる。


 手首。


 前腕。


 肘。


 肩。


 食べ物が、ヤヌスの手から落ちた。


 ミレイユが振り返る。


ミレイユ

「……ヤヌスさん?」


 その顔を見て、息を呑んだ。


 先ほどまで、食事をしていた少年ではなかった。


 歯を食いしばり、呼吸が荒くなる。


 黒い筋が、首元へ伸びていく。


 ミレイユは何も言えなかった。


 ただ、目の前のヤヌスを見つめていた。


 ヤヌスの足元。


 乾いた大地へ、力が込められる。


 次の瞬間。


 ドンッ――!!


 地面が砕けた。


 ヤヌスの姿が消える。


 突風がミレイユの髪を激しく揺らした。


 黒い筋に覆われた拳が、彼女の頬のすぐ横を通り過ぎていく。


 ミレイユの瞳が見開かれる。


 ヤヌスは剣を持っていない。


 アウロラは岩に立てかけられたまま。


 ただ、右拳を握りしめている。


 遠くのカインへ一直線に突進する。


 カインは動かない。


 ヤヌスの拳が、仮面へ迫る。


 その瞬間。


 カインが片手を上げた。


 ガンッ――!!


 拳が、止まった。


 衝撃が周囲へ広がり、乾いた大地に亀裂が走る。


 土煙が舞い上がる。


 だが。


 カインの足は、僅かにも動いていなかった。


 ヤヌスの拳だけが、完全に受け止められている。


 カインは、そのままヤヌスの腕を掴んだ。


 身体を僅かにひねる。


 次の瞬間。


 ドゴンッ――!!


 ヤヌスの身体が宙を舞った。


 地面へ叩きつけられ、激しく転がっていく。


 砕けた岩。


 舞い上がる土煙。


 ヤヌスは、昼食を取っていた岩の近くでようやく止まった。


 カインは、一歩も動いていなかった。


◇◇◇


 土煙が晴れていく。


 ヤヌスは地面に片膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。


 右手の黒い侵食が止まらない。


 肩から首へ。


 さらに、顔へ。


 黒い筋が這い上がろうとしている。


ヤヌス

「……ぐっ……!」


 震える右手を見つめる。


 そして。


 その手を口元へ引き寄せた。


 ブチッ――!!


 肉が裂けるほど、強く噛みつく。


 血が滲み、口元へ流れ落ちる。


 黒い筋の動きが止まった。


 ヤヌスは歯を離さない。


 痛みへ意識を集中させる。


 呼吸を整える。


 少しずつ。


 黒い筋が、皮膚の下へ引いていく。


ヤヌス

「はぁ……はぁ……」


 ようやく、右手から口を離した。


 血に濡れた唇を拭い、顔を上げる。


 遠くには、変わらず仮面の男が立っていた。


 リヴェルナでの出来事が脳裏をよぎる。


 あの時も、同じ仮面を見た。


 同じ姿をした男へ、我を忘れて襲いかかった。


 だが、あれはカインではなかった。


 マルヴァスが、その姿を真似ていただけだった。


 しかし。


 今度は違う。


 先ほどの一撃。


 拳を受け止められた瞬間の感覚。


 微動だにしなかった身体。


 そして。


 3年前。


 何もできず、ただ圧倒されたあの日。


 全身へ刻み込まれた、あの力。


 あの気配。


 忘れるはずがなかった。


 その時。


 仮面の男が、初めて口を開いた。


カイン

「……あの時の小僧か」


 ヤヌスの瞳が細くなる。


 その声。


 その立ち姿。


 そして、目の前に立つだけで感じる圧倒的な存在感。


 間違いない。


 今度こそ。


 本物だ。


 ヤヌスは、ゆっくりと立ち上がった。


 視線はカインから離さない。


 背後の岩。


 そこに立てかけられた、黒い布に包まれた大剣。


 ヤヌスは手を伸ばし、アウロラの柄を握った。


 ゆっくりと持ち上げる。


 布が風に揺れた。


 その様子を見ていたミレイユは、息を呑んだ。


 先ほどまでとは、明らかに空気が違う。


 ヤヌスがこれから何をしようとしているのか。


 そして、あの仮面の男がどれほど危険な存在なのか。


 詳しい事情は分からない。


 それでも、ここにいてはいけないことだけは理解できた。


 ミレイユは食事も荷物もそのままに、近くの大きな岩陰へ身を隠した。


 ヤヌスは剣を構える。


 先ほどのように、ただ拳を握りしめて飛びかかる獣の姿ではない。


 足を開く。


 重心を落とす。


 剣先を定める。


 呼吸を整える。


 ヴァルドに叩き込まれた、剣士の構え。


 右手には噛み跡。


 唇には血。


 黒い筋は、まだ完全には消えていない。


 それでも、その瞳には理性が戻っていた。


 目の前に立つ仮面の男。


 3年前。


 レオンを殺した男。


 自分のすべてを奪った男。


 そして今もなお、ヤヌスの人生を縛り続けている男。


ヤヌス

「……ずっと」


 剣を握る手に力が入る。


ヤヌス

「ずっと、お前だけを殺すために生きてきた」


 カインは答えない。


 ただ、仮面の奥からヤヌスを見つめていた。


――第13話「過去との再会」終。

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