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第12話 歩幅


第三章 第12話 歩幅


リヴェルナを離れてから、しばらく経った。


朝の街道。


昨日まで降り続いていた雨は上がり、雲の切れ間から淡い陽が差し込んでいる。


濡れた土の匂い。


葉から落ちる雫。


その中を、2人の旅人が歩いていた。


先を行くのはヤヌス。


背中には、布で包まれたアウロラ。


その少し後ろを、旅支度を整えたミレイユが歩いている。


「…………」


ヤヌスは、黙々と進む。


奈落で過ごしていた頃と変わらない歩調で。


険しい岩場でも。


足場の悪い森でも。


長い距離を移動していた時と、同じ速度で。


当然。


普通の人間であるミレイユが、ついていけるはずもなかった。


ミレイユ

「はぁ……はぁ……」


いつの間にか、2人の距離が開いている。


ヤヌスが振り返った。


ミレイユは、かなり後ろにいる。


ヤヌス

「遅い」


ミレイユ

「……すみません」


ヤヌスは再び前を向いた。


そのまま歩き出す。


「…………」


ミレイユも追いかける。


しばらくして。


再び。


ヤヌスが振り返った。


やはり。


ミレイユは遥か後ろにいる。


ヤヌス

「遅い」


「…………」


今度は。


ミレイユの眉が僅かに動いた。


ミレイユ

「ヤヌスさん」


ヤヌス

「なんだ」


ミレイユ

「私が遅いのではなく……ヤヌスさんが速いんです」


ヤヌス

「そうなのか?」


ミレイユ

「……はい」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「…………」


本気だ。


本気で分かっていなかったらしい。


ヤヌスは少し考えた後。


ヤヌス

「分かった」


そう言って、歩き出した。


「…………」


ミレイユも歩き出す。


数十秒後。


また距離が開いた。


ミレイユ

「ヤヌスさん」


ヤヌス

「なんだ」


ミレイユ

「速いです」


ヤヌス

「……遅くしたぞ」


ミレイユ

「もう少しお願いします」


ヤヌス

「…………」


ヤヌスは、さらに歩調を落とした。


ミレイユ

「……ありがとうございます」


旅が始まって、まだ半日も経っていない。


それなのに。


ミレイユは早くも不安を覚え始めていた。


◇◇◇


それから、しばらく歩いた。


ミレイユ

「それで……ヤヌスさん」


ヤヌス

「なんだ」


ミレイユ

「私たちは、どこへ向かっているんですか?」


ヤヌスの足が止まった。


「…………」


ミレイユも止まる。


「…………」


風が吹く。


街道脇の草が揺れる。


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「ヤヌスさん?」


ヤヌス

「分からん」


ミレイユ

「……え?」


ヤヌス

「どこにいるか分からないからな」


ミレイユ

「カインという魔人が、ですか?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「いえ……そうではなくて」


ミレイユは額へ手を当てた。


ミレイユ

「次に向かう街です」


ヤヌス

「知らん」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「道は?」


ヤヌス

「知らん」


ミレイユ

「この辺りの地理は?」


ヤヌス

「知らん」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「……よく今まで生きてこられましたね」


ヤヌス

「生きてるぞ」


ミレイユ

「そういう意味では……」


言いかけて。


やめた。


「…………」


ミレイユは、自分の荷物へ手を伸ばした。


ヤヌス

「何してる」


ミレイユ

「地図を出します」


ヤヌス

「地図?」


ミレイユ

「……持ってないんですよね」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「そうですよね……」


何となく。


もう分かってきた。


この男。


戦うこと以外は、かなり危うい。


◇◇◇


街道脇。


大きな木の根元へ、ミレイユが地図を広げた。


ヤヌスが横から覗き込む。


ミレイユ

「今いるのが……この辺りです」


指先で地図を示す。


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「ここがリヴェルナです」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「読めますか?」


ヤヌス

「……少し」


地図に並ぶ文字を。


ヤヌスの目が、ゆっくり追っていく。


以前なら。


ただの形にしか見えなかった文字。


今は。


少しだけ読める。


『ニコ』


『ミレイユ』


『ヤヌス』


「…………」


雨に濡れた紙。


そこに書かれていた3つの名前が、頭をよぎった。


ヤヌスの目が止まる。


その横で。


ミレイユの表情も僅かに変わった。


何を思い出したのか。


聞かなくても分かった。


「…………」


短い沈黙。


ミレイユ

「……私が読みます」


ヤヌス

「頼む」


それだけだった。


ニコの名前は。


どちらも口にしなかった。


まだ。


思い出として話せるほど。


遠い出来事ではなかった。


◇◇◇


ミレイユは地図へ視線を戻した。


ミレイユ

「仮面の魔人を探すのでしたら……まず、魔王軍について知っておいた方がいいと思います」


ヤヌス

「魔王軍?」


「…………」


地図をなぞっていたミレイユの指が止まった。


ゆっくり。


ヤヌスを見る。


ミレイユ

「……ヤヌスさん」


ヤヌス

「なんだ」


ミレイユ

「七魔将は知っていますね?」


ヤヌス

「知らん」


ミレイユ

「…………ふう」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「本当に何も知らないんですね……」


ヤヌス

「ああ」


少しも悪びれていない。


むしろ。


何が問題なのか分かっていない顔をしている。


ミレイユは小さく息を吐いた。


ミレイユ

「七魔将というのは、魔王軍の中でも特に強大な力を持つ7人の魔族です」


「人間の間では、魔王軍の最高幹部として知られています」


ヤヌス

「強いのか?」


食いついた。


そこだけ。


ミレイユ

「……強い、なんて言葉で済む相手ではありません」


ヤヌス

「そうなのか」


ミレイユ

「私も直接見たことはありません」


「でも、お店には色々な人が来ていましたから」


「商人や旅人、兵士の方……魔獣狩りの方も」


「その人たちから、何度も聞いたことがあります」


ミレイユの指が。


無意識に地図の端を握る。


ミレイユ

「七魔将が現れたことで、街そのものが滅んだとか」


「軍を送っても止められなかったとか……」


「人間にとっては、出会った時点で災害に巻き込まれたようなものです」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「そして……」


一瞬。


声が沈んだ。


ミレイユ

「リヴェルナを襲った魔族たちを率いていた、マルヴァス」


「彼も七魔将の1人です」


ヤヌス

「……あいつが?」


ミレイユ

「はい」


「七魔将、第4位――マルヴァス」


ヤヌス

「…………」


森で対峙した男。


仮面を被り。


カインの居場所を餌に。


自分を街から遠ざけた魔人。


ヤヌス

「でも、あいつはそんなに強くなかったぞ」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「なんだ」


ミレイユ

「いえ……」


一度。


言葉を飲み込む。


ミレイユ

「……本当に、マルヴァス本人だったんですよね?」


ヤヌス

「多分な」


ミレイユ

「多分……」


ヤヌス

「自分でそう言ってた」


ミレイユ

「…………」


頭が痛くなってきた。


人間なら。


名前を聞くだけでも顔色を変える七魔将。


その1人と会った男が。


本人だったのかさえ、大して気にしていない。


ミレイユ

「……怖くなかったんですか?」


ヤヌス

「別に」


ミレイユ

「七魔将ですよ?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「第4位ってことは、まだ強いやつがいるのか?」


ミレイユ

「はい」


ヤヌス

「マルヴァスより上に3人?」


ミレイユ

「はい」


ミレイユは少しだけ表情を曇らせた。


ミレイユ

「特に……上位3人は別格だと言われています」


ヤヌス

「上位3人?」


ミレイユ

「第3位、グラディウス」


「第2位、ネクロス」


そして。


ほんの僅かに間を置く。


ミレイユ

「第1位――セラフィア」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「魔族に詳しくない人でも、その名前くらいは知っています」


「それほど恐れられている魔族達です」


ヤヌス

「……そうか」


「…………」


それだけだった。


ミレイユ

「……怖くないんですか?」


ヤヌス

「何が?」


ミレイユ

「七魔将です」


ヤヌスは少し考えた。


ヤヌス

「カインより強いのか?」


ミレイユ

「……それは、私には分かりません」


ヤヌス

「なら、どうでもいい」


ミレイユ

「…………」


ヤヌスの興味は。


そこで完全に消えた。


世界中の人間が恐れる名前でも。


カインへ繋がらないのなら。


今のヤヌスには。


何の意味もなかった。


ミレイユ

「……どうでもよくはないと思いますけど」


ヤヌス

「そうか?」


ミレイユ

「はい」


ヤヌス

「でも、知らなくても生きてたぞ」


ミレイユ

「…………」


先ほどと同じだ。


ミレイユ

「それはもう分かりました」


少しだけ。


疲れた声だった。


◇◇◇


ミレイユは地図へ視線を戻した。


ミレイユ

「それでも、カインという魔人を探すのであれば、七魔将について調べる意味はあると思います」


ヤヌス

「なんでだ?」


ミレイユ

「魔王軍の上層部なら、何か知っている可能性があります」


ヤヌス

「カインと七魔将が一緒にいるのか?」


ミレイユ

「それは分かりません」


ヤヌス

「…………」


露骨に。


興味を失った顔。


ミレイユ

「でも」


地図の一点を指す。


ミレイユ

「この先に、旅人や商人がよく集まる街があります」


「リヴェルナほど大きくはありませんが、魔族領に近い地域から来る人も多いので」


「魔族に関する噂も、集まりやすいはずです」


ヤヌス

「カインのことも分かるか?」


ミレイユ

「分かりません」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「そんな顔をされても、分からないものは分かりません」


ヤヌス

「してない」


ミレイユ

「しています」


ヤヌス

「そうか?」


ミレイユ

「……はい」


ヤヌスは自分の顔を触った。


ミレイユ

「触っても分からないと思います」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「…………」


ほんの少しだけ。


ミレイユの口元が緩みかけた。


だが。


すぐに消えた。


ミレイユ

「……とにかく、まずはそこを目指しましょう」


ヤヌス

「分かった」


ようやく。


2人の目的地が決まった。


◇◇◇


再び。


街道を歩く。


今度は。


先ほどより少しだけ。


ヤヌスの歩調も遅い。


しばらくして。


ぐぅぅ……。


「…………」


ミレイユが。


前を見る。


ヤヌス

「腹減った」


ミレイユ

「……そうですよね」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「でしたら、持ってきた保存食を――」


ヤヌスの目が。


街道脇の森へ向く。


ヤヌス

「獲ってくる」


ミレイユ

「え?」


地面を蹴る。


次の瞬間には。


もういなかった。


ミレイユ

「…………」


風に揺れる草だけが残る。


ミレイユ

「……行ってしまいました」


誰に言うでもなく。


呟いた。


◇◇◇


しばらくして。


ガサガサと。


森の奥から音が聞こえた。


ミレイユが顔を上げる。


木々の間から。


ヤヌスが出てきた。


片手で。


巨大な何かを引きずりながら。


ズル……。


ズル……。


獣のような巨体。


鋭い牙。


歪に発達した前脚。


明らかに。


普通の生き物ではない。


ヤヌス

「獲ってきた」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「なんだ」


ミレイユ

「……それを食べるんですか?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「魔獣ですよ?」


ヤヌス

「知ってる」


ミレイユ

「食べられませんよ」


ヤヌス

「食べられるぞ」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「焼けば美味い」


ミレイユ

「そういう意味ではありません」


ヤヌス

「?」


ミレイユ

「普通の人間は、魔獣を食べないんです」


ヤヌス

「俺は食べてる」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「何かおかしいのか?」


ミレイユ

「かなりおかしいです」


ヤヌス

「そうなのか?」


ミレイユ

「はい」


即答だった。


ヤヌスは魔獣を見る。


ヤヌス

「でも、美味いぞ」


ミレイユ

「味の問題ではありません」


ヤヌス

「食ったことあるのか?」


ミレイユ

「ありません」


ヤヌス

「なら、なんで分かる」


ミレイユ

「…………」


一瞬。


ミレイユが言葉に詰まる。


ミレイユ

「と、とにかく!」


「私は食べられませんから……普通の動物をお願いします」


ヤヌス

「動物?」


ミレイユ

「……はい」


嫌な予感がする。


ミレイユ

「鹿とか」


「兎とか」


「鳥とかです」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「魔獣ではなく、普通の動物です」


ヤヌス

「分かった」


ミレイユ

「本当に分かりました?」


ヤヌス

「ああ」


また。


森へ消えた。


「…………」


ミレイユは。


しばらく。


ヤヌスが消えた森を見つめていた。


ミレイユ

「……大丈夫でしょうか」


不安しかなかった。


◇◇◇


しばらくして。


その不安は。


的中した。


ズル……。


ズルズル……。


森から。


大量の獲物を抱えたヤヌスが戻ってきた。


鹿。


兎。


鳥。


そして。


どう見ても。


魔獣。


ヤヌス

「今度は大丈夫だろう」


ミレイユ

「…………」


自信満々だった。


ミレイユは。


ゆっくり。


1体を指差した。


ミレイユ

「これは?」


ヤヌス

「動物」


ミレイユ

「魔獣です」


ヤヌス

「そうなのか」


ミレイユ

「…………」


次。


小さな兎。


ミレイユ

「これは?」


ヤヌス

「魔獣」


ミレイユ

「兎です」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「似てるだろ」


ミレイユ

「どこがですか?」


ヤヌス

「食える」


ミレイユ

「食べられるかどうかで分けないでください」


ヤヌス

「じゃあ、どうやって分ける」


ミレイユ

「…………」


ミレイユは。


兎を見る。


次に。


牙の生えた巨大な魔獣を見る。


もう1度。


兎を見る。


ミレイユ

「見たら分かりませんか?」


ヤヌス

「分からん」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「どっちも食えるぞ」


ミレイユ

「そこから離れてください」


ヤヌス

「なんでだ」


ミレイユ

「話が進みません」


ヤヌス

「…………」


少し。


ミレイユの声に。


かつて《渡り鳥亭》でニコを叱っていた時の響きが戻っていた。


本人は。


気づいていない。


ミレイユ

「それに……」


大量の獲物を見る。


ミレイユ

「どうして、こんなに獲ってきたんですか?」


ヤヌス

「いたから」


ミレイユ

「……いたから?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「2人では食べきれませんよ」


ヤヌス

「そうなのか?」


ミレイユ

「そうです」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「必要以上に殺してはいけません」


ヤヌス

「何故だ?」


ミレイユ

「……何故って」


その言葉に。


ミレイユの表情が変わった。


ほんの少し前まであった。


呆れたような空気が消える。


ミレイユ

「命ですよ?」


「…………」


ヤヌスが。


ミレイユを見る。


ミレイユ

「食べるために必要なら……仕方ありません」


「私だって、お店で肉を使っていましたから」


「でも」


獲物へ。


目を落とす。


ミレイユ

「必要もないのに、奪うものではありません」


一瞬。


ニコの姿が。


脳裏をよぎった。


小さな手。


笑った顔。


腕の中で。


冷たくなっていった身体。


「…………」


ミレイユ

「あまり……命を粗末にしないでください」


静かな声だった。


ヤヌスは。


地面に転がる獲物を見た。


ヤヌス

「でも」


「…………」


ヤヌス

「俺の方が強かった」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「俺の方が強かったから」


「俺が、こいつらの命を奪った」


「…………」


悪意はない。


挑発しているわけでもない。


ただ。


ヤヌスにとっては。


それが世界だった。


強い者が奪う。


弱い者が奪われる。


人間も。


魔族も。


獣も。


何も変わらない。


「…………」


ミレイユの指が。


僅かに震えた。


それでも。


目を逸らさなかった。


ミレイユ

「……だからといって」


ヤヌス

「?」


ミレイユ

「無駄にしていい理由にはなりません」


「命を奪ったのなら……」


一度。


息を吸う。


ミレイユ

「せめて、無駄にしないでください」


「…………」


ヤヌスは考えた。


やがて。


ヤヌス

「分かった」


ミレイユ

「……はい」


ほんの少し。


安心した。


次の瞬間。


ヤヌス

「こいつらは俺が全部食べる」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「それなら無駄にならない」


ミレイユ

「全部?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「……この量を?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「魔獣も?」


ヤヌス

「俺は食える」


ミレイユ

「…………」


少し。


沈黙。


ミレイユ

「……そういう問題では……」


ヤヌス

「無駄にするなって言っただろ」


ミレイユ

「言いましたけど……」


ヤヌス

「なら食う」


ミレイユ

「…………」


言い返せない。


ミレイユは。


額へ手を当てた。


ミレイユ

「……好きにしてください」


ヤヌス

「ああ」


加入して。


まだ1日目。


すでに。


先が思いやられた。


◇◇◇


昼を少し過ぎた頃。


街道から外れた場所に。


小さな焚き火が作られていた。


その上。


鍋から湯気が立ち上っている。


鹿肉。


森で採れた野草。


ミレイユが持ってきた調味料。


旅の途中でも作れる、簡単な煮込み料理。


その少し離れたところでは。


もう1つ。


小さな焚き火が燃えていた。


その上には。


先ほどの魔獣。


正確には。


大きく切り分けられた肉の塊が、豪快に火へ炙られている。


ジュウゥ……。


脂が落ち。


炎が大きく揺れた。


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「なんだ」


ミレイユ

「いえ……」


少し迷ってから。


ミレイユは魔獣の肉を見る。


ミレイユ

「一応、料理した方がいいんでしょうか」


ヤヌス

「なんでだ?」


ミレイユ

「食べるのでしょう?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「でしたら……」


再び。


魔獣を見る。


「…………」


長年。


《渡り鳥亭》で料理を作ってきた。


肉の扱いには慣れている。


鹿も。


兎も。


鳥も。


珍しい食材だって、客から頼まれれば調理したことがある。


だが。


ミレイユ

「……魔獣は料理したことがありません」


ヤヌス

「しなくていい」


ミレイユ

「え?」


ヤヌス

「焼くだけだ」


ミレイユ

「焼くだけ……」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「味付けは?」


ヤヌス

「いらん」


ミレイユ

「臭みを取ったりは?」


ヤヌス

「しない」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「焼けば食える」


ミレイユ

「……ずっと、そうやって食べていたんですか?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「…………」


料理人として。


少しだけ。


許せないものを感じた。


ミレイユ

「せめて塩くらい使いませんか?」



ヤヌス

「?」


ミレイユ

「……なんでもありません」


ミレイユは。


自分の鍋へ向き直った。


ミレイユ

「こちらは、できましたよ」


ヤヌスが振り返る。


木の器に。


温かな煮込みが盛られている。


ヤヌス

「俺のか?」


ミレイユ

「他に誰がいるんですか」


ヤヌス

「…………」


受け取る。


湯気。


香草の匂い。


肉と野菜の香り。


ヤヌスは。


一口。


口へ運んだ。


「…………」


止まった。


ミレイユ

「……どうですか?」


ヤヌス

「美味い」


ミレイユ

「……そうですか」


ヤヌス

「美味い」


ミレイユ

「2回言わなくても分かります」


ヤヌスは。


もう1口。


今度は大きく口へ運ぶ。


そのまま。


夢中で食べ始めた。


ミレイユ

「そんなに急いで食べなくても、なくなりませんよ」


ヤヌス

「…………」


食べる。


ミレイユ

「熱いでしょう?」


ヤヌス

「平気だ」


ミレイユ

「……口の中、火傷しますよ」


ヤヌス

「しない」


ミレイユ

「そういうところだけ丈夫なんですね……」


ヤヌス

「?」


ミレイユ

「いえ」


また。


自然に。


口を出していた。


まるで。


店で食事をしている客に。


あるいは――


息子に。


「…………」


ミレイユは。


その考えを振り払うように。


隣で焼かれている魔獣へ目を向けた。


ミレイユ

「……ヤヌスさん」


ヤヌス

「なんだ」


ミレイユ

「少し気になったんですが」


ヤヌス

「?」


ミレイユ

「その魔獣と、私の料理」


「どちらが美味しいですか?」


ヤヌス

「…………」


ヤヌスは。


煮込みを見る。


次に。


火の上で焼かれている魔獣を見る。


少し考えた。


ヤヌス

「どっちも美味い」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「でも」


もう1口。


ミレイユの煮込みを食べる。


ヤヌス

「お前の料理の方が美味い」


「…………」


ミレイユの目が。


僅かに丸くなった。


ヤヌスは。


そんなことなど気にせず。


また料理を口へ運んでいる。


「…………」


ミレイユの口元が。


ほんの少しだけ。


緩んだ。


ミレイユ

「……そうですか」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「それは、よかったです」


料理を作って。


誰かが食べる。


美味しいと言ってもらえる。


ずっと。


当たり前だった光景。


『ヤヌスお兄ちゃん、これもおすすめ!』


「…………」


声が。


聞こえた気がした。


《渡り鳥亭》。


料理を運ぶ。


小さな背中。


笑顔。


『母さん! これも持ってっていい?』


「…………」


ミレイユの笑みが。


消えた。


持っていた匙が。


止まる。


「…………」


ヤヌスが。


顔を上げた。


ミレイユを見る。


さっきまでと。


顔が違う。


だが。


何を言えばいいのか。


分からない。


慰め方も。


励まし方も。


ヤヌスは知らない。


「…………」


だから。


何も言わなかった。


また。


ミレイユの作った料理を口へ運ぶ。


「…………」


ミレイユも。


何も言わない。


ただ。


焚き火の音だけが。


静かに続いていた。


◇◇◇


日が落ちた。


森の中。


小さな焚き火を囲むように。


ミレイユが野営の準備を進めている。


荷物を置き。


外套を敷き。


火へ薪を足す。


その間。


ヤヌスは。


近くの木へ手をかけた。


ミレイユ

「……ヤヌスさん?」


ヤヌス

「なんだ」


そのまま。


木へ登っていく。


ミレイユ

「何をしてるんですか?」


ヤヌス

「寝る」


ミレイユ

「木の上で?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「…………」


太い枝の上。


ヤヌスは。


慣れた様子で身体を預けた。


ミレイユ

「落ちませんか?」


ヤヌス

「落ちたことない」


ミレイユ

「……そうですか」


「…………」


今日1日。


ヤヌスと旅をして。


分かったこと。


歩く速度がおかしい。


目的地を知らない。


道を知らない。


地図もまともに読めない。


七魔将を知らない。


七魔将と戦ったことを大して気にしていない。


魔獣を食べる。


魔獣と動物の区別も怪しい。


必要以上に獲物を狩る。


そして。


木の上で寝る。


「…………」


ミレイユは。


焚き火を見つめた。


ミレイユ

「……本当に」


小さく。


呟く。


ミレイユ

「よく生きてこられましたね……」


木の上から。


ヤヌス

「生きてるぞ」


ミレイユ

「聞こえてたんですか」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「…………」


ほんの少し。


ミレイユの口元が緩んだ。


だが。


その笑みも。


長くは続かなかった。


◇◇◇


夜が深くなる。


パチッ。


焚き火が爆ぜる。


「…………」


ミレイユは。


横になっていた。


だが。


眠れない。


目を閉じる。


「…………」


ニコ。


目を開く。


暗い森。


もう1度。


目を閉じる。


崩れた《渡り鳥亭》。


泣き声。


雨。


血。


そして。


腕の中。


動かなくなった。


小さな身体。


「…………」


目を開ける。


眠れるはずがなかった。


復讐すると決めた。


ヤヌスについていくと決めた。


それでも。


何も。


終わっていない。


胸の奥には。


大きな穴が開いたままだった。


「…………」


ミレイユは。


身体を起こした。


膝を抱える。


炎を見る。


「…………」


その時。


ヤヌス

「……眠れないのか」


上から。


声が落ちてきた。


ミレイユが。


木を見上げる。


暗闇。


枝の上。


ヤヌスが。


横になっている。


ミレイユ

「……はい」


「…………」


少し。


沈黙。


ヤヌス

「俺も最初はそうだった」


ミレイユ

「……え?」


ヤヌス

「家族が死んだ後だ」


「…………」


それだけ。


大丈夫とも。


いつか忘れるとも。


時間が解決するとも。


言わない。


ただ。


自分にも。


同じように眠れない夜があった。


その事実だけ。


ミレイユ

「……そうですか」


「…………」


再び。


焚き火が爆ぜる。


パチッ。


長い沈黙。


やがて。


ミレイユ

「……いつか」


ヤヌス

「?」


ミレイユ

「眠れるようになりますか?」


「…………」


ヤヌスは。


少し考えた。


ヤヌス

「さあな」


ミレイユ

「…………」


あまりにも。


迷いのない答えだった。


ミレイユは。


炎を見つめる。


少しして。


ヤヌス

「でも」


ミレイユ

「……?」


ヤヌス

「疲れれば寝れる」


「…………」


ミレイユの目が。


僅かに見開かれた。


次の瞬間。


ミレイユ

「……ふふ」


小さな。


本当に。


小さな笑い声だった。


「…………」


笑った本人が。


一番驚いた。


口元へ。


手を当てる。


自分が。


笑った。


ニコが死んでから。


初めて。


「…………」


ヤヌス

「何がおかしい?」


ミレイユ

「……なんでもありません」


ヤヌス

「そうか」


ミレイユ

「はい」


笑みは。


すぐに消えた。


胸の痛みも。


消えてはいない。


ニコがいないことも。


何も変わらない。


それでも。


ほんの一瞬だけ。


息ができた。


そんな気がした。


◇◇◇


しばらくして。


ミレイユの呼吸が。


静かになった。


「…………」


木の上。


ヤヌスは。


まだ起きていた。


懐へ。


手を入れる。


取り出したのは。


1枚の紙。


雨に濡れ。


文字が少し滲んでいる。


「…………」


ニコ。


ミレイユ。


ヤヌス。


3つの名前。


ヤヌスの指が。


一番上の文字で止まる。


「…………」


視線を。


下へ向ける。


焚き火の近く。


ミレイユが。


眠っている。


「…………」


もう1度。


紙を見る。


どうして。


まだ持っているのか。


自分でも。


分からない。


捨てる理由も。


持っている理由も。


分からない。


「…………」


ヤヌスは。


紙を折った。


そして。


また。


懐の奥へ戻した。


◇◇◇


翌朝。


朝露に濡れた街道。


ミレイユが。


地図を広げている。


ミレイユ

「今日は、この道を進みます」


指先で。


街道をなぞる。


ミレイユ

「途中で分かれ道がありますが、右へ進んでください」


ヤヌス

「分かった」


ミレイユ

「本当に分かりました?」


ヤヌス

「ああ」


ミレイユ

「昨日もそう言いましたよね」


ヤヌス

「何の話だ」


ミレイユ

「動物です」


ヤヌス

「…………」


ミレイユ

「…………」


ヤヌス

「今日は間違えない」


ミレイユ

「……少し不安です」


地図を畳む。


2人は。


再び歩き始めた。


昨日と同じ。


ヤヌスが前。


ミレイユが後ろ。


「…………」


ミレイユが。


ふと。


顔を上げる。


「…………」


昨日とは。


少し違う。


距離が。


開かない。


ヤヌスの背中が。


ずっと。


同じくらいの場所にある。


「…………」


ミレイユは。


その足元を見る。


昨日より。


ほんの少し。


歩幅が小さい。


「…………」


何も。


言わなかった。


前を歩くヤヌスも。


何も言わない。


もしかすると。


本人にすら。


合わせている自覚はないのかもしれない。


ただ。


1人で歩いていた頃より。


ほんの少しだけ。


歩く速度が。


遅くなっていた。


「…………」


ヤヌスは。


前を見る。


ミレイユは。


その少し後ろを歩く。


まだ。


仲間と呼ぶには遠い。


互いのことも。


ほとんど知らない。


傷も。


何1つ癒えていない。


それでも。


2人の旅は。


こうして始まった。


向かう先に。


何が待っているのか。


2人は知らない。


そして。


ヤヌスが追い続けた仮面の男との再会が。


すぐそこまで迫っていることも。


まだ。


知らなかった。

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