第11話 名もなき男
第三章 第11話 名もなき男
森の奥深く。
陽の光すら届かない場所に、その砦はあった。
苔に覆われた石壁。
崩れかけた見張り台。
かつて人間が使っていたものなのか。
それとも、別の何者かが築いたものなのか。
今となっては、それを知る者はいない。
華美な装飾はない。
巨大な玉座もない。
あるのは地図と武器、食料、伝令のための魔道具。
戦を動かすために必要なものだけが置かれている。
魔王軍前線拠点。
その一室。
マルヴァス
「それで?」
低い声が響いた。
広げられた地図の前。
マルヴァスは椅子へ腰掛けている。
その前には数人の魔人が跪いていた。
魔人
「……リヴェルナの完全制圧には、至りませんでした」
マルヴァス
「被害は?」
魔人
「魔獣部隊は、人間側の魔獣狩りによって足止めされました」
「街への侵入には成功しましたが……相当数を失っています」
マルヴァス
「魔人部隊は」
魔人
「…………」
僅かに、魔人の声が詰まった。
魔人
「こちらも……多数が死亡しております」
マルヴァス
「原因は?」
怒気はない。
失望すらない。
ただ結果を確認している。
それだけだった。
魔人
「想定外の戦力が……」
マルヴァス
「続けろ」
魔人
「魔法を使う女が3名」
「その者たちによって、一部の部隊が阻まれました」
マルヴァス
「3人……」
僅かに目を細める。
魔人
「そして……もう1人」
マルヴァス
「…………」
魔人
「大剣を背負った、黒髪の男です」
「…………」
初めて。
マルヴァスの指が止まった。
マルヴァス
「……やはり、あの男か」
魔人
「ご存じなのですか?」
マルヴァス
「ああ」
椅子へ深く身体を預ける。
脳裏に浮かぶ。
森の中。
大剣を背負い、自分へ向けて殺意を隠そうともしなかった男。
マルヴァス
「どれほどやられた?」
魔人
「確認できた範囲では……」
報告が続く。
マルヴァスは黙って聞いていた。
やがて、口元が僅かに上がる。
マルヴァス
「生身の人間が、複数の魔人を……」
一拍。
マルヴァス
「ほとんど一方的に、か」
魔人
「……はい」
「生還した者の話では、剣すらほとんど使わなかったと」
「…………」
マルヴァスは、ゆっくりと頬杖をついた。
マルヴァス
「実に面白い」
魔人
「…………」
マルヴァス
「これほどの人間は、久しぶりだ」
その時だった。
部屋の空気が変わった。
最初に異変へ気づいたのは、跪いていた魔人の1人だった。
魔人
「……っ?」
額に汗が滲む。
何もされていない。
誰にも触れられていない。
それなのに。
胸が重い。
肺が押し潰されていく。
魔人
「な……なんだ……?」
別の魔人も喉へ手を当てる。
息が吸えない。
空気はある。
だが、身体が呼吸することを拒んでいる。
「…………」
マルヴァスの目が静かに細くなった。
――コツ。
足音。
誰も動けない。
――コツ。
石床を踏む乾いた音。
たったそれだけ。
なのに。
近づいてくるたび、空気が重くなる。
――コツ。
魔人
「ぐ……っ」
ガクンッ。
1人の魔人が両膝をついた。
魔人
「な……何が……」
その隣。
魔人
「ぐ、ぁ……!」
ドサッ。
もう1人が片手を床につく。
身体が震えている。
本能が叫んでいた。
頭を上げるな。
見るな。
逆らうな。
「…………」
その中で。
マルヴァスだけは平静を保っていた。
部下たちのように膝をつくこともなければ、呼吸を乱すこともない。
ただ。
先ほどまで浮かべていた薄い笑みだけが、静かに消えていた。
――コツ。
暗い通路の奥。
そこから1人の男が姿を現した。
顔を覆う仮面。
腰には剣。
ただ歩いている。
殺気など向けていない。
それでも、部屋にいる魔人たちは顔を上げることすらできなかった。
マルヴァスが椅子から立つ。
そして、静かに頭を下げた。
マルヴァス
「……カイン様」
カインは答えない。
床に膝をつく魔人たちなど、視界に入ってすらいないかのように。
その間を歩いていく。
――コツ。
魔人の1人が歯を食い縛る。
カインが横を通り過ぎただけで、全身から汗が噴き出した。
やがて。
足音が止まる。
カイン
「……結果は」
低い声。
それだけだった。
マルヴァス
「申し訳ございません」
「リヴェルナの完全制圧には至りませんでした」
カイン
「理由は」
マルヴァス
「人間側の抵抗が、想定を上回りました」
「魔獣狩りだけであれば、問題はなかったのですが」
「魔法を扱う女が3名」
「そして――」
僅かに間を置く。
マルヴァス
「大剣を背負った、黒髪の若い男です」
「…………」
カインの足が止まった。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないほど僅かに。
(――やはり、出てきたか)
カイン
「続けろ」
マルヴァス
「その男とは、私も直接対峙しました」
「仮面の魔人を探しているとの情報を得まして」
「少々、利用させていただきました」
カイン
「…………」
マルヴァス
「私が仮面をつけ、リヴェルナから誘い出したのですが……」
薄く笑う。
マルヴァス
「どうやら、目的は私ではなかったようで」
カインは何も言わない。
マルヴァス
「何やら――」
一拍。
マルヴァス
「カイン様を探していました」
「…………」
僅かな沈黙。
それだけだった。
驚きも。
怒りも。
動揺も。
仮面の奥からは何も読み取れない。
カイン
「……俺を探しているとは」
静かな声。
カイン
「とんだ命知らずだ」
マルヴァス
「私も、そう思います」
カイン
「どこで会った」
マルヴァス
「リヴェルナから北東」
「廃道沿いの森です」
「仮面の魔人を探しているという情報を利用し、そこまで誘い出しました」
カイン
「…………」
マルヴァス
「随分と必死に、カイン様の居場所を聞いてきましたよ」
僅かに口角が上がる。
マルヴァス
「どうやら……相当な執着があるようです」
カイン
「…………」
答えない。
マルヴァスは仮面の奥を窺う。
だが。
何も見えない。
ただ目の前に立っている。
魔王軍の頂点に立つ男。
それだけだった。
マルヴァス
「しかし……」
カイン
「…………」
マルヴァス
「実に興味深い男でした」
「生身の人間としては、相当なものです」
「もしかすると――」
薄い笑み。
マルヴァス
「久しぶりに、カイン様の望む“戦い”ができるやもしれません」
「…………」
静寂。
次の瞬間。
ドンッ!!
空気が落ちた。
魔人
「――ッ!?」
床がミシッと軋む。
先ほどまでとは、まるで違う。
立ち上がりかけていた魔人たちが、一斉に地面へ叩き伏せられた。
魔人
「ぐ……ぁ……!」
魔人
「い、息が……!」
両手をつく。
頭を上げられない。
身体が意思に反して震える。
石壁から細かな砂埃が落ちる。
机の上の地図がばさばさと揺れた。
そして。
マルヴァスの外套までもが、風もないのに僅かに揺れた。
マルヴァス
「……っ」
右足が半歩、後ろへ滑る。
額を1筋の汗が伝った。
七魔将。
魔王軍最高幹部の1人。
そのマルヴァスですら、今度ばかりは平静を保ちきれない。
カインは動いていない。
剣にも触れていない。
声すら荒らげていない。
ただ。
ゆっくりと仮面をマルヴァスへ向ける。
カイン
「……マルヴァス」
マルヴァス
「……はっ」
カイン
「俺と――」
静かな声。
カイン
「その小僧が同格だと?」
「…………」
マルヴァスの笑みが完全に消えた。
マルヴァス
「……いえ」
「そのような意味では――」
カイン
「勘違いするな」
言葉を遮る。
カイン
「そいつが強いんじゃない」
仮面が、床に伏している魔人たちへ向く。
カイン
「――お前の部下が弱かっただけだろう」
魔人
「…………ッ」
誰1人。
反論できない。
マルヴァスは静かに頭を下げた。
マルヴァス
「……失礼いたしました」
カインが再び歩き出す。
――コツ。
その1歩とともに。
重圧が僅かに薄れる。
――コツ。
魔人たちがようやく息を吸った。
だが。
誰1人、顔を上げない。
数歩進んだところで。
カイン
「……マルヴァス」
マルヴァス
「はっ」
カインは振り返らない。
カイン
「くだらん人間1人に構うな」
「お前は予定通り動け」
マルヴァス
「……承知いたしました」
――コツ。
――コツ。
足音が遠ざかっていく。
やがて。
暗闇の奥へ。
仮面の男は消えた。
「…………」
しばらく、誰も動かなかった。
魔人
「はぁ……っ」
魔人
「はぁ……はぁ……!」
ようやく呼吸を取り戻す。
床へ両手をついたまま、立ち上がれない者もいる。
マルヴァスだけが。
カインの消えた暗闇を見つめていた。
長い沈黙。
そして。
マルヴァス
「……予定通り、か」
小さく呟く。
やがて。
消えていた笑みが、ゆっくりと戻る。
マルヴァス
「くだらん人間……ねぇ」
脳裏に黒髪の男が浮かぶ。
自分を前にしても怯まなかった。
魔人を素手で殺した。
そして何より。
カインを探している。
マルヴァスの目が細くなる。
マルヴァス
「……面白い」
近くの魔人へ視線を向ける。
マルヴァス
「あの男の行方だけは追っておけ」
魔人
「……え?」
マルヴァス
「聞こえなかったか?」
魔人
「い、いえ……!」
「ですが……カイン様は、構うなと……」
マルヴァスの視線が冷たくなる。
マルヴァス
「誰が接触しろと言った?」
魔人
「……っ」
マルヴァス
「手を出す必要もない」
「ただ――」
一拍。
マルヴァス
「見ていればいい」
魔人
「……はっ」
マルヴァス
「カイン様が“くだらん”と仰った人間だ」
再び薄く笑う。
マルヴァス
「ならば、それを確かめるくらい……構わんだろう?」
魔人
「……承知いたしました」
頭を下げる。
マルヴァスは再び地図へ目を落とした。
だが。
その頭から、大剣を背負った男の姿が消えることはなかった。
◇◇◇
街道を。
馬蹄の音が埋め尽くしていた。
先頭を駆けるのはガレス。
その隣をアークが走り。
後方には、教会兵たちが隊列を組んで続いている。
武器を携えた騎兵。
負傷者を運ぶための荷馬車。
治療に必要な物資を積んだ馬車。
交易都市リヴェルナが魔王軍の襲撃を受けた。
その報を受け。
ガレスの指揮する部隊が、街道を急行していた。
アーク
「ガレスさん!」
風を切りながら。
アークが声を張る。
アーク
「もっと急げませんか!?」
ガレス
「隊列を崩すな」
アーク
「でも……まだ戦っているなら!」
「助けられる人がいるかもしれない!」
ガレス
「だからこそだ」
アーク
「……え?」
ガレスは前を見たまま答える。
ガレス
「焦りは視野を狭める」
「俺たちだけが着けばいいわけではない」
「負傷者を運ぶ者も、治療する者も必要になる」
「部隊を置き去りにして何になる」
アーク
「…………」
ガレス
「お前は勇者だ」
「真っ先に飛び込むだけが、人を救うことではない」
アークが唇を噛む。
それでも。
前方から目を離さない。
アーク
「……はい」
ガレス
「だが――」
手綱を握る。
ガレス
「可能な限り急ぐ」
アーク
「……はい!」
ガレスが片手を上げた。
それを見た後方の騎兵たちが、一斉に馬を加速させる。
幾つもの蹄が地面を蹴る。
土煙を上げながら。
教会の一隊はリヴェルナへ向かった。
やがて。
遠くに城壁が見えてきた。
アーク
「……あれが……」
リヴェルナ。
だが。
近づくにつれ。
アークの表情が変わっていく。
街の上空へ昇っている。
幾筋もの黒煙。
城壁の一部は崩れ。
門へ近づくにつれて、街道脇に人が増えていく。
血の滲んだ布を腕へ巻いた男。
足を引きずる女。
泣きじゃくる子供を抱き締めた母親。
荷物すら持たず。
ただ街の外へ歩いていく者たち。
「…………」
先ほどまで何度も急げと叫んでいたアークから。
言葉が消えた。
門を潜る。
そして。
その先に広がっていた光景を見て。
完全に息を呑んだ。
焼け焦げた家。
崩れた壁。
瓦礫に染みついた血。
布に包まれ、運ばれていく死者。
道端で泣き崩れる人間。
瓦礫を掻き分け。
必死に家族の名を呼ぶ者。
戦いは。
もう。
終わっていた。
アーク
「……遅かった……」
手綱を握る手に力が入る。
力を得た。
勇者になった。
戦える。
魔人だって倒せる。
それでも。
その場にいなければ。
何も救えない。
ガレス
「アーク」
「…………」
アークが顔を上げる。
ガレスはすでに馬から降りていた。
後方から到着した教会兵たちへ、次々と指示を飛ばしていく。
ガレス
「負傷者の治療を最優先!」
「動ける者は瓦礫の撤去と生存者の捜索に回れ!」
教会兵
「はっ!」
ガレス
「周囲の警戒も怠るな! 魔獣が残っている可能性がある!」
教会兵
「了解!」
一斉に。
兵たちが動き出す。
ガレスがアークを見る。
ガレス
「アーク」
「まだ終わっていない」
「…………」
ガレス
「生存者を救え」
アーク
「……!」
瓦礫の向こう。
負傷した男が担がれている。
アーク
「……はい!」
馬から飛び降りる。
アーク
「俺も手伝います!」
そのまま。
人々の中へ走っていった。
しばらくして。
救助活動を指揮していたガレスが、街の一角で足を止めた。
魔獣の死骸。
人間の死体。
崩れた建物。
戦いの痕。
それ自体は。
ここへ来てから何度も目にしている。
だが。
ガレス
「……なんだ」
視線の先。
ガレス
「これは……」
そこだけ。
景色が違った。
魔人。
魔人。
魔人。
何体もの死体が転がっている。
首を折られたもの。
頭部を破壊されたもの。
胸部を陥没させられたもの。
壁へ叩きつけられ。
身体を潰されたもの。
「…………」
ガレスの表情が変わる。
ゆっくりと1体へ近づき。
しゃがみ込む。
傷へ触れる。
斬撃ではない。
魔法でもない。
打撃。
しかも。
異常な威力。
別の死体。
首を確認する。
一撃。
さらに別の個体。
砕かれた頭部。
これも。
ほぼ一撃。
アーク
「ガレスさん!」
後ろからアークが駆けてくる。
アーク
「どうしたんですか?」
返事がない。
アークも。
やがて目の前の光景に気づいた。
アーク
「……魔人……」
ガレスは立ち上がり。
改めて周囲を見渡した。
ガレス
「内輪揉めか……?」
一瞬。
そう考える。
だが。
すぐに首を横へ振る。
ガレス
「いや……あり得ん」
アーク
「……?」
ガレス
「こいつらは同じ軍の魔人だ」
「装備も統一されている」
「互いに殺し合った形跡もない」
もう1度。
死体を見る。
ガレス
「……同じだ」
アーク
「同じ……?」
ガレス
「殺し方が」
アーク
「…………」
ガレス
「傷の位置も、威力も……似すぎている」
「複数人で仕留めた痕跡もない」
アーク
「それって……」
ガレス
「……まさか」
ガレスの目が鋭くなる。
ガレス
「同じ人間が……全部やったのか」
アーク
「……人間が?」
周囲を見渡す。
これだけの。
魔人を。
たった1人で。
アーク
「そんな……」
ガレス
「…………」
ガレスは。
転がる魔人たちを見下ろした。
そして。
低く呟く。
ガレス
「……誰がやった」
近くで瓦礫を運んでいた魔獣狩りへ。
アークが声をかける。
アーク
「すみません」
魔獣狩り
「ああ?」
アーク
「この魔人たちを倒した人を知りませんか?」
男が2人を見る。
そして。
アークとガレスの装備を見て。
少し表情を変えた。
魔獣狩り
「……教会の人間か」
ガレス
「そうだ」
魔獣狩り
「…………」
一瞬だけ迷い。
死体へ目を向ける。
魔獣狩り
「黒髪の若い男だ」
アーク
「黒髪の……?」
魔獣狩り
「ああ」
「馬鹿みてぇにでかい剣を背負ってた」
「…………」
アークの表情が僅かに変わる。
魔獣狩り
「ただ……ほとんど使ってねぇ」
アーク
「……え?」
魔獣狩り
「その剣だよ」
魔獣狩りは。
周囲に転がる死体を見る。
魔獣狩り
「魔人どもを……素手で……」
言葉を探す。
だが。
昨夜見た光景をどう表現すればいいのか。
分からなかった。
魔獣狩り
「……一瞬だった」
「…………」
アークは魔人の死体を見る。
脳裏に。
以前の戦いが蘇る。
Aランクの魔人。
剣を握り。
傷を負い。
息を切らし。
死力を尽くして。
ようやく倒した。
そして。
今。
目の前には。
何体もの魔人の死体。
アーク
「……大剣を持った男……」
呟く。
その隣。
ガレスは何も言わなかった。
ただ。
地面に残された戦いの痕を。
静かに見つめていた。
◇◇◇
街の中央付近。
ルミナ
「これで大丈夫です」
負傷した男の腕へ布を巻く。
男
「あ、ありがとう……」
ルミナ
「無理に動かさないでくださいね」
男
「ああ……」
ルミナが小さく息を吐く。
その少し後ろ。
ノクスとリリアが周囲を見ていた。
リリア
「だいぶ落ち着いてきたね」
ノクス
「ああ」
その時。
人々の向こう。
教会兵たちの姿が見えた。
負傷者を担架へ乗せ。
瓦礫を運び。
次々と街の中へ散っていく。
そして。
その中心に。
2人の男がいた。
1人は若い男。
そして。
その隣。
教会兵たちへ指示を出しながら歩く大柄な男。
「…………!」
ルミナの目が僅かに見開かれた。
教会。
脳裏に声が蘇る。
『外では、自分の魔力を不用意に見せるな』
エリュシア。
『特に教会にはな』
『お前の力を知れば』
『利用しようとする者が、必ず現れる』
「…………」
ルミナが静かに息を吐く。
身体の奥。
流れる魔力をさらに深く押し込める。
ノクスが横目で見る。
言葉はない。
だが。
すぐに理解した。
リリアも僅かに表情を変える。
3人の気配が静かに沈む。
アーク
「すみません」
ルミナが顔を上げる。
アークがこちらへ歩いてきていた。
アーク
「怪我はありませんか?」
ルミナ
「……はい」
一瞬だけ間があった。
ルミナ
「私たちは大丈夫です」
アーク
「そうですか」
ほっとしたように表情が緩む。
アーク
「よかった」
「まだ瓦礫の中に魔獣が残っている可能性があります」
「できるだけ、1人では動かないでください」
ルミナ
「……分かりました」
「ありがとうございます」
アーク
「いえ」
「…………」
ルミナは少しだけアークを見る。
教会。
その言葉だけなら。
警戒すべき相手。
だが。
目の前の男は汗と埃にまみれている。
手には。
瓦礫を退かした時についた傷。
さっきまでずっと。
人を助けていたのだろう。
悪い人には。
見えなかった。
その時。
「…………」
ルミナが。
視線に気づいた。
顔を向ける。
ガレスが。
こちらを見ていた。
ルミナ
「……?」
目が合う。
何も言わない。
ただ。
見る。
ルミナの背筋に僅かな緊張が走る。
ガレスはほんの少し眉を寄せた。
妙だ。
そう感じただけだった。
魔力が強いわけではない。
殺気もない。
武器も。
特別なものは見当たらない。
それなのに。
何かが引っかかる。
「…………」
だが。
それ以上は追及しなかった。
アーク
「そうだ」
アークが思い出したように口を開く。
アーク
「1つ、聞いてもいいですか?」
ルミナ
「……はい」
アーク
「この街で」
「大きな剣を背負った、黒髪の男を見ませんでしたか?」
ドクン。
ルミナの心臓が跳ねた。
ノクスの目が僅かに細くなる。
リリアも。
ほんの一瞬。
ルミナを見る。
ヤヌス。
間違いない。
この人たちは。
ヤヌスを探している。
なぜ。
何のために。
分からない。
けれど。
教会がヤヌスをどう扱うのかも分からない。
脳裏に。
もう1度。
エリュシアの言葉が浮かぶ。
『不用意に、自分のことを話すな』
『知らなくていい者にまで』
『自分から教えてやる必要はない』
「…………」
ルミナはアークを見る。
優しそうな人だ。
人を助けていた。
きっと。
悪い人ではない。
それでも。
ヤヌスのことは。
別だった。
ルミナ
「……いいえ」
アーク
「そうですか……」
ルミナ
「はい」
一拍。
ルミナ
「知りません」
「…………」
アークは小さく頷いた。
アーク
「分かりました」
「ありがとうございます」
ルミナ
「…………」
胸が。
少し痛んだ。
嘘をついた。
それでも。
今は。
これでいい。
その横。
ガレスだけが。
黙ってルミナを見ていた。
ほんの。
僅かな間だけ。
◇◇◇
その頃。
リヴェルナから離れた街道。
ヤヌスは歩いていた。
背には。
布で包まれたアウロラ。
その少し後ろ。
ミレイユが鞄を背負い。
黙ってついていく。
やがて。
2人は小さな石橋へ差しかかった。
下を。
昨日の雨で水かさを増した川が流れている。
ヤヌスは何も言わず。
橋へ足を踏み入れた。
「…………」
ミレイユの足が止まる。
振り返る。
遠く。
朝靄の向こう。
リヴェルナの街並みが小さく見える。
夫と暮らした街。
ニコを育てた街。
《渡り鳥亭》があった街。
笑った。
怒った。
泣いた。
生きた。
そして。
全部。
失った場所。
「…………」
ミレイユの手が鞄へ触れる。
その奥。
布に包んだ。
小さな木の匙。
胸が痛む。
今すぐ戻りたい。
そう思ったのか。
もう2度と見たくない。
そう思ったのか。
自分でも分からなかった。
ただ。
しばらく。
街を見つめた。
やがて。
ミレイユは前を向く。
「…………」
ヤヌスはもう。
橋の半ばまで歩いていた。
振り返っていない。
待ってもいない。
ミレイユはその背中を見る。
自分を救ってくれる男ではない。
守ってくれる男でもない。
優しい言葉をかけてくれるわけでもない。
それでも。
あの背中の先には。
自分と同じものがある。
奪われたもの。
失ったもの。
そして。
復讐。
「…………」
ミレイユは。
1歩。
橋へ足を踏み出した。
また1歩。
歩き出す。
ヤヌスとの距離は。
まだ遠い。
それでも。
止まらない。
2人は知らない。
リヴェルナで。
何が始まっているのか。
自分たちが去った後。
大剣を背負った男の話が。
少しずつ広がり始めていることを。
魔王軍の参謀が。
その行方を追い始めたことを。
教会の勇者が。
その存在を意識したことを。
人類最強の聖騎士が。
残された戦いの痕を見つめていることを。
そして。
ずっとヤヌスを探していた女性が。
その名を。
胸の中で守ったことを。
何も。
知らない。
ヤヌスは。
ただ前へ進む。
ミレイユも。
その後を歩く。
1人だった旅に。
もう1人。
同じように奪われた人間が加わった。
まだ。
仲間ではない。
互いを救ったわけでもない。
ただ。
奪われた2人が。
同じ方向へ歩き始めただけ。
橋を渡り終えたヤヌスの背中を。
ミレイユが追う。
その先に。
何があるのか。
まだ。
誰も知らない。




