第17話 拒絶
『黒印のヤヌス』
第3章 第17話「拒絶」
風が、荒野を吹き抜けていた。
先ほどまで大地を焼いていた炎は消え、砕けた岩と黒く焦げた地面だけが残されている。
その中心に、ヤヌスが立っていた。
右手には、小刀が深く突き刺さっている。指先から滴った血が、足元の砂へ吸い込まれていった。
ヤヌス 「はぁ……はぁ……」
肩が大きく上下する。
身体を覆っていた黒い筋は、すでに右手の痣へ戻っていた。だが、その奥では、まだ何かが脈打っている。
ヤヌスは小刀の柄を左手で握ったまま、荒い呼吸を繰り返していた。
ルミナ 「ヤヌス……!」
ルミナが駆け寄ろうとする。
少し離れた場所では、ミレイユも立ち上がろうとしていた。
ミレイユ 「ヤヌスさん……!」
その2人の前で、エリシュアが静かに右手を下ろした。
ヤヌスの周囲を囲んでいた魔法陣が、1つ、また1つと光を失っていく。最後の魔法陣が消えた時、荒野には再び静けさが戻った。
エリシュアは、ヤヌスの右手を見つめていた。
自らの手へ刃を突き立て、黒い力を抑え込んだ少年。
その姿を見ても、彼女の表情は変わらない。
エリシュア 「……その女のおかげで命拾いしたな。ヤヌス」
ヤヌスは顔を上げなかった。
エリシュア 「ルミナに感謝するんだな。あの娘が止めなければ、お前は今頃ここに立っていない」
ヤヌス 「…………」
エリシュア 「勘違いするな。お前を許したわけではない」
返事はない。
ただ、小刀を握る左手に僅かに力が込められた。
エリシュアは、それ以上何も言わなかった。
先ほどまで理性を失いかけていた少年が、自らの意志で黒い力に抗った。その事実を、見逃してはいない。
だが、それだけで危険が消えたわけではなかった。
◇◇◇
教会兵 「お願いです!! 早く来てください!!」
切羽詰まった声が響いた。
荒野の向こうから駆けてきた教会兵が、エリシュアたちの前で膝をついていた。息は乱れ、鎧には砂がこびりついている。
教会兵 「ガレス様が……! 勇者様も……!」
兵士は言葉を詰まらせた。
教会兵 「みんな……みんな倒されて……!」
エリシュアの目が細くなる。
エリシュア 「……説明は後だ。案内しろ」
教会兵 「は、はい!!」
エリシュアが片手を上げた。
すると、足元に淡い光が広がり始める。
ノクス 「……ん?」
次の瞬間、ノクスの身体がふわりと浮かび上がった。
ノクス 「わわっ!?」
リリア 「おおっ!」
リリアも宙へ浮かび、面白そうに足を動かしている。
教会兵は突然のことに悲鳴を上げた。
教会兵 「う、うわぁっ!? な、何が!?」
エリシュア 「騒ぐな。すぐに着く」
エリシュア自身の足も、ゆっくりと地面から離れた。
ルミナの身体も浮かび上がる。
だが、ルミナだけは、ヤヌスから目を離せずにいた。
ルミナ 「……お師匠様。私……」
エリシュアは、その視線を追った。
傷だらけの少年。その傍らで、心配そうに立っているミレイユ。そして、少年から目を離せずにいるルミナ。
エリシュアは小さく息を吐いた。
エリシュア 「……自分で決めろ」
ルミナを包んでいた浮遊魔法が、僅かに緩んだ。身体がゆっくりと降下し、足先が地面へ近づいていく。
その時だった。
ヤヌス 「……行け」
低い声が響いた。
ルミナ 「……えっ?」
ルミナが顔を上げる。
ヤヌスは、俯いたままだった。
ヤヌス 「俺は1人で行く」
リリア 「えぇっ!?」
リリアが思わず声を上げた。
ルミナは、すぐには言葉を返せなかった。
ルミナ 「……ヤヌス……?」
ノクス 「貴様!! ルミナがどれだけ――」
ヤヌス 「関係ない」
ノクスの言葉を遮った。
その声は、驚くほど冷たかった。
怒鳴ったわけではない。苛立ちを露わにしたわけでもない。
ただ、当然のことを告げるように言い切った。
ヤヌス 「俺には、やらなければいけないことがある」
ルミナの表情が曇る。
ルミナ 「……それって、復讐?」
ヤヌスは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に迷いはなかった。
ヤヌス 「ああ」
短い返事。
ヤヌス 「カインを殺す。今の俺はそれだけだ」
風が、2人の間を吹き抜けた。
ヤヌス 「それ以外は不要だ」
ルミナの表情が強張った。
3年間。
何度も思い描いた再会。
ようやく名前を呼び合い、同じ場所に立てた。
けれど、ヤヌスの言葉は、まるでその3年間を切り捨てるようだった。
ルミナは唇を噛みしめる。
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
リリア 「ちょっとちょっと!!」
突然、リリアが声を上げた。
浮かんでいた身体を強引に下ろし、ヤヌスへ詰め寄る。
リリア 「ヤヌス君!! その言い方はないんじゃない!?」
ヤヌス 「…………」
リリア 「ルミナはね! ヤヌス君、貴方のために!」
リリアの声が荒くなる。
リリア 「ずっと!! ずっと辛い修行を頑張って……!」
拳を握りしめる。その目が、次第に潤み始めた。
リリア 「何度も倒れて……それでも諦めないで……!」
リリアは、ルミナの3年間を見てきた。
傷だらけになっても立ち上がる姿を。
限界まで魔力を使い、意識を失った夜を。
それでも翌朝には、また修行へ向かっていた姿を。
何のために、そこまで頑張っていたのか。
リリアは知っていた。
リリア 「ずっと……! 会えるのを待ってたんだから!!」
涙が、頬を伝った。
ルミナ 「……リリア……」
ルミナが小さく名前を呼ぶ。
ノクスも険しい表情でヤヌスを睨んでいた。
だが、ヤヌスの表情は変わらない。
ヤヌス 「……関係ないと言ってる」
リリアの肩が震えた。
ヤヌス 「復讐以外のことは切り捨てた」
沈黙が落ちる。
リリアは唇を震わせ、何か言い返そうとした。だが、言葉にならなかった。
その時。
エリシュア 「……ヤヌス」
エリシュアが静かに口を開いた。
エリシュア 「やっぱり、ここで死んでおくか?」
――パチン。
指先に、小さな火球が現れた。
それは瞬く間に膨れ上がり、周囲の空気を熱で歪ませていく。
ヤヌスは顔を上げた。
だが、剣を構えようとはしなかった。ただ、エリシュアを睨み返している。
ルミナ 「お師匠様!!」
ルミナが叫ぶ。
エリシュアは火球を維持したまま、ルミナへ視線を向けた。
しばらく、2人は見つめ合っていた。
やがて、ルミナが小さく俯いた。
ルミナ 「……行きましょう」
リリア 「……え?」
リリアが振り返る。
リリア 「いいの!? ルミナ!!」
ルミナは答えない。
リリア 「ずっと探してたんでしょ!? やっと会えたんでしょ!?」
ノクス 「そうだぞ、ルミナ!」
ノクスも思わず声を上げた。
だが、ルミナは静かに首を振った。
ルミナ 「……うん」
そして、ヤヌスへ顔を向ける。
泣きそうな表情を隠すように、唇を持ち上げた。
ルミナ 「……ヤヌス」
ヤヌスは何も言わない。
ルミナは、その顔を見つめた。
傷だらけの身体。
血に濡れた右手。
3年前とは、何もかも変わってしまった少年。
それでも、目の前にいるのはヤヌスだった。
ルミナ 「また会おうね」
ヤヌス 「…………」
返事はなかった。
エリシュアが指を閉じる。
巨大な火球が、音もなく消えた。
そして、再び浮遊魔法が展開される。
ルミナの身体が、ゆっくりと宙へ浮かんだ。ノクスとリリアも、その隣へ並ぶ。
リリア 「……ルミナ……」
リリアが心配そうに見つめる。
だが、ルミナは何も言わなかった。
ただ、最後までヤヌスを見つめていた。
やがて、エリシュアたちの身体が荒野の向こうへ飛び去っていく。
ルミナの姿が、小さくなる。
そして、見えなくなった。
ヤヌスは、その場から動かなかった。
何も言わず、ただ荒野を見つめていた。
その隣には、ミレイユだけが残っていた。
◇◇◇
荒野を渡る乾いた風が、ヤヌスの焼け焦げた衣服を揺らしていた。
エリシュアたちの姿は、すでに見えなくなっている。
遠くには、切り裂かれた山々が連なっていた。
かつて、勇者レオンが戦ったと伝えられる場所。
その荒野に、ヤヌスとミレイユだけが残されていた。
ヤヌス 「……ぐっ!」
突然、ヤヌスが顔を歪めた。
左手で小刀の柄を握り、右手から一気に引き抜く。
ズッ――。
刃が抜けた瞬間、傷口から血が溢れた。
ヤヌスは小さく舌打ちする。
ミレイユ 「ヤヌスさん!!」
ミレイユが慌てて駆け寄った。
ミレイユ 「そんな……! やっぱり、ルミナさんに治療してもらった方が……!」
ヤヌス 「必要ない」
ヤヌスは短く答える。
ヤヌス 「前からこうしてた」
ミレイユ 「……前から?」
ミレイユは思わず聞き返した。
前から。
その言葉が、妙に引っかかった。
今の行為が、初めてではないということ。
つまり、ヤヌスはこれまでも、自らの手へ刃を突き立ててきたのだ。
ミレイユは、血の滴る右手を見つめた。
だが、ヤヌスは説明しなかった。
小刀についた血を軽く払い、懐へ戻す。そして、別のものを取り出した。
黒い布。
使い込まれたその布には、何度も巻き直したような折り目が残っていた。
ヤヌスは布の端を歯で咥え、右手へ巻きつけようとする。
だが、上手くいかない。
左手だけで布を引き、傷口を押さえようとするものの、血で滑ってしまう。布が緩み、端が指の間から落ちた。
ヤヌス 「……ちっ」
もう1度。
今度は強く引っ張る。
だが、右手に痛みが走り、思わず力が緩んだ。
その様子を見ていたミレイユが、静かに手を伸ばした。
ミレイユ 「私が巻きます」
ヤヌス 「自分でできる」
ミレイユ 「ちゃんと巻けてないです」
ヤヌス 「巻けてる」
ミレイユ 「巻けてません。緩んでます」
ヤヌス 「…………」
ヤヌスは布を引き直した。
しかし、傷口を覆った部分がずれ、再び血が滲み始める。
ミレイユは、その手元をじっと見つめていた。
ミレイユ 「ほら、またずれました」
ヤヌス 「……うるさい」
ミレイユ 「しっかり締めないと、血が止まりません」
ヤヌス 「…………」
ミレイユ 「ヤヌスさん」
ミレイユが、少しだけ首を傾げた。
ミレイユ 「手を貸してください」
ヤヌスは顔を背けた。
しばらく、そのまま黙っていた。
やがて。
ヤヌス 「……ちっ」
小さく舌打ちし、右手を差し出した。
ミレイユは、ほんの少し微笑んだ。
ミレイユ 「ありがとうございます」
ヤヌス 「礼を言うことじゃないだろ」
ミレイユ 「そうですね」
ミレイユは黒い布を受け取った。
そして、差し出された右手をそっと支える。
その時だった。
ミレイユ 「…………」
ミレイユの手が止まった。
ヤヌスの右手を、こんなにも近くで見たのは初めてだった。
出会った時から、彼の右手にはいつも黒い布が巻かれていた。
食事をする時も、眠る時も。
何をする時でさえ、その布を外そうとはしなかった。
だから、知らなかった。
布の下に、これほど多くの傷が隠されていたことを。
新しい傷だけではない。
古い傷跡が、幾重にも重なっている。
刃物でつけたような細い傷。
深く裂け、歪な形で塞がった痕。
そして、その中心にある黒い痣。
まるで、何度も同じ場所を傷つけてきたかのようだった。
ミレイユは、先ほどの光景を思い出す。
黒いものに呑まれかけたヤヌスが、迷わず自分の右手へ小刀を突き立てた姿。
あの行為を、これまで何度繰り返してきたのだろう。
問いかけようとして、口を閉じた。
ヤヌスは何も言わない。
ただ、差し出した手を動かさずにいた。
ミレイユは傷口へ視線を戻し、黒い布を丁寧に重ね始めた。
ミレイユ 「……痛みますか?」
ヤヌス 「別に」
ミレイユ 「そうですか」
布を少し引き締める。
ヤヌス 「……っ!」
ヤヌスの眉が僅かに動いた。
ミレイユは、その顔を見上げる。
ミレイユ 「痛いんですね」
ヤヌス 「……痛くない」
ミレイユ 「はいはい」
ヤヌス 「…………」
ミレイユは小さく笑った。
その声は、荒野の静けさの中で不思議と柔らかく響いた。
先ほどまで、命を奪い合う戦いが繰り広げられていた場所。
今も、周囲には焼け焦げた大地と砕けた岩が残っている。
だが、2人の間に流れる時間だけは、どこか穏やかだった。
ミレイユは布の端を折り込み、最後に結び目を整えた。
ミレイユ 「……はい。できました」
ヤヌスは右手を持ち上げ、指を軽く動かす。
布は緩まない。
傷口もしっかり押さえられていた。
ヤヌス 「…………」
ミレイユ 「どうですか?」
ヤヌス 「……悪くない」
ミレイユ 「ふふ。ありがとうございます」
ヤヌス 「……だから、礼を言うことじゃないだろ」
ミレイユは、もう1度小さく笑った。
ヤヌスはそれ以上何も言わず、右手を下ろした。
黒い布が、風に僅かに揺れていた。
◇◇◇
しばらくの沈黙が流れた。
ヤヌスはアウロラを手に取り、歩き出そうとする。
だが、その前に足を止めた。
ヤヌス 「……お前も、ここで別れろ」
ミレイユが顔を上げる。
ミレイユ 「……なぜですか?」
ヤヌス 「ついてくる必要はない」
ヤヌスは振り返らない。
ただ、遠くの荒野を見つめていた。
ミレイユ 「前にも言いましたよね」
ミレイユは穏やかな声で続けた。
ミレイユ 「私には、もう行くところも、帰るところもありません」
ヤヌス 「……怖くないのか?」
ミレイユ 「怖いです」
即答だった。
ヤヌスが僅かに振り返る。
ミレイユ 「さっきも……本当に怖かったです」
ミレイユは、ゆっくりと自分の手を見下ろした。
指先は、まだ僅かに震えていた。
ミレイユ 「身体が動かなくなって……声も出せなくなって……」
あの仮面の男。
ただ殺気を向けられただけで、立つことさえできなくなった。
そして、エリシュアの魔法。
目の前で大地が焼かれ、岩が砕けていく光景。
何より。
黒いものに覆われ、何度も「殺す」と繰り返していたヤヌス。
あの時、目の前にいたのが本当に彼なのかさえ分からなくなった。
思い出すだけで、胸が締めつけられる。
ミレイユ 「……今でも、怖いです」
ヤヌス 「だったら――」
ミレイユ 「でも……守ってくれましたよね」
ヤヌスの言葉が止まった。
ミレイユは、静かに微笑んでいた。
ミレイユ 「エリシュア様が、あんなにたくさん魔法を放ったのに……」
ミレイユは、周囲の大地へ目を向けた。
抉られた地面。
砕けた岩。
焼け焦げた砂。
至るところに、凄まじい戦闘の痕が残っている。
だが、自分がいた場所には、ほとんど被害がなかった。
ミレイユ 「私には、1度も当たりませんでした」
ヤヌスは何も言わない。
ミレイユ 「ヤヌスさんが守ってくれたんですよね」
ヤヌス 「……たまたまだ」
短い返事だった。
ミレイユは、それ以上追及しなかった。
ミレイユ 「……そうですか」
少しだけ、沈黙が流れる。
風が、2人の間を吹き抜けた。
やがて、ミレイユが再び口を開く。
ミレイユ 「それに……私、確信しているんです」
ヤヌス 「……何をだ?」
ミレイユは、ヤヌスを見つめた。
その顔には、先ほどと変わらない穏やかな微笑みが浮かんでいた。
ミレイユ 「貴方なら、必ずマルヴァスを殺してくれるって」
あまりにも静かな声だった。
まるで、明日の天気でも話すように。
だが、その言葉には、揺るぎない憎しみが込められていた。
ヤヌスが、僅かに目を細める。
ヤヌス 「……確信、だと?」
ミレイユ 「はい」
ミレイユは頷いた。
ミレイユ 「カインさんが口にしていたじゃありませんか」
ミレイユ 「七魔将のこと」
ヤヌス 「カインだ。『さん』は付けるな」
ミレイユ 「失礼しました」
ミレイユは素直に頭を下げた。
だが、その表情は変わらない。
ミレイユ 「それで……探すんでしょう? 七魔将のこと」
ヤヌス 「…………」
ミレイユ 「なら、私もご一緒します」
ヤヌスは、しばらくミレイユを見つめていた。
そして、低い声で答えた。
ヤヌス 「……マルヴァスを探すとは限らない」
ミレイユ 「構いません」
迷いのない返事だった。
ミレイユ 「ですが、他の七魔将について何かご存じなんですか?」
ヤヌス 「…………」
ヤヌスは答えなかった。
ミレイユは、静かにその顔を見つめている。
ヤヌス 「……危険だぞ」
ミレイユ 「危険は承知しています」
ヤヌス 「俺が殺すかもな」
ミレイユの表情が僅かに動いた。
ヤヌス 「さっきのを見てただろう」
ヤヌスは、黒い布の巻かれた右手を持ち上げた。
布の下では、今も黒い痣が脈打っている。
ヤヌス 「次にああなった時、お前まで殺さない保証はない」
ミレイユは、その右手を見つめた。
先ほどまで自分が触れていた手。
その手が、いつか自分の命を奪うかもしれない。
それでも、ミレイユは目を逸らさなかった。
ミレイユ 「……ヤヌスさんに殺されるなら、仕方ありません」
ヤヌス 「…………」
ヤヌスの眉が僅かに寄った。
ヤヌス 「……次は守らない」
突き放すように言い切った。
だが。
ミレイユ 「……あっ」
ミレイユが、小さく声を上げた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
ミレイユ 「やっぱり! 守ってくれてたんですね」
ヤヌス 「…………」
ヤヌスは口を閉じた。
ミレイユは、くすりと笑う。
ミレイユ 「ありがとうございます」
ヤヌス 「……ちっ」
ヤヌスは顔を背けた。
ヤヌス 「勝手にしろ」
ミレイユ 「はい。勝手についていきます」
ミレイユが微笑む。
ヤヌスは何も答えず、歩き出そうとした。
その時。
ミレイユ 「あっ、ヤヌスさん! ちょっと待ってください」
ヤヌス 「……なんだ」
ミレイユは、何やら言いにくそうに視線を泳がせた。
両手を身体の前で重ね、少しだけ頬を赤らめる。
ミレイユ 「その……少し、着替えを……」
ヤヌス 「……着替え?」
ヤヌスは一瞬、不思議そうな顔をした。
そして。
ヤヌス 「……ああ」
思い出したように頷く。
ヤヌス 「漏らしてたもんな。そういえば」
ミレイユ 「…………っ!」
ミレイユの顔が、一気に赤くなった。
ミレイユ 「い、言わないでください!!」
ヤヌス 「……?」
ミレイユ 「もう……! デリカシーがないですよ!」
ヤヌス 「……デリカシー?」
ヤヌスが首を傾げる。
ミレイユは、しばらくその顔を見つめていた。
そして、大きく息を吐いた。
ミレイユ 「……もういいです」
ヤヌス 「…………」
ミレイユ 「少し向こうを向いていてください」
ヤヌス 「……分かった」
ヤヌスは言われた通り、背を向けた。
そのあまりにも素直な反応に、ミレイユは再び小さく息を吐く。
けれど、その口元には、僅かな笑みが浮かんでいた。
少し離れた岩陰へ向かいながら、ミレイユはもう1度だけヤヌスの背中を振り返った。
傷だらけで、無愛想で。
時々、驚くほど人の気持ちが分からない。
それでも。
彼は、まだそこに立っていた。
ミレイユは小さく微笑み、岩陰へ姿を消した。
◇◇◇
リベラシオンへ続く荒野。
乾いた大地の上に、教会兵たちが倒れていた。
折り重なるように横たわる兵士たち。傍らには、持ち主を失った盾や杖が転がっている。
その中で、1人の男が身体を起こしていた。
第一聖騎士ガレス。
地面へ片膝をつき、額を押さえている。
ガレス 「……くっ……」
頭の奥が鈍く痛む。
何が起きたのか。
思い出そうとしても、記憶が途切れていた。
仮面の魔人。
その姿を認識したところまでは覚えている。
だが、その先がない。
剣を抜いた記憶も。
魔法を受けた記憶も。
何ひとつ、残っていなかった。
ガレス 「……馬鹿な……」
ガレスは周囲を見渡した。
倒れた兵士たち。
意識を失ったアーク。
誰も、動かない。
その時。
空から、複数の人影が降りてきた。
淡い光に包まれた身体が、ゆっくりと地面へ近づいていく。
先頭にいた女が、ガレスを見下ろした。
エリシュア 「……久しいな、ガレス」
ガレスが顔を上げる。
そして、その目を大きく見開いた。
ガレス 「……エリシュア様!?」
慌てて立ち上がろうとする。
だが、身体が思うように動かず、膝をついたままよろめいた。
エリシュア 「無理に立つな」
ガレス 「い、いえ……!」
ガレスは息を整えようとする。
その表情には、驚きが浮かんでいた。
ガレス 「今まで……どこにいらしたのですか」
エリシュア 「言うつもりはない」
即答だった。
ガレスは一瞬だけ言葉を失う。
そして、苦笑した。
ガレス 「……相変わらずですね」
エリシュア 「それより、何があった?」
エリシュアの視線が、倒れた教会兵たちへ向けられる。
ガレスの表情が引き締まった。
ガレス 「……仮面の魔人です」
エリシュアは黙って聞いていた。
ガレス 「リベラシオンへ向かう途中、奴と遭遇しました」
ガレスは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
ガレス 「危険を察知し、総員に戦闘態勢を命じたのですが……」
そこで、言葉が止まった。
ガレスは拳を握りしめる。
ガレス 「……そこから先の記憶がありません」
エリシュア 「…………」
ガレス 「気づいた時には、この有様でした」
エリシュアは、僅かに目を細めた。
エリシュア 「……そうか」
それ以上、何も言わなかった。
ガレスは、悔しげに俯いた。
人類最強の聖騎士と呼ばれながら。
何もできなかった。
守るべき兵士たちが倒れたことさえ、気づけなかった。
その事実が、胸の奥へ重く沈んでいく。
◇◇◇
少し離れた場所では、ルミナが負傷者の治療を始めていた。
倒れた兵士の傍らへ膝をつき、両手をかざす。
淡い光が、兵士の身体を包み込んだ。
ルミナ 「……大丈夫。すぐに楽になりますから」
兵士の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
その隣では、ノクスが氷の魔法で冷却し、リリアが倒れた兵士たちの状態を確認していた。
リリア 「こっちは大丈夫そう!」
ノクス 「なら、次の者を見てくれ。まだ意識の戻らない兵士がいる」
リリア 「分かった!」
3人は手分けして動き始めた。
ガレスは、その様子を見つめていた。
見覚えのある少女たちだった。
だが、今はそれを尋ねるよりも先に、確認しなければならないことがあった。
教会兵 「ガ、ガレス様!!」
突然、兵士の声が響いた。
ガレスが振り返る。
そこには、顔を青ざめさせた若い教会兵が立っていた。
先ほどまで、カインの前でただ1人意識を保っていた兵士だった。
ガレス 「……どうした?」
教会兵 「あ、あの仮面の男が……!」
兵士の声が震える。
教会兵 「伝言を……!」
ガレス 「……伝言?」
ガレスの目が細くなる。
教会兵 「皆が起きたら……伝えろと……!」
兵士は、何度も唾を飲み込んだ。
あの白い仮面。
目の前に立っていた男。
思い出すだけで、身体が震える。
教会兵 「『これからは俺が動く』と……!」
ガレスの表情が変わった。
ガレス 「……なんだと!?」
思わず声が大きくなる。
エリシュアも、静かに顔を上げた。
あの魔人が、自ら動く。
その言葉が意味するものを、ガレスは考えずにはいられなかった。
これまで魔王軍との衝突は各地で繰り返されてきた。だが、あれほどの力を持つ魔人が本格的に動き出すとなれば、話は別だった。
魔王軍が、人間側への大規模な侵攻を始めようとしているのではないか。
その可能性が、頭をよぎる。
もしそうなら、次に襲われるのは小さな街だけでは済まないかもしれない。
王国も。
聖都も。
人類の築いてきたものすべてが、戦火に呑まれる可能性がある。
だが、あの魔人が魔王軍の命令で動いているという確証はない。
それでも、無視できる言葉ではなかった。
ガレスは拳を強く握りしめた。
自分たちを、何もさせずに無力化した存在。
その男が、これから本格的に行動を始めるという。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
ガレス 「……分かった。よく伝えてくれた」
兵士は、小さく頷いた。
その身体は、まだ震えていた。
◇◇◇
ガレスは、再びルミナたちへ視線を向けた。
負傷者の間を行き来する3人の少女。
その姿には、確かに見覚えがあった。
ガレス 「……あの娘たちは……」
記憶を辿る。
ガレス 「確か、リヴェルナで……」
その時。
エリシュア 「……ガレス」
静かな声が、言葉を遮った。
ガレス 「はい?」
ガレスが振り返る。
エリシュアは、彼を真っ直ぐ見つめていた。
エリシュア 「あの娘のことは他言無用だ」
ガレス 「……エリシュア様。あの娘はいったい……」
エリシュア 「……いいな?」
短い言葉。
だが、その声には、逆らうことを許さない響きがあった。
ガレスは、しばらくエリシュアを見つめていた。
そして、小さく息を吐く。
ガレス 「…………」
ガレス 「……はぁ。分かりました」
エリシュアは、それ以上何も言わなかった。
ガレスも追及をやめた。
ただ、あの少女の存在を教会に知られたくない事情がある。
そのことだけは、理解した。
ガレスは、再び負傷者たちへ視線を戻した。
◇◇◇
荒野に、少しずつ人の声が戻り始めていた。
倒れていた教会兵たちが、1人、また1人と意識を取り戻していく。
負傷した兵士は仲間に支えられ、魔法兵たちは散らばった杖を拾い集めていた。
その一角。
アーク 「……いてて……」
新勇者アークが、ゆっくりと目を開けた。
頭が重い。
身体を起こそうとすると、全身に鈍い痛みが走った。
アーク 「……ここは……?」
ぼやけた視界の中に、人影が映る。
赤い髪。
興味津々の瞳。
その少女が、アークの顔を覗き込んでいた。
リリア 「わあぁぁ……!」
アーク 「……え?」
リリア 「新しい勇者様だ!」
アーク 「うわっ!?」
アークが思わず身体を起こした。
リリアは、そんな反応を気にする様子もなく、さらに顔を近づける。
リリア 「ねえねえ! 本当に勇者なの!?」
アーク 「えっ……あ、うん……?」
リリア 「すごーい!! 本物だぁ!!」
ノクス 「リリア! 勇者様に失礼だぞ!」
少し離れた場所から、ノクスが声を上げた。
リリア 「だって、本物だよ!?」
ノクス 「だからといって、顔を覗き込むな!」
アーク 「き、君たちは……?」
アークは戸惑いながら周囲を見渡した。
倒れていた兵士たちが、次々と身体を起こしている。
少し離れた場所では、ガレスが見知らぬ女と話していた。
アーク 「……ガレスさん……?」
記憶を辿る。
荒野を走っていた。
突然、ガレスが馬を止めた。
戦闘態勢を命じられた。
そして。
白い仮面。
そこから先が、何も思い出せない。
アーク 「……あれ……?」
アークは、自分の両手を見下ろした。
剣を抜いた記憶がない。
戦った記憶もない。
それなのに、全員が倒れていた。
アークは唇を噛みしめた。
新たな勇者として、選ばれた。
誰かを守れる力があるはずだった。
だが。
何ひとつ、できなかった。
その事実だけが、少しずつ胸へ沈んでいった。
◇◇◇
その頃。
エリシュア 「……ルミナ」
エリシュアが、負傷者の治療を終えたルミナへ声をかけた。
ルミナ 「はい?」
エリシュア 「少し話がある」
ルミナは頷いた。
2人は、教会兵たちから少し離れた場所へ移動する。
そこには、乾いた風が吹いていた。
遠くには、リベラシオンへ続く荒野が広がっている。
エリシュアは、しばらくその景色を見つめていた。
エリシュア 「……ヤヌスは、どうだった?」
ルミナ 「どうって……」
ルミナは、少しだけ頬を膨らませた。
ルミナ 「ゆっくり話す前に、お師匠様が攻撃したじゃないですか」
エリシュア 「…………」
エリシュアは何も言わなかった。
ルミナも、それ以上責めるようなことは言わなかった。
ただ、小さく息を吐く。
ルミナ 「……でも」
その表情が、ゆっくりと曇っていく。
ルミナ 「やっぱり……昔のヤヌスじゃなかったです」
3年前。
同じ家で暮らしていた少年。
笑ったり、怒ったり、時にはくだらないことで言い争ったり。
そんな日々を、ルミナは覚えていた。
だが、再会したヤヌスは違っていた。
瞳に宿っていたのは、憎しみ。
口にするのは、復讐のことばかり。
人の死を、弱かったから仕方ないと切り捨てた。
そして、自分にさえ、関係ないと言った。
ルミナ 「……何があったんでしょうね……」
小さく呟く。
エリシュアは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
エリシュア 「私は、あの少年が完全に壊れていると思っていた」
ルミナ 「……思っていた?」
エリシュア 「ああ」
エリシュアは、遠くの荒野へ目を向けた。
エリシュア 「……あれほど魔法を放ったというのに、妙なことがあった」
ルミナ 「妙なこと?」
エリシュア 「あの女と、お前のいた場所だ」
ルミナ 「……私と、ミレイユさん?」
エリシュア 「ああ」
エリシュアは、先ほどの戦いを思い返していた。
無数の魔法陣。
荒野を焼いた炎。
大地を砕いた氷塊。
そして、その中で剣を振るい続けていた少年。
エリシュア 「あれだけ魔法を放ったのに、お前たちの周囲だけは、ほとんど被害がなかった」
ルミナ 「…………」
エリシュア 「ヤヌスは、逃げられる場面でも逃げなかった」
ルミナが、ゆっくりと顔を上げた。
エリシュア 「魔法を弾き、斬り、時には自分で受け止めていた」
エリシュアの目が、僅かに細くなる。
エリシュア 「……お前たちを守っていたのだろうな」
ルミナ 「……え……?」
ルミナは、言葉を失った。
思い返す。
傷だらけになりながら、剣を振るい続けていたヤヌス。
何度も攻撃を受け、それでもその場から退かなかった姿。
あの時は、ただ必死に生き延びようとしているのだと思っていた。
だが、自分たちを守っていたのだとしたら。
ルミナ 「……ヤヌスが……?」
エリシュアは、小さく息を吐いた。
エリシュア 「……それに、私はお前とあの女を結界で守っていたというのにな」
ルミナ 「……あ……」
ルミナが、はっとしたように顔を上げる。
確かに、そうだった。
自分もミレイユも、エリシュアの結界に守られていた。
あれほど強力な結界なら、多少の流れ弾で傷つくことなどなかったはずだ。
それなのに、ヤヌスは。
エリシュア 「あいつは、そんなことにも気づかず必死に守っていたのか」
エリシュアは、呆れたように目を伏せた。
エリシュア 「……馬鹿な奴だ」
ルミナは、しばらく黙っていた。
そして。
ルミナ 「……はい」
小さく笑った。
その笑顔には、まだ悲しみが残っていた。
けれど、ほんの少しだけ。
3年前のヤヌスを思い出したような、柔らかな笑みだった。
エリシュアも、僅かに口元を緩めた。
ほんの一瞬。
2人の間に、小さな笑いが生まれた。
先ほどまで、ヤヌスを殺そうとしていた魔女。
その彼女が、初めて少年を少し違う目で見ていた。
やがて、エリシュアが再び口を開く。
エリシュア 「……壊れているのは間違いない」
ルミナは黙って聞いていた。
エリシュア 「だが、完全に失われたわけではないのかもしれんな」
ルミナ 「……お師匠様……」
エリシュア 「あの少年は、自らの力に抗っていた」
エリシュアの脳裏に、あの光景が浮かぶ。
黒い力に呑まれながら、自らの手へ小刀を突き立てた少年。
あれほどの力に侵食されても、最後には自分自身を取り戻した。
エリシュア 「……まだ、何かが残っているのだろう」
ルミナは、遠くの荒野を見つめた。
もう、ヤヌスの姿は見えない。
けれど、あの少年は確かに生きている。
そして、まだ何かが残っている。
ルミナ 「……はい」
ルミナは、小さく頷いた。
ルミナ 「私も、そう思います」
乾いた風が、2人の間を吹き抜けていった。
◇◇◇
夕暮れの荒野。
西の空が、ゆっくりと赤く染まり始めていた。
遠くには、切り裂かれた山々が連なっている。
かつて、勇者レオンと仮面の魔人が死闘を繰り広げた場所。
その傷跡を残した大地を、2人の人影が歩いていた。
先を行くのは、ヤヌス。
その少し後ろを、ミレイユが追っている。
ヤヌスの右手には、黒い布が巻かれていた。
ミレイユが巻き直した布。
風に揺れるその端を、ヤヌスは時折、左手で押さえていた。
ミレイユ 「……ヤヌスさん」
ヤヌス 「……なんだ」
ヤヌスは振り返らない。
ただ、前を見たまま答えた。
ミレイユ 「この方角で合っていますか?」
ヤヌスは、少しだけ足を緩めた。
だが、立ち止まることはなかった。
ヤヌス 「……分からない」
ミレイユ 「……そうですか」
ミレイユは、少し困ったように微笑んだ。
そして、荷物の中から折り畳まれた地図を取り出す。
ミレイユ 「では、私が確認しておきますね」
歩きながら地図を広げる。
夕陽に照らされた紙の上を、指先でゆっくりとなぞっていく。
目指す場所については、すでに話していた。
だが、この荒野を抜ける道までは、まだ詳しく確認できていなかった。
ミレイユ 「……ええと。今いる場所が、ここだとすると……」
ミレイユは地図と周囲の景色を交互に見比べた。
その間も、ヤヌスは歩き続けている。
ミレイユ 「あっ、ヤヌスさん。少しだけ右の方がよさそうです」
ヤヌス 「…………」
返事はない。
だが、ヤヌスの足は僅かに右へ向きを変えた。
ミレイユは、その背中を見つめる。
そして、小さく微笑んだ。
2人の足音が、乾いた大地へ響いていく。
時折、ミレイユは足元の石に躓きそうになりながら、それでも離れないように歩いていった。
ヤヌスは、振り返らなかった。
その背中には、まだ復讐という目的しかない。
カインを殺す。
そのために、強くなる。
それ以外のことなど、必要ない。
そう決めていた。
だが、今。
その背中を追う足音が、もう1つあった。
ヤヌスは、その足音を止めようとはしなかった。
夕陽が、荒野を赤く染めていく。
2人の影が、乾いた大地へ長く伸びていた。
――第3章 第17話「拒絶」終。




