第9話 痛み
第三章 第9話 痛み
雨の匂いがした。
半壊した《渡り鳥亭》。
割れた窓から入り込んだ夜風が、床に散らばる紙切れを揺らしている。
倒れた机。
砕けた椅子。
割れた皿。
床に広がる血。
昨日まで。
ここには笑い声があった。
料理の匂いがあった。
くだらない会話があった。
今は。
何もない。
「…………」
入口に。
ヤヌスは立っていた。
その視線の先。
ミレイユが床へ座り込んでいる。
腕の中には。
小さな身体。
「…………」
ニコ。
動かない。
目を閉じたまま。
呼吸も。
しない。
ヤヌス
「……ニコ」
返事はなかった。
「…………」
分かっている。
死んでいる。
そんなことは。
見れば分かる。
奈落では。
死体などいくらでも見た。
自分で殺した。
何度も。
何度も。
リヴェルナへ戻ってからも。
道に転がる人間を見た。
血を流す男。
動かなくなった女。
泣いている子供。
目の前で魔獣に襲われた人間さえいた。
何も感じなかった。
弱かった。
だから。
奪われた。
それだけだった。
なのに。
「…………」
ニコから。
目を逸らせない。
なぜなのか。
分からない。
胸の奥に。
何かがある。
気持ちが悪い。
知らない何かが。
ずっと。
そこに引っかかっている。
「…………」
長い沈黙。
その中で。
小さな声が落ちた。
ミレイユ
「……どうして……?」
「…………」
ヤヌスが。
ミレイユを見る。
ミレイユは。
顔を上げない。
ニコを抱いている。
ただ。
強く。
強く。
まるで。
まだ温もりを逃がさないように。
ミレイユ
「どうして……この子が……」
震えている。
ミレイユ
「どうして……ニコが死ななきゃいけなかったんですか……」
「…………」
ミレイユ
「どうして……」
声が掠れる。
ミレイユ
「どうして……」
「どうして……」
「どうして……」
答える者はいない。
どれだけ問いかけても。
ニコは目を開けない。
その現実だけが。
そこにある。
やがて。
ミレイユが顔を上げた。
涙で濡れた目が。
ヤヌスを見る。
ミレイユ
「……どうして……」
「…………」
ミレイユ
「もっと早く……来てくれなかったんですか……?」
「…………」
ヤヌスの眉が。
僅かに動いた。
意味が。
分からなかった。
ミレイユ
「あなたなら……」
息を詰まらせる。
ミレイユ
「あなたなら……この子を……」
「…………」
ヤヌスは。
何も言わなかった。
ミレイユが。
震える唇を開く。
ミレイユ
「どこに……いたんですか……?」
「…………」
ヤヌスは。
隠さなかった。
ヤヌス
「仮面の魔人を追ってた」
「…………」
ヤヌス
「……違う奴だった」
ミレイユの目が。
僅かに揺れる。
ミレイユ
「街が……」
一度。
言葉が詰まる。
ミレイユ
「街が襲われていることは……?」
ヤヌス
「その時に知った」
「…………」
静寂。
ミレイユの表情から。
少しずつ。
悲しみとは違う何かが滲んでいく。
ミレイユ
「……知ってた……?」
「…………」
ミレイユ
「街が襲われてるって……知ってたんですか……?」
ヤヌス
「ああ」
「…………」
ミレイユ
「それなのに……」
ニコを抱く腕が。
震える。
ミレイユ
「戻ってこなかったんですか……?」
「…………」
ヤヌス
「仮面の魔人の居場所を知ってるかもしれなかった」
その瞬間。
ミレイユの中で。
何かが切れた。
ミレイユ
「ニコはあなたを待ってたんですよ!!」
「…………!」
声が。
壊れた店内へ響いた。
ミレイユ
「ずっと……!」
「ヤヌスお兄ちゃんなら帰ってくるって……!」
「ちゃんと帰ってきてくれるって……!」
涙が。
次々と頬を伝う。
ミレイユ
「外で何が起きても……」
「この子……ずっと……!」
腕の中のニコを見る。
ミレイユ
「あなたが帰ってくるって……信じてたんですよ……!」
「…………」
『……ちゃんと帰ってくる?』
声が。
頭の奥で響いた。
『……分かった』
「…………」
ヤヌスの表情が。
ほんの僅かに歪んだ。
ミレイユ
「もっと早く……」
声が震える。
ミレイユ
「もっと早く来てくれていたら……!」
ニコを抱き締める。
ミレイユ
「この子だって……!」
「…………」
ヤヌスは。
黙っていた。
胸の奥が。
また。
気持ち悪くなる。
なぜ。
自分が責められている。
ニコを殺したのは。
自分ではない。
街を襲ったのも。
自分ではない。
なのに。
なぜ。
「…………」
分からない。
だから。
聞いた。
ヤヌス
「……俺が悪いのか?」
「…………」
ミレイユの動きが。
止まった。
ミレイユ
「……え……?」
ヤヌスは。
本当に分からなかった。
ヤヌス
「ニコを殺したのは俺じゃない」
「…………」
ヤヌス
「街を襲ったのも俺じゃない」
ミレイユ
「…………」
ヤヌス
「なのに」
一拍。
ヤヌス
「なんで俺が責められる」
ミレイユが。
言葉を失う。
ヤヌスの目が。
腕の中のニコへ落ちた。
「…………」
そして。
口を開く。
ヤヌス
「悪いのは……」
ミレイユを見る。
ヤヌス
「弱かったお前じゃないのか?」
「…………!」
ミレイユの目が。
大きく見開かれた。
ヤヌス
「ニコを守れなかった」
「…………」
ヤヌス
「お前じゃないのか?」
「…………」
ミレイユ
「……何を……」
掠れた声。
ミレイユ
「何を……言ってるんですか……?」
「…………」
ヤヌスは。
答えなかった。
ただ。
ニコを見ていた。
その顔を見て。
ふと。
思い出した。
『ヤヌスお兄ちゃんのお父さんとお母さんは?』
「…………」
あの時。
答えなかった。
ミレイユが。
ニコを止めた。
自分は。
何も言わなかった。
ヤヌス
「……そういえば」
「…………」
ヤヌス
「ニコが前に聞いてきたな」
ミレイユが。
顔を上げる。
ヤヌス
「俺の家族のこと」
「…………」
少しだけ。
沈黙した。
何を話そうとしているのか。
自分でも。
分かっていなかった。
ヤヌス
「父親は殺された」
「…………」
ミレイユ
「……え……?」
ヤヌス
「本当の父親じゃない」
レオン。
笑っていた。
怒っていた。
飯を作った。
剣を教えた。
自分を。
家族と呼んだ。
ヤヌス
「でも……」
一瞬。
言葉が止まる。
ヤヌス
「俺にとっては父親だった」
「…………」
ヤヌス
「目の前で殺された」
血。
倒れる身体。
『生きろ』
「…………」
ヤヌス
「姉みたいに思ってた奴もいた」
ルミナ。
笑っていた顔。
泣いていた顔。
もう。
長い間。
見ていない。
ヤヌス
「……もう死んでるだろう」
「…………」
ミレイユは。
何も言えなかった。
ヤヌス
「帰るはずだった場所もなくなった」
小屋。
墓。
ヴァルド。
壊された場所。
残ったものは。
何もない。
ヤヌス
「家族も」
「思い出も」
「帰る場所も」
一拍。
ヤヌス
「全部、奪われた」
「…………」
ヤヌスが。
ミレイユを見る。
ヤヌス
「……なぜだと思う?」
「…………」
ヤヌス
「なぜ俺は」
「全部奪われた?」
ミレイユは。
答えない。
答えられない。
だから。
ヤヌスが答えた。
ヤヌス
「弱かったからだ」
「…………」
ヤヌス
「俺が弱かった」
「だから守れなかった」
「だから奪われた」
淡々と。
言葉を重ねる。
それは。
ミレイユへ説明しているようで。
自分自身へ。
何度も。
言い聞かせているようだった。
ヤヌスの目が。
ニコへ向く。
そして。
再び。
ミレイユを見る。
ヤヌス
「お前も同じだ」
「…………!」
ミレイユ
「違う……」
小さな声。
ミレイユ
「違います……」
ヤヌス
「何が違う」
ミレイユ
「だって……」
言葉が。
続かない。
ヤヌスは。
静かに言った。
ヤヌス
「この世界は」
「強い奴が奪う」
「…………」
ヤヌス
「弱い奴は奪われる」
「家族だろうが」
「居場所だろうが」
「大切なものだろうが」
「…………」
ニコ。
レオン。
2人の姿が。
まるで重なるように。
ヤヌスの目に映る。
ヤヌス
「弱ければ」
一拍。
ヤヌス
「全部持っていかれる」
「…………」
ミレイユの頬を。
涙が流れる。
ヤヌス
「そして」
「弱ければ……」
ヤヌスの声が。
僅かに低くなる。
ヤヌス
「目の前の現実に」
「泣くことしかできない」
「…………」
ヤヌス
「今のお前のようにな」
「…………!」
ミレイユが。
息を呑んだ。
だが。
その言葉は。
ミレイユだけへ向けられたものではなかった。
あの日。
血の中で。
何もできず。
レオンを見ていた少年。
泣くことしか。
できなかった。
あの時の。
自分。
「…………」
ヤヌスの右手が。
僅かに震えた。
ヤヌス
「だから俺は強くなる」
「…………」
ヤヌス
「もう奪われないために」
そして。
静かに。
言った。
ヤヌス
「今度は――」
一拍。
ヤヌス
「俺が奪う側になる」
「…………」
ミレイユは。
何も言わなかった。
言えなかった。
腕の中のニコを。
ただ。
抱き締めている。
やがて。
震える唇が開いた。
ミレイユ
「……ニコは……」
「…………」
ミレイユ
「それでもこの子は……」
涙が落ちる。
ニコの頬へ。
ミレイユ
「あなたを……待ってたんですよ……」
「…………」
また。
胸の奥。
何かが。
引っかかった。
『ヤヌスお兄ちゃん!』
『明日もいる?』
『ちゃんと帰ってくる?』
「…………ッ」
ヤヌスの眉間に。
僅かに皺が寄る。
違う。
自分は。
そんなもののために。
ここへ来たんじゃない。
ヤヌス
「……俺に期待するな」
ミレイユが。
顔を上げる。
ヤヌス
「俺は誰かを守るために旅をしてるんじゃない」
「…………」
ヤヌス
「正しいことをするためでもない」
一拍。
自分へ。
言い聞かせるように。
ヤヌス
「俺は――復讐者だ」
「…………」
ヤヌス
「俺から奪った奴から」
「全部奪い返す」
右手を。
強く握る。
ヤヌス
「それ以外は……」
ニコを見た。
「…………」
一瞬。
言葉が。
止まった。
それでも。
言い切った。
ヤヌス
「俺には関係ない」
背を向ける。
歩き出す。
「…………」
ミレイユは。
呼び止めなかった。
ヤヌスも。
振り返らなかった。
壊れた扉を抜ける。
外へ。
その背中が。
夜の闇へ消えていく。
◇◇◇
ぽつ。
「…………」
ヤヌスの頬に。
冷たいものが落ちた。
ぽつ。
ぽつ。
雨。
やがて。
それは。
街全体へ降り始める。
燃えていた建物から。
白い煙が上がる。
ヤヌスは。
歩いた。
「…………」
胸の奥が。
まだ。
気持ち悪い。
『ニコはあなたを待ってたんですよ!!』
「…………」
知らない。
そんなことは。
自分には関係ない。
『ちゃんと帰ってきてくれるって……!』
「…………ッ」
眉間に。
皺が寄る。
消えない。
声が。
頭から。
消えない。
「…………」
何気なく。
外套の内側へ手を入れた。
指先に。
何かが触れる。
「…………?」
取り出す。
折り畳まれた。
1枚の紙。
「…………」
ヤヌスの手が。
止まった。
ゆっくり。
開く。
歪んだ文字。
下手な字。
その紙には。
3つの名前が並んでいた。
ニコ。
ミレイユ。
ヤヌス。
「…………」
雨粒が。
紙へ落ちる。
ぽつ。
滲む。
『違う違う! そこじゃないよ!』
「…………」
『ヤヌスお兄ちゃん、字へたくそ!』
『……うるさい』
『もう1回!』
笑い声。
紙の上を動く。
自分の手。
隣から覗き込んでくるニコ。
少し離れた場所で。
笑っていたミレイユ。
「…………」
何でもない。
時間だった。
戦いも。
復讐も。
血も。
何もない。
ただ。
飯を食って。
字を書いて。
笑っていた。
「…………」
雨が。
少しだけ。
強くなる。
紙へ。
次々と。
雨粒が落ちる。
ニコ。
その文字が。
少しずつ。
滲んでいく。
「…………!」
ヤヌスの指が。
止まった。
なぜ。
これを持っている。
練習が終わった時に。
捨てればよかった。
必要ない。
字なんて。
また書けばいい。
なのに。
なぜ。
持っていた。
「…………」
『ヤヌスお兄ちゃん!』
「…………ッ」
声。
消えない。
何度も。
何度も。
頭の中で。
聞こえる。
「…………」
家族じゃない。
ニコは。
家族じゃない。
レオンとは違う。
ルミナとも違う。
復讐とは。
何の関係もない。
守ると。
約束したわけでもない。
なのに。
「…………ッ」
胸の奥が。
気持ち悪い。
分からない。
この感覚が。
何なのか。
分からない。
分からないことが。
腹立たしい。
ヤヌスの手が。
紙を握る。
ぐしゃり。
「…………ッ!」
その瞬間。
右腕が。
脈打った。
ドクンッ――。
「…………!」
布の下。
黒い痣が。
生き物のように蠢く。
ドクン。
ドクン。
心臓とは違う。
もう1つの鼓動が。
右腕の奥から。
響いてくる。
「…………ッ」
熱い。
焼けるように。
黒が。
脈打つ。
『ヤヌスお兄ちゃん!』
ドクンッ!!
「…………ッ!」
ヤヌスが。
右腕を押さえた。
違う。
これは。
ニコとは関係ない。
この気持ち悪さも。
この黒も。
全部。
「…………」
ヤヌスは。
右手を持ち上げた。
布越しに。
黒い痣が蠢いている。
「…………ッ」
そして。
その手へ。
歯を立てた。
ガリッ――。
強く。
皮膚を噛む。
血の味が。
口の中へ広がる。
「…………」
痛み。
知っている感覚。
理解できるもの。
胸の奥にある。
名前の分からない何かより。
ずっと。
分かりやすい。
「…………」
ヤヌスが。
ゆっくりと。
右手から口を離した。
歯形から。
血が流れる。
雨に混ざり。
指先から落ちた。
ヤヌス
「……なんなんだ」
雨音が。
少しずつ。
大きくなっていく。
ヤヌス
「……なんなんだよ」
「…………」
低い唸り声が。
返事をした。
「グルルルル……」
ヤヌスが。
ゆっくり顔を上げる。
「…………」
通りの先。
魔獣。
瓦礫の上。
また1体。
路地。
さらに。
影。
血の臭い。
倒された仲間。
それに引き寄せられるように。
次々と。
魔族が集まってくる。
魔獣。
魔獣。
魔獣。
そして。
その奥には。
魔人。
「…………」
囲まれていた。
だが。
ヤヌスは。
逃げなかった。
「…………」
むしろ。
都合がよかった。
考えなくて済む。
この気持ち悪さが。
何なのか。
考えなくていい。
殺せばいい。
目の前にいるものを。
ただ。
殺せばいい。
「…………」
雨脚が。
また。
強くなった。
ヤヌスが。
紙を握ったまま。
顔を上げた。
◇◇◇
「グアアアアッ!!」
魔獣が飛ぶ。
「…………」
手刀。
首へ。
鈍い音。
折れる。
倒れる。
次。
横。
牙。
掴む。
投げる。
魔獣が石畳へ叩きつけられる。
砕ける。
次。
「死ねぇぇぇ!!」
魔人。
剣。
ヤヌスが避ける。
懐へ。
拳。
腹。
「がっ……!」
吹き飛ぶ。
追う。
蹴る。
壁へ。
血。
「…………」
止まらない。
次。
次。
次。
殺す。
雨が。
血を流していく。
だが。
すぐに。
新しい血が落ちる。
雨音が。
激しくなる。
石畳を叩く。
瓦礫を叩く。
死体を叩く。
それでも。
まだ。
足りない。
「…………ッ」
また。
胸の奥。
『ヤヌスお兄ちゃん!』
「…………ッ!」
魔獣の頭を掴む。
地面へ。
叩きつける。
1度。
2度。
3度。
動かなくなっても。
もう1度。
叩きつける。
血が。
雨水へ混ざる。
赤が。
足元から流れていく。
「…………」
奈落。
暗闇。
血。
死体。
あの場所でも。
こうだった。
何体。
殺したか。
分からない。
殺して。
殺して。
殺して。
強くなるために。
生きるために。
復讐するために。
剣を振った。
あの頃は。
理由があった。
だが。
今は。
何のためだ。
「…………ッ!」
分からない。
だから。
殺す。
魔人が来る。
腕を掴む。
折る。
「ぎゃあああッ!!」
顔面へ。
拳。
声が消える。
魔獣。
蹴る。
別の魔獣へぶつかる。
2体まとめて倒れる。
踏み込む。
拳。
血。
また。
血。
雨。
雨。
雨。
いつの間にか。
小さかった雨粒は。
視界を白く霞ませるほどの。
大雨へ変わっていた。
「…………ッ」
消えない。
胸の中が。
何体殺しても。
消えない。
だから。
もっと。
殺す。
◇◇◇
「…………」
《渡り鳥亭》。
ミレイユは。
まだ。
同じ場所にいた。
ニコを。
抱いている。
外から。
轟音が聞こえる。
魔獣の咆哮。
何かが砕ける音。
魔人の叫び声。
そして。
絶え間なく。
屋根を打ちつける雨。
最初は。
ぽつぽつと聞こえていただけだった。
それが今は。
壊れかけた店そのものを。
押し潰そうとしているようだった。
「…………」
だが。
ミレイユには。
その全てが。
遠い。
何も。
考えられない。
「…………」
腕の中。
ニコ。
冷たくなっていく。
「…………」
頬へ触れる。
ミレイユ
「……ニコ」
返事はない。
ミレイユ
「……ねえ」
返事はない。
「…………」
どうして。
頭の中に。
その言葉しかない。
ミレイユ
「……どうして……」
夫。
思い出す。
ニコが生まれて。
これから。
3人で生きていくはずだった。
なのに。
聖印が現れた。
夫は教会へ行った。
そして。
帰ってこなかった。
殉死した。
そう。
伝えられた。
「…………」
夫を失った。
それでも。
ニコがいた。
だから。
この店を守った。
夫との思い出が残る。
《渡り鳥亭》。
ニコと。
生きてきた。
その店も。
壊された。
そして。
最後に残った。
ニコまで。
「…………」
腕に。
力が入る。
ミレイユ
「どうして……」
涙が。
また。
溢れる。
外では。
雨が。
さらに強くなる。
ミレイユ
「どうして……私ばっかり……」
「…………」
答えはない。
神も。
教会も。
誰も。
答えてくれない。
なのに。
1つだけ。
頭から離れない言葉がある。
『弱かったからだ』
「…………」
ミレイユが。
僅かに顔を上げる。
『強い奴が奪う』
夫。
『弱い奴は奪われる』
店。
『弱ければ』
『全部持っていかれる』
「…………」
ニコを見る。
「…………ッ」
違う。
そんなはずはない。
そんな。
残酷な話が。
あるはずがない。
ミレイユ
「……違う……」
小さく。
呟く。
ミレイユ
「違う……」
「…………」
なら。
なぜ。
夫は帰ってこなかった。
なぜ。
店は壊された。
なぜ。
ニコは。
自分の腕の中で。
死んでいる。
「…………」
答えが。
見つからない。
『ニコを守れなかった』
『お前じゃないのか?』
「…………ッ」
ミレイユの身体が。
震えた。
ミレイユ
「……私が……」
声が。
掠れる。
ミレイユ
「弱かったから……?」
「…………」
違う。
そう言いたかった。
すぐに。
否定したかった。
けれど。
ミレイユ
「…………」
言葉が。
出なかった。
◇◇◇
どれほど。
経ったのか。
分からない。
突然。
外から聞こえていた音が。
消えた。
「…………」
ミレイユが。
顔を上げる。
さっきまで。
あれほど聞こえていた。
咆哮も。
衝撃音も。
叫び声も。
何もない。
残ったのは。
雨だけ。
ザーッ――。
激しい雨が。
世界を埋め尽くすように。
降り続けている。
「…………」
ミレイユは。
ニコを抱いたまま。
ゆっくりと。
立ち上がった。
足元がふらつく。
それでも。
歩く。
壊れた店内。
倒れた机の横を抜ける。
砕けた椅子を越える。
入口へ。
そして。
扉を開いた。
「…………」
大雨。
冷たい風と。
雨粒が。
一気に店内へ吹き込んだ。
ミレイユの髪を濡らす。
頬を濡らす。
涙と。
雨の境目が。
なくなっていく。
「…………」
目の前。
道を埋めるように。
魔獣が倒れていた。
1体。
2体。
そんな数ではない。
何体も。
何体も。
重なるように。
倒れている。
その中には。
人の形をした死体。
魔人までいる。
「…………」
雨水が。
血を運んでいく。
赤い水が。
石畳を流れていた。
ミレイユの視線が。
ゆっくり。
上がる。
「…………」
死体。
その向こうにも。
死体。
さらに。
その上。
積み重なった。
魔獣と魔人の亡骸。
その頂。
1人。
立っている。
「…………」
ヤヌス。
全身。
血塗れ。
黒い髪から。
雨水と血が滴っている。
外套は裂け。
右手からも。
血が流れていた。
肩が。
僅かに上下している。
「…………」
ヤヌスは。
動かなかった。
足元。
死体。
血。
雨。
鼻につく。
鉄の臭い。
「…………」
その光景を。
ぼんやりと見下ろす。
どこかで。
見たことがある。
いや。
違う。
知っている。
この景色を。
暗い穴の底。
光の届かない奈落。
積み重なった。
アベラントの死体。
その中に。
1人で立っていた。
自分。
「…………」
あの時も。
周りには。
死体しかなかった。
あの時も。
身体中が。
血に濡れていた。
違うのは。
雨が。
降っていることだけ。
「…………」
ヤヌスが。
小さく。
息を吐いた。
何も。
変わっていない。
奈落を出ても。
人の街へ来ても。
飯を食って。
名前を呼ばれて。
帰る場所みたいなものができても。
結局。
最後に。
自分の周りへ残るのは。
「…………」
死体。
血。
そして。
自分だけ。
ヤヌスの目が。
僅かに伏せられた。
ヤヌス
「……ああ」
雨が。
顔を伝う。
それが。
雨なのか。
別の何かなのか。
ヤヌス自身にも。
分からない。
ヤヌス
「……また、これか」
「…………」
その声は。
大雨に。
掻き消された。
「…………」
ミレイユが。
その姿を見る。
ヤヌスが。
気配に気づく。
ゆっくり。
振り返った。
「…………」
視線が。
交わる。
ミレイユの腕の中。
ニコ。
そして。
ヤヌスの手。
「…………?」
何かを。
握っている。
雨に濡れ。
ぐしゃぐしゃになった。
小さな紙。
「…………」
滲んでいる。
それでも。
まだ。
辛うじて読める。
3つの名前。
ニコ。
ミレイユ。
ヤヌス。
「…………」
ミレイユは。
知らない。
ヤヌスが。
その紙をずっと持っていたことを。
ヤヌスも。
知らない。
なぜ。
今も。
その紙を握っているのか。
「…………」
ミレイユが。
腕の中のニコを。
強く抱き締めた。
ヤヌスは。
何も言わない。
大雨の中。
壊れた店の前で。
2人は。
ただ。
互いを見ていた。
3人の名前が書かれた紙だけが。
ヤヌスの手の中に。
残っていた。




